2017/03/26

「正岡子規」展を観る

Img_6703 冷たい雨が降っている。関内駅で地下鉄を降り、横浜スタジオの横を通り抜け、フランス山の急な階段を駆け上って、いつもの風車の脇をすり抜けて、港の見える丘公園に出る。Img_6708 お花畑を横目で見ながら、霧笛橋を渡ってお話の世界へ入っていく。F氏と神奈川県立近代文学館で開かれている「正岡子規」展を観る。

 

Img_6713 先日、上野の「正岡子規球場」の話を書いたところだが、なぜ正岡子規が野球殿堂入りしているのかといえば、この「野球」という言葉を編み出したのが、子規だからだそうだ。幼名が「のぼる」というところから、「ノボール」という言葉になり、「野球」となったのだ。ほんとかなと思ってしまうほどのユーモアだ。ちなみに、ベースボールの中国訳は、F氏によれば「塁球」なので、直訳なのだが、日本では違うのだ。Img_6717_2 このような駄洒落めいたところが随所に正岡子規には見られる。とりわけ、夏目漱石との間で、笑いの掛け合いをしているところがたいへん面白かった。子規の批評を偽名で行っていて、その名前が「平凸凹(たいらのでこぼこ)」という名称を使っていたりする。このユーモア抜きに子規周辺を理解できないことを知る。

 

Img_6715 子規の若い頃の考え方で、ズバッと書いていて素晴らしいなと思えるのが、学問の中核にある「好奇心」についての記述であった。展覧会では、22歳の時の『水戸紀行』を引用していた。「好奇心といふことは強く遠く遊びて未だ知らざるの山水を見るは未だ知らざるの書物を讀むが如く面白く思ひしかば」と記されている。好奇心とは「強く遠く遊ぶ」ことである、というのは、素敵な言い方だと思う。Img_6711 好奇心では、「強く遊ぶ」ことと、「遠く遊ぶ」ことの両方が必要なのだ。強く遊ぶというのは、遊びに夢中になるという性質をよく捉えているが、さらに遠く遊ぶということがもっと重要なのだと思われる。日常から離れて、専門から離れて、中心から離れて、周辺から遊ぶ中で、好奇心は育まれることを説いていて、「うん、なるほど」と思ったのだった。経済学者ヴェブレンの言葉に、「怠惰なる好奇心」という言葉があるが、「遠く遊ぶ」というのは、この系列に属する考え方だと思った。

 

Img_6719 F氏は盛んに、子規と漱石との関係に興味を持っていた。展覧会には、第1高等学校時代の成績表が出展されていて、子規の同級生に漱石や南方熊楠や山田美妙が並んでいた。展覧会の解説者による説明文によると、漱石がアイディアを重視したのに対して、子規はレトリックを重視したと記していた。小説家は新しい話を作ることに秀でるのだが、俳句はレトリックの問題が重要であるというのはわかる話だ。Img_6720 もっとも、おそらくこれは相対的な話であって、それぞれ相互に影響を与えあっていたのだと思われる。漢文による書に対して、漢文による批評を返していて、当時の高等学校生の教養の深さを知った。また、有名な話では、子規の「柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺」という句は、漱石の「鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺」の影響を受けたということもあり、この証拠となる高浜虚子の手紙も公開されていた。

 

Img_6726 外は依然として寒空が広がっていて、雨が冷たい。山手111番館の横を通り抜けて、外人墓地へ出る。明治期の水道施設の樹々が鬱蒼とした公園を抜けて、元町商店街の裏通りへ出る。Img_6733 娘といつも行っていた喫茶店が移転していて、無くなっていたので、ランチは日本茶と豆腐料理の店「茶倉」へ入る。人気店らしくて、しばし待ってから、席に着いたが、ゆったりと食事できる店だったので、手足が冷たくなっていたのが、豆腐ハンバーグと抹茶とで、ようやく暖かくなったのだ。

 

Img_6745 日曜日なので、観光客の多い中華街は垂直に通り抜けて、本町通の裏街を歩く。ここには幕末期の居留地跡がいくつか残っている。もっとも、この地面の下には、レンガ遺構などが埋まっているので、地表に現れているほんの少しのものを見ることができる。Img_6739 西洋商事館の建物のレンガや、松代藩佐久間象山の大砲、さらに居留地での日本初の近代的消防団跡などを見ることができる。Img_6766 そして、最終的には、F氏がジャーナリストだったこととは無関係だとは思われるが、いくつかの候補の喫茶店の中から、フレンチ料理のアルテリーベが1階に入っているビルの新聞博物館二階のクラシックな喫茶店に腰を落ち着かせる。Img_6769Img_6772 窓はすっかり水滴で真っ白になっていて、当分の間外には出たく無いほどだったので、老人二人はおしゃべりに精を出したのだったのだ。Img_6774Img_6780

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2017/03/22

映画「La・La・Land」を観る

Lalaland LaLaLandとは、カリフォルニア(LA)のように、有りえないような国のことだ。この映画はアカデミー賞の作品賞発表の時にトラブルがあったことで有名なのだが、これで有名になったと言われないようにするのはたいへんだと思う。けれども、それを超えたものを十分に持っていれば、恐るに足らない。ララランドにとって、恐るに足らないこととはなんだったのだろうか

 

ふつう感動して泣く時にはそれなりの理由がある。もちろん、涙は思わずでてしまうものなのだが、あとで考えれば、ふつうは理由があるのが当然だ。けれども、今回のララランドの場合には、これといった理由なく、感性に訴えてくるものがある。ところが、じつにその感性に訴えてくる理由というものがよくわからないところにあるのだ。もちろん、歳をとって涙腺が緩んでいるということもあるのだが、やはりそれとは違う理由だと思われるのだ。

 

そのヒントは冒頭の高速道路上の集団ダンスに隠されている。このダンス「Another Day of Sun」は、いかにもLaLaLand的なのだ。このダンスを見ると、やはり「なぜ」と思ってしまうところがあるのだ。自分の自動車の中に、道路混雑で隔離されていて、互いにイライラしている人びとが、急に道路に飛び出してきて、みんな愉快に楽しくダンスを始めるのだった。社会科学的にいうならば、最もありそうにない想定から、この映画は始まる。近代社会の象徴たる高速道路という状況のなかで、コミュニティ的なパーティがありうるはずがない。個人から、直結的に社会が現れるという想定は、最も社会学者が忌み嫌う想定なのだ。それでは、みんなが「そんなことはありえないよな」というシーンからなぜララランドは始まるのだろうか。ここにララランドの映画たる、所以があるといえるのだ。

 

つまり、この映画は、映画の筋で泣かせるのではなく、最も感性にちかいところで泣かせているのだ。個人が人と出会って、恋をして、仕事をして、そして別れを迎える。この筋が重要ではなく、この感性の落差が観る人の感性へ訴えかけるところがあるのだ。

 

このプロセスが重要であるというところが、どこで出てくるのかといえば、それはかなり後の方なのだ。女性主人公がすべてのオーディションに失敗し、これで最後だというときになって、最も自分の得意なところが発揮されるという筋書きなのだ。パリでの叔母さんとのことを自身の創作・想像の語りで表現させられる。このような特殊なところで、仕事との結びつきが現れてくるのだった。これまでの苦労がなければ、それまでの人と人の結びつきがなければ、このシーンはありえないところだ。このあとの主人公たちの別れの演出については、またひと工夫があって面白いところだが、それは観てのお楽しみだ。

 

Photo ということで、このララランドという映画は、ミュージカル映画の単純さを利用して、理性的な筋展開を逆転させ、感性的な落差を利用して、観客を泣かせる映画として、現代的な新しさがある映画なのだと思ったのだ。

2017/03/21

東海道と中山道の追分を歩く

Img_6514 朝早くに新幹線で、大阪の伊丹市へ出張。昨年から、4人の先生方の協力で、授業番組「農山村と都市における身近な経済」というラジオ科目を作っている。社会科学では、現在「地域」とは何か、という趣旨の研究が目白押しなのだ。放送大学では、退任された経済学のH先生が「比較地域研究」にみんなで参加しようということで、10年ほど前に「比較地域研究センター」を設けてきている。H先生のもとで、これまで修士課程の経済分野の研究指導を担当なさってきた、I先生、A先生、S先生に、わたしを加えて、今回この科目を企画したのだった。

 

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今年の2月には、ほぼ原稿が出揃って、今日は放送教材収録の相談を行うために集まることになった。ところが、日程調整を行なってみると、4人の先生があうような日は皆無に等しいことがわかった。島根からのI先生、大阪からはA先生、熊本からはS先生に、横浜のわたしなので、そう簡単に日程調整が成り立つわけではないのだ。それで、短時間でも良いから、また先生によっては日帰りでも良いからということで集まってもらったのだ。だから、一番日程がキツかった島根のI先生の飛行機時間に合わせて、伊丹空港近くの貸し会議室を借りることになった。また、これに合わせて、一昨年「音を追究する」でお世話になったKディレクターも千葉から駆けつけてきてくださった。

