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2006年5月に作成された投稿

2006/05/31

神田のワン・ショット・コーヒー屋

今日の社会と経済カンファレンス室には、A先生ひとりだけがいらっしゃって、Aさんの淹れたコーヒーを飲んでいるだけだった。

雑談と食事のあと、明日からの札幌で使用するために、特別に貸出していただいたパソコンを受け取ろうと、神田にある会社を訪れる。

約束まですこし時間があったので、さっそく近くの喫茶店を探して、時間をつぶすことにする。その昔、父の通っていた会社が神田にあり、どこに居ても仕事の話しか聞えてこない、活気はあるが、キチキチのビジネスの街だなと思っていたが、久しぶりに歩いてみても、その印象は変わらない。

すぐ近くに、小さな黒板が誘っていて、ビルの地下へ通ずる階段のあるコーヒー屋を見つける。階段の途中に、洋服屋さんが入っていて、なぜか「いらっしゃい」と声をかけられる。

地下二階になるのだろうか、長いカウンターと、壁際に赤い革の長いすとが置かれている、居心地の良さそうな店である。

カウンターの壁には、洋酒が並んでいたから、夕方からは、いわゆる「ワン・ショット・バー」になるのだろうが、昼は「ワン・ショット・コーヒー屋」というところだろう。

だいぶ昔、虎の門でアルバイトをしていて、事務所での仕事が飽きてくると、このようなコーヒー屋へ逃れていって、雑談に花を咲かしていた時代がある。いくら余裕のないビジネス街にも、ほんの一時間ほど息抜きできるような場所が必須である。

今日の店にも、ニ、三人連れと四人連れが、それぞれあらぬ彼方を見つめながら、雑談に興じていた。明らかに、仕事との共生として、しかし同時に、仕事から逃れる場所として、このコーヒー屋は成り立っている。

Cafe Zig Zigという店だったが、ふたたび行けと言われても、まっすぐそこに到達できるか、自信はない。

2006/05/29

横浜駅地下自由通路の孤独

イギリスへ取材旅行に行ったとき、制度学派のH氏が「社会のルール」の具体例としてあげたのが、「右側通行(イギリスでは左側通行かな)」という歩行者ルールであった。

わたしたちの最も身近なルールであるにもかかわらず、この歩行者ルールが適用されないところは、意外に多い。

横浜駅地下にある東西を結ぶ自由通路も、その一つである。ここには、左右にみなとみらい線、JR線、京急線の改札口がランダムに並んでおり、また通路自体が広いので右側通行、左側通行にこだわっていたら、いつまで経っても目的の改札口には到達できない。思い切って、通路を突っ切れば、早道なのだ。

そこで、みんなが右側通行、左側通行、中側通行入り乱れ、さらに文字通りの自由通路そのままに、道を横切ろうとする人びとが交差する。

ここで不思議なのは、衝突する人が思ったより少ないことである。だから、衝突を避けるような規則性がここには存在するのではないか、と考えてみても良いかもしれない。

このような規則性は、言葉となって、公式のルールとして考えられているわけでもないので、まったく無視する人もなかには見られる。そのことは事実であるが、多くのひとは「緩い規則性」を持っているようだ。

自然な形でそうなっているので、意識しているのか否かは、人によって異なるであろうが、二つくらいのルールに従っているように、わたしには思える。ひとつは、順行の場合、「前の人の後に付いていく」という規則性、また、相手が逆行の場合、遠目の距離のうちに、あらかじめ右を取るか左を取るか、左右に目線を効かせて、少なくとも「正面衝突を避ける」という規則性である。

だから、急に走り出す人が現れたり、横から思いがけず割り込んでくる人がいたりすると、衝突が起こってしまうのである。もちろん、映画「クラッシュ」が言うように、「ぶつかること」も重要な「出会い」かもしれないが、期待しているほど、そのような理想的なクラッシュは起こらない。

月曜日、神奈川大学の夜の講義が終わってから、この自由通路を通過する。すると、目の前に右から左から人が現れ、見事な群衆を作り出す。ブラウン運動のひとかたまりが通り過ぎていく。ひとりだなと感じる一瞬がこのときある。

2006/05/28

映画「トランスポーター」

久しぶりに、日曜洋画劇場を見た。リュック・ベッソンの「トランスポーター」だ。

おおかたの批評では、B級アクション映画ということになっており、わたしもそう思う。けれども、息もつかせず、カーチェイスが続くところや、カンフー的な闘争部分は、ハリウッド顔負けの運びの良さを示している。

これだけでも、勉強あとの気分転換には最高の清涼剤だ。

他にどこが気に入ったかと言えば、「トランスポート」というところである。本来、運び屋に徹しなければならない主人公が、単なる運び屋から、依頼人の事情に関わってくるところから、俄然面白くなる。

つまり、人間には、「橋渡し」型と「じっくり付合い」型という二つのタイプがある。そして、トランスポーターは、はじめは「橋渡し」だけにこだわって、なるべく依頼人にも届け先にも、関わらないことにする。ところが、人間は結局「橋渡し」だけでは活動することのできない動物であるということだ。

映画のなかで、輸送する品物の中身は絶対に見ない、というルールを課している主人公が、それを犯してしまうことから、事件が始まる。

トランスポーターがトランスポートに失敗して、トランスポーターではなくなることがこの映画の面白いところだ。

2006/05/27

同窓会がはやる理由

卒業研究ゼミのため、神奈川学習センターへ行く。Aさん、Iさんともに、好スタートを切ったので、このままゴールへ向かって、論文作成を進めていただきたいと願っている。

ゼミが終了して事務室で話していると、所長のH先生が現れて、お茶をご馳走してくださるという。放送大学本部仕込みの(?)、本格的なお茶である。お湯がポットなのは研究室で仕方なかったが、その代わり、お茶菓子は立派な栗入りの上品な餡ブロック風の和菓子であった。

