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2006年8月に作成された投稿

2006/08/31

下北沢になぜ憧れるのか?

昨日、「下北サンデーズ」というドラマを見た。

下北という言葉に釣られたのが、見ることになった単純な動機だ。また実際に、6ヶ月間という短い期間ではあったが、たしかにあの街に住んでいた。

あのドラマが成立するひとつの要素は、みんな下北沢という街にあこがれを持っているという確固とした幻想である。なぜみんな、そんな幻想を抱くのだろうか。

現代の多くの番組が、強調しているように、(また、早実の齋藤投手が「自分的」を連発するように、・・・関係ないか)たしかにあの街は「自分の、自分による、自分のため」の街という現代性や、青春観を反映しているように見える。

また、いまから20年ほど前、わたしの中にも、解放感を求める気分が大きかったのも事実である。すぐ近くに喫茶店があったし、飲み屋には事欠かなかった。また便利でもあったから、打ち合わせの人も下北なら、とすぐ飛んできてくれた。

けれども、今になって、思い返してみると、一番懐かしいのは鶏肉の思い出だ。生活のために、駅前の鶏肉屋さんへ頻繁に通ったイメージが残っている。妻の求める鶏肉をいつも計って買ってきていた。今もあると思うが、駅前には闇市の延長のような市場があって、その周りに競争するように美味しい惣菜屋さんが並んでいた。

これらの古いものが残っているから、おそらく下北では新しいものが引き立つのだと思う。いまから思えば、なぜそのあと、山奥の新興住宅の住居を引き払って、また都会に戻ってきたのかといえば、下北が代表するこの「社会的まとまり」のなかで生活をしたいということではなかったかと思う。

2006/08/30

書生の社会的メリット

今日も、カンファレンス室でコーヒーをいただいていると、F先生がいらっしゃった。

山手線の内側に住むという「ステイタス」について話していて、昔の大学教授は余裕があったという話になった。もちろん、時間的な余裕は当然であったが、それ以外に、お手伝いさんと「書生」を置いておく余裕が大切だった、ということになった。

とくに、地方から出てきた書生にとっては、住むところが得られ、教授の手伝いをすることで、徒弟的な技能のアップも図ることができた。教授にとっても、身近に助手が得られたので、双方にとって、とても良い制度だった。

もちろん、厄介なこともあったのだそうだ。いつも写真を見せられるのだ。「この人、どう?」ということが、やはり頻繁にある。写真なら良いが、実物がいらっしゃって、娘さんだったり姪御(?)さんだったりするのだそうだ。

ある書生さんが見せられた写真が、どうもいけない。あまりにたくさんの人に見せられたらしくて、まわりが汚れているのだ。「もし断ったら、師弟関係にひびが入るのでしょうか」と、その書生さんはあわてて聞いたのだそうだ。幸い、「そんなことはない」といわれ、安堵したとのこと。けれども、やはり何度も断るわけには行かないだろう。

福沢諭吉の書いた物に、書生の話があって、苦学の象徴として「書生」という制度が載せられている。けれども、勉学のことはともかくとして、少子化時代にあっては、書生制度を結婚斡旋として奨励すべきではないかと思う。大家族時代のよき制度であったと片付ける前に、すこし活用を考えても良いような気がする。もっとも、現代の先生方には、住居の点から見ても、その余裕が無いのが決定的な壁になっている。

2006/08/29

夜の講義(A Class After Dark) V.3

たそがれのなかで、その教室のガラス窓だけがボウと輝いている。なかを覗くと、席はちらほらしか埋まっておらず、先生の声だけが聞こえてくる。

夜の講義というのは、夜の仕事という言葉と比べると、格段に良い音の響きを持っていて、豊かな感じがするという感覚は、ことによると、わたしだけのものかもしれない。じっさいは、夜学という音の響きのように、苦学を象徴する時代もあった。

仕事が終わって、ちょっと背伸びをしたいという感覚で授業が継続できたら、素晴らしいと思う。けれども、ほんとうのところ、学生からは、今日は出張で欠席しますとか、体調が悪いので出られませんとか、という届けが頻繁に出されるところをみると、仕事のあとの授業はかなりきついと思われる。

二つの仕事を持つのか、仕事と余暇と二つの活動を持つのかは、人によって異なるだろうが、いずれにしても二重生活は、現代人の習慣になっている。けれども、一日のなかで、仕事のあともうひとつ何かをしようと考えるには、やはり決定的な何かが必要だ。

よく引用される言葉で「ミネルヴァの梟は、迫り来るたそがれに飛び立つ」という哲学者ヘーゲルの寓喩がある。わたしの場合には、このもうひとつの何かに当たるもので、このミネルヴァの梟に当るものは「好奇心」である。

好奇心が芽生える場合には、いくつかの共通点がある。これは80歳で博士論文を書いている人と話していて気のついたことである。楽しさという要素は、もちろん好奇心にとって欠かすことができないが、それ以上に何かに迫られての集中力が持続するということも、好奇心には必要だ。奥深くまで探究して止まないという姿勢の続くことを目指しているとその方はおっしゃっていた。

ゼミを行っていて、放送大学のH先生は、「飛び立つ」好奇心のことを「おもろい」ことという関西弁で表現していた。自分にとっておもろいだけではだめで、ほかの人に話しても「おもろい」と感じてもらえるような面白さがないと、夜にわざわざ講義を行う意味がない。

そのうえで、仕事のあと、頭のなかを整えておこうかというくらい、気楽に授業に出ることができれば、柔軟な質問や、準備の要らない受け応えもでき、楽しい時間を創造することが出来る。労働のあと、身体を解き放つと同時に、頭のなかも解き放たれれば、明日の仕事も調子よく始められる。とりわけ、夜の講義に集まってくる学生同士の会話には、このような効用がある。

