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2006年6月に作成された投稿

2006/06/29

編集者との関係

神田神保町にあるN出版社へ行ってきた。出版のお願いである。

専門書の出版は採算が合わなくなってきていると言われて久しいが、さらにその傾向は進んでいる。お願いに行かないと、あるいはお願いに行ったとしても、なかなか首を縦に振ってもらえない。

昔、もう亡くなったM先生から、出版では書いた原稿用紙を編集者の前へどんと積んで見せることが大事だと教えられていたが、なかなかそのような機会はなかった。現在は、このように「どんと積んでも」なかなかうまくいかない。

大学院生時代に余暇開発センターという研究所でアルバイトをしていて、座談会を組織するときに、委員の方のなかに編集者が何人かいらっしゃった。

そのなかで、扇谷正造という週刊朝日の編集長がいて、「右目で信じ左目で疑う男」という異名を持っていて、まともに顔を見て話をできないという気がしていた。もちろん、大学院生にまともに口を利いてくれる人は、編集者じゃなくても、そもそもほとんどいなかったのだけれど。とくに、編集者というと、そのイメージが強い。

今日会っていただけたT氏は、その感じはなく、笑顔の優しそうな方で安心した。けれども、評価は厳しそうな方であり、やはり編集者には二面的なイメージが付き物だ。今後短くても数ヶ月、長ければ一年半はお世話になるので、お手柔らかにお願いしたいと思う。

2006/06/26

「アイボリーの財布」をめぐる関係

事件(こと)の始まりは、娘の好意(行為でなかったところが問題だ)にある。

父の日だから財布をプレゼントするという、百年に一度もおそらく無いような言葉に乗ってしまったことが発端だった。

060626_205001 ところが、当日になって、妻が白い財布を出してきて、これで十分よ、と言う。(白ではなく、アイボリーだと主張するので、そのとおり言うことにするが、真偽のほどは写真で確かめて欲しい。)

いただく方としては、十分よと言われてしまえば、返す言葉もない。有り難く押しいただくほかないだろう。

結果だけからみると、わたしは娘からの財布をもらい損ね、代わりに妻のお下がりのアイボリーの財布をもらうことになった。

さて、ここで話を面白くするために、ひとつのテーマを導き入れてみよう。互酬制(ここでは三者間の一方的な関係が連鎖として起こり、最後に連環の輪が閉じる制度としておく)の成立する可能性はあったのだろうか、ということを考えてみたい。

第一に、現実を直視するならば、じっさい互酬制は成り立たなかった、ということになる。娘の申し出を断って、妻からの贈与を受け入れたことになる。したがって、この時点で、互酬制は諦められたことになる。一方的な贈与関係とするか、あとで、妻に反対給付を送り、交換関係に持ち込むのかは、プライベートなことなので、秘密としておきたい。

第二に、アイボリーの財布は、じっさい女物であるのだから、まず妻から娘に贈与されるべきものである。そして、娘が使わないのであれば、仕方がないので、わたしが使おうということになれば、立派な互酬制を形成する。この方式は、三人を交換関係に巻き込んで、みんなの所属する輪が大きくなるので、家族の結束を強めるためにも、有効な手段となりうるだろう。

第三の可能性については、第二と出だしは同じである。まず、妻から娘に、この財布が贈与されるべきである、と考えられる。ここで、娘が機転を利かせて、自分はその財布を保有し、父に対してはこの財布と異なる財布を購入し贈ったとすれば、完璧な互酬制を形成することになるだろう。

さて、どの可能性が良いのだろうか。効率よい無駄のない方法が好みであるならば、第一の可能性ということになるだろう。けれども、三人の結束を強めるという観点を重視するならば、第三の可能性ということになるだろう。

三者がそれぞれ異なるものを贈与し、すべてが義務感を持ったという点では、この第三の可能性が互酬制として最も美しいと思われる。経済学を学ぶ者の一家を認識するならば、この方式がお勧めであることは分かるだろうに。

さて、最後の問題としては、このアイボリーの財布がとても大きくて、さも万札がたくさん挟み込まれているような印象を与えてしまう点である。中身が貧弱なので、もうすこし地味な財布が欲しかったな、とわたしは謙虚に反省しているところである。

最後の最後に、互酬制を導くどんでん返しの方法がないわけではない。つまり、回りめぐったアイボリーの財布を妻のところに改めて届けるという方法である。これで目出度く、連環の輪は完結する。けれども、この最後の手段は、せっかく成立させた互酬制を結果として崩壊させることでもある。さて、わたしにその根性があるのかといえば、・・・・・・・。