今日は、これから小学校の同窓会幹事会へ出席だということで、なにやら楽しげであった。思わず、同窓会のどこが楽しいのかと、失礼を顧みず、尋ねてしまった。

二年生のときに、担任だった女性の先生から、男女同権、民主主義の薫陶を受け、そのことを思い出として話したら、先生が喜んだそうである。三年生のときに、教室間の対立があり、二人になってしまって逃げていたら、授業が始まってしまい、授業中ずっと立たされたという記憶があるそうだ。

これは他人に言っても、何も面白い話ではないと思う。じつはわたしにも、ちょうど三年生のときに、同じく喧嘩をしていて、二人とも授業に遅れ、立たされて、罰として平手打ちを食らったという、楽しい思い出がある。と言っても、他人にはピンと来ないだろう思われる。

本人達には、周りの状況、重奏した時間、みんなの反応などあらゆる記憶が押寄せる瞬間なんだと思われる。だから、たとえ同じ話をしていても、共有する状況が異なれば共感も得られないし、逆に、互いに記憶が違っていても、共有する状況が同じであれば、それで充足するのだ。

もちろん、だから嫌なんだ、という臍曲がりの人もいることはわたしの経験上あって、それも分かるが、事実としてみれば、過去の記憶のなかでも、小学校のときの思い出は特別である。他人にはわからないけれども、当事者達にはひとつの瞬間に特別の凝縮のはたらく一瞬が存在するのである。

そして、果たしてその通りであったのか、時間を共有した同窓生に確かめて見たいのだと思われる。

2006/05/26

千葉大のデザイン展

金曜日の夜8時まで開館しているというので、千葉市美術館で開催中の「戦後日本デザインの軌跡」を見てきた。

千葉大工学部工業意匠科出身のデザイナー達の足跡である。このように言われてしまうと、わたしのような素人には、いかにも卒業展示のような感じに聞えてしまう。けれども、そうではなく、この展覧会には、わたしたちが実際に生活のなかで使ってきた、実用的で、記憶に残っているプロの(とわたしが言ったら、かえって失礼な)作品・商品群が展示されていた。

入り口に並べられたオートバイ、入ってすぐ正面に置かれたトランジスタラジオ、扇風機、自動車、カメラなどに始まって、化粧品、洗剤容器に至るまで、年代順に並べられており、これはそのまま日本人の消費生活そのものを現わしている。授業で取り上げた、初期の「ウォークマン」、あるいは一世を風靡した「キャノネット」のカタログなども出品されていた。

さて、デザインとはなにか、ということである。これらの作品群を見ていると、デザインがデザインとして意識されるようなデザインは、デザインとはいえないのではないかと、率直に思った。

良い商品ほど、商品とデザインは一体化している。と、過去のものを眺めていると思えてくる。つまり、生産者と消費者の距離を縮める機能を、良いデザインは持っている。

デザインの意味には、たくらみ、企て、陰謀、はかりごとなどの人為的、作為的意味の語句が含まれていると、辞書には書かれている。けれども、素晴らしいデザインほど、その人為性や作為性が目立たなくなり、デザインは作品や商品のなかに溶け込んで、必要不可欠の構成物のひとつとなっている。

そのデザインがなければ、その商品も成り立たないほど重要で、しかし実際に使われて真価を発揮するようなものがデザインなのだと思った。

展示のかたすみに、半透明のトレーシング・ペーパーに手書きの鉛筆で描かれたデザイン素描が出展されていた。ここには、あきらかに人為性があり、あふれるばかりの作為が存在すると思った。つまり、良いデザインというものの人為性や作為性があらわれるとすれば、このような生産過程でしか、現れないのではないかと思った。

2006/05/24

再び、喫茶店ネットワーク

昨日言い忘れたことがあった。

帰りにもうひとつ、喫茶店に寄った。京都に本店のある「イノダ・コーヒ」である。札幌の駅ビル大丸の7階にあって、駅前広場が一望の下にあり、大通りをずっと見通せる位置を占めている。

丸く曲線を描いた大窓が、赤い色調の部屋を明るく見せている。

何に興味があったかと言えば、京都の喫茶店が札幌に支店を持つ理由である。なぜ進出したかが知りたかったのだ。

結論は簡単である。じつは、札幌には、イノダのコーヒ店のような趣の喫茶店はないということである。

それは喫茶店に入るとすぐわかった。女性客を中心にして、観光客などがおしゃべりの長時間できる空間を、この喫茶店は提供している。

札幌の喫茶店は、ひとことで言えば、ワイルドなのである。京都の繊細な雰囲気とはまったく異なるのだ。

したがって、札幌では、ワイルド以外を求める客層にとって、「イノダのコーヒ」は絶対必要なのである。このコーヒ店は、札幌の喫茶店にはない趣味を狙うことで成功が保証されていた。

それからおそらく、もうひとつの理由がある。それは京都を本店として、支店群のネットワーク化という狙いである。ネットワーク消費という考え方があるが、その事例として、喫茶店のチェーン化を挙げることができる。そして、まさにこの「イノダのコーヒ」例は、その最も典型的な例である。京都のなかで根付いた喫茶店文化が、各地の喫茶店とつながることで、さらにコーヒー需要を多様に喚起することが可能である。

喫茶店がその地域に「強いネットワーク」を形成すると同時に、全国に支店を展開して、いわば「弱いネットワーク」を通じて、日本全体の喫茶店のネットワークをつないでいるのだ。

先日もコーヒーの話をさせていただいた帰りに、女性の学生の方から、次のような指摘を受けた。わたしは喫茶店には会話を楽しみに行くのであって、コーヒーを飲みには行きません。札幌では、このような線を「イノダ」は狙っている、あるいは自然とそういう風になった、ということがわかり、またまた喫茶店文化の奥の深さを実感した次第である。