夜の講義では、たそがれが現実を覆ってくれ、好奇心だけが真っ暗な空に解き放たれる。このことが可能なのは、やはりアフター・ダークという夜の時空間なのだ。一日のうち、二つ目の活動を行っているという感覚が、現実に縛られている自分を、自由な好奇心に乗せて羽ばたかせてくれる。おもろい自分との出会いを期待して、わたしはかなり若いときから、こんな「夜の講義」が好きだ。

追伸:千葉学習センターから、機関紙のために急に原稿を求められた。そこで、以前この欄で書いた「夜の講義」を書き直して提出したが、もうすこし書き直したくなった。第3版として、ここに載せておきたい。書くことが無くなったのだろうという推測をする人がいたら、かなりそれは当っている。

2006/08/27

青リンゴ

妻が青リンゴを探してきてくれた。一年のリンゴ遍歴は青リンゴから始まるのだ。Apple2_1

毎年、この時期になると、信州では「祝」という種類がでる。小学校のバス旅行 で、リンゴ園へ行き、いただいた青リンゴを袖で拭いて、皮ごと食らいついた思い出は忘れられない。リンゴが好きになったきっかけであった。

リンゴの酸っぱさは、がぶりと食いつき、周りからシュワーと果汁がしみ出て、はじめて感じるのだ。青リンゴは、あまり売り物としては出荷されないので、地元の特別なところでしか、手に入らない。

小さな青リンゴにあこがれたのは、実物よりむしろ小説のなかであった。スティーブンソンの『宝島』で、船の甲板にはラム酒樽の隣に、必ずリンゴ樽が用意されていて、船に乗り込んだジム少年が食べていた。壊血病対策だと聞かされたときには、なるほどと感心した。この樽に潜んで、海賊たちの密談を聞くところが、いつも夢に出てくる。

Apple1 有名なニュートンのリンゴも、現代のまるまると太った大きなリンゴではなく、小さな青リンゴでなければならないと、昔から思っていた。米国へ行ったとき、ペンシルベニア州の山奥のドライブインで、山積みにされたバイキング・サラダ用のリンゴが、やはり小さな青リンゴだったので、積年の思いが解決されたように思った。

外国でよく振る舞われるアップルパイには、この酸っぱ目の青リンゴが合うのではないかと思う。果実の王様とよく言うが、青リンゴは果実の貴娘といったところではないだろうか。

上の写真のリンゴは、青リンゴがすこし赤味を帯びてきている「藤巻」という品種だそうだ。O市の青果物市場に出ていたものだ。

2006/08/25

終電に乗って

終電に久しぶりに乗ることとなった。

往きは順調だった。今日から3週連続の金曜日に、足立区生涯学習振興公社主催の「放送大学連携講座」に呼ばれていた。無事、時間までに現地に到着した。つくばエクスプレス開通以来賑わっている北千住の街を眺めながら、途中サンロード街にある茶房「なのはな」でカレーと珈琲をいただく余裕があった。

講義も快調だった。終わってから、ちょうど放送大学足立学習センターに出勤していたH先生と一緒に、ちょっと寄って行こうかということになり、英国パブ風の飲み屋で意気投合し、別れるところまでも気分爽快であった。

以前の感覚で、京浜東北線は午前1時すぎまで大丈夫だと思いこんでいた。ところが、日暮里駅に着いて、ふと掲示板をみると、すでに桜木町行き最終電車と表示されていた。

ふー、危ないところであった。新橋あたりまでは空いていて、さすが最終電車だなと思っていたが、乗るわ乗るわ、品川を過ぎる頃には、ぎゅーぎゅーの状態になってしまった。

以前から、終電を降りたあと、桜木町から歩くのが好きだった。とくに、ほろ酔いのときには、小一時間の散歩の気分である。酔いを醒ましながら、横浜を縦に降りてくる大岡川を遡っていく。

ちょうど横浜港が満潮時であったらしく、川は左右幅一杯に満々と水をたたえ、野毛の辺でときどき川の鯉がはねるが、夜のしじまにかき消されてしまう。

日の出町両岸の桜の木には、葉が生茂り、4月の満開時とは違った様子を見せている。緑のトンネルが周りのネオンサインを隠してくれる。

いつもだと殺人事件が起こっても不思議はない黄金町あたりの街も、いまは照明を落とし、騒ぐ相手に不自由している。監視するパトロール車が無人のまま、サイレン照明をちかちかさせているだけだ。ぬっと、警察官が現れても、街の不安をかき立てることはない。

板東橋を過ぎて蒔田にかかってくると、さすがに孤独な散歩者も歩き疲れて、足の裏がきつくなってくる。その頃には、大岡川は分岐し、海水もいつの間にか見えなくなって、上流から流れてくる真水が浅瀬を洗っていく。

終電の客を送り届けたタクシーたちが、小路から出てきて、曲がりきれないで何度かバックを繰り返し、また駅を目指して帰っていく。あー、今日も一日が終わったのだな。

2006/08/24

「多重感覚」への招待

放送大学の学生向け番組「大学の窓」をお手伝いせよ、とOアナウンサーからお声がかかり勇んで出かけた。

そこには、めくるめく楽しい世界が待っていた。いつも携わっている授業番組と異なるのは、何といって言い表したらいいのかわからないが、「多重感覚」的な世界という人間関係が展開されている、ということではないだろうか。

メイクが終われば、スタジオ入りして、あとは本番へまっしぐら。これまでチェックしてきたことを、すべて頭のなかにいれて、なおかつ、一緒に出演するアナウンサーのOさんやMさん、指示を出すディレクター、カメラマン、録音技師さんたちとのコミュニケーションを保っていかなければならない。同時に複数の感覚を研ぎ澄ませ、気を遣わなければならないのだ。

すこし大げさな言い方かもしれないが、コンピュータなら、とうに爆発しているのでは、と思わせるような状況に投げ込まれる。ひとつの場面のなかで、同時に、すべてのことを統御しなければならないのだ。