 

Img_6518 相談は順調に進み、メールでは互いに誤解していたような事柄も解くことができ、どうにか全体の調整がつき、次の段階に進むことができたのだった。それにしても、伊丹市という地域の外面的な印象は、ちょっと変わっている。交通通過都市だということだと思われる。Img_6517_3 空港、二つの鉄道、それに会議室やホール、ビジネスビルなどの箱物はたくさんあり、中心を宝塚へ伸びる幹線道路が縦断していて、街の全般に余裕がある。ゆったりとした再開発が行われているところだという印象だった。これまで、あまり経験したことのない、不思議な街のイメージだったのだ。

 

Img_6497_2 さて、半日の自由時間ができたので、横浜へ帰るまでの間、以前から行ってみたかった宿場町の草津宿へ、新快速へ乗っていく。この滋賀の草津で、東海道と中山道が合流する。このような特別な宿場として、江戸時代に発達したのだ。まずは、問題の道標を見る。いくつかのバリエーションがあって、一番有名なのは19世紀のものだが、街道沿いの神社には17世紀のものもあるのだ。また、近代になっても新しい道標が作られており、草津はここ数世紀に渡って、交通の要所を占めてきた場所なのだ。Img_6520 本陣が素晴らしい。草津には、二つの本陣と脇本陣とが存在しており、現在一つの田中家本陣が残されていて、一般公開されている。とりわけ、大福帳には泊まり客が記されており、本陣であるから、公家と大名ということになるのだが、幕末になると、新撰組なども宿泊していた記録がある。また、宿特有の「関札」が大量に残されていて、これを掲げることで、「見せびらかしの消費」が行われたのだな、ということがよくわかる象徴的な歴史資産だ。

 

Img_6531 本陣の構造については、群馬の大庄屋の子孫であるK先生から知識を得ているので、その視線でみていくと、なんなくわかってくる。中世の上下関係を建物の構造に取り入れていて、玄関を入って、次の間、畳廊下、脇の部屋、そして最後は上段の間へ向かって、Img_6533 少しずつ敷居が高くなっていくという建物構造を持っている。この草津の本陣でも、見事にそのように作られている。そして、上段の間の奥に、位の高い人の雪隠と湯殿が作られているのだった。

 

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Img_6565 草津宿の並びにモダンな交流会館が建っていて、もちろん展示されている模型や物的な標本は面白いのだが、わたしが注目したのは、じつは資料室だった。玄関横に作られていて、現在はそれほど重要ではないかのように、傍に追いやられているという印象だった。けれども、いざ一冊一冊みていくと、なかなか魅力的な資料が集められていることがわかってきた。Img_6568 全部紹介するわけにはいかないのだが、じつは先日群馬合宿の時に書いた、いわゆる「中央用水」構造の宿場町をみていくのに最適の資料が揃っていたのだ。さすが東海道と中山道の合流地点だけのことがある。東海道では、あまり目立たないのだが、中山道には2、3例が見つかったのだ。H先生の喜ぶ顔が目に浮かぶのだった。

 

Img_6614 この収穫だけでも、心はウキウキしてきてしまった。やはり、このような時には、心落ち着く喫茶店で、獲得した知識を反芻しながら、最後はサードプレイス的効用を一人で楽しむべきだろう。Img_6607 山科で電車をおり、地下鉄で京都へ戻って、いつもの喫茶店「Kosci」で玉ねぎのポタージュとパン、そして、珈琲を頼んだ。長かった今日の散策を思い返したのだった。帰りの新幹線では、このコチで購入した「キッシュ」と「くるみとはちみつパン」を食べ、収穫多い出張を終えたのだった。Img_6633

2017/03/20

神保町で研究指導

Img_6480 松江に住む修士課程の学生の方から、仕事での研究会が東京であり出張してくるから、そのついでに会えないかと連絡が来た。彼女はたいへん仕事が忙しい人で、いつもはインターネットを通じて、ゼミに参加することになっていたのだが、このところ上手く繋がらないこともあって、連絡が途絶えがちになっていて、心配していたのだった。ちょうど、春休みになって、こちらの仕事も一段落してきたので、東京の出張先に近いところで会おうということになったのだ。

 

Img_6469 出張先はどこかと聞くと、どうやら文京区のT大だということがわかったので、東京文京学習センターで会うのがよいなと考えていたのだ。ところが、約束の日が320日だということになり、祝日の代替日でセンターはお休みだということになっていた。Img_6470 長居できる場所が必要だということから、それでは、ということで、神保町の喫茶店でどうかということになったのだ。ところがということなのだが、じつはここもやはり、この日ばかりはお休みの店が多くて、いつも行く静かな喫茶店ラドリオもだめだった。それで、ラドリオの向かいの、初めて行くミロンガという店でと約束をしていた。

 

Img_6473 ところが実際、ミロンガに着いてみると、他の店がお休みだということを受けて、やはり、満席で研究指導を行うどころではないのだった。それで、入るのをあきらめて、横丁を出たところのビル地下にある、自家焙煎の喫茶店「伯刺西爾(ブラジル)」へ降りて行く。Img_6477 ここも満員なのはわかっていたのだが、ちょっとまてば、良い席が空くこともわかっていたので、入り口付近でプリントを広げながら、話して待つこと10分、案の定一番奥の話しやすい最適の席をとれたのだった。

 

Img_6475 修士論文の内容は、まだ途中なので、ここで言うことはできないのだが、全体的な筋展開であれば、影響はないだろう。社会人研究者特有の現代的なテーマで、独自の社会調査を行うというので、出来上がれば興味のつきないものとなるであろう。今日のところは仮説と因果関係のおおよそのところをきいておいて、調査が上がってきたら詰めようということになったのだ。Img_6474_3 ただ、興味津々のところだったので、雑多などうでもよい知識をたくさん吹聴してしまったのは悪かったと反省している次第なのだ。でも、たとえ修士論文であっても、面白くなければ書く意味がうすれるだろう。ここが肝心だと思う。

 

Img_6481 この神保町という街の健全で人を惹きつけるところは、このようなむかしからの店が残って集積が素晴らしいから、十分にアマゾンやブックオフへ対抗できる力をもっている点であろう。Tさんとはここでお別れして、わたしは仕事が残っている幕張へ取って返して、4月から始まる授業の準備に余念がなかったのだ。まだまだ、春休み中も、旅する人を続けなければならない運命にあるようだ。

 

 

2017/03/16

授業番組制作の打ち上げ

Img_6438 今年の打ち上げ会はなぜか東京駅近辺が多い、と言っても、二つだけなので、それほど極端に多くあったわけではないのだが。両方の会ともに、たいへん楽しい会だったので、やはり記して記憶に留めておきたいと思ったのだった。一つは3月14日に飲み会が行われた。授業番組「音を追究する」のみなさんが集まった。こちらは昨年度完成しているので、今回は試験問題完了祝いおよび問題作成催促の会という趣向だ。O先生とS先生が主任講師を勤めていて、今回の飲み会でもコーディネーターで走り回ってくださった。

 

Img_6437 東京駅八重洲口の高島屋へ通ずる飲み屋街にあるイタリアンの一軒だ。この番組の担当講師を務めてくださった藝大の録音学K先生、聖徳大の音楽学T先生、それからゲスト出演の日本語学のT先生と心理学のH先生、それにKディレクターと録音技師のOさん、さらに物理学のK先生、主任講師のコミュニケーション学のO先生と臨床心理学のS先生、全部で10名の方々が集まった。じつは部屋のたいへん狭いところで、袖すり合う、近接したコミュニケーションをとるためには最適な部屋だった。その分、内容も濃密なコミュニケーションとなったのだ。

 

Img_6445 もう一つは、二日後に開かれた「日本語アカデミックライティング」の打ち上げで、T先生がコーディネートしてくださった。T先生とは、14日の「音を追究する」の会でも一緒だったので、今期2回目だ。もう一人の主任講師の経済史学K先生と、さらに天文学のY先生、ディレクターのOさん、教育社会学のI先生が出席した。この店も八重洲口に近いところにあるのだが、八重洲ブックセンターの裏に当たるビジネス街の一角にある店で、仕事の帰りに仲間とおしゃべりしながら、夕食をとることを想定された店だった。けれども、14日の店と比べると、周りが静かで、その分高級な雰囲気があった。

 

Img_6441 印象に残ったお話はたくさんあったのだけれども、K先生のケインズの話は特別だった。英国留学当時に、メーナードの甥にあたるジョフリー・ケインズと親交があったそうだ。わたしも番組を作る時に、ケインズの映像をいくつか集めていて、本人の映像はニュース映画などで手に入れていたのだが、そのほかには、やはりこのジョフリー・ケインズがメーナードの生前の思い出を語っているのをみた記憶があるのだ。ケインズがブルームズベリー・グループの人びとと行った会話については、会話や手紙類が残されていて、じっくりと話すタイプのケインズを想像できるのだ。K先生はエッセイの名手で、この辺りのことについてお書きになりたいと話されていたのだ。ぜひそのような書籍を読んでみたいと思わせるお話だったのだ。