2006/05/23

喫茶店のネットワーク

来週に迫った北大での現代GPフォーラムの実行委員会があるというので、札幌出張。会議は午後からだったので、午前中札幌の喫茶店を散策。

南3条西5丁目にある「カフェ・ランバン」にはいる。常連客と思われる、近所から来た風のジーンズ姿の客が新聞を広げて、カウンター付近に陣取っている。

長く続く喫茶店には、必ず常連客がついていて、その客が「強い絆」を保っている。このような固定層が存在しないと規模の広がりは期待できないし、伝統や神話による相乗効果が見られない。固定客の存在というのが喫茶店文化の鉄則である。ランバンには、この雰囲気が充分あった。

060523_103901入ると左側のところに、縦長の太い柱にガラスが入っており、骨太でシックな温室風のつくりになっていて、明るく落ち着いたテーブルが用意されている。

ここに腰を落ち着けて、時間までの間、本を読む。その間に、ちょうど朝から昼にかけて、常連が引いて、ビジネスの客が変わって入ってきた。時間帯によって、さまざまな客層をひきつけていることがわかる。

帰りによく見ると、入り口の横から二階に上れるようになっていた。このような奥深さも必要である。今度来たときには、二階に行ってみようか、と思わせるつくりになっている。

もちろん、コーヒーの味は、良かった。わたしの好みのものがあった。このことが抜けていたら、始まらない。

北大では、会議が終わった後、以前話をしたことがあるTさんが、わたしのコーヒー好きを覚えていて、美味しいコーヒーを淹れてくださった。豆を近所の「あらびか」という喫茶店から買っているそうである。

札幌には、このように常連を育てる喫茶店が多く、その喫茶店独特の文化の厚みを感じさせてくれる。喫茶店の持つ強いネットワークがコーヒー文化には不可欠だと、ここでも再認識した次第である。

2006/05/22

「出生率を上げる」と周りはどうなるか

今朝の朝日新聞に、「出生率の上がった村」ということで、長野県のS村が紹介されていた。

出生率を上げる特効薬はない、と言われ続けて久しいが、ついに画期的な方法が生み出されたのか、と一瞬思ってしまった。

記事によると、方法は二つである。ひとつは、「家賃の安い若者向けの村営住宅の建設」であり、もうひとつは、「中学3年生までの医療費の無料化」である。

これによって、隣の飯田市から移り住んだ家族が、子供を二人も産んだ事例を紹介していた。家賃は、飯田市より2万円も安いし、子育てに良い環境が用意されている、ということであった。

この結果、1995年に4千人に満たなかった村の人口が、2005年には4215人にまで増大したとのことである。

ここで注目したいのは、移住してきた新住民が多いという点である。つまり、1260世帯のうち、1割以上が村の外からきたひとであり、その結果人口増大が生じているのだ。

現状からみると、「出生率が上がった」原因は、従来から住んでいる人びとの出生率が上がったのでなく、外から移入した来た人たちの産んだ子供が出生率を押し上げたのだ。

このことは、出生率の上昇とよんで良いのだろうか、と考えてしまう。もし、住民を取られたほかの市町村が自覚して、競争してこのような家族政策を行うようになれば、全体として出生率は上昇することになるであろう。

けれども、一村が単独で住宅政策や、子育て政策を行ったとしても、ほかの市町村に住んでいる人が、単に移り住むだけで、それによるその村だけの人口増大が起こるだけである。

もっとも、これまでいくつかのシンクタンクが指摘してきたように、このS村の取り柄は、じつは歳出施策のほうではなく、むしろ「財源捻出」方法にある。たとえば、「住民自身による公共事業の実践」や「役場の職員削減」などで、S村は黒字経営となっているからである。

このような工夫全体が、新たな政策を行う動因となっているらしい。したがって、これらのリストラクチャリングを効率よく行った村として、評価されているのであればその通りだと思われる。

2006/05/21

Da Vinci Codeの関係

ダ・ヴィンチ・コードを息子と一緒に見てきた。

評判になっている「キリスト教の謎」や「ダ・ヴィンチ絵画の謎」もさることながら、「関係性」を問題とするものにとって、もっとも気になったのは、主人公二人の間に想定されている関係であった。

もし単なる推理小説であるならば、トム・ハンクス演じるR・ラングドンは、「探偵」という役どころであり、トトゥ演じるソフィーから仕事を依頼されて、事件に臨むということになる。

ところが、ラングドンは「象徴解釈」の研究者であり、最初の被害者であるルーブル館長からすでに依頼済みという設定になっている。したがって、主人公二人の間には、依頼人と代理人という意識は薄い。

それならば、推理小説の常套手段として、主人公二人を恋愛関係に陥れて、恋愛小説に持っていくという手があるが、最後まで二人には恋愛感情はない、むしろ友人関係とでもいえるようなチームワークを見せる。したがって、主人公二人には、恋愛の相手という意識も薄い。

最後まで明かされていないが、やはりソフィー対敵対者という関係がこの映画の基本的な構図であって、ラングドンは暗号解読という媒介者でしかないという設定だというのが正しい読み方ではないかと思う。

一緒に見た息子は変なところに関心を示していた。ラングドンが子供のころに井戸に落ちたことで閉所恐怖症にかかっているという設定なのだが、この設定が物語のなかでは効果を持っていたという。