2006/06/25

「ハゼ」と最初に戻ること

喫茶店を造ることを夢にみる。

父親が晩年、よくこのようなことを言っていた。カレーと珈琲を出す店で、いつも常連がきて、かならずバッハを聴くんだ。

「いざ!!開店」中野弘志著のなかに、現実的な数字が並んでいた。

最小限の自家焙煎の店を開くには「コーヒー豆は1日5㎏を販売、1㎏の単価を4000円として2万円。喫茶は10席、カップの売り単価は300円、1日10回転として3万円、豆売りとカップ売りの合計は5万円。1ヶ月25日稼働で、100万円強の売り上げがあるとする。原価率は30%ほどだから70万円強の粗利である」という見込みを描いてみる。ここまでは、楽しい作業であり、父親も何度となく繰り返し考えていただろう。

けれども、「事業計画は計画であって、ほとんどの場合、その通りにはいかない。1年目の売り上げは、半分以下であろう。3年後に目標が達成できたらよい方である」とのこと。いかに現実的でなかった父でも、現実に戻らざるを得なかったであろう。それ以上は踏み込むことはなかった。

「爆ぜる」というコーヒー豆特有の言葉がある。コーヒー豆を焙煎していて、内側からの膨らみで外皮がはじけることを言う。

日常生活のなかで、ときどき「爆ぜる状態」が訪れることがある。良いハゼと悪いハゼがあるが、いずれにせよハゼ状態が来ると、それが誰であろうと始末に負えない。

でも、ときどきは、このようなハゼ状態を夢見て、何かに賭けるのも素晴らしいことなのかもしれない。多くの場合は失敗することが予想されるが、その時には最初に戻れば良いではないか。

父にも、一度は爆ぜてもらいたかった。そのとき、わたしがその喫茶店を手伝えたかどうかは、まったくわからない。コーヒーを楽しむほうでは右に出るものがいないと自認しているが、コーヒーを提供するだけのイマジネーションとホスピタリティとを持ち合わせているという自信はまったくないからである。

父はもうずいぶん前に亡くなっているが、来週には誕生日が来る。

2006/06/23

「恋するトマト」あるいはトマトな関係

今日で終わりだというので、Aさんに薦められていた映画「恋するトマト」大地康雄主演・制作を見てきた。http://theres.co.jp/tomato/

この「トマト」の寓意は素晴らしい。トマトを理解すれば、おおよそこの映画を理解できる。(ほんとかな!)

トマトは地域性のある野菜である。熟れ立ての美味しい状態で出荷するには、遠距離は駄目で、近くのところにしか届けられない。それに熟れたトマトは、柔らかく、ちょっと押しただけで崩れてしまう。手厚く、やさしく育まないと、トマトという野菜は成立しない、などという常識的なトマト観がどう変わるかが見ものである。

もちろん、映画の後半では、トマト作りが主題として登場して、いかに大切に育てないと実を結ばないかと問いかけている。この点でドラマを盛り立てていることは間違いないが、しかしもっと深いところで、このトマトという比喩は効いている。

言うなれば、トマトは、主人公の「結婚」そのものを現わしている。主人公の結婚は、本来親密な関係をもとめている。農家での結婚というものは地域性のあるものだから、都会からふらっとやってきた女性にはあわないし、フィリッピンの女性にはだまされる。簡単に、強い絆を結ぼうとしても直ちに失敗する。トマトのように、手をかけ、時間をかけないと、強い信頼関係は結べない。

けれども、トマトを種にして運べば、地域を越えて、フィリッピンの大地にも芽を出させることができる。ときどき、このような弱い関係が人と人とを結びつけることがある。人間の結婚は、むしろ身の回りの親しい人とするよりは、遠くの見ず知らずの人と結びついたほうが、実多い。

トマトがこの映画の題名になっているのも、このような大きな理由があるのだ。それにしても、映画の始まりはあまり良くないと思う。やはり、この映画を成立させようと思うならば、レンコン農家ではなく、トマト農家を描くべきではないか。わたしだったら、絶対トマトから始めるけれど。

2006/06/22

合唱団の懐かしさ

今月発行された雑誌「サライ」が唱歌集CDを附録につけている。全部で29曲も入っている。「むすんでひらいて」から「故郷」まで、懐かしい曲だ。

母親は本を開けないうちに、すぐ聴こうと、CDプレイヤーを出してきた。音が出始めると途端に、昔のことがよみがえってくるようだ。

この懐かしさのほとんどは、記憶が呼び起こされることから引き出されるのだ。とくに、小学校5年生から6年生にかけて、学校の合唱団に属して活動を行っていたことを思い出した。

当時、長野県松本市の源池小学校に通学しており、NHKの合唱コンクールに出るために、夏休みを返上して、練習に練習を重ねていた。

ひとりひとりはそんなに歌が上手いわけでもないのに、合唱になるときれいに聞えた。とくに、コンクールが終盤になってきて、盆地の丘の上のすごく見晴らしの良い体育館で歌っていて、盆地全体に響くような錯覚にとらわれるくらい、一生懸命に歌ったことを思い出す。緑で囲まれた盆地の上には、真っ青な空が広がっており、歌声がどこまでも響き渡っていくかのような気がしていた。