もっとも、アナウンサーをはじめ、いつも一緒にやっているスタッフは、信頼関係に支えられていて、いとも簡単に次から次へ、場面を展開していく。おそらく、かれらは、多重に感覚が働くなかでも、目と耳と口がうまく連携を行う訓練ができているのだ。多重という意識がなくとも、ふつうの感覚で仕事ができるのだ。

これに対して、単一感覚をひとつひとつ働かせるしか能のないわたしとしては、彼女たちについて行くだけで精一杯である。Oアナウンサー、Mアナウンサーとわたしとの歳の差は、あまり考えないとしても、(じっさいは、彼女たちのお父さんと、わたしは同世代であることがわかったのだが)この感覚の差には大きいものがある。

最後の「さよなら」の挨拶までを、どうやら無事撮り終えて、調整室でできあがった映像をチェックしていてわかった。調整室には、前面にテレビモニターが30台ほど並んでいる。じつはこのモニターは、ひとつの場面を機能別にそれぞれ分けて、ひとつずつの画面として表示している。ということは、ひとつの場面のなかで、それぞれ30ほどのチェックポイントが各コマごとに存在していて、これが、通常は、すべて統合的かつ感覚的に行われているのだ。この調整室のモニター群は、そのままスタッフの多重的な仕事を反映している。

テレビは連続した瞬間の芸術と言われるが、この連なった一瞬一瞬のなかにきわめて濃厚な感覚が、しかも多数の人びとの感覚が込められているのだ。

ほんの3分間の出演だが、凝縮された楽しさを味わわせていただいた。Oさん、Mさん、Tディレクターとスタッフの方々、ほんとうにありがとうございました。出演記念のストラップもいただいた。もしカットされなければ、・・・26日から放映とのことでした。Program03_03

追伸:ストラップと、それから写真もHPからいただいてしまいました。

2006/08/23

シュレッダーによる家庭内リスク

シュレッダーによる子供の指切断事故のニュースが取り上げられていた。

事故の件数は報道の激しさに比べれば、それほど多いものではなかった。それにもかかわらず、なぜこのような事故が大々的に取り上げられるようになったのだろうか。人びとの「安全・安心」意識の高まりなのだろうか。

マスコミのあげる理由は、家庭と職場の境界が曖昧になってきて、事務機器が家庭内に持ち込まれた結果、危険(リスク)が家庭に発生するようになったのだ、というものだ。これまで家庭には設置されることがなかった業務用のシュレッダーが家庭に導入され、事故が増えてきたのだという。

この視点は、面白い。シュレッダー導入が職場と家庭を近づけてしまっていると認識である。テレビ報道の事例として紹介されていた家族の場合でも、家庭内で主婦がパソコンの仕事を行っていて、たしかに家庭が仕事場として機能しているのだ。

近代社会では、機械の導入は、工場に見られるように、専門の生産の場が発達し、職場と家庭を分離させる傾向を示してきている。

これに対して、現代ではむしろ逆で、機械の導入によって、職場と家庭が融合するようになってきたと考えられている。大量生産大量消費の時代には、およそ考えられなかったことであろう。

けれども、そのことがかえって、子供の事故を誘発してしまっているのだ。職場と家庭の融合という考え方は、まだまだ発展途上の考え方で、単に機械化が進めば、家庭で簡単に仕事が出来ますよ、という在宅ワークという思想には、まだまだ、考慮される余地のあるということを示唆しているように思える。

2006/08/22

KYの謎

母の家に妹が来て、久し振りに話をした。「KYの謎はどうなった?」と質問された。

以前から、共通の話題として、前衛芸術家のKYさんのことで、疑問を持ち続けているのだ。その疑問とは、もしかしたら、妹もわたしもKYさんに絵画を習っていたことがあるのではないか、というものなのだ。そのことで今後の人生が変わって、前衛芸術家になろうなどと恐れ多いことは、当然ながら考えていないのだが、もし習っていたら、面白いなという不謹慎な動機なのである。

これまでも何回か、KYさんの展覧会を鑑賞する機会があり、説明の年譜をみる060_1 と、どうやらわたしの幼稚園時代と同じ時代に、長野県松本市に住んでいたことがあるらしい。わたしの通っていた幼稚園S研究会は、そのころ(すでに半世紀前だが)として先進的で、バイオリンや絵画や英語などの教室が併設されていたのだ。(右の作品は、以下からの引用
http://www.yayoi-kusama.jp/i_comm/i_inf/06/0607/060.jpg )

そして、わたしはそこで、K先生という同名の先生から絵を習っていた。K先生にはときどき美人の若い先生が付いていた。この若い先生に、KYさんの目が似ているように思えるのだ。どうゆうわけか、ほかの特徴は半世紀もたっているので、想像すべくもなく、かなり印象が違っていて、そこで妹といつも論争になるのだ。

母の友人にAさんという方がいて、その方に寄れば、当時からKYさんは変わった方で、松本市で有名な存在だったとして、確かにそのS研究会へ顔を出していたとおっしゃるのだ。そして、その後故郷を離れ、アメリカで名を挙げることになったと。

けれども、うちに残っている当時の写真を見ると、どう見ても、目以外は別人のように見えるし、またKYさんの母親が、絵の先生を主宰していたという説明は、これまで読んだことがない。

さて、二人で話していて、写真を見ているだけではどうしようもないのだけれど、結局のところ二人とも楽しんでいるのだ。疑問が晴れても、何も変わらないことはわかっている。それより、いつもあのころはあーだった、こーだったといって、話題のひとつとして残しておいたほうが良いのだ。