そして、ラングドンの閉所恐怖症をソフィーがキリストの奇跡のごとくに治すのである。このことが、この映画のなかでの二人の関係を現わしていると思われる。

小説のほうをまだ読んでいないので、間違っているのかもしれないが、息子の考えから推理していくと、この二人の関係は、女王と騎士の間柄ということになる。

いずれにしても、一ひねりしてあるところが、妙に気になる映画であった。

2006/05/20

父親の死

早稲田大学のO先生のお父さんが5月13日に亡くなった。ご冥福をお祈りいたします。

かれのブログの愛読者として、お父さんとかれとの親密な関係にかなり共感するところがあっただけに、今後その関係を読むことができないのはたいへん残念である。

喪主の挨拶のなかで、

父は、いわゆる立身出世とは無縁な人生を送った人でしたが、人と人との絆に恵まれた幸せな人生を送った人であったことを、この度の葬儀を通して、十分にうかがい知ることができました。」

という言葉を使っている

じつはわたしの父の葬儀で、まさにこのことを感じたことがあったのだ。父のことだから、おおよそのことは知っていたつもりだったが、友人関係をはじめとする父の交遊ネットワークの存在を知ったのは、じつは葬儀のときであった。

その人がどんな人生を歩んできたのか、その人が他人と、どのような結びつきを形成してきたのか、そのことがほんとうに分かるのは、亡くなった後なのかもしれない。

2006/05/19

視線の過酷さ

電車のなかで、視線を感じて顔を向けると、窓に映った乗客だったりする場合がある。

面白いのは、右を向くと本物がいて、左を向くと窓に映った乗客がいるというところである。

このため、こちらを向いている人は、実際にはひとりのはずなのに、二人存在することになるのだ。二倍の視線を感じてしまう、という「過酷な」状況がある。

現実の社会での、人と人の結びつきもこれにかなり似ていると思われる。窓の代わりに、マスメディアや、インターネットが同様の効果を与えている。ひとりがふたりに見えてしまう状況は、このようにして社会の混雑さを増幅しているように思える。

2006/05/18

動物の「家族性」

放送大学生物学担当のM先生が、研究紹介の番組で、シロアリやゴキブリにも家族があるんです、とおっしゃっていた。

社会科学を学んでいる者にとって、動物における「家族性」とは何か、ということはたいへん興味ある問題である。早速、M先生のテキストをカンファレンス室から借りてきて読んでみた。

動物は群れることによって、あるいは集団を形成することによって、メリットが生ずるのだそうである。これは、人間社会でも説得力ある考えのひとつだ。

群れを作ることで、敵対する脅威からの防衛を図ったり、採餌に便利であったり、さらに生殖を行う上で一定規模の群れを必要としていたりすることが明らかになっている、ということらしい。人間の場合には、感情的な親密性がこれに加わってくることになる。

このようなところが、放送大学に居て良かったと思える点である。手元にあるテキストをさっと読みさえすれば、直ちにこのようなことが分かるのである。

さらに、このような核心的な問題もさることながら、つぎの問題への発展が可能であることが、放送大学テキスト群の強みである。

ほかの動物で「家族性」を示すものに、どのようなものがあるのか、と考えてみた。気になったら、すぐにテキストを探して開くべし。

すると、同じテキストのなかで、アホウドリ、アフリカゾウ、ペンギンなどが機能別に上がっているし、さらに、ほかの生物のテキストでは、ビーバーの家族について論じているのを読むことができた。

(話は飛ぶが、「ナルニア国物語」のビーバーの「家族」は、かなり人間に近いものとして描かれていたなあ。)

2006/05/17

「詐欺」という人間関係

今日は、犯罪に至るか至らないかのギリギリのところでの「詐欺」の手口について考えてみよう。日常での詐欺まがいの行為は、立派な「人と人を結びつけ」る方法だと思う。被害にあった当事者にとっては、あまり「立派」なものではないかもしれないが。

まず、AさんがBさんを誉める。Bさんは誉められたことで舞い上がってしまう。(これがよくひっかかるんだな。今日も、わたし自身、あやうくZさんの口車に乗せられてしまうところだった。)

すると、突然Aさんははしごをはずしてしまう。この錯誤の過程で、物品やら名誉やらわからないうちに失ってしまうのだ。Bさんはようやく騙されたことに気づく。この繰り返しである。

もしAさんがBさんを誉めた理由が正当なものであれば、Aさんがはしごをはずそうがどうしようが関係がないだろう。単に、聞いておけばそれで済む。このとき、もしはしごをはずしたとしてもAさんの人の悪さが際立つだけだ。このような人は、どこにも居るのであって、放っておけばよい。

もしBさんに誉められる理由がないのに、単におだてられて、言葉だけで舞い上がってしまうのであれば、Bさんは人が好いだけだということになる。Aさんは単に皮肉屋でしかない。

いずれにしても、Aさんの人の悪さと、Bさんの人の好さとは、どっちもどっちだ。ここで詐欺行為の社会的効用が明らかになる。つまり、人の悪さと、人の好さとを増幅させて際立たせるという役割である。

今日は、ちょっとシニカルだったかな。でも、身近なところどこででも見られる現象だと思いませんか。

2006/05/16

あいさつの言葉

「お精が出ますね」という言葉は、優しくていいですな。と、今日の話はF先生から始まった。

社会と経済のカンファレンス室に姿をあらわしたN先生が、F先生にこのあいさつの言葉を投げかけたのだ。

それを受けて、T先生が、関西では「儲かりまっか」で、商業的ですな、と応じた。N先生はここぞとばかりに、東北は勤勉ですから、と強調なさる。

そのあと、仕事の話があいさつの言葉になるのは、珍しいのではないか、という議論が起こった。一般論としては、当たり障りのない話があいさつの日常会話に使われる、というのが穏当なところだと思われる。