このとき、繰り返し声を張り上げた曲は、今でも忘れない。そして、一緒に歌った同期生たちの顔も忘れない。10年経ったら、みんなで会おうね、と約束し、コンクールの賞状の裏にそのことを書いたが、その後何人が集まったのだろうか。

そのなかの何人かは、高校生のときに登山中雷で打たれる事故で亡くなっているから、きっと懐かしい思い出も、もしみんなが会ったとしても半減していたと思われる。

さらに、時間が経って、かれらもどこかでこのCDを聴いて、みんなのことに思いを馳せているのだろうか。もしそうならば、このCDは記憶を媒介する働きをもった珍しい附録だといえる。

2006/06/20

過去と現在の自分

若いときに夢見ていたことが、ふっと気が付くと、すこしはずれてはいるものの、実現されていることがときどきある。

昨日の「夜の講義」は、大学時代からずっと、頭のなかから離れず、やってみたいなあと思い続けてきたことであった。卒業当時、定時制の教師を目指したが、実現しなかった。

ときどき、過去の自分と、現在の自分とが結びつくことがあるのだ。このところ、十年前頃考えていて、たぶん実現は無理だろうと考えていたことが、いくつか実現するのを見た。

ここに自分の意志がどの程度反映されているのかはわからないけれど、それが自分というものの、ひとつの継続を意味している。少なくとも、十年間の間に、この両者には、当然の断層が刻み込まれつつあったのだ。それをいとも簡単につなげてしまう方法として、夢の存在とその実現は有効であるのだ。

2006/06/19

夜の講義(A Class After Dark)

たそがれのなかで、そのガラス窓だけがボウと輝いている。なかを覗くと、席はちらほらしか埋まっておらず、先生の声だけが聞こえてくる。

夜の講義というのは、夜の仕事と比べると、格段に良い音の響きを持っていて、豊かな感じがするという感覚は、ことによると、わたしだけのものかもしれない。じっさいは、夜学という音の響きのように、苦学を象徴する時代もあった。今日、むしろ昼の仕事と、夜の余暇とは、生活の当たり前の過ごし方だ。

仕事が終わって、ちょっと背伸びをしたいという感覚で授業が継続できたら、素晴らしいことだと思う。けれども、ほんとうのところ、学生からは、今日は出張で欠席しますとか、体調が悪いので出られませんとか、という届けが頻繁に届くところをみると、仕事のあとの授業はかなりきついと思われる。二つの仕事を持つのか、仕事と余暇と二つの活動を持つのかは、人によって異なるだろうが、いずれにしても二重生活は、現代人の習慣になっている。

仕事のあと、頭のなかを整えておこうか、という位に気楽に授業に出てくれれば、柔軟な質問や、準備の要らない受け応えができ、楽しい時間を創造することが出来るであろうに。労働のあと、身体を解き放つと同時に、頭のなかも解き放たれれば、明日の仕事も調子よく始められるであろう。

夜の講義では、たそがれが現実を覆ってくれ、想念だけが真っ暗な空に解き放たれる。このことが可能なのは、やはりアフター・ダークという時空間なのだ。一日のうち、二つ目の活動を行っているという感覚が、現実に縛られている自分を、自由な空間に羽ばたかせてくれる。わたしはかなり若いときから、そんな「夜の講義」が好きだ。

2006/06/18

学習センターの雰囲気

富山学習センターでスクーリング(面接授業)を行ってきた。

緑豊かな富山県立大学のなかにあって、晴れた日であれば、ちょっと散歩して歩き回りたくなるような(実際、そのような学生の方を見かけた)キャンパスが周辺にある。

カッコウが鳴くそうであるが、この静けさは何ものにも代え難い。

この学習センターには、ほかの学習センターにはない不思議な雰囲気がある。この雰囲気の多くはセンター所長のO先生からアウラとして発せられているようだ。

ゆったりした感じが漂っていて、にこやかさを絶やさない、とでもいえば、雰囲気がわかっていただけるだろうか。このような雰囲気が事務長から始まって、ほかの職員の方々にも共有されているのは驚きである。

わたしの講義は順調にスタートしたのだが、事件は突如起こるものである。二日目からの講義で、急に声が出なくなってしまったのだ。

仕方ないので、声のトーンを落としてマイクを使い、つぶやくようなかすれ声で続けるほかなかった。

このときの学生の反応に、この富山学習センターの特徴が現れていると感じた。寛容であり、鷹揚という言葉が適当かわからないが、真剣に耳を澄まして聴いてくださった。

辛いときには、質問をしてしゃべるのを休憩した。ときには、質問を強要することもあえて行ったが、そんなときにも、学生のなかにはおもむろに「それじゃ、折角だから」といって、質問や答えに対して迷惑そうな顔をしながらも対応してくれる場面もあった。けれども、その答えは中心を外さずに余裕を持っていた。