それに、もしKYさんの弟子だったとわかってしまったら、不肖の弟子ということになって、どのように申し開きできるのだろうか。申し開きする必要もないし、そんなことをKYさんも望んでいないことはわかりつつも、前衛がわかれば良いのだろうか、こころだけ前衛たれば、それで許してもらえるものだろうか、とまだまだ煩悶の日々が続くことを、じつは喜んでいるのだ。

2006/08/20

新聞の投書

今日、妻が「出ているわよ」と渡してくれたので見ると、朝日新聞のオピニオン欄に、高校教員のI さんという方が、放送大学の面接授業を受講しての感想を投書していた。

「誰もが真剣で、私語は聞えず、居眠りする人などもちろんいない。先生の一語一語を聞き漏らすまいと、みな必死で取り組んでいた。」

という状態は、高校の事情は知らないが、ほかの大学ではあまり望めない。このような「理想的な」クラスというものがほんとうに実現しているのかと、まさに奇跡的だと、ほかの大学で教えたり受講を経験したりした方々は思うにちがいない。

このことは、ほぼ全国のすべての学習センターで見られることが、放送大学というところの凄いところで、すでに20年続いていることからして、ひとつの文化となっていると言えるだろう。

おそらく、教員としてのI さんの言いたかったことは、つぎの比較にあるのだと思われる。

「そして思った。(高等)学校教育も本来、このようにあるべきではないのか、と。振り返って今日、学習意欲に欠け、理由がないのに欠席する生徒が学校でまま見受けられる。これでは学力は定着しない。本人にもマイナスと思われるが、多くはそのまま卒業していく。」

放送大学の学生の恐るべきところは、このような「学習意欲に欠け、理由もないのに欠席する」状態を、体験のなかでくぐり抜けてきたかのように見える点である。それぞれ異なると思われる目標をはっきり持って授業に現れる、その時点で、なにか違うのだと思われる。

I さんは最後に、「刺激に満ちていた」という表現を使っていたが、わたしの見るところ、刺激を創り出すのは、先生だけではない。むしろ放送大学では、学生たちのそれぞれの間で、刺激が高まる場合に、このようなクラスが現われるのだ。ちょうど三重学習センターから帰ってきたばかりなので、その通りだと共感し、多少自画自賛的な感傷に染まってはいるものの、現代にあっては、ほんとうに奇跡的な場だなと、いつも感じ入っているところである。

2006/08/19

松阪と本居宣長

三重県に来たのは、三回目だ。これまでは通りすぎるだけであった。じっくりと一日歩いてみようと思った。

わたしの放送講義で、何回も使わせてもらった松阪商人、とくに三井高利ゆかりの地を見ずして帰ることはできないではないか。また、「本居宣長」がなぜこの地で成立したのかについて、ほんのすこしは理解できるかもしれないという目論見である。Photo_8

本居宣長記念館に移築されていた「鈴屋」と母屋は洗練された建築物だった。宣長という人は、幼いときから自分の業績を、自分でも見て確認することができ、さらに他人にも視覚的に見せることを意識して、形成してきたのではないだろうか。などと思わせるほど、洗練されたものしか残していない。

そのことは、記念館の業績群、とくにノートなどにも現れていたが、それ以上に生活の場である家を見ればそのことはわかる。商家の伝統を受け継いだと思われるような、他者を意識した工夫が見られた。表の接待用の座敷と、ほんとうの奥座敷とが用意されていて、さらに鈴屋という仕事部屋が二階に別世界として配置されている。家がひとつの小宇宙を保っている。(各部屋に鈴が配置され、音の小宇宙も家のなかに造られていて興味深い)

Photo_9 記念館の収納物では、10歳代に書いた「架空の藩」の地図が面白かった。一種のユートピアを空想していたのだ。それと、おびただしい書簡集は、人間関係の緊密性と日本全国とのネットワークの広さとを現わしている。なかに、質問票形式の書簡があり、質問を書き込んで、回答部分を空けてある書簡は、どこかの大学の通信問題に似ているなあ。

そのあと、記念館の建てられている「松阪城跡地」、そして当時から現代まで栄えてきている豪商「長谷川家」、「小津家」や、三井家の門などを見て回った。これらの商人発行の「御為替組の藩札」「三井の藩札」なども展示されていた。そう言えば、伊勢は日本紙幣の発祥地でもあったことを思い出した。

松阪という場所の凄いところは、松阪商人の「商業の世界」、蒲生氏の「政治の世界」、本居宣長の「学問の世界」、そして近辺には、伊勢という「宗教の世界」がすべて揃っているという点である。それぞれが決してバランスよく発達しているわけではないが、江戸時代にあって、世界的にみても決して遜色ない世界を作り上げていたところが素晴らしい。

むしろ松阪はなぜ「名古屋」にならなかったのか、さらに世界の「江戸」にはならなかったのか、という疑問を持っても、不思議ではないほど、すべてにおいて異様な繁栄を見せていたと思われる。Photo_10

お城の隣にある城番屋敷の近くで、一軒家レストランを見つけたので、ランチを食べた。ほとんど観光客で、元気の良いのは女性客だ。男性客はわたしただ一人だけだったのは淋しかった。

2006/08/18

貨幣のイメージ

今回の面接授業では、とくに貨幣に焦点を絞って話した。途中、こちらが一方的に話していても詰まらないので、学生の方々にも人生のなかでこれまで抱いてきた「貨幣のイメージ」を自由に書いてもらうことにした。

このような感想を書いてもらって、いつも感心することだが、やはり人生経験というのは大事だな、ということである。ふつうの大学生では、おそらく書けないような具体的で示唆的な文章に、いつも出会う。Iさんはつぎのように書いてきた。

「社会人になって、車を購入するときに、銀行から約100万円を借りたが、定職があったから借りられたのであり、信用されたからだと思う。そのおかげで、車で自由に旅行できるようになった。お金が無くても信用があれば、欲しいものが手に入る。このようにときには形があるが、ふつうは形のない不思議なものである。けれども、このとき利子を取られたのは痛かった。」