 

Img_6435 このように二日間の飲み会を振り返ってみると、幕張の仕事の帰りに、友人と待ち合わせて、帰路この辺で飲んで帰るという生活もあり得たのだなと思ったのだ。東京駅を通勤経路としている割には、貧しいアフターファイブを過ごしてきたことを反省した次第である。

2017/03/11

埼玉学習センターで合同研究会

Img_6184 湯宿では、朝の6時に起きて、もう一度身体を温泉に沈めた。もともと、低血圧の遺伝子を受け継いでいるので、朝のエンジンがかかるまでに、身体もそして特に頭のエンジンについては、時間がかかる方だ。けれども、ここのお湯があれば、数分でエンジン全開だ。Img_6388 宿の方々に聞いてみると、あまり湯に入りすぎても身体に良くないので、ほどほどを保っているとのことだ。日常と非日常の違いを感じるのだった。毎年帰りには、この宿の自家製の梅漬けを購入して帰る。1個15円で分けてもらえるのだ。おまけもいただいたので、当分ご飯の友には困らないだろう。

 

Img_6398 新幹線に順調に乗り継ぎ、小1時間で大宮へ到着する。午後には、駅から軒先がつながっているビルに入っている、放送大学の埼玉学習センターにて、修士課程修了生たちとの「比較地域研究会」が半年ぶりに開かれた。また、今日は特別に、幹事のH氏がアレンジしてくださったので、埼玉県の地域職員たちによる「働き方」研究会との合同研究会となったのだ。

 

Img_6399 印象に残ったのは、新潟から参加してくださった、ゼミOGであり、かつ大学教員をなさっているUさんの発表だ。ポスターにあるように、「病者が災害避難をあきらめる気持ち」という題名で、被災タイプに特別な類型のあることを発表なさったのだが、興味深かったのは「なぜ避難を諦めてしまうのか」という解釈だった。20170311 聴衆からもいくつかの意見が出た。これらの意見を有効に取り入れて、おそらく数ヶ月後には良い論文を上梓するであろうことを予想させたのだった。

 

Img_6400 OGAさんと、またいつもと異なるテーマで挑んだ修士課程のIさんの発表もギャラリーを刺激していた。「働き方」研究会の方々の発表テーマは、題して「多様な働き方、埼玉スタイルの推進」ということだった。放送大学の学生の方々と比べると、たいへん歳の若い研究者たちであるにもかかわらず、チーム力を発揮して、まとまりの良い政策提言を4つほど行っていた。印象に残ったのは、もし放送大学生であれば、社会が多様であるところを慎重すぎるくらいに、微に入り細に入りはいり込んでしまって、あまりに細かすぎて印象の薄い研究になってしまうのだろうが、彼らの発表は良い意味で若いチームの発表を持っていて、全員一致の答えを率直に提言していて気持ち良かった。Img_6403 一例を挙げるならば、過去の政策としては評判良かったが、実際にはあまり活用されてこなかった、「ジョブカード」政策を再提言したりしており、話し合いの結果が要領よく盛り込まれていた。おそらく、放送大学の学生間ではこのような共同研究は行われる可能性が低いという傾向があるのだということが、今回の比較でわかったのだった。

 

Img_6404 じつは、これらの発表に対しての放送大学生たちの反応が面白かった。簡単に言えば、理想主義対現実主義の対立ということになるのだろうか。全員一致を信じて疑わない若手の「働き方」研究会に対して、多様な人びとの存在を重要視する放送大学生たちの質問に、現実的な視点が目立ち、興味深かったのだ。けれども、総じて言えば、世代の違いは確かに存在したのだが、そのあとの懇親会での意見交換も加わって、議論の交わり方はうまく行ったといえよう。双方の健闘に感謝したい。とりわけ、懇親会では、裏方として「働き方」研究会を支えた財団や機構の方々の役割がたいへん重要であったことを知って、共同研究という放送大学にはない研究方法のプロセスに触れた点でも、学生の方々にはたいへん勉強になった研究会であったといえよう。

 

Img_6386 研究会は西口のオフィスビルに入っている学習センターで行ったのだが、懇親会は東口の飲み屋街で行われたのだ。それにしても、その通りの猥雑さにはびっくりしたのだった。さいたまの「歌舞伎町」という雰囲気だといえばわかるだろうか、大宮という都市の元気ある姿を見たのだった。

2017/03/10

群馬での合宿

Img_6157 今年も3月を迎えることができたという余韻が1週間経ってもまだある。原稿を出して、ホッとする余裕ができたことを喜んでいる。さて、この余韻の続いている時期に毎年恒例となった、「社会と産業」コースの先生方との合宿への参加のために群馬へ向かう。Img_6168 もちろん、自由参加の私費旅行なのだが、ほぼ9割の先生方が参加するのだ。これまで、K先生の地元である群馬の湯宿温泉で開かれてきている。

 

近年、東京駅のエキナカが充実してきていて、昔であったら駅弁を買い込んで、列車の中で食べるのだが、今はそれよりも、暖かい昼食をエキナカでしっかり食べてから、Img_6346 新幹線へ乗り込んだ方が、ゆったりとする気がするくらいなのだ。新幹線が速すぎて、上毛高原までの間に弁当を食べ、さらに列車を楽しむ余裕がない。

 

トンネルを抜けると、雪が残っているという毎年恒例の情景にも、慣れることがない。その山の頂に見える雪に向かい、バスは赤谷川に沿って、ずっと登っていく。Img_6130 三国街道の須川宿で降りると、そこには手作り工房が並んでいて、「たくみの里」が展開している。今年も昨年と同様に、ふっと顔あげると、H先生が目の前を歩いている。6回目の探訪となるらしいのだが、須川宿の郷土記念館から出てきたところだとおっしゃっていた。これも昨年と同様なのだが、山椒の店へ入って、甘酒を1杯いただく。Img_6159 夜のためのブルーベリージュースを農協で購入して、いつもながらの宿場町の「中央用水構造」についての雑談をしながら、雪が1メートルほど残る山道を、須川宿から湯宿温泉へ下る。

 

Img_6390 早めに宿へ入って、早速1度目の温泉風呂へ浸かる。じんじんと突き刺すくらい熱い湯が、この湯宿温泉の特色で、丸い湯船に身体を投げ出すと、肩こりや腰の痛みなどが吹き飛んでしまうのを覚える。決してキツくはないのだが、硫黄の香りがなんとなく漂ってきて、頭も刺激する。

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Img_6381 そもそもこの合宿の目的は、歓送迎会なのだが、大学に関する議論や研修として計画されたという昔の経緯もあるために、食事の前には、真面目な議論が行われることになっている。Img_6177 今年も真面目すぎて食事時間に食い込むくらいの議論を行ってしまった。Img_6379 程よいところで、M先生がそろそろ食事にしませんか、とにこやかに提案してくださったので、ようやくにして議論の方はめでたく終了となり、本来の歓送迎会となった。

 

Img_6176 今年度末に退任なさるK副学長とH先生のご挨拶は、放送大学での人生のあり方を感じさせるものだった。また、R先生が新任として4月から加わるので、この合宿にも参加してきていた。料理は、ヤマメの塩焼きをはじめとして、お腹いっぱいになるほどだった。

 

Img_6188 次の日には、午前中いくつかのグループに分かれて行動して、最終的に12時に集合して、これも恒例となった「たくみの里食堂」にて、ジビエ料理をいただくことになっている。わたしたちは、地元のK先生の運転で、須川宿、相俣宿、猿ヶ京に連なる宿場町であった、「永井宿」へ向かった。Img_6193 同行のH先生に寄れば、もしかしたら、宿場の中央用水構造の資料も手に入れることができるかもしれないとおっしゃるのだった。

 

Img_6199 標高がだいぶ上がってきていることこともあって、永井宿ではやはり雪が降っていた。K先生が地元のかたに昔の用水の様子を聞いてくださったりして、それなりの収穫があったのだ。Img_6203 また、古い旅館だったような建物も残っていて、柱に施された修飾模様なども凝った造りを残していた。三国街道の華やかなりし頃をしのぶのに十分であったのだ。Img_6214_2 残念ながら、冬季には資料館が閉じられていて、資料そのものは見ることができなかったけれど。同様にして、猿ヶ京温泉にある関所跡・役宅跡なども、閉まっていて中までは見ることができなかった。Img_6250 その代わりに、食堂への途中、相俣ダムに寄ったのだが、そこでの流木が印象に残った。Img_6266 「流木はゴミなのか、資源なのか」という問いかけも面白い視点だと思ったのだ。

 