したがって、通常は、天気の話や、健康の話が選ばれるのではないか、とT先生。

ところが、ドイツでは、天気の話はいけません。天気の話をしていた先生は、お天気屋さんと呼ばれて蔑まれていましたよ。と、N先生が言う。

N先生は欧米諸国、とりわけドイツに学んでおり、あいさつの言葉の事情に詳しい。N先生説によれば、ドイツで大学のプロフェッサーは権威を未だに持っていて、軽々しいあいさつはしないのだという。

日本のどこかの大学のように、人をじろっと眺めておいて、あいさつを無視するようなことはしないけれども、当たり障りのない話題の雑談はしないのだということである。これにはすこし偏見があるかもしれないが、ドイツの人は、無駄のない生活、シンプルなあいさつを好みそうだ、という説はいかにも説得力があるように聞こえた。

2006/05/15

ホイトウ

ホイトウという中華の料理屋さんが放送大学の近くに あって、いつもランチを食べにいく。

店のなかは、天井がむき出しの倉庫風のつくりになっていて、内側の白壁が広くて、木の枠で作られた細長い窓が印象的な、開放感ある部屋になっている。

12時になると、近くの事務所の人びとや家族連が二、三人ずつテーブルを占めてしまう。もし行くならば、13時過ぎくらいが空いていて、お勧めの時間帯である。

そのころには、ディナーの下拵えが始まっている。シュシュと圧力釜の蒸気の音が聞こえたり、トントンと野菜を切る音がしたりして、静かな日常が流れている。

考えてみれば、ここに来る人たちには、共通の食趣味があって、集まってきているのだ。もちろん、はじめての客がいないわけではないが、大方は依然来て美味しかったと思った人が、通ってきている。このように、みんなが二度、三度来ても良いと思われる「美味しさ」というのは、易しいようでたいへん難しいのではないかと思われる。

見ていると、客の注文する料理はさまざまである。ときには、出来不出来があるだろうが、それでも押しなべて共通の味を提供しているから、常連客がついているのだと思う。

味が人と人を媒介する店である。

P.S. ホイトウとは、画像でわかるように、元来難しい「漢字」を書くのだが、この漢字がどこで使われたものなのか、今度調べてみたい。日本語の意味は、禅宗で僧堂以外で食事をすることと辞書には出ていて、「他人に食事を施すこと」「物乞いをすること」などが続いて載っている。そういえば、種田山頭火の俳句にも、この言葉が使われていたなあ。

2006/05/14

同窓会という「結びつき」

今日は、放送大学神奈川学習センター同窓会に招かれて、「なぜ日本人はコーヒーを好きになったのか?」というテーマで話をさせていただいた。

楽しく聴いてもらったと思ったのだが、いつもより質問がすくなかった。通常たくさん飛び出して終わるのに困るのだが、今日はひとりひとりが後から個別に質問をしてきた。あいさつを兼ねているのだとわかって、文字通り久々の古巣へ戻った感じがした。

興味深かったのは、同窓会でみんなが互いにどのような話をしているのか、ということであった。反語ではなく、何が楽しくて、同窓会に来るのか、ほんとうのところを知りたかった。おそらく、同窓会での「人と人の結びつき」は、かなり話の内容に依存しているのではないか、と考えたのである。

同窓会という関係はどのようなつながり方をしているのかは、その発端を考えればすぐ分かる。大学を中心とした友人関係である、ということははっきりしている。かつて勉強を一緒にしたり、サークルを一緒に運営したりという関係が、大学の4年間だけでなく、その後も10年、20年と続いたのである。

他にもあるようならば、教えていただきたいのだが、同窓会で談論されている話の内容をそれとなく観察させていただくと、どうも三つのタイプが有るようだ。

第一に、昔話をするタイプである。かつて結んだ強い絆をさらに強化したいという願望がある。初代会長の話から始まって、今日の会長まで、その足跡を辿ることは、そのまま自分の軌跡を辿ることでもあるのだ。鉄壁の強い組織を確認し合うということは大切である。

第二に、新しい話題を提供して、新たな人間関係を模索するタイプである。つまり、前回の同窓会から、今回の同窓会までの間に新たに経験したことを報告し合うのである。仕事の話がよく話題に上るが、これなどはこの分類にはいるだろう。もちろん、自分から売り込んで自慢するのもひとつの手だが、大抵は会話の文脈が合致したときに、さりげなく、それとなくひけらかすのが、こつである。ここで、その人の人柄があらわれてしまうのだ。

第三に、上記以外にも、話題が浮かび上がって来ることがある。やはり、ここが人間関係というものの不思議なところだが、個人というものには計り知れない深い問題が存在しているのだ。20年つき合ってもわからなかったことが、突然急に目の前に現れることが起こるのだ。その人の特別な才能の話で有るときもあるし、友人の人生の話である場合もある。折々に少しずつ見えてきたことが、急にひとつのことに繋がってくるという経験が、話のなかで分かってくる。

第一と第二は、大抵予想がつくが、第三のものだけは、いつそれが姿を現わすかはほんとうにわからない。しかし、このことが同窓会という集団が組織をなし、時間をかけて続いている、あるいは続けようとしている、真の理由なのではないかと思われる。信頼性のある関係でないと、現れないことはあるのだと思う。

個人の心の奥底に存在する話題などというものは、時間をかけたつき合いのなかでしか伝えようと思わないし、伝わるとも思えない。あまり親密ではないが、しかし親しい関係の間柄としてこのような話題を話せるというのが、同窓会というところの良い点だと思う。(ちょっと微妙な言い方だが。)

別れるときには、ふたたびまた会えるという保証はない。けれども、依然として親しい関係なのである。今日も、最後の飲み会が終わり、街角で手を振って別れるときには、たとえ遠くに離れて住んでいようとも、途絶えることのない時間のなかでのつき合いというものがあって、それが話のなかで実現するという体験を改めて知ったことに、感謝した次第である。