貨幣のイメージを答えてもらうときに、良いイメージと悪いイメージとを比べると、悪いイメージを答える人のほうが圧倒的に多い。けれども、放送大学学生のなかには、必ず積極的に考える人がいる。この点に、放送大学生の特徴がある。Tさんの文では。

「人間の日常生活に於いて、信用に代わるものが金銭である場合があり、生命の代償であったりします。行為の実現に於いては、成功達成の原動力に必須なものであり、貴重な生命力です。」

生命力の源泉とまで、貨幣を謳えあげるような、積極的な意見はこれまで行ってきた講義の中ではなかったなあ。一瞬、原始貨幣の時代ならなあ、と思ったりした。

もちろん、このような特異な目立った意見だけではなく、模範的な回答もたくさんあった。「物品であれば、保存できない経済的価値を、貨幣に託して、価値の保蔵が可能になる」とTaさんは言う。また、Yさんは「労働を評価するために、賃金などの貨幣価値が利用される」など指摘している。加えて、交換手段や支払手段としての貨幣の便利さや、欠点をあげている者も多い。血液循環と貨幣との比喩を指摘したのは、Isさんである。

今回の感想のなかで、ゲームに関連した貨幣のイメージを書いてきた方が3名ほどいて、これまでになかった傾向を示した。「インターネット上のゲーム内で使われる貨幣があり、これのインフレ対策が問題となっている」、というMさんの指摘は、貨幣の擬制的なあり方に関わってきていて、面白かった。また、リスク感覚が好きで、ギャンブルとして貨幣を株式投資へ回しているという実体験を書いてくれたSさんもいた。時代を反映している。

今回の感想文のなかで、ユニークさで最右翼にたったのは、審美眼的貨幣観を書いてきたSaさんだ。

「私が貨幣といって、まず思い浮かべるのは、10円玉に描かれた平等院である。不思議なことに、日本の現金・通貨はたいへん美しい。日本の数千年の歴史の美しさがそこに凝縮されており、10円玉はその中でも、私には最も美しいと思われる。10円という現存する貨幣でありながら、それを超えた芸術品でもある。その平等院をみていると、私はその中へ引き込まれるような気分になり、ミニチュア化し、その中を散歩してしまう。」

さらに、彼女の中では、頭の中の美しい貨幣は膨らんでいき、最後には、お金の尊さを再確認するに至る。というように、かなりのフェティシズムを表現している。造幣局の人が聞いたら喜ぶだろうな。

ユーモアのセンスで書いてくれたのは、Oさんである。

「エピソードはこれと言ってありません。貨幣に対するイメージでは、まず、家計のやりくりが思い浮かびます。景気が回復してきていると言われても、その実感はありません。何年経っても、やりくりは楽になりません。もっと収入を得ようと思いますが、障害に突き当たり、なかなか思うようにいきません。・・・“負け組”の家計からなんとか脱却したいのですが、悪循環の連鎖ばかりです。何か良い方法はないでしょうか?」

このように、放送大学生は、日常の現実を言葉で表現するのがうまい。このように客観的に書けることから考えると、Oさんは決して負け組ではないように思える。

感想文全体に言えることは、かれらはあまり深さを狙ってはいないものの、地に足がついた感想をつねに抱いているということである。これからも、ときどきこの手法をつかって、経済についてどのような感想を抱いているのか、実体験を聞きだしてみたいと考えている。

2006/08/17

三重学習センターと珈琲屋

面接授業のため、三重学習センターにきている。台風の影響なのか、時折土砂降りの雨が降って来る。かといって、晴れ間をのぞかせると風は強いし、さらに30度を超える気温である。小さな傘を持っていったが、キノコ状態になってしまったりして、まったく用をなさない。

このような荒れた気候のときには、建物のなかで勉強するに限る。外の世界とは違って、学習センターのなかは、快適な雰囲気に満ちていて、勉強の環境に最適である。三重県の総合文化センターのなかにありながら、ひとつの独自の世界を造っていて、センター長のS先生や職員の方々の心配りを至るところで感じた。

S先生は、三重大学に長く勤められ、副学長も経験なさっていて、何でも知っている方だ。学習センターの運営のあらゆるところに、その経験を活かしている。「大学と言うところは違う意見の存在することが当たり前で、学部ごとに異なるんです、このとき相手の意見を十分聞くことが大事で、最後は誠意を尽くすことが決定的なんだ」といとも簡単におっしゃる。団交や談判などの修羅場をなんども切り抜けてきた方でないと言えない言葉だ。Yoshida_1

かえりに、S先生に教えていただいた津市のコーヒー屋さん(ヨシダ)に立ち寄っ て、講義で集めた学生達からのレポートを読みつつ、講義の余韻を楽しんだ。このコーヒー屋の味は炭焼きコーヒーが主体で、苦みを大事にしているが、それ以外の酸味なども楽しめるコーヒーであった。かなり美味しい。ブレンドの豆を購入して、ホテルへ戻った。

2006/08/10

八面大王と田村麻呂という伝説

朝起きて散歩をしていると、猿の家族が道を横切っていくのが見えた。近くのリンゴ園を荒らした帰りらしい。列の最後を走っていく小猿のユーモラスな走りは印象的だ。ひょっと岩の上をみると、見るからに大柄な猿が、あたりを抜け目なく見渡して監視しているのに気づいた。

O市のGという山あいの村落には、「八面大王と田村麻呂」という伝説がある。ここに出てくる人間関係は、8世紀の話にもかかわらず、きわめて現代的だ。Photo_1

猿丸大王と異名をとることから推測されるように、たぶん桃太郎伝説の鬼に相当するような、猿の集団をかれは統率していたのではないかと思われる。猿たちは、現代においてもそうであるように、村人たちの収穫を狙って、たびたび現れ、悪さをするのだ。