「たくみの里」に戻って、初めてカスタネット工房の展示を見ることができた。Img_6281 日本のカスタネットの多くがここで作られているのだそうだ。それは、「赤谷プロジェクト」という林業プロジェクトとネットワークを形成していて、間伐材などを有効利用したり、広葉樹の植林などを行ったりしているのだそうだ。Img_6284 ブナやナラ、サクラなどの木工の材料となるような、樹木のプロジェクトが形成されているのを見せていただいたのだ。

 

Img_6141 今年の「たくみの里」での収穫は、これも毎年訪れている革工房「KURO」でいくつかの革製品を購入したことだ。ぷっくりとした作品を得意としている。Img_6426 この赤いハートの飾りもさることながら、この青いキーフォールダー風のものも面白いのだ。さてクイズなのだが、これは何に使うものでしょうか。Img_6428 それから、ご主人が昨年から今年にかけて店を改装していて、漆喰風に壁を真っ白に塗ってあった。その壁に飾られていた、黒革カバンがとても良かったのだ。Img_6302 2年前にわたしが購入したカバンよりもひとまわり大きなサイズで、柔らかそうなぷっくりしたタイプだ。

 

Img_6136 今年の「たくみの里食堂」のジビエ料理は、イノシシ中心だった。このイノシシ肉のソーセージやベーコンに始まり、山菜のオードブル、焼肉と煮物などが昨年同様に、どんどん続いて出てくる。Img_6310 今年はM先生が、「赤ワインがイノシシ肉に会うのでは」と言出だし、それに応じて、S先生がキャンティワインなどを見繕って持ってきてくださったのだ。

Img_6306Img_6308Img_6309Img_6311Img_6316Img_6317Img_6319Img_6320Img_6321Img_6325Img_6328Img_6331Img_6332Img_6333Img_6335 そして、最後は食堂のご主人の手打ち蕎麦で締めとなったのだ。わたしはここで先生方とはお別れして、ワインと日本酒が相当身体に染み込んでいたので、Img_6336 向かいの喫茶店「マッチ絵の家」の薪ストーブの前で、しばし読書し酔いを冷ますことにした。Img_6154 薪ストーブの暖かさは、時間の進行を緩くするのだった。

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夕方になって、湯宿温泉に帰り、宿の外湯を訪れることにする。Img_6338 4つの外湯があり、その中で最も古い建物が使われているという「松の湯」へ行く。Img_6362 昔からこの湯が好きで通ってきているという、地元の60歳くらいの方と一緒になった。Img_6360 お話を聞きながら、じっくりと温まる。この4つの外湯は、地元の70軒くらいの共同体によって維持されていて、各世帯は月に1500円費用負担しているとのことだった。これで、清掃代などが支払われているらしい。お湯は湯本温泉の源泉から大量に供給されている。この湯宿温泉のすべての泊り客は、心付けを払えば、これらの外湯に入って良いことになっている。鍵を宿のフロントで借りることができるのだ。Img_6361 4つも外湯があるというのは珍しいらしく、松の湯の帰りに、入り口で5人ほどの若い男女の温泉マニアの人々に呼び止められ、お湯の様子を聞かれてしまったのだ。お湯の効用は素晴らしく、暖房がいらないほど、布団の中でもポカポカとしてくるのだった。Img_6376

2017/03/05

牛久でゼミ

Img_5947 牛久で大学院ゼミを開催した。修士のGさんが今年度の論文テーマを、茨城県牛久市の「まちづくり」としていたので、それではみんなで見に行こうということになり、今月の修士課程ゼミナールは上野から常磐線に乗って1時間ほどの距離にある牛久まで行って、開くことにしたのだ。修士OBIさん、Fさん、Yさん、Hさんも参加して、賑やかな小ゼミ旅行となった。

 

Img_5891 牛久市は、冬場所に優勝し見事横綱となった、「稀勢の里」の故郷だということで、最近有名になった。東口駅前には、彼の手形を飾った碑も立っていた。Img_5914 駅前の整備も終わり、イタリアのキャンティ市から輸入した明るい色の赤レンガが敷き詰められていて、一見順調にまちづくりが進んでいるように見える。

 

Img_5899 けれども、ひとたび西口駅前の商業施設に入ると、そこはシャッター街となっていた。この牛久駅の西口正面のビルには、関西資本のスーパーマーケットの「イズミヤ」が入っていたのだが、先月30年の歴史を閉じ撤退し、その煽りで1階から3階まで、専門店街が軒並みシャッターを閉ざしていた。Img_6118 30年間といえば、やはりひと時代潜り抜けたということではなかろうか。駅広場にあったという、コンビニも閉められ、その二階のチェーン居酒屋も撤退したそうだ。駅のドラッグストアも近々撤退するそうで、牛久駅近辺は、転換期(衰退的)の真っ最中ということだ。Img_6116 これほど、一気に転換期を迎える市中央というのも、珍しいのではないかと思われる。その意味では、Gさんにとっては研究するには困難な題材ではあるが、問題状況のタイミング良い時に取り掛かったと言えるのではないだろうか。

 

Img_5885 なぜ街の衰退がこれほど急激に進んでいるのだろうか。いくつかの要因があるのだが、Gさんが指摘する象徴的な出来事を挙げるならば、最盛期にはJR牛久駅を利用する人が、2万人を超えていたのが、近年1万人程度になって、半減したということだ。Img_5926 都市のスプロール化が進んで、膨張した働く世代が、一挙に減ってしまったということらしい。けれども、人口は8万人を超えていて、この変動はあまりないということだ。つまり、都市内容の性格が変化してきたということになる。

 

Img_5937 さて、今日の見学のメインは、駅から徒歩10分ほどのところにある。立志伝中の人物である、神谷伝兵衛が創立した、重要文化財の建物「シャトー・カミヤ」だ。日本で初めて本格的なワイン醸造所を建てた、神谷伝兵衛とはどのような人物だったのだろうか。

 

Img_5958 面白かったのは、3点である。一つは、神谷伝兵衛の企業家的性格である。なぜ彼は明治期にこのシャトー・カミヤを中心として、成功したのだろうか、という点である。二つは「シャトー・カミヤ」は牛久のまちづくりにとって、どのような意味を持ちうるのだろうかという点である。三つには、牛久市の現状と課題は何か、という点である。Img_5970 二つ目と三つ目については、Gさんの個人的なテーマ内容であり、そのうち修士論文として成就されるだろうから、その時の発表に注目したいと考えている。また、駅ビルの研修室でのゼミでじっくりと議論したので、ここでは触れないことにする。

 

Img_5982 第一の点は、面白かった。印象的な物言いをするならば、神谷伝兵衛の本質は葡萄作りの農民体質だったのか、それとも営利的な企業家体質だったのかという点である。Img_6031 シャトー・カミヤは、確かに明治期(今から100年前)にはフランスに学んだ本格的ワイン醸造所として出発した。けれども、明らかにそこからの変質があり、これがシャトー・カミヤの成功理由であったのではないだろうか。

 

Img_6027 蜂印ハニーワインをご存知の方は多くいらっしゃるだろう。この甘みを加えたワインが、赤玉ポートワーンと並んで、戦後まで日本人のワインの中心を占めてきたのだが、その基礎を作った一人が神谷伝兵衛だったのだ。どのようなワインが日本人に合うのかを、起業家としてわかっていたのが、神谷伝兵衛だったとわたしは思う。明治期においてはまだ本格的ワインは日本人の趣味には合わず、ハニーワインを売ったというところに、神谷伝兵衛の企業家精神を見るのだ。Img_6018 そして、これに加えて、浅草の「神谷バー」で当たりをとった「電気ブラン」。これもブランディーに手を加えて、日本人向けにしたものであり、単なる洋物のまねではなく、日本人の嗜好に合わせた洋酒作りを行ったのが、神谷伝兵衛の成功物語なのだ。

 

Img_6128 電気ブランの名称由来が記念館に書かれていた。なぜ「電気」なのかといえば、わたしは「ビリビリ」と舌へくるからだと思い込んでいたのだが、そうではなく、神谷伝兵衛のマーケティング能力からの命名だそうだ。つまり、当時流行してきた電灯や電話などに使われている「電気」という言葉をそのままブランディーの名前に持ってきたらしいのだ。Img_6048 たとえば、「超伝導うなぎ」などという命名と同じなのだ。伝兵衛はかなりキャッチーな志向を狙っていたことがわかるのだ。

 

Img_6032 神谷伝兵衛の企業家としてのマーケティング能力は相当高かったと思われる。まず、若い頃に横浜の居留地でワインと出会った後、酒を巡る様々な業界を渡り歩いて、最終的に牛久の土地を購入している。Img_5977 けれども、電気ブランでわかるように、牛久だけに閉じこもらずに、浅草にアンテナショップを開店させたのも、現代的な広告宣伝方法を先取りしている。また、日本酒の宣伝ポスターによく使われていた、美人画ポスターを取り入れたり、新聞広告でのイラスト記事を作ったりしていているのが、記念館を見て回るとわかってくる。Img_6034 最初は、ワイン醸造所のぶどう酒造りの機械・機器類に目を奪われていたのだが、どうやら違っていることに気がついたのだった。