最後は、放送大学の良い慣例のひとつだが、拍手をいただいた。これは、声が出ないにもかかわらずよく頑張ったということと、これからも続けるようにという、激励の拍手だと思った。

今のこの時代に、ほかの大学と比べてみればわかるように、このような理想郷的な授業環境にある教員、そして学生の方々は数少ないと思う。富山での体験は得難いものではあった。おそらく、これからもこの富山学習センターの雰囲気は、呼ばれた先生方を良い意味で驚かすことは間違いない。

P.S.キャンパス・ネットワークのなかへ、ホームページを移すそうですが、それまでは、こちらで見ることができます。http://ww2.ctt.ne.jp/~drum/u_air/

2006/06/16

「待合所」の人の流れ

富山へ向かうので、東京駅へ行く。新幹線ホームへ上ったのはよいが、ベンチがひとつもない。一時間以上もまえに着いてしまったので、どこか座るところはないかと見渡すが、ホームの上には寄りかかるところすらない。

乗車口には、二列で並ぶようにテープで表示されたものがあり、早くとも30分以上前に来てしまうと、並ぶところもない。早く着いた人は、どうしたらよいのだろうか。ホームにはずっと止まってはいけない仕組になっている。

仕方がないので、階段を下りて、待合所を探す。幸い改札口に脇に30名ほどの背もたれのない長椅子が置かれている。すでに満員状態だったが、次から次へ立って行く人がいて、すぐに座れた。

待合所の必須の調度は、この長椅子だけである。(かつては、連絡用に公衆電話が置かれていたものだが、現在では隅っこに追いやられている。)長く座っているわけではないので、座る板も堅く、もっともシンプルなデザインが選ばれる。狭いスペースに最大限の人びとを詰め込む工夫がされている。

つまり、待合所は通過点であって、あまり長い滞留は予定されていないのだ。そして、この待合所の人の出入りの激しさは、ホームへ行ったり来たりする人びととの相関関係で成り立っている。

待合所は、水流の途中で設けられたダムのようなものであって、ホームが溢れかえらないためのプーリングの仕組である。

待っている人たちの様子をみると、複数の旅行者の場合は、おしゃべりを楽しむ人たちが多かった。ひとりの旅行者では、本を読むか、携帯を操作するか人が多かった。

けれども、最も目立ったのは、まったく何もせずに、瞑想に耽ったり、周りを見渡したりして、ただ単に時間つぶしをしている人である。これが多かったのは意外であったが、考えてみればここは「待合所」なのであって、ただ待っている人が多くて、当たり前なのであった。

けれども、これだけただ待つ人がいるということは、旅行の構成要素として、「待つこと」をもっと積極的に評価してもよいのではないかと思う。通路の片隅に長椅子だけの場所を用意するだけでなく、コーヒーが飲めて、ゆったりとしたテーブルと椅子が用意された待合所があっても、決して悪くはないと思う。十分商売としても成り立つのではないかと思われるが、「JR百貨店」としてはいかがか。

2006/06/15

公園の退屈

幕張への通勤途中、1キロほど続く、細長い公園を徒歩で通過する。

朝、公園を30分も歩くというと、今日ではいかにも贅沢で、余裕のある生活のように聞えてしまうが、じつは余裕どころではなく、必死になって運動不足を解消する必要に迫られている。ほんとうのところ、最初は、さっさと歩くのみであった。

そもそも、この公園の存在は奇妙である。利用者のほとんどは、高校生の通学や通勤の人びとであって、そこに立ち止まって暇を享受するといった気配はまったくない。

通常の公園でみられるようなモノや人は存在しない。まず、ベンチがない。だから、立ち止まって、話をする人を見たことがない。

公園に付き物の「散歩する人」を見ることもない。ときたま、運動着姿の早足か駆け足で通り過ぎる人を見かけるが、かなり忙しいそうである。ランニングしたり、トレーニングしたりするが、わたしと同じように、切実な状態に迫られているだけなのである。ほんとうに「忙しい」人びとなのだ。

ならば、球技はどうかといえば、それもまま成らず、そこには余裕のかけらさえない。先日、珍しくゴルフの練習をやっている人を見かけた。ほどよい芝生の丘などが配置されており、最適なコースになりそうである。