伝説では、村人たちが八面大王の退治を、ちょうど通りかかった坂上田村麻呂(蝦夷征伐で名高いあの田村麻呂である)に依頼する。昔からある田村麻呂伝説のひとつである。田村麻呂は、自らの軍団を率いて、難攻不落の渓谷要塞を攻めることになる。ところが、大王は手強くて、なかなか攻略できない。それどころか、田村麻呂はかなりの軍団を失う羽目に陥る。

ここで登場するのが、なぜか京都清水寺の観音さまであり、ほんとうに秀逸な比喩だと思われる。田村麻呂が京都の方角を向いて祈ると、観音様が現れて、ご託宣を述べる。つぎの攻撃のときに、もし危機に陥ったら、わたしに祈りなさい。それでも適わない場合には、村人たちにも一緒に祈るように伝えなさい、と。

そのとおり、田村麻呂は八面大王との最後の決戦で、危機に陥るが、村人たちと心を通じ合い、一致して観音様に祈ったために、大願成就される。八面大王を完璧に退治することができたとさ。めでたし、めでたしという内容である。

ここで、村人は「依頼人(プリンンシパル)」であり、田村麻呂は「代理人(エージェント)」である。通常、現代の取引関係には、これら依頼人と代理人の間に亀裂が生ずることで、両者の関係はうまくいかなくなる。依頼人は頼んだことで責任を逃れ、代理人は本来自分の仕事ではないことを理由にして、同じく責任を逃れようとする。このため、人びとは頽廃してしまう。たとえば、株主と経営者との関係は典型である。

ところが、ここで第三者が仲介することで、両者の一致団結が確保されれば、この取引関係は良好な傾向は転換することができる、ということである。

ここが、桃太郎伝説や金太郎伝説の鬼退治と異なる点である。ヒーロー伝説でも、きわめて現代的なヒーローの話であり、ヒーローはむしろ観音様であるというところがみそである。

Photo_2 あるいは、映画「7人の侍」と比べても面白いかもしれない。最後に、依頼人こそ主役である、という落ちがあったが、これも単にヒーロー伝説をひっくり返したに過ぎない。それに比べて、第三のヒーローが存在する、というモデルであり、たいへん興味深い観点を提供していると思われる。

2006/08/09

少人数の面接授業

久しぶりに少人数の教室で、授業を行うことになった。たとえ盆休み間近であるとは言え、ウィークデイの二日間を完全に休みをとって、放送大学の面接授業に参加することは、勤めている人にとってはたいへんな負担であることは間違いない。

今回、長野学習センターで6名の方々と、合計11時間25分のスクーリングを行ってきた。少人数教室のメリットは、全員の人へ質問する余裕があるという点である。多人数のクラスでは、そのうちの特定少数からしか質問や意見を聞くことが出来ないため、それらの人びとの誘導に従ってしまう場合が多い。

それに対して、全員から意見を聞くことが出来ることは、クラスの方向性を定める上で、ほんとうにやりやすい。通常はAさんの意見を聞くだけで、それに対して、わたしの判断を付け加えて、一連の話が終了する。そうしないと、あまりにたくさんの意見が出てくると、授業の中心性が失われ、話が散漫になってしまうのだ。

ところが、Aさんはαだという、Bさんはβだという、さらにCさんはγだという、このことによって、それぞれAさんがBさんに対して、BさんがCさんに対して、さらにCさんはAさんに対して、自分の意見を多様に付け加えていくことが、少人数クラスでは可能である。意見が発散しても、せいぜい6名の範囲内で収拾することが予想できるからだ。

つねづね考えることだが、面接授業のメリットは、学生と先生が直接面談することにあることと、さらに付け加えて、ほかの学生の意見や質問を同時に聞くことができる点である。むしろ、後者のメリットのほうが、おそらくあとから考えて、学生の人たちに印象を残すのではないか、とわたしは密かに考えている。

最後に、全員の人から、授業全体の感想も聞くことができた。全部の面接授業が少人数だと困ってしまうが、たまには、このような少人数クラスも良いのではないかと思う、むしろ意図的に少人数クラスの授業を設け、多様な授業のあり方を探るべきでないかとも思う次第である。

2006/08/08

墓がつなぐネットワーク

図書館や文書館というところが、過去の人とのコミュニケーションの場であることは、以前書いたことがある。考えてみれば、もっと身近に過去の人とのコミュニケーションの場がある。

墓というところはかなり親密なコミュニケーションの場である。墓で過去の人とのコミュニケーションというと、オカルト的なものに聞えてしまうが、けっしてそうではなく、かなり現実的な関係が存在する。

たとえば、墓の維持ということには、地元に住んでいる人にとっても、掃除をしたり陥没や倒壊から守ったりするのに、自発的な労力の提供をしなければならないような、現実的な協力関係を要請されることである。さらに、季節によっては、盆のように檀家総出で管理運営と、維持を図っていく必要もある。

1 ましてや、地元に住んでいない者にとっては、戻ったときには「墓」をめぐる関係の維持を、親戚や檀家やその他の方々と修復しておく必要がある。わたしのように、これらのことをまったく避けてしまうのはたぶん相当例外である。(もっとも、このように踏み切ってしまうのにも、かなり勇気のいることであるため、完全に避けてしまうことはできないのである。)

ふつうは、「墓」をめぐる関係を維持することが、いろいろな意味で望ましいのは言うまでもない。とりわけ、昔の人たちの噂話を聞けるという、副産物は何ものにも代え難い。娘の言葉を借りるなら、そんな話があったの知らなかったー、と言うところだろうか。T伯父さん、M叔父さん、また来年も面白いお話を聞かせてください。

2006/08/07

CBの良いところ

今日も、コミュニティバス(CB)に乗っている。Cb

このバスは、偶発的であるにせよ、かなり人と人とを結びつけている。CBの良いところは、ちょっとした会話を楽しめることである。もちろん、あまり内容が無くても良いのである。