 

Img_5954 けれども、100年経ってみてどうだろうか。ここで勝沼のワインと比べてみたい。 ほぼ同時代に、両者ともにフランスへ技術者を派遣して、ワイン造りをはじめた。勝沼では、本格的ワインでは、数々の失敗を重ね、また日本人の嗜好はなかなかワインを受け入れるには至らなかった。Img_6015 主たる企業も倒産してしまう。これに対して、シャトー・カミヤでは本格的ワインは脇に置いて、日本人の好みに合うワインやブランディーをヒットさせ、かなりの成功を当初から納めた。この違いは大きかったといえるだろう。

 

Img_5994 けれども、現在はどうだろうか。明らかに、ワイン醸造所の集積では、牛久に対して、勝沼は圧倒しているといえるだろう。ここに、産業というものの難しさがあるといえる。短期的に営利的に成功しても、必ずしも100年後にもその成功が持続するとは言えないのだ。Img_5916 牛久では、ワイン製造の時期が早くに終結したぶんだけ、営利性の強い観光・販売の面で強みを見せる時代へ早めに入っていくことになったのだ。さて、どちらの方がよかっただろうか。100年間の年表をみんなで見ながら、議論のたねは尽きなかったのだった。

 

Img_6121 昼食はもちろんワインを飲みながら、肉料理ランチをいただく。重要文化財のレンガ建ての昔の貯蔵庫が、レストランに生まれ変わっているのだ。また、今日は日曜日だということもあって、団体客が大型バスで押し寄せていた。バスの表示を見ていたら、建材メーカーの接待旅行の途中のようだった。帰りも、牛久市のコミュニティバスで、駅に向かった。Img_5883 駅ビルはこのように空いている分だけ、ゼミに使える研修室が備わっているのであって、都市の衰退ということも、わたし達のような有閑活用グループにとっては、悪い事態ではないのだ、と考えた次第である。議論をして、その後もう一度、イタリアンの店のワインで乾杯して、上野行きの常磐線に乗ったのだった。

 

2017/02/16

「パン日和あをや」で5周年ハンバーガーを食べる

P2167054 急に陽気が戻ってきて、今日は2月にしては、気持ちの良い春日和だ。ポカポカしている。原稿作成は午後2時くらいになると限界になるために、早々と店じまいをする。ちょうど、娘から、本を渡すから出てこないかという誘いのメールが入る。松本の喫茶店「栞日」で開かれている展示会の書籍が、娘の勤め先の近くにある書店にあることがわかり、昼休みに購入してもらっていたのだ。アマゾンには出てない本だ。P2167055 『世界をきちんとあじわうための本』という題名で、わたしたちが「ちがいを生むちがい」というベイトソン的生物秩序を、道具を使って、いかに整序し、人とモノとの関係をいかに作り出して行くのか、ということをきちんと味わうことを説いている、たいへん魅力的な本だ。わたしの抱えている課題に参考になりそうなのだ。

 

P2167069 夕方に娘と武蔵小杉で待ち合わせる。ところが、海外旅行のためにパスポートを更新していて、手続きに長くかかったと言って、30分遅れで顔を見せた。南武線鹿島田駅から雑談しながら、塚越銀座の「パン日和あをや」へつく。夕方には、あをやの奥様は、明日のパン仕込みを行うので、わたしたちの注文を聴いてくださったあとは、大忙しのようだ。何回も二階のパンの仕込み部屋との間を往復していた。P2167072 でも、この大忙しの様子は絵本の「クネクネさん」や「ふわふあさん」のようだなと思ったのだ。決してくたびれる種類のものではないように見える。母が子をみるように、パンを育てていて、明日の膨らみを頭に描いて、身体が自然に動いているようだった。

 

P2167060 この時間になると、カウンターにいっぱい並んでいたであろうパンも数えるほどしか残っていない。さて、「パン日和あをや」は5周年記念で、国産牛のハンバーガーを2月特別メニューに加えている。今日の最後に残った、このひとつをようやく確保して、いつものアボカドとクリームチーズのサンドウィッチも頼んで、サツマイモのたっぷりスープ、そしてオーストラリア産白ワインをいただくことにした。

P2167059 厚切りの食パンがサクサクしていたし、牛肉のジュウシーさもさることながら、ハンバーガーのパンもモリモリとして、アメリカのハンバーガー屋さんへきたみたいだった。このころには、ご主人が勤め先から帰ってきて、キリッと前掛けを結んで、すぐにカウンターの中へ入っていった。

 

P2167057 雑談をしていると、なぜか結婚当時の話になって、ご夫婦はわたしより20以上も年が若いのだが、わたしと同じに、29歳でご結婚なさったとのことだった。それで、結婚当時はどんな生活でしたか、と聞くと、これも意外だったのは、運転免許を二人前後して取ったのだという返事だった。仮免の時にすでに車を購入して、免許取得してすぐに、二人で神戸旅行へ行ったそうで、交代で運転して向かったとのことだった。何が意外なのかといえば、車で世界が広がったということを強調なさったことだ。結婚の方がもっと世界を広げたのではないかと推測していたからだ。P2167058たぶん、きっとそうなのだが、表現を抑えたのかもしれない。免許を取るに当たって、購入する車のイメージがあったのだそうだ。フォルクスワーゲンのキッチン車なのだそうだ。これで、今日食べた牛肉ハンバーガーを売ったら、きっと行列のできる店になっていたことだろう。

 

P2167075 娘が以前住んでいた本郷三丁目の話になって、「ハンバーガーの店で美味しい店が本郷三丁目にはあるんですよ」と互い違いにご夫婦それぞれおっしゃったので、その29歳あたりから、ずっと今回の5周年記念ハンバーガーまで、何らかの繋がりがあるのかな、と帰り道に娘と話したのだった。P2167056 さて、原稿を書いているときに散歩で寄るところがあるというのは、考えるだけで、うるるという気持ちになってしまうのだ。もうひと頑張りしよう、という気分にさせてくれる、有難い存在なのだ。


P2167079 修士課程で坂井ゼミを出て、博士課程で横浜市大のKゼミを修了なさった、Kさんから著書『知的障害者雇用において特例子会社に期待される役割』(学術研究出版刊)が送られてきていた。特例子会社に関する文献はまだまだ数少ないので、この分野の研究者の方々へぜひお勧めしたい。

 

2017/02/10

映画「幸せなひとりぼっち」を観る

Photo 最近、ずっと家で原稿を書いている。孤独を満喫していると非難する人もいて、これをかわすのには工夫がいる。本当のところ、家には妻がいるからそうゆうわけではないのだし、家から1歩も出ない日も結構あって、運動不足も重なり、一人で作業を行うことに苦労がないわけではないのだ。さらに、ずっと原稿を書いていると、持病の肩こりが激しくなるという自分からはなかなか離れられないので、これはこれで困っている。以前は、鉛筆やボールペンのせいだと思っていたが、パソコンに向かうようになって、キーボードを打つようになってからも、依然として、肩こりは午後の2時くらいには手から登ってきてしまう。ここで運動習慣のある人ならば、外へ出て、身体を動かせば良いのだけれども、残念ながらその習慣を持っていない。

 

そこで、手と頭だけで作業を行なっている状態から、なるべく全身で「書く」ことを行おうということで、経済学を勉強するものは、アダム・スミスの例を知っている。彼は国富論を書くときに、自宅で口述筆記を行なった。スミスのように、口述筆記人を雇ったり、テープ起こしを依頼したりする余裕は、この研究費が毎年削られているご時世では、到底望むべくもないので、最近はパソコンの音声認識を、肩の凝ったときには試すことにしている。声を出すことで、なんとなく勢いがつくし、頭と手との間が動いているという感覚が良いのだ。もっとも、音声認識ソフトが不完全なので、声に出したことの半分くらいしか認識しないので、原稿への実利はないのだが、運動不足解消ということであれば、許せるというところかもしれない。

 

それでも、映画を見る方が圧倒的に、肩凝りには効くと思う。今回観た映画には、珍しく良い邦題がつけられている。たぶん、原題は「オーヴェという男」というのではないのかな。これよりは、ずっと「幸せなひとりぼっち」という題名の方が良い。この映画を見ていくと、じつは「ひとりぼっち」、すなわち孤独がテーマとは思われないかもしれないのだ。むしろ幸せなのは、周りの仲間との交流にこそある、ということがテーマのように思えてくるような内容の映画なのだ。それにもかかわらず、あえて題名を「幸せなひとりぼっち」とつけたところに、この映画の意味がある。

 

なぜ「ひとりぼっち」が幸福なのか。これがこの映画の一番面白かったところである。主人公のオーヴェは、愛する妻を持っていた良い夫で、綺麗で倫理的なコロニー的共同住宅地の自治会長だったし、40年以上勤めた鉄道マンという日常生活を持っていた。ところが、すべて失い、自らの命を縮める決断をするところから、この物語が始まることになる。妻を失う孤独、自治会長を奪われる孤独、辞職勧告を受ける孤独などが、孤独の原因なのかと映画を見ていく中で、最初はそのように思ってしまうのだ。