けれども、見かけた途端、つぎの週には、ゴルフを禁止する、という立て札がそこにたっていた。

つまり、ここは、楽しみの無い、きわめて退屈な公園なのである。

060615_081901それではわたしはといえばどうなのか。じつをいえば、この退屈さとの交差を楽しんでいる。

通勤客が最短距離で、舗装道路を歩くのであれば、わたしは土の回り道コースを踵で踏みしめる。本道と交差する脇道をさっさと歩く。

通学の高校生が道ばたの花を無視するのであれば、立ち止まって鑑賞する。カメラにも納める。

ちょっと目を上げると、幕張のビル群と、この公園の緑の並木が調和していた。幕張の人びとの関係を、如実に反映した公園なのかもしれない、とふと思った。

2006/06/13

交詢社というクラブ

クラブ的な結びつきとは何か、これが今日のテーマである。

先週の予告どおり、Y先生に連れられて、銀座6丁目からすこし入った「交詢社」での楽しい会食に参加した。

ちょうど人数が13人で、女性が一人だったこともあって、最後の晩餐だと、Y先生はおっしゃっていた。親密な仲間が食事をしながら、談論する場所。それがクラブだと思う。

交詢という言葉自体、互いに誠意を尽くして、交際・談論を親密に取り交わすという意味があるそうだ。このような小さなパブリックの場所を維持することが、クラブの本質だと思う。

それにしても、クラブを維持する志もさることながら、この交詢社の建物はすごい。保守的だが、おしゃれだ。新しく改造されたときに、建物の至る所に、古い建物からの遺物が埋め込まれ、伝統を引き継いでいる。

060613_182601_2 玄関からクラブのサロンに到達するまでの荘重さと過剰なものものしさは、場所柄仕方がない。けれども、Y先生が取ってくださった「小食堂」は別格であった。

「小」というのは、謙遜と慎み深さの表現である。人数に対して破格の広さと、控えめな光の演出による格子ガラスが、シンプルさをあわせもったスケールの大きさを表し、さらにこげ茶色の太い梁と、分厚い板のドアが密室性を保証している。たいへん贅沢な場所であった。

ここまでくると、やはりクラブの本質は「場所」だなあと思わざるをえない。あの分厚く立ちはだかる扉をよいしょと押して開かなければ、談論を楽しむこともできないのだ。

さて、それでは、ここで13人が何を話したのか。それはご想像にお任せするより他ないが、おおよそ、仕事に100%集中して暮らすほうが、人生が楽しくなるか、それとも仕事を遊びと考えたほうが、人生が楽しくなるか、この二つの話題に分かれたのではないかと思われる

2006/06/12

覚醒とコーヒー

月曜日は、神奈川大学で講義を行っていて、楽しみのひとつはコーヒーにある。

丘の上にあるこの大学に着くと、のどが乾く。また、最近の建物は、除湿が効き過ぎるために、教室で講義を行った後も、水気を必要とする。

気前の良いことに、この大学では、ブルーマウンテン・ブレンドのレギュラーコーヒーが教授控え室に入っている。昨今の経費削減の嵐を乗り越え、よく維持していると思う。

けれども、このことはたいへん理に適っていると、わたしには思われる。コーヒー・ブレイクという習慣は、重要な余暇文化の構成要素だと考えているが、とりわけコーヒーを飲むということは、余暇文化のなかでも、覚醒という意味があると考えられる。良い味で覚醒され、講義室へ送りだされれば、自ずと良い講義を目指さざるを得ないではないか。

仕事が終わって、余暇文化の出番になると、二つの可能性がある。ひとつは酩酊という方法であり、お酒を飲んで、仕事を忘れ、明日の仕事に備える態度である。

それに対して、コーヒーは明らかに覚醒文化の系統に属している。仕事の疲れを、目を覚ますカフェイン効果で、解決しようという態度である。おそらく、大学ではどちらが良いのかは判定はつかないが、少なくとも講義が連続して続く場合には、覚醒文化の方に分があるように思われる。

この大学は、この点で間接的に、先生方に対してメッセージを送っており、その効果はかなり出ているように思われる。少なくとも、わたしには相当効いていることは間違いない。

望むらくは、このような良い習慣はずっと続けていただきたい。どこかの大学のように、インスタント・コーヒーに代えてしまうなどということのないように、切に、お願いする次第である。

2006/06/11

人と車の関係

わたしの住んでいる横浜の弘明寺という町は、第二次大戦の戦火から逃れた街なので、狭い路地がそのまま残っている。

近ごろ、車の量が増えたため、路地の裏の裏まで車が入ってくるようになった。そのため、道幅が狭いところでは、車と歩行者とはまともに競合関係に入ってしまっている。

じっさい、路上で車を避けるのは至難のわざである。大げさに聞えるかもしれないが、片側のコンクリートの塀と、車との間に挟まれてしまうと、ほんとうに怖いし、きわめて危険だ。

ところが、最近になって事情が変わってきた。この路地の奥の狭い敷地に、住宅が建てられるようになった。いままで一軒建っていたところを壊して、二軒建てようということらしい。

