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2006/06/15

公園の退屈

幕張への通勤途中、1キロほど続く、細長い公園を徒歩で通過する。

朝、公園を30分も歩くというと、今日ではいかにも贅沢で、余裕のある生活のように聞えてしまうが、じつは余裕どころではなく、必死になって運動不足を解消する必要に迫られている。ほんとうのところ、最初は、さっさと歩くのみであった。

そもそも、この公園の存在は奇妙である。利用者のほとんどは、高校生の通学や通勤の人びとであって、そこに立ち止まって暇を享受するといった気配はまったくない。

通常の公園でみられるようなモノや人は存在しない。まず、ベンチがない。だから、立ち止まって、話をする人を見たことがない。

公園に付き物の「散歩する人」を見ることもない。ときたま、運動着姿の早足か駆け足で通り過ぎる人を見かけるが、かなり忙しいそうである。ランニングしたり、トレーニングしたりするが、わたしと同じように、切実な状態に迫られているだけなのである。ほんとうに「忙しい」人びとなのだ。

ならば、球技はどうかといえば、それもまま成らず、そこには余裕のかけらさえない。先日、珍しくゴルフの練習をやっている人を見かけた。ほどよい芝生の丘などが配置されており、最適なコースになりそうである。

けれども、見かけた途端、つぎの週には、ゴルフを禁止する、という立て札がそこにたっていた。

つまり、ここは、楽しみの無い、きわめて退屈な公園なのである。

060615_081901それではわたしはといえばどうなのか。じつをいえば、この退屈さとの交差を楽しんでいる。

通勤客が最短距離で、舗装道路を歩くのであれば、わたしは土の回り道コースを踵で踏みしめる。本道と交差する脇道をさっさと歩く。

通学の高校生が道ばたの花を無視するのであれば、立ち止まって鑑賞する。カメラにも納める。

ちょっと目を上げると、幕張のビル群と、この公園の緑の並木が調和していた。幕張の人びとの関係を、如実に反映した公園なのかもしれない、とふと思った。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。