 

ところが、この映画がスェーデンで歴代3位のヒットを飛ばし、5人に一人の人が見たという点は、並みの孤独とは異なる孤独が描かれているからだと、思われる。なぜオーヴェは自殺を企て失敗するのか。ここに理由が凝縮して現れているのだ。それは、妻が亡くなり妻から自由になったにもかかわらず、本当の自由をつかんでおらず、妻の思い出から離れられないからであり、また、共同住宅地の面倒を見る義務がなくなったにもかかわらず、共同住宅地に固執しているからであり、さらに親子二代勤めた鉄道局からの自由も、「白シャツ」という官僚主義の抑圧という形で、得られていないからである。つまり、自分からの自由、自分の我執からの自由が得られていないことから、自殺を図っているのだ。何回かの自殺未遂を繰り返す中で、自らの孤独というものの意味が明らかになっていく。

 

「幸せなひとりぼっち」的孤独というのがあるのだと思われる。ふつう、孤独は連帯が得られないから孤独なのだ。ところが、「幸せなひとりぼっち」的孤独というのはそうではなく、描かれた理想的な連帯を持っていた自分というものが得られないようになったから、オーヴェは孤独なのである。ほんとうの孤独ではないのである。孤独になれない孤独なのだ。ところがやがて、ほんとうの孤独に目覚めていき、最後は無事往生を遂げることになる。最初は愛する妻を忘れることができないから、自殺を図ることになるのだが、最後は愛する妻から離れることができたから、無事本来の自分を得て死んでいくことができたのだ。

 

Images1 モンテーニュも「孤独について」で言っている。「孤独なるものの目的とは、ただひとつ、そうすることで、よりゆったりと、気楽に生きることだと思う。けれども、人はその道筋を、かならずしもうまく探せない。仕事から離れたぞと思っていても、それを取り替えただけのことが多いのだ」。それにしても、オーヴェが最初に、妻と列車の中で遭遇する場面は良かったな。こんな思い出があると、なかなか妻の記憶からは逃れられない。

2017/01/24

フランク・ロイド・ライトの椅子と建物を見に行く

P1016912 池袋へ出る用事があったので、以前からずっと行ってみたかったフランク・ロイド・ライト設計の自由学園「明日館」へ寄ることにする。駅から10分くらい歩いた、ちょっと入り込んだ住宅街に位置している。

 

P1016916_2 じつは、2、3歳の頃、ということは幼稚園就学以前ということになり、ほんとうに記憶が定かであったのかというところもあるのだが、ここから歩くことができる距離にある西武線椎名町の北側に住んだことがあった。父が当時下町にあった高校の教師を勤めていて、この近くの分譲アパートに住んで、通っていたのだ。空き地に草むらが広がり、まだトカゲなどが出る場所のあった頃だ。さすがに池袋近辺なので、すでに田園風景はなかったけれども、まだ利用されない空き地は存在していた。

 

P1016917 裏道をぐるっと回って、立教大学を通って、学大付属豊島小学校裏に出ると、すぐ池袋駅だった。それで、父が教師だったこともあって、お金があったら、自由学園へ入れたかったなどと言うこともあったのだ。P1016937 母は、映画が好きで、アパートの1階に住んでいた友人と一緒に、わたしを連れて、目白にあった映画館に通っていたから、その帰りの散歩でもきっと、この明日館の前を通ったりしていたことだろう。

 

P1016908 正面の広場へ出る前に、左に「婦人之友」社が見え、右に曲がると、「明日館」が見えてくる。第1印象は、正面ホールとそれから左右にシンメトリーに広がる講義室群だ。P1016926 何しろ、横に両翼を伸ばした大きな鳥のような屋根を持つ低層の建物群があり、その前に大きくゆったりとした何もない空間が存在していて、一つの宇宙を構成しているようだった。遠くに見える池袋のビル群が近代的であるのに対して、こちらの空間は非近代的な空間を実現している。

 

P1016911 門が二つあって、右の見学受付の前には、2時から始まるガイドツアーを待っている人々が集まってきている。前もって、写真だけでも取っておいて、ガイドツアーはゆっくり聞くことにする。P1016953 けれども、結局はガイドで詳細に紹介されると見所が変わってきて、ツアーの後に写真をとることになったところも出てきてしまったのだ。とくに印象に残ったのは、菱形のステンドグラス風の窓のある正面ホールということになるだろうが、ところが一旦中に入って観ると、ホールの裏にある食堂の素晴らしさがじわりじわりわかってくるのだった。

 

P1016938 なぜそうなのかと言えば、これはわたし特有のテイストなのだが、やはり「椅子」との調合具合いが良いという点に尽きる。ホールにある菱形の背板をもった、学校椅子も洒落ているが、ここの食堂椅子も赤いアクセントが効いていて、テーブルと調和している。100脚くらい制作するというので、木材の幅を揃えて、大量生産に備えたそうだ。さらにこれらと、大谷石の暖炉がある食堂との整合性が取れている。ことに木製の照明器具が凝っている。P1016966 「有機的建築」というフランク・ロイド・ライトの標語が響いてくるようだ。ライトの言葉を直接引用すると、「椅子はそれが置かれ使われている建物に合わせて、デザインされなければならない。P1016932 有機的建築では椅子は機械器具のように見えてはならず、建物がつくり出す環境の優雅な一員として見えなければならない」と述べている。

 

P1016956 椅子が並んでいて、昔の椅子より現在の椅子は、一回り大きい。体格が違ってきたということらしい。この菱形の背板椅子は、制作者不明ということだが、明らかにこのデザインは「フランク・ロイド・ライト」を意識したデザインであることは間違いない。食堂椅子は、弟子であり、この食堂を改造した遠藤新の設計になるものらしい。当初、この食堂には、東側、西側と北側にベランダがあり、下から上までの大きなガラス扉があったのだというのだ。P1016984 ほんとうのところ、光がいっぱい入る、その食堂を見たかった。現在は、ベランダは食堂と合体されて、三つの小部屋として繋がっている。これで、60名程度の食堂が、さらに数十人規模膨れ上がって使えることになったのだそうだ。

 

P1016973 これらの建物群を見ていると、その昔、この地域には「池袋モンンパルナス」が展開して、松本竣介、靉光などの住んだ画家村があったし、戦後になると、漫画家たちの「トキワ荘」などがあったのだから、P1016944 もし時代が一致していたならば、上野と並んで、芸術文化の集積地となった可能性もあったのではないか、と思いを馳せたのだった。P1016989 P1016990 P1016972 P1016978 P1016943 P1016987 P1016952 P1016948 P1016925 P1016920 P1016963

2017/01/17

来年度放送する授業「色と形を探究する」の最終録画が終了した

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4 月から始まるテレビ科目「色と形を探究する」とラジオ科目「日本語アカデミックライティング」のテキストがはやばやと送られてきた。2年間かけて制作したのだ。 一緒に制作した先生方や、編集者・ディレクターの顔は浮かんでくるものの、手に取ってみると、原稿用紙に書きつけていた頃が夢のごとくであり、自分の手から離れてしまった文章がこのように活字となってしまうと、にわかに書きつけられた世界がすでに彼方の世界のように思えてしまう。とはいえ、授業科目なので、録画・録音したのちも、数年間は質問を受けたり試験を採点したりと、通常業務がついてまわるし、何度も考え直すことが出てくることになるだろう。

 

P1176852_2 思い返してみると、わたしはここ数年間、音や色や形や言葉などの「感性」というものに注目して授業科目を作ってきた。経済学からは少し離れるのだが、十分に社会科学の領域内で考えることが可能だったので面白いと思いつつ制作してきた。感性を媒介として、人と人とがいかに結びついているのかを考えてきた。今年は、特に「色と形」に焦点を結んで考えてきたのだ。かなり困難なこともあったのだが、それでも、得るものはたいへん多かったし、今後の課題も発掘することもできた。さて、このように成果物が目の前にあるのだが、学生の方がたはこれらをどのように受けとめるのだろうか。

 

P1176880 それで、今日はテキストが届いただけでなく、じつは授業科目「色と形を探究する」の第15回、つまり最終回の収録日なのだ。5人の担当した講師全員、N先生、S先生、Y先生、O先生、そしてわたしで最後をしめようということになっている。午後からの収録に、Y先生は早くから控え室にきていらっしゃった。準備としては、それほどないのだが、定番通りメイクアップする部屋へ行って、専門のスタッフによって、テレビ用のお化粧をするのだ。それが済むと、テレビの技術スタッフとの全体的な打ち合わせがあり、シナリオ案にしたがって、ディレクターがレクチャーして、ディレクター達は二階の副調整室へ入り、私たちはスタジオフロアでカメラの前に座ることになる。