このような小住宅開発には、批判が多いのも事実である。ミニ開発特有の性質を持っていて、建坪率ぎりぎりの設計で、昔の長屋同然の家が多い。

けれども、このことが幸いして、路地との関係はむしろ良い関係が見られる。塀が取り払われつつあるのである。家自体は、道に迫ってせり出してきているものの、この塀がないため、路上で車に圧迫されても避けることができる。

塀に押しつけられることはなくなり、塀の無いところには低層の花壇が作られており、その分、道に余裕が出来たのだ。

人と車との関係は、このようにまだまだ戦争状態であるが、路上では家の建て方次第で、その関係はきついものになったり緩いものになったりするのだ。

2006/06/10

大学の組織

今日は、神奈川学習センターで、いつものように大学院ゼミナールを開く。

Nさんは大学の情報組織について研究している。今日行った報告のなかで、大学の意思決定について話題を提供した。

先行研究をまとめてみると、大学には二重の意思決定系統が存在するらしい、という指摘である。教員組織(教学系統)と職員組織(事務系統)という二つの系統がある。大学で生活していると、経験上あらゆるところで、このような事態と遭遇する。

大学の先生方が研究費を使おうとする、ところが事務手続き上いろいろな制限がある、というような日常的な細かなことに始まり、教授会と理事会の職務分担や経営の考え方の違いなど、多くがこのことに関係してくる。つまり、これにしたがって、情報の流れも二系統が存在し、非効率が発生するのだという問題がある。もっとも、ほかの先生がいうには、だから民主主義が機能している、という言い方にもなるのだが・・・。

そう言えば、先日の札幌でのシンポジウムが始まるまえに、非公式の「前夜祭」が開かれて、繁華街に繰り出し、夜遅くまで、楽しく談論した。そのなかで、民間企業に20年あまり勤め、現在は国立大学の先生になっている方がいらっしゃって、「民間企業と大学とどこが一番違うと思いますか?」と話題提供なさった。

その先生は、「大学では、重要案件審議での差し戻しがよく行われるが、民間企業では重要なものほど差し戻しは起こらないですよ。」とおっしゃる。たしかに、ふつうは日本社会特有の根回しが行われ、公式の場ではさすがに意見の対立が表面化することはすくない。

けれども、重要な案についての討議になると、先生組織のなかでは、企業が行うような公式的な根回しは成り立たない。しかも、教授会というところは、全員一致主義を建前としているために、結局重要であればあるほど、対立が起こりその結果、その議案は差し戻されてしまう場合がときどき起こる。

一般の企業では、社長の決めたことが社員レベルで差し戻されることは、さすがにないだろう。重要であればあるほど、当事者の責任は問われるとしても、それが差し戻され、否決されることはない。もし否決が起こるとすれば、当事者のどちらかがその企業から去るときである。

このような差し戻しが大学で起こる原因のひとつは、前述のように、意思決定が二系統あるからである。事務組織での決定が教授会で覆されることが起こってしまし、あるいは、教授会決定が事務的な判断で不可能であることが生じてしまうのだ。

情報の流れからすれば、二系統のそれぞれ内部の流れと、系統間の流れがあって、圧倒的に系統間の流れに齟齬があるということだと思われる。現在の方向は、これら二系統を統合する方向の議論が進んでいるらしい。

この議論は現在進行中であり、まだ正答はは見つかっていない。したがって、暫定的な見通ししかもてないのは言うまでもない。大学に二系統の意思決定が在ることは、これまでの経緯からすれば、理由の在ることである。だとすれば、系統間の流れをよくするような方法を見つけることが肝要ではないかとわたしには思える。

2006/06/09

「クラブ」という結びつき

映画「ナイロビの蜂」が今日までだというので、久しぶりにいそいそと近くの映画館へ出かけた。

ミステリーの魅力は細部にあるというのは常識だが、この映画も細かいところにこだわっていて見応えがあった。うわさには聞いていたが、この映画の至る所で、細部を描くことで出てくる重厚さと現実感が見られる。映画でないと再現できない工夫があった。

アフリカの大地や自然描写もさることながら、スラム街や交通機関、汽車すれすれに歩く住民の描写などでは、ふつうであれば、カメラマンがむしろ避けたいと思われるほど典型的なシーンがふんだんに使われている。わたしたちには、かえって新鮮だ。

主題からはすこしはずれてしまうかもしれないが、ロンドンのクラブが出てくるところはたいへん興味深かった。(いつもずれてしまって、制作者には失礼かもしれないが、ここから始まる会話は映画全体にとっても、きわめて重要な場面だから、このはずれ方は許されるだろう。)

このクラブはおそらく外交官達の集まるクラブという設定だ。やはり、密談という名に値する会話が半分公共的な場所で行われ、それが描かれる場所としては、(今日では珍しい「女人禁制」の)クラブというところがいちばん似合う。

玄関を入ると、まず鞄を預ける。クロークとして預かるのか、それとも鞄を持ち込まないというルールがあるのか、さらに陰謀があるのかはわからなかったが、もし後者ならば、たいへん面白いのだが。