2006/05/12

都市との結びつき

先日、ラジオ番組「コーヒー消費と日本人」の打ち上げ会について書いたが、その時参加していたディレクターのOさんから、彼のブログを知らせてきた。

http://d.hatena.ne.jp/argentina78/

写真中心のブログだ。わたしのブログと比べるのも失礼かもしれないが、わたしのところ以上に多くを物語っている。

ときどき思いを馳せるときがある。個人が都市と直接結びつくのは、どのような時なのかと。

おそらく、彼の写真群は、かなりその直接のイメージを実現しているように思える。言葉を通じて、都市との結びつきを見るためには、コミュニティや人びとの集まりなどが必要だ。かなり間接的なのだ。けれども、写真は街全体と写す人とを直接に繋げてしまう。

懐かしい映画「フェリー二のローマ」を思い出した。つい先日、テレビで再映されていた。あのなかでは、カメラマンが街を動いていって、たとえば「ローマこそ終末までのときを楽しむ都だよ」とさりげなく言わせてしまう。

写真や映像の虚構性が、直接・間接に人を都市に結びつけてしまう、そんな瞬間のあることを信じている。

2006/05/11

授業の継続性とはなにか?

放送大学の社会と経済カンファレンス室には、Aさんがいて、「社交の集まり」がいつも継続されている。ほんとうの意味での「サロン」が成り立っている希有な場所だと思っている。

今日もコーヒーを淹れたというので、みんなが集まって談話に興じていた。

F先生は、いくつもの大学を経験なさって来たベテランの先生だが、「ほかの大学では学生が、だいぶ変わってきました」という。

とくに、先生と学生の関係が変質してきたのだとおっしゃる。大学では、毎週、講義を行って、学生は継続して授業に出て、総体として講義を理解するのが、一応当り前である。

ある日、F先生のところにメールが届いたそうである。いわく「先週はどのような話をしたのでしょうか。」何とコメントしてよいのかわからないほど、すごいと思う。

最近の学生は「まじめ」であるという定説がある。そのまじめさは、まじめさを通り越してむしろ残酷でさえある。日本人の働き過ぎが社会全体を破壊する場合もあるように、学生の「まじめ」は大学をも破壊するかもしれない。

彼には、友達がいないのだろうか。先日、わたしの愛読しているブログの著者であるW大学の先生のところでも、先生の顔を知らずに、違うゼミに出ていて、最後のコンパにまでついてきて、ようやく間違いがわかった、という学生がいたことを報告していた。先生と話す前に、なすすべがあるだろうと思う。

さて、さきほどのF先生がメールを受けて、どのような対応をしたのかは、ご想像にお任せしよう。

2006/05/10

クルドとスイスと信州

またまた中東研究のTK先生が、クルドとスイスと信州の共通点は何か?という難問を投げかけてきた。

わかりますか?

そう、山国ということです。TK先生は、さらに「それぞれ身内で固まっていて、何とか根性が染み付いて、したたか」と付け加えたが、そのあたりは主観的な感想が含まれると見ておいたほうがよいかもしれない。

そこで話が展開し始めた。開発経済学者のTY先生が盆地(村)の効用を説いた。盆地では、一体感を醸成して、例のソーシャル・キャピタルを強くもつんだよね、とTK先生に応じた。

信州の盆地は?とわたしに話が回ってきたので、盆地のソーシャル・キャピタルには二種類あって、盆地内の強いソーシャルネットワークを形成するものと、盆地間で生ずる弱いソーシャルネットワークを形成するものとあると思うと言う。

そこで先日話に出た、古いネットワークと新しいネットワークの話が再び出て、話がそこに回帰していった。おそらく新しいネットワークが形成されて、このなかで商業ルールなどが形成されることが、信州の近代化のなかで起こったのではないかと、TY先生が締めくくった。

当分、この話題は使える、というのが、みんなの一致した感覚であった。

2006/05/09

希望と人びとの結びつき

東大の社研にいるNさんから著書『希望学』が送られてきた。新書版で、一気に読ませる。

物資主義に飽きた日本社会の現状を切り取る枠組みという観点から見ると、この社研の希望学プロジェクトは、大変興味深いこころみだと思う。

この本の一章で、Nさんは、家族の期待や友人との結びつきが希望の要素としてはたらくことを調査分析から明らかにしている。たしかに、希望は本人だけでは不確定だし、作ってもむなしい事になる。たとえ社会のなかで挫折し、絶望が起こっても、最終的に希望に結びつけるところに、人間の奥深いところがあると言える。

たぶん、希望学プロジェクト内部では、いつでも使われていると思われるギャグで締めくくろうと思う。

「希望学プロジェクトだけが、唯一の希望だ」となったら、その社会はお仕舞いだ。

2006/05/08

プロ仕様とは?

プロフェッショナルとは?という番組が流行っているが、わたしの印象からすれば、プロとはやはりそれらしいモノを持っていて、それに考え方が染みついているような人だな。

プロ仕様というといかにもプロが標準化されているようで安っぽく聞えてしまうが、実際のところ、プロ仕様のモノというのは手作りが基本だと思う。

自分で工夫して使っているというモノがなければ始まらない。

さて、前置きが長くなってしまったが、大学で講義をしていて、黒板がいつもきれいなのには驚かされる。

大学には、黒板拭き専門の職人がはたらいていて、大学の中でもっとも忙しい部門なのだ。

何しろ、5分から10分しかない休み時間のうちに、大学にあるすべての講義室の黒板を、毎時間ごとにきれいにして回らなければならないからである。

その数を考えただけで気が遠くなるほどである。

そこで登場するのが、それぞれの人が工夫したお手製の「黒板拭き」なのである。それは異常に長く作られていて、一度黒板を往復するだけで、すべての白墨の痕跡をぬぐい取ってしまうという代物なのだ。