 

P1176854 今まで数百回も行ってはいるのだが、いつもこの録画の流れに没頭するまでには時間がかかるのだ。それで大概はリハーサルというものを行って、スタッフと出演者が互いに確認し合うのだが、今回は慣れた先生方だけなので、それぞれの場面のリハーサルは行わずに、進めるところは進むだけ撮っていくことになる。これだけ慣れた先生方ならば、腹八分目でおおよそのところうまくいけばOKなのだ。P1176864 講義というものは、相手との間の了解なので、上手い下手はあるのだが、大方良好に伝わるのであれば、それで良いのだと思われる。対話というものは、この程度の曖昧さが必要で、あまりにびっしりと計画どおりに、一字一句正確に撮ってしまうと、身も蓋もない杓子定規の、聞くに耐えないものになってしまう恐れがある。ある程度の緩さが必要なのだ。

 

P1176875_2 自然科学における「色と形」と、人文科学における「色と形」、さらに社会科学における「色と形」が勢揃いした。それでわかったことは、「色と形」の現れ方が、時間的・空間的にかなり幅があるということだった。Y先生は何億光年にも及ぶ「色」の出現について述べていたが、次のS先生は現在目の前にある「色」というものの現れを問題にしていた。この隔絶した世界のあり方を、一気に並べて共通点や、相違点を述べてしまうという壮大なことを、この番組で行ったのだった。O先生の批評が当を得ていたと思われる。P1176853 客観的な「色と形」から主観的な「色と形」、表層の「色と形」から深層の「色と形」、作り出す側の「色と形」から受け取る側の「色と形」などなど、この多様な幅のある「色と形」にはまだまだ探究すべきことがたくさん残されているな、というのが率直な、録画後の感想だった。けれども、「色と形」を様々な角度から考える「橋頭堡」のようなものをここに築くことができたのではないかと思われる。わたしたちが生活する中で、常に分子レベルの色彩を感知する細胞を意識しながら、「青」という色を認識するわけでもないのだ。生物学的な認知と、心理学的な認知と、さらに社会科学的な認知には、ある程度の距離があって当然だということもおぼろげながらわかってきたのだった。

 

P1176881 さて、いよいよ夕方になって最終回の打ち上げ会だ。近くのイタリアン「Oreaji」にて開いた。この科目を企てたH先生も加わってきた。天文学のY先生は、今年度で定年となるのであるが、タイミングの良い?ことに、ちょうど今日が古希の誕生日だということであった。S先生の取り計らいで、このような誕生日プレートが用意されて、打ち上げ会も盛り上がったのだった。P1176897 考えて見ると、通常の大学では、天文学の先生とこんな雑談をする機会は、社会科学者にはないし、ましてや同じ授業科目を作ってしまうなどということもないのだ。今回は、「日本語アカデミックライティング」とこの「色と形を探究する」の二科目で一緒して、自然科学的「感性」と社会科学的「感性」の共通点と相違点を考えることができたのは、もちろんすべてを理解したわけではないとしても、たいへん稀有な体験であったと感謝している。

 

 

P1176887_2 また、今回の収録では、3人の先生方がガテマラ取材を成功させていて、その時のシャーマンなどとのやりとりも、学問を超えた話として興味深いものだった。このやり方をもう少し最後の番組で反映させればよかったとも思ったが、それはあとの祭りとして、謹んで今後の課題として楽しみに残しておいても良いのだと思ったのだった。P1176902_2 さてせっかく、「色と形」という小さな窓が空いたのだから、一方的に窓から見える風景だけでなく、外からそれぞれの部屋へ闖入して、それぞれの研究分野へと重ねることができればということだが、それにはもっと時間が必要だろう。P1176901_2 けれども、少なくとも受講生の方々の中では、このような窓が開くことになるのだから、風の如くに存分に部屋に入り込んで、いろいろな「色と形」の姿を見ていただきたいと考えている。とにかく、一つの終わりと、もう一つの終わりの始まりとがあったのだ。


2017/01/08

京都御所の隣、新島会館でゼミを開催する

Img_5747 宿を京都の四条にとっていたので、寺町通りへ出て、ひたすら北へ上っていく。京都市役所の横を抜け、喫茶店エイトの前を通り、二条通りを超えると、左に三月書房があり、右に明日行こうと考えている民芸品店がある。Img_5748 これらを眺めながら、御所の南へ出た。そこからすぐのところに、新島襄・八重の旧宅に隣接して、今日のゼミが開かれる新島会館があるのだ。着くとすでに5名の方々が準備を行なっていて、程なくみんな到着して、総勢20数名のゼミ開催となったのだ。

 

Img_5744 大学の外でゼミを開くことに、わたしはずいぶんと、これまでこだわってきた。毎月開かれるゼミは、日常的な作業の報告に費やされて、それをチェックするだけで精一杯だ。ところが、一歩外へ出てゼミを開くと、非日常的な発表を行わなければならない、という心境になってくれる。発表するという意識が表に出て、他者を説得しなければならないという要素が濃厚になる。通常のゼミでは時間制限がないような議論ができたのであるが、外でのゼミでは20分ぴったりで終えなければならないので、表現が絞まる必然性が出てくるのだ。Img_5737 それで、これまでと違った発表を行うことになる。先生がたや先輩たちが聞いていることに対する緊張感も重要だ。ちょうどM1の人びとが先行研究の整理を終え、M2へ進み、論文を書く体制への転換期になっていることも関係して、外に出てのゼミの効果がちょうど出てくるのだと思われる。

 

Img_5752 今回の冬季ゼミのテーマは、論文の中核となる部分を発表するということになっていたので、ゼミではかなり本質的なところが出てきていたと思う。昨日と同様、参加学生以外に、I先生、S先生、A先生、それから今日だけ参加のS先生に加えて、OBのY先生、Hさん、Yさん、Fさんの8名参加し、さらにM2のAさんともうひとりのAさんも議論に加わってくださった。したがって、M2の方々2名の報告(成年後見制度論とセカンドキャリア論)を含めて、12本の発表が行われた。相変わらずの多彩なテーマが並んだのだ。

 

ナチス政権と民主主義体制

地域の変容と公的・民間セクターの役割

中国の対日経済交流と政経分離

スローシティとまちづくり

日本の社会政策と労働

地方圏学生の地元志向

地域とソーシャルキャピタルの育成

総合交通体系と民間航空の役割

地域の生活時間と余暇活動

宗教における社会貢献活動

 

Img_5739 今後、今日発表した論文の「山場」となる議論を中心として、順調に肉付けを行なっていってほしいと願った次第だ。最後のあいさつでは、先生がたの指摘はいつもながら鋭かったし、最後に聞いた参加者の同期の方々への反省の言葉も容赦なかったので、参加した皆さんの心の中には、かなりの蓄積物がお土産として止まったことだと思われる。この辛口の応酬にめげず、それを糧として、後半戦でも頑張っていただきたい。

 

Img_5759 さて、程よい時間になったので、懇親会の開かれる料理屋チェーンの店へ行く。歩いて、10分程度だ。あいにく雨が降ってきた。目的の場所は、京都の繁華街である木屋町を流れる高瀬川の源流の場所だ。江戸時代の豪商角倉了以の旧邸があったところで、さらに明治時代には、山縣有朋が第二無鄰菴を構えていたところである。Img_5763 あちこちに、石の標べが立っているので、それと知らされる。庭を鴨川から取水した水路が通っていて、それが高瀬川へ流れ込んでいる。それを利用した日本庭園が作られている。庭の起伏は意外に激しくて、池が作られているように見えるのだが、これが流れているのが特徴で、むしろ川が通っているという印象なのだ。取水を利用した庭の典型例だと思われる。


Img_5769_2

Img_5779 懇親会なので、非公式なおしゃべりが主体になるのだが、真面目な方は、昼間の議論を思い出して、さらに突っ込んだ議論を繰り広げている方々もいらっしゃって、多彩な懇親会となった。    わたしもいくつかの相談を受けることになったのだが、すでに料理が回り、お酒も十分に入っていたので、相談への対応がきちんとできたのかは、少し心配になる。Img_5783 本当のところ、懇親会もゼミの重要な一貫と考えているので、真面目な相談も歓迎したいところだ。懇親会の幹事のOさんとTさんと教育支援者のKさんには、たいへんご面倒をかけたが、おかげさまで会はたいへん盛況だった。Img_5786 Img_5785 Img_5784

 

Img_5794_2 二次会は、この店の料亭風の門を出て、高瀬川沿いに十数メートル下ったところにあるカフェへ入って行うことになった。この店は、友人のK君が存命中によく一緒に来て議論した場所でたいへん懐かしい。Img_5795 店のオーナーは変わってしまったけれど、たっぷりしたコーヒー碗があって、チョコレートケーキを一緒に取ったのだ。ゼミOBYさんは、昨日の夜行バスできて、朝の京都タワーで風呂を浴び、今日も夜行バスで東京に帰るのだそうだ。Img_5799 このような行動ができるのであれば、京都合宿もそれほど重荷ではない。彼はバスの時刻まで、時間を潰す必要があるとのことだった。雑談の内容は、最近よく話題になる「働き方」の話になって、10時を過ぎるまで議論が続いた。外でのゼミの効用は、夜がたっぷり使えるというところにもあるのだ。