クラブは仕事の場でなく、真正のレジャーの場であるということならば、その趣旨は徹底している。クラブのなかへ入っていくと、なにか特別のサービスがあるのかと言えば、必ずしもそうではない。普通のダイニング用のレストランがあるだけである。あくまでクラブの構成要素は会員であって、ここでひそひそ話やワイワイ話ができると言うこと自体がクラブの存在理由なのだと思われる。

前書きが長くなってしまったが、来週Y先生に連れられて、日本で初期に創られた正統派クラブである「交詢社」へ行くことになっている。そこでどのような「密談」が行われるのか、今から楽しみにしている。

2006/06/07

家の構成と、古くからあるモノ-その2

前日の続きで、母の家のことも考えてみた。

まず、思い浮かぶのは、エンジ色の切子ガラスでできたワインのデカンタである。父と母の結婚祝いに、祖父からいただいたものらしい。

このデカンタは我が家の祝いの席には必ず顔を出している。誕生祝などの写真には、いつも中央にでんと座っていて、忘れることができない。

事件が起こったのは、といっても大した事件ではないが、わたしの5歳の誕生日のときだ。このデカンタに赤玉ポートワイン系の甘いワインが入っていて、その部屋には大人が一人も居なかったのだ。気づいたときには、眠っていて、デカンタのワインはかなり減っていた。

家の引越しのときには、もっとも気を使う品であって、新聞紙を巻きつけて、段ボール箱に入れた記憶が何度かある。

近年、御屠蘇をストックするのに使われるようになったが、最後まで飲まれることはまれになってきた。あまりに大きすぎるために、作りすぎてしまうためだ。子供たちが家を出て、量を必要としなくなった。

今も、居間の棚に鎮座して、いつも家を見つめている。デカンタのふたは、大きな透明の入れ子になっていて、その玉の部分が何面にもカットされており、光を乱反射させ、存在感を見せている。装飾的な役割は、昔から得意とするところだ。

常に、自分が家の中心にいることを誇示している。おそらく家族がすべて失われた後にも、我が家に残るのはこの切子ガラスのデカンタに違いない。

2006/06/06

家の構成と、古くからあるモノ

家族の結びつきは、その関係を媒介するようなモノに現れる。家の中で一番古くからあるものはなんだろうか。古いものには、家族の濃密な関係が染み付いているものが多い。

もちろん、個人の持ち物のなかにもかなり古くからのものがあって、家族を超えて、家族が組織される以前、つまり結婚以前のものも含まれている。これはこれで興味はあるが、人と人の結びつきという点では、あまり面白くはない。

たとえば、父のパイプや、母の着物、さらにわたしの時計、これらに加えて、小学校時代のアルバムや成績表なども、家のなかにはあって、個人の記憶を構成しており、家の構成物として立派な役割を果たしている。

これに対して、家族共通の持ち物は、かなり限定されていて、その家族の成り立ちに関係している。たとえば、わたしの家には、表面が輝くような赤茶色のテーブルがある。そんなに高価なものではないが、結婚して直後に購入したという思い出の染み付いたモノである。

時には、食卓として働いただけでなく、わたしの勉強机を兼ねた時代もあった。そして、今では時代が変わって、息子の勉強机を兼ねるときもある。

このテーブルの上に、梔子の花が鉢で置かれていたときもあった。けれど、今の季節には庭から切ってこられた、大振りのアジサイが一輪飾られている。

家族四人が座れば、ちょうど席が埋まるが、あと数年もすれば、子供たちはこの席を占めなくなるかもしれない。

こんな風に、このテーブルは、団欒の重要な構成要素として、家の真ん中を占め続け、家族の会話を見守ってきたのだ。このテーブルのつやが続く限りは、わたしの家にはまだまだ人間関係が生じ続けるだろう。テーブルの足が取れてしまわない限りは、当分食卓の役割を担い続けることだろう。

2006/06/05

北大現代GPフォーラムの組織

北大現代GPフォーラムで、実行委員を仰せつかって、数ヶ月お手伝いしてきた。6月2日、3日にシンポジウムと15大学の発表会が開催され、昨日最後に、「交流会」議事録を整理して、ほぼすべての仕事が終結をみた。

実行委員の役割は、「実行委員会」へ出席することというたいへん分かり易い仕事内容だった。実行委員の方々はわたし以外すべて北大の方なので、ほかの仕事も兼ねているが、離れている分わたしの分担は少なかったのかもしれない。主催者は、かなりたいへんだったと推測される。

今回のフォーラムの特徴は、北大内部のフォーラムと、外部とのフォーラムという二重の構成になっている点だ。北大内部の成果を外部に知らしめると同時に、外部からの14大学の成果も取り込もうというわけだ。