このようなプロ仕様の「黒板拭き」のことを知らなかったときに、これが欲しくてどこで売っているんですか、と尋ねたことがあったが、笑われてしまった。

今日、プレゼンテーションソフト流行りで、黒板が使われない傾向もあるが、やはりその場で白墨をたたきつけて字を書いていく快感にはかなわない。学生を真に惹きつけたかったならば、たとえ字が下手でも、黒板を使うべし。

そして、プロの黒板拭き職人のご厄介になろう。

2006/05/07

長期の問題と景気循環論

連休の最後に、人間が未来永劫どのような社会に行き着くのかを考えるのは相応しい気がする。心の余裕が出来、気分が大きく膨らんだところで、ずっとずっと未来に何が起こるのかと考えるのはよいことであり、たまには必要である。

100年周期でなにが起こるのか、もっと飛んで、千年周期で何が起こるのかを考えることはたいへん興味深い。

放送大学大学院の修了生で、現在東京経済大学で博士論文に挑んでいるF氏から、東京経大学会誌に載った「景気循環論の未決問題-加藤雅教授の遺したものは何か-」という読解論文が送られてきた。

やはり、景気循環論でも面白いのは、断然「長期」の問題である。ケインズは、長期は不確実だとして語らなかった、と言われているが、わからないからこそ面白いとも言える。

この論文でも、長期波動論に力を入れていた加藤氏の業績に注目している。なかでも、とくに「コンドラチェフ波動」には興味がある。ある時、科学や経済や政治や文化などの歴史が文字どおり「同期」してしまうことがあるのだ。

第1波が産業革命の軽工業期、第2波が重工業期、第3波が電気産業、第4波が石油と自動車、大量生産の時代であり、第5波がIT革命である、という説も紹介されている。

問題は、なぜ周期を描いて、ある時諸々の要因がすべて同期を起こすのか、という点である。黒点説のように、まったく外部要因で説明する方法もあるが、やはり追求してもらいたいのは、内部的説明である。

制度という習慣の積み重ねに転換が起こるには、長期の時間が必要であり、そのことで多くの人間が正当・不当にも動かされる羽目に陥ることがある。

今の社会で起こっている家族・企業・政府・コミュニティの変動は、まさに長期の問題を受け持っている。景気循環論が手薄なのは、やはり企業・産業サイドの議論が大きな位置を占めすぎている点である。それは内側・内部の説明の半分でしかない。

周期を描くのは、やはりあまり高い値を示す場合には、もっと低くという判断が社会の内部に存在するからだと思う。周期性の説明には、もっと社会の隠された重要なものを動員しなければ問題は解けないのではないかと思う。

技術革新説は有力な説だが、長期には、それが人びとによって受容されることがなければ、高みに到達することもなかったことを忘れてはいけないと思う。個別に見ていくとバラバラに動いているように見えて、じつは全体としては、ある時にすすっと周期的にみて、同期を行う時期になっている。

この辺の社会意識の変化がうまく解ければ面白いのだが・・・。現実はつねにもっと先をいっている。

2006/05/05

マーケットは楽しい

マーケットは楽しい。人が集まるところが微笑ましいし、人を見ないふりしてしっかり見ているところが可笑しい。

マーケットは取引の場だと授業では教えているが、それはフォーマルな眼で見た場合だ。

妻があの人は近所の誰々さんですよと教えてくれる。こんなに沢山いる中で、日頃あえない人と偶然会うのは愉快である。

いつもは無愛想な奥さんが、喜々として、小さなリュックを背負って、手を振って歩いていた。ドーナッツ屋さんへ向かっている。

10年ほど前に奥さんを亡くした旦那さんが、目深に帽子をかぶって本屋へ入っていった。

お嫁さんと姑さんがキャリアに買い物を山ほど積んで運んでいる。二家族用なのでしょうか。

手入れの行き届いた庭を持っている奥さんは、さすがに花屋さんをちらっと眺めただけで、すぐ通りすぎていく。

往きに旦那と会い、帰りに奥さんと会う。何か買い忘れたものがあるのだろうか。余計なお世話か・・・。

小さな子供の時から知っている家の若者が、杖をついて歩いているのと遭った。仕事で怪我をしたのだろうか。

帰りに、道の上から覆い被さってきている白い花が綺麗だった。

近代が形式化の過程で、経済学の教科書から放擲してしまった楽しさが、マーケットにはまだまだ残っている。

人の集まる理由のひとつが、そこにある。

2006/05/04

消費社会の健康意識

連休になって、家にずっといると足腰がすぐ痛くなってくる。いつもは意識することのない「健康」についてついつい考えてしまう。

ちょうどタイミング良く、セゾン消費社会研究会で一緒だった弘前学院大学のF君が健康観に関する論文を贈ってくれた。近年健康ブームと言われるくらい、「健康」への関心が高まっているが、社会の動きとどのような関係にあるのだろうか、というのがF君の問題意識だ。

著書『静かなる革命』で有名なイングルハートによれば、各国の価値観比較調査を行った結果、「高いレベルの脱物質主義の傾向を示す国民は、自分たちを『健康』と評価する」傾向を見せると指摘されている。ここで脱物質主義志向とは、「物の豊かさより心の豊かさやゆとりのある生活を重視する」傾向であるが、調査結果の人びとの主観的要因からみると、生活の豊かな国民は自分が健康であると考えている人が多いということがわかる。

F君の調査でもこの点は確かめられているが、それに加えて、さらに脱物質主義的傾向を示す人びとは、「野菜を多く食べる」「栄養のバランスを考えて食事をする」「食物繊維をとるようにする」「自然食品や有機野菜、無農薬野菜を食べる」などの食物摂取バランスを考える傾向を見せるし、また「充分な睡眠をとる」「規則正しい生活をする」「ストレスをためないようにする」などの正常な日常生活への意識も高いとする。

