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2006/08/29

夜の講義(A Class After Dark) V.3

たそがれのなかで、その教室のガラス窓だけがボウと輝いている。なかを覗くと、席はちらほらしか埋まっておらず、先生の声だけが聞こえてくる。

夜の講義というのは、夜の仕事という言葉と比べると、格段に良い音の響きを持っていて、豊かな感じがするという感覚は、ことによると、わたしだけのものかもしれない。じっさいは、夜学という音の響きのように、苦学を象徴する時代もあった。

仕事が終わって、ちょっと背伸びをしたいという感覚で授業が継続できたら、素晴らしいと思う。けれども、ほんとうのところ、学生からは、今日は出張で欠席しますとか、体調が悪いので出られませんとか、という届けが頻繁に出されるところをみると、仕事のあとの授業はかなりきついと思われる。

二つの仕事を持つのか、仕事と余暇と二つの活動を持つのかは、人によって異なるだろうが、いずれにしても二重生活は、現代人の習慣になっている。けれども、一日のなかで、仕事のあともうひとつ何かをしようと考えるには、やはり決定的な何かが必要だ。

よく引用される言葉で「ミネルヴァの梟は、迫り来るたそがれに飛び立つ」という哲学者ヘーゲルの寓喩がある。わたしの場合には、このもうひとつの何かに当たるもので、このミネルヴァの梟に当るものは「好奇心」である。

好奇心が芽生える場合には、いくつかの共通点がある。これは80歳で博士論文を書いている人と話していて気のついたことである。楽しさという要素は、もちろん好奇心にとって欠かすことができないが、それ以上に何かに迫られての集中力が持続するということも、好奇心には必要だ。奥深くまで探究して止まないという姿勢の続くことを目指しているとその方はおっしゃっていた。

ゼミを行っていて、放送大学のH先生は、「飛び立つ」好奇心のことを「おもろい」ことという関西弁で表現していた。自分にとっておもろいだけではだめで、ほかの人に話しても「おもろい」と感じてもらえるような面白さがないと、夜にわざわざ講義を行う意味がない。

そのうえで、仕事のあと、頭のなかを整えておこうかというくらい、気楽に授業に出ることができれば、柔軟な質問や、準備の要らない受け応えもでき、楽しい時間を創造することが出来る。労働のあと、身体を解き放つと同時に、頭のなかも解き放たれれば、明日の仕事も調子よく始められる。とりわけ、夜の講義に集まってくる学生同士の会話には、このような効用がある。

夜の講義では、たそがれが現実を覆ってくれ、好奇心だけが真っ暗な空に解き放たれる。このことが可能なのは、やはりアフター・ダークという夜の時空間なのだ。一日のうち、二つ目の活動を行っているという感覚が、現実に縛られている自分を、自由な好奇心に乗せて羽ばたかせてくれる。おもろい自分との出会いを期待して、わたしはかなり若いときから、こんな「夜の講義」が好きだ。

追伸:千葉学習センターから、機関紙のために急に原稿を求められた。そこで、以前この欄で書いた「夜の講義」を書き直して提出したが、もうすこし書き直したくなった。第3版として、ここに載せておきたい。書くことが無くなったのだろうという推測をする人がいたら、かなりそれは当っている。

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