この内部と外部との組み合わせの妙技が楽しみであり、(関係者が言うのもなんであるが)成功した要因でもあるのだと思われる。

フォーラムの人間関係は、たいへん複雑だ。最も重要なことは、個々の発表者が自由に展開出来るように、それを支える(今はやりの言葉で言えば)プラットフォームの存在が不可欠だ。

北大組織の魅力は、複雑な役割を自覚して積極的にはたらいてくださる方々が揃っている点である。わたしのように小さな組織に慣れた者にとっては、たいへん羨ましい限りである。

このような重層組織を組めるのも、しっかりした伝統の大学組織が背景にあって、いつも相互作用を保てるからだ。フォーラムを思い返すと、ひとりひとりの顔が浮かんで来る。

小冊子の準備、発表者の組織化、会場・展示の整備、名札・ポスター・表示板の準備などの助走段階から始まって、当日には受付の分担、司会・進行、そして挨拶と続く。とくに細心の注意がいるのは、参加者への配慮である。

数え切れないほどの作業を終えて顧みると、正常に動いて普通であり、うまくいかないことが度重なっても、当たり前であるような世界なのだな、と今になって思う。

裏で支えてくださったTさんとOさんに、とくに感謝したい。

2006/06/03

リラの咲く街

その土地に似合った花が、人びとの感情を結びつけることがあるのだということを知った。

札幌の朝は三日目になるが、相変わらず、底冷えがする。「リラ冷え」と言うそうである。こう言うと、寒さにも趣が出てくる。

幼い頃、たしかオルコットの少女小説で「ライラックの花の下」をいうのを読んだことがある。すこし北の田舎町の話だったと思う。その小説で、リラとライラックが同じ花であることを知ったが、実際にはこれまで咲いているところを見たことがなかった。

035 この季節、この街をちょっと歩くと、公園や並木に、この花が咲いている。街の至るところに咲いている、このリラを地元の人は、いっとき楽しむのだそうだ。

かれらが言うには、リラの咲くころ、寒暖が急に激しくなり、雨が降ったり、突然晴れたりするのだそうである。じっさい、この二、三日がそうだった。雪の札幌も良いが、それ以外ならば、この6月はほんとうに北海道らしい季節だと思う。そのなかで映える花として、リラがある。

花が季節を現わす場合、ふつう桜のように、暖かくなって花が咲くと言うように、はっきりとした、質的変化が起こった象徴として、その花が使われる場合が多い。

ところが、リラに限っては、むしろ季節が不安定になり、空模様が読めなくなる季節のシンボルとして現れる。そういえば、薄紫の小さな花が積み重なって、アジサイとフジを掛け合わせたような花で、どこか先の見えない心許なさを現わしている。

北海道が未知の世界を惹起させるように、このリラという花も、荒々しい大地のなかで、不思議さを秘めた繊細な花として現れる。北海道のもうひとつの面を、リラの花は表しているように思える。

2006/06/01

北大祭の模擬店

現代GPフォーラム開催のため、北大にきている。ちょうど北大祭の真っ最中にぶつかった。構内を南北に貫いている大きな並木道の両側に、学生達の模擬店が700~800mにわたって延々と並んでいる。

060602_104501_1みんな同じようなものを売っている。ヤキソバ、タコヤキ、コロッケなど。わたしたちのころと異なるのは、アルコール類を禁止していることだ。(写真のなかで「さらば 酒」と書いてあるのが、わかりますか)

こんなに同じようなものを売り、なおかつ、酒を売らないならば、なぜ客が来るのだろうか。明らかに、高校生や近所の女子大生達は、モノを目当てにきているのではないだろう。

それにしても、よく模擬店が成り立つなあと感心する。

テントの成り立つヒントになのかもしれない会話が聞えてきた。あまりに道が混んでいるので、テントの裏側をずっと歩いているときである。

「手伝おうか?」と女性がテントに声をかけると、それに答えて、「お願い!」という声がかえってきていた。もちろん、必要なければ、「あとでお願い」という答えがあるのだろう。

038よく観察すると、テントとテントの間には、かなりのスペースがあって、待機する 学生たちがおしゃべりを楽しんでいる。

つまり、路上で客引きを行う者、ヤキソバを作る者、後方で手伝う者、そしてさらに待機する者それぞれが、役割を交代させながら、テント・チームを支えている。裏からみると、テント生活は重層化されていることが分かる。

さらに、これだけ多くのテントがあると、テントのあいだを渡り歩いている者も見られる。おそらく、複数のサークルや教室、団体に所属するものが意外に多いのだと推測される。

想像するところ、テントの模擬店を成り立たせているのは、おおくは外から来る客なのは間違いないが、そればかりでなく、テントとテントの間を移動している学生達こそ、これらのテント群を成り立たせている関係ネットワークの本体であるように思えてきた。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。