娘が前の座席にすわり、わたしがひとりで二人掛けを占めていたところ、すこし歳を召した女性の乗客が途中から乗り込んできた。田んぼの広がる真ん中から、突然客だけが現れるというのは、CB特有の現象だ。

今年の米の出来具合はどうだ、という話から始まって、息子が寿司職人で、ご当地米は残念ながら使わないけれども、家では常用している、ということまで、話してくれる。高地で穫れる米の味を想像させる会話なのだ。

さらに、畑作の様子は克明だった。トマトがなぜご当地では作られないか、ナスやキューリがなぜ市場に出荷されないかを説明してくれる。スイカも作りたいが、都市近郊の畑には負けてしまうとのこと。

それでわたしも味を思い出したが、昨日農家の共同青果市場で買ってきたトマトの美味しかったこと。近くで穫れてすぐ食べることができることの至福を感じるときである。

その女性客は、街中で降り、わたしは駅まで行き、それぞれの一日が始まることになった。日常のちょっとした交流が体験できるのが、CBの良いところなのだ。

2006/08/06

コミュニティバスという知恵

娘がO市へ来るというので、バス停まで迎えに行く。

いつもの大型ワゴンタイプのコミュニティバスが姿を現わすと、急にヘッドライトを点滅させた。運転手さんが「お嬢さんが着きましたよ」を目の前に停車してくれる。(けっして、お嬢さんというタイプではないと思うが・・・)娘は、すっかりほかの乗客達の話に溶け込んでしまっていたようだ。

このO市が経営するコミュニティバスを、わが一家はかなり愛用している。もっとも、家族でひとりも車を運転できないという、現代家族にしては珍しいという事情も作用しているのだが。

O市では、乗用車の普及とともに、民間バスの路線が廃止され、バス会社も撤退寸前である。その結果、地域内や地域間の交通、ひいてはコミュニケーションが断絶の危機にある。現在では、このコミュニティバスと、観光客専用のルートが確保されているだけである。

わたしたちは、車社会の真っ只中へ、車を持たずに飛び込む、というドンキホーテ的時代錯誤を行っているのは、ほぼ間違いないところである。ところが、である。以前、この観光用のルートバスへ子供達と乗ったところ、地元の方ですか・・・と話しかけられた。つまり、観光客ではない、という立派なお墨付きをもらったようなものである。

現在では、地元の人に準じた者として、堂々とコミュニティバスを愛用している次第である。コミュニティバスの存在を知らないときには、駅から相当離れた今の宿泊地へ行くのがたいへんだったが、一日に数本しかないこのバスも、慣れればずいぶん便利なものである。(何しろ、日曜日と祭日には走らないのだから、観光用にはまったく使えないのだ。)

ときには、20数名乗りの定員で、満員に近いときもある。このコミュニティバスは採算が合うところまでにはおそらく届かないだろうけれども、地域文化活性化の知恵として、将来賞賛されることはほぼ間違いないと、わたしたち一家は考えている。

2006/08/05

駅前の喫茶店

Photo_6 昨日は、見落としてしまっていたが考えてみれば、駅前には何軒かの喫茶店が ある。いつもいそいで電車に乗ってしまうので、ほとんど寄る機会はないが、もっとも古くから看板を見かけるのが、「マルフク」というパン屋さんの喫茶部と、それから喫茶「かじか」である。

この「かじか」は、ずっと以前に、駅からすこし出たはす向かいの建物に料理屋として入っていたのではないか、とも思われるが、記憶は定かではない。かなり以前からではあるが、現在はほかの喫茶店などと一緒の雑居的な商店街の二階に入っている。

Photo_7 じつは入ってみて、これまでずっと気づいていなかったのだが、座席からまっすぐに見ると、窓を通してずっと数百メートル先に、わたしの生まれた家が見えるのだ。いまでは当時の土蔵だけが残っているだけだが。

今日も「かじか」に入ると、山から下りてきた山男たちが座席を占めている。「もう、つきあえませんよ」「いや、あのグループはごめんです」「責任持てませんから」「今回も、次からも、わたしにも限度がありますので」と、なにやら深刻そうな電話をかけている。Photo_4

そうだよな、山の仲間はすべて親密性が高いわけではないよな。昨日見たような典型的な山仲間というのは目立つけれども、実際には喫茶店などでじっくりと人間関係の調整が行われているのだ。

薪ストーブで黒く磨き込まれた店内では、今までどれほどの人間関係の葛藤があったのだろうか。思わず、コーヒーを一気に飲み干し、渇きを止めて店を出た。

2006/08/04

登山客の転換

N県O市へ家族と一緒に来ている。明日からの生活のための買い出しから、田舎での生活は始まる。

家族たちが買物のためにショッピングセンターへ出かけている間、駅舎の日陰で涼むことになった。待ち合わせまで、何とかして暇を潰さなければならない。さすがにここまで来ると、すぐに都合の良い、適当な喫茶店をといっても、見つけることはできない。

そこでみんなが集まってくるところは、駅舎の待合室しかない。O市は北Photoアルプ スへの玄関口のひとつであり、登山客はここを基点として山に登り下りてくる。登山は朝が早く、午後2時頃はちょうど山から下りてきた人たちが、ここから都会へ戻っていく時間だ。けだるい歩みをして、自分とほぼ同じ重量の荷物を持った人たちが、達成感で満足そうな顔をして話をしている。かれらは山に多くの悩みを捨て去り、すっきりして都会行きの列車に乗り込むようにも見える。

人びとの動きを見ていると、ここでも典型的なネットワーク的転換が起こっていることに気づく。小集団の一員として登山を行ってきた人たちが、この駅舎をくぐると、個人別の登山客になって都会へ戻っていくのだ。この転換は鮮やかとしか言いようがないほど、その行動にあらわれる。