本来の脱物質主義的な傾向からすれば、もっと積極的な健康法を実践するタイプが多いようにも思われる。たとえば、ビタミン剤や栄養食品を摂ったり、スポーツをしたりウォーキングを行ったりするようなタイプである。

ところが、F君の調査で興味深い点は、このような積極的な健康法よりも、むしろバランスを考えるような穏やかな健康法のほうを、脱物質主義的な傾向の人びとはとるということである。

もちろん、国民性の違いや消費社会の枠組みの相違など、まだまだ複雑な要因が関係していると思われるので、安易な結論を出すことはできないが、健康ブームの基底には、消費社会のゆくえを揺るがすような根本的な変容が存在すると見ることができるかもしれない。

さて、消費社会の健康観への見通しは立ったが、自分の健康についてはまったくわからない。積極的・消極的健康法を含めて何も行っていないので、依然として暗澹たる日が続くのではないだろうか。

2006/05/03

柔軟な組織と過労死

N先生と労働についてのラジオ番組を制作することになってしまった。

勉強のためいくつかの文献を読み進むうちに、今日は久しぶりに目を開かれるような書物に出会った。大野正和『過労死・過労自殺の心理と職場』である。結論については異論はあるが、途中で述べられている内容と論理には説得力がある。

1980年代から、労働の現場では、柔軟性が追求されたり、成果主義が採用されたりして、職場が変化してきている。その典型的な現象のひとつとして、「過労死」問題が起こっているのだという。

もちろん、この説明と結論に至るまでには、多くの論証が行われており、それは実際に原本に当たっていただくことにして、今日のところは、その根本的なところの指摘を見ておきたい。

多くの視点が上がっている中で、もっとも注目したのは、職場で「どこで自分の仕事が終わり他人の仕事が始まるかがはっきりしない」という点である。日本の企業では、人的な要素を重視し、集団で職場を維持してきた。この結果、職務の境界が曖昧なままで運営されてきている。

このことは、「日本的経営」が維持され、職場の助け合いや気配りがうまくはたらく場面ではメリットであったが、現在ではデメリットとしてはたらいているとする。むしろ日本的経営の規範をまだ持っていて、「まじめで、几帳面、責任感が強い」人であるほど、そのひとりの人に仕事の負担が集中し、しかもそこから逃げ出すことが不可能である場合、過労死・過労自殺に至る可能性が高くなる。

つまり、制度の転換に、人間の転換が付いていけないことが病理現象を生み出しているという指摘である。

予想できることは、二つである。ひとつは、個人が職務区分を明確化させ、曖昧な仕事分担を廃止させることである。もうひとつは、制度の方を人間に近づけることであろう。けれども、これらの方法はこれまでメリットとしてはたらいていた「日本的経営」システムを転換させることを意味する。

日本人は、個人の変化に合わせて、制度を作りかえることが上手いとされてきた。今回もその手腕が問われている。

2006/05/02

巨大な支配力

F君は、通信社に勤めて、世界の動きを察知し縦横に報告している友人である。いつも書物の世界に閉じこもっているわたしに比べ、数倍の情報量を持っている。

かれの最新作は、米国小売業「ウォルマート」に関する解説論文で、先日郵送されてきた。

それによると、「ウォルマート」が同業の「ターゲット」の追い上げにあって、苦戦しているということである。

何が危機なのかといえば、収益の上がらないところにまで規模を拡大してきたところにある。これまでは、その支配力にものを言わせて、収益の上がらないところでも相手の譲歩を引き出し、利益を向上させてきた。

けれども、やはり価格のみの効率性追求戦略には限界があるということらしい。個性的な販売戦略をとれないところで、収益を下げているというのが結論である。つまり、低価格商品と高級商品への消費の二極化が進み、この状況への対応が出来なかったということである。

最近、日本でもイトーヨーカ堂が価格の高い商品に挑んで、積極的に消費の二極化対策を講じている。

このような動きは、一部で見られるのではなく、今や米国を超えて、世界的な反応となってわれわれに影響を与えているのだ。物を媒介とする世界でも、目に見えずとも、急激な変化が起こっているのだ。

2006/05/01

世代間のつながり

今日は神奈川大学で講義。

帰りに、昨年度わたしの講義を採った、同年配と思われる学生が話しかけてきた。かれは文章作りに慣れているので、昨年度の試験でも優秀な成績を修めた。最近は、どの大学でも、このように社会人が多く聴講に来ている。

問題は大学での教師と学生間の「世代の問題」である。社会人の学生は、世代の同じであるわたしと話しやすいらしい。ここでは、かつて起きることのなかった問題が生じている。

世代が認識されるようになると、その社会は危機である、と哲学者オルテガは言ったことがある。たしかに世代間に問題が生じていて、この問題を解決するために、世代を超えた対話が生じなければ、その社会は末期的な症状を見せていることになる。

もしかれがほかの世代とのコミュニケーションがとれないためにわたしに話しかけてきたのであれば、かなり問題である。

その意味では、世代を超えた入学者のいる大学は、時代の危機をそれなりに反映している大学であり、一歩踏み出している。問題をあぶり出しているだけでも、社会に貢献している。

けれども、世代間のコミュニケーションがないと言うことは、社会の分断現象を反映しているのであり、現代の「危機」を表していると言ってよいだろう。今日見られる多くの問題のなかで、失業やニートなどの問題が若年層でおこっており、世代問題として認識されるようになっている。

もっとも、今日会ったかれの場合は、杞憂である。いつも若い学生と話しているし、相談にも乗ってあげているらしい。世代をやすやすと超えている。娘たちの世代とのコミュニケーションに難を感じているわたしにとって、羨ましいかぎりである。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。