タクシーを乗り合いで利用して、代金を折半する人びともいる。名刺交換して別れる人たちもいる。握手をして別れていく人たちもいる。親しかったグループを解消して、個人に戻っていくのだ。

あれほど、山ではそれぞれのグループを作り、互いの話を山ほどしてきたのに、それは山での出来事として終えて、それぞれ個人の家へ土産話を片手に戻っていく。

おそらくは、これと同等のちょうど逆のことが、登山の始まりにも起こっているのだろう。このときは、個人がグループを作って、登山を開始するのだ。いずれにしても、駅はこのようにして人びとの結節点の役目を果たしている。


2006/08/03

答案の作成法

試験期間が終わり、採点期間に入っている。わたしの担当する科目は、だいたい記述・論述形式の試験を行っている。毎学期この時期には、数百の答案と格闘する毎日が続く。

論述形式でも、いくつかの出題形式が考えられるが、学生との関係を考えると、わたしの場合には講義・授業の一環を形成するような試験方式を選ぶことにしている。つまり、学生が問題を考えるプロセスのなかで、同時に自分から何かをつかみ取ることができるような方法を選んでいる。

と言っても、特別なことをしているわけではない。基本は材料を提供して、考えてもらい、その結果が試験に現れるような工夫を行っているだけである。試験とはまったく形式的なものだと、居直ってしまうことも可能だが、やはり学生との間で、やり取りがすこしでもあるようなことを目指したいと考えている。

それには、学生個人の思考したプロセスがこちらに伝わるような試験出題を心がけたいものだ。もっとも、(1)学生に自由に書かせるというのもひとつの案であるが、とりとめのない答案がいくつも出てくるのは、困る。それに(1)だと、試験ではなくむしろレポートを提出させるほうが良い。したがって(2)講義内容から記述をすこし限定できるような、観点を絞ったことを答えてもらう方法が良いのではないかと考えている。

問題の核心にある基本的なことを、いかに外さずに、さらに基本を越える論述を作成できるかが、答案作成の常道だと考えている。採点をしながら、つらつらと感じたことを参考までに記した次第である。

2006/08/02

夜の屋形船

K先生、O先生、Yaさん、Yuさん、Nさんと憧れの屋形船に乗った。放送大学の試験期間が終わり、打ち上げ会という意味合いである。品川の船宿からレインボーブリッジの下を通って、お台場をめぐるコースだ。

品川の船宿というと、ジョージ・秋山の漫画「はぐれ雲」を思い出す。現世からゆったりと逸脱した自由さが、着流しに現れていた。

品川駅から船宿までは徒歩で10分ほどなのだが、近年再開発で高層ビルが建ち並び、江戸時代の雰囲気は一掃されていた。ちょうど退社時間であったために、大量の通勤客と真っ向からの反対方向を目指すことになって、人の流れをかき分け進む自分の姿に、思わず「はぐれ雲」の姿を重ね、ジャケットのボタンを外してしまった。060802_185102

船宿は混んでいた。屋形船への憧れは、江戸時代からの庶民の伝統なのかもしれない。けれども、それとは別に、今日屋形船が流行る理由がある。

乗ってみると分かるが、この屋形船はきわめて現代的な装備なのだ。高速船であり、冷暖房完備で、外気を遮るのは障子ではなくガラス戸である。そして何よりも異なるのが、パノラマ的であるということだ。

男女二人で差しつ差されつ、ギシギシと船頭の櫂に揺られて、真っ暗な河を行くというのは、過去の話なのだ。現代は、目的地まで白い泡を黒い海原に蹴り立てて行くのだ。途中の船上では、刺身や天ぷらを食べつつ、飲み放題で、次から次へと出てくるご馳走を堪能する。そして、あっという間にお台場に着き、ビル群のきれいなパノラマを楽しむのだ。

060802_193601江戸時代には、おそらく自然な闇の世界を楽しんだと思われるが、現代では人工的なイルミネイティングな光の世界を楽しむのだ。

船外の海をひとたびのぞき込むと、漆黒の闇が横たわっており、白い泡さえ黒く染めて、誘い込んでしまうような過去の黒い世界がある。かつてのその世界の片鱗を覗かせてくれる。

K先生は屋形船は「密談」の世界ですな、とおっしゃる。親密のドラマが生まれる場所だ。密談を通じて、「親密性」を強固にするには最適の世界である。たとえば、時代劇で、親密性を出そうと思ったら、まずは屋形船だ。男女の「密会」の艶っぽさも、やはり屋形船が良いと思う。そして、昔はこの親密性を保証するものとして、船の周りをめぐる夜の帳があった。このようにして、江戸時代という設定ならば、屋形船は親密性の権化と言えたであろう。

船宿に戻ってみると、今浦島のような気分である。3時間があっという間に経ってしまったのだ。幹事のNさん、ほんとうにありがとうございました。

2006/08/01

プロデューサーの必要性

音楽学のT先生がプロデュースしている「三曲」のCDをいただいた。三曲とは、箏、三味線、尺八などによる邦楽の室内楽のことである。

わたしのようなものが聴いても、覚えのあるような「千鳥の曲」などが収められている。

なぜT先生がプロデュースなさったのかは、解説文から想像される。このCDを制作した「新しい風」のメンバーは、それぞれ異なる流派から出て、「新たな組織」のもとで成立しているのだ。

T先生は、旧い組織を打ち壊して、新しい組織を成り立たせようとしている革新者である。年譜によると、80年代後半には、海外活動として、ロシア、フィンランド、スウェーデン、デンマーク、アイルランドを回って演奏活動をなさっている。

この実績を買われて、横断的な組織が可能になったのだといえる。

このCDは、わたしの母も箏をやっていると言ったら、それならば、とプレゼントしてくださったものだ。当分の間、このCDの曲がが母の家を流れることだろう。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。