Img_5809_2 宿への帰り道、麩屋町辺りに画廊やギャラリーが並んでいて、麩屋町ギャラリーのいつものオランダタイルも素敵だったけれども、現代画家のギャラリーのゼロ年代世代作家のものも、かなり目立ったのだ。数百万円の値段付きで飾られていた。今の心境は議論をしてスッキリしていたからこのようなものではなかったけれども、今日の天気はこのような感じの空模様だったので、掲げておくことにしよう。



2017/01/07

今年の仕事始め

Img_5729 今年の仕事初めも、例年通り京都からだ。修士論文の面接審査と大学院ゼミナールなどで出張なのだ。京都に来て、修論を読む以外にも、お正月早々良かったことがある。12月初旬頃から、老化に因る右膝の痛みがずっと続いていて、朝起きての階段下りでは、膝を曲げることが難しくなっていた。きっと水が溜まっているのではとは思っていたのだ。ところが、京都に来て、一日目は痛かったのだが、二日目の朝からほぼ痛みを感じなくなり、階段も楽に上り下りすることができるようになったのだ。Img_5736 重い荷物を持ったのが良かったのか、水が良かったのか、それとも、行いが良かったのか、いずれにしてもこの旅の何かが膝に良かったことは間違いない。1ヶ月で治ったのを考えると、五十肩のようなものだったのかもしれない。今年の仕事も、おそらくこのように老化との並走ということになるに違いないのだと覚悟を決める。

 

Img_5734 まず、修論審査を行った。修論を提出した学生たちに「キャンパスプラザ京都」へ来てもらって、朝から一人30分くらいずつの間隔で審査を行った。それぞれ指導教官が異なっていて、島根大学のI先生、近畿大学のS先生、同じくA先生にお願いしている。先生がたには、毎年お正月を潰させてしまって、申し訳ないと思っている。けれども、学生にとっては二年間の成果が現れる時だ。タイから一時帰国して駆けつけて来た学生もいる。沖縄の赴任先から、このために来た学生もいる。やはり、力の入った論文を読むのは、先生がたにもわたしにも、かなりの喜びをもたらすのだ。完成したという感覚は、互いに議論していて、何ものにも代えがたい。Img_5721 借りたキャンパスプラザの研修室の時間ギリギリまで、審査を行ったのだった。印象深かったのは、「多面的機能支払」に関するTさんの論文だった。わたしのテキストから「フォーマル化作用」を使ってくださっているのだが、今回はそれに、E・オストロムの「プーリング作用」も解釈して加えていて、もう一押しで素晴らしい論文になるような予感がしたのだった。

 

1 夕方には、審査が終了して、ポッと時間が空いた。こんな時には、やはり四条の京都シネマへ足が向く。今年度の「出張先で映画」初めは、硬いところで、「ヒッチコック/トリフォー」を選んでいたのだが、昨日尊敬している友人のツイッター批評を見ていたら、「こんな対談だったら、ヒッチコックとトリフォーである必要はない」などという酷評が書かれていたので、急遽見るのをやめることにしたのだった。

 

観たのは、原題が「フーシ(Fusi)」という、アイスランド映画だ。英語原題が「バージン・マウンテン(Virgin Mountain)」、邦題が「好きにならずにいられない」だった。次第に改題・改悪されていくのがわかる。それにしても、とりわけ最後の「好きにならずにいられない」はまったく内容と合っていない、酷い題名だと思う。2番目の題名も、「山のような男が女性に無垢であった」という意味を比喩的に表していて、なんとなくわかる気もするのだが、ちょっとからかっているような響きが気になる題名だ。やはり、全体を表しているのは、「フーシ」という題名だと思われる。この一人の男が映画の中心なのだから。

 

Img_5720 太っていて背が高い大男「フーシ」は40代独身で、母親と暮らしている。空港で荷物の積み下ろしの仕事を行なっている。この場面から始まるのだ。広大な空港で、荷物車が一台進んでいくという場面が良い。アイスランドの寒く荒涼とした中での「孤独」を表しているシーンだ。職場では、同僚から馬鹿にされ、苛められている。けれども、オタク的趣味として第二次世界大戦の模型で戦争ごっこを行うのを楽しみにしている。このオタクの友人が不思議な人であり、また職場の上司の対応がふつうで面白い。孤独なのだが、まったく孤独なわけではないし、本人は孤独で悪いとは思っていない。ある日、母親の愛人からダンス教室の切符をもらう。彼はダンス教室の帰り、横殴りの雪嵐の中で、一人の女性「シェヴン」と出会う。彼女は花屋で働いているのだが、精神的な問題を抱えている。ここから、フーシの物語が始まることになる。あとは、映画を観て欲しい。

 

Img_5709 アイスランド的孤独とでもいうのであろうか。孤独とはなんなのか、ということがテーマの意図なのだが、それが少しずつ伝わってくる。雪に閉ざされ、心を閉ざして、部屋にも出ることができずに、レストルームで孤独を感ずる。アイスランドでは、このような個人的事情は当たり前に起こることであるようだ。それはフーシの上司の態度でもわかるし、シェヴンの勤め先の花屋の主人の言葉でもわかる。ごみ収集の仲間でも、一歩間違えば、このような状況が存在することになりそうだ。

 

 

Img_5713 その中で、フーシのあり方は淡々としていて、最初は消極的に見えるのだが、観ていくうちに、意外に積極的にみえてくるから不思議なのだ。孤独であっても、孤独を積極的に生きることは可能だということだ。孤独にも色々な孤独があって人好き好きだとは思うのが、孤独の多様な類型を確かめ、このような孤独のあり方もありうるということを追求した稀有な映画だと思う。日本語の題名はいただけないのだが、それ以外はとても良い映画だった。今年の映画は豊饒になる予感があって楽しみだ。宿への途中、パンの「志津屋」の元祖ビーフカツサンドを頬張りながら映画を反芻したのだった。夜のコーヒーは、京都駅地下店で買った小川珈琲のガテマラだ。

2017/01/01

今年もよろしくお願いいたします

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今年もよろしくお願いいたします。

 

12時を回る頃、思い立って初詣に行こうと家を出た。昨年は放送大学の授業科目「音を追究する」のラジオ放送で使う「除夜の鐘」を録音しようと、近くの弘法大師由来の弘明寺の鐘楼の下へ出かけて行って、10テイクほどの音を収集していた。それから、周辺の寺を回って、他の音も収録しようと、このS寺へも訪れたのだった。

 

今年は最初から、家から5分ほどのこのS寺を目指した。ちょうど近辺の家々から人びとが出てきて、この寺を目指して集まってきていた。玄関を入り、すでに満員の大広場を通り抜け、本堂に入り、左の縁側に設置された除夜の鐘をついてから、拝礼することになる。ここに至るまで、きわめて親密なコミュニティの世話があり、最後には極め付けの甘酒が振る舞われた。お汁粉もいかがかと尋ねられたのだった。

 

Img_1863 横浜の都会の真ん中にあるにもかかわらず、このようなコミュニティシップに満ちたお寺がまだまだ存在しているのを確認できたのだった。横浜の霧笛の音も良いけれども、除夜の鐘の響きも良いものだと思ったのだった。娘と一緒に甘酒をすすりながら、家へ戻った。

2016/12/30

デトロイト美術館展で今年の見納め

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原稿の締め切りが迫っているのだが、毎年同じことを言っているので、家族のみんなは本気にしてくれない。それを幸いと見るのか不幸と見るのか、この歳になってくると自分でも判定できない。Img_5577_2 母が存命中は千葉へ行く必要があったので、ついでに幕張の研究室に大晦日までこもって原稿書きを行なっていて、守衛さんたちから「今日まで仕事ですか」と笑われていたのだが、大学には他にも大晦日まで仕事を行なっている先生方が毎年何人かいらっしゃるので、かなり変わり者であることは間違い無いのだが、唯一の変わり者では無いことを毎年確認してきたのだった。

 

Img_5572 ところが、母が亡くなって、幕張へ大晦日に泊まる口実がなくなり、大晦日を自宅で過ごすようになってくると、大掃除やら買い物やら、年の瀬に済ませなければならないことが目白押しで、研究室にこもっていた頃が懐かしいとさえ思えるのだった。

 

Img_5544 上野で開かれている「デトロイト美術館展」の切符があるよ、と娘が誘ってきたのを幸いと見て、程よい仕事の切れ目を潮時とし、朝には家を抜け出した。娘が以前本郷三丁目に住んでいた頃に、湯島近辺で美味しい料理店を開拓してあり、それを期待して、地下鉄の湯島駅で待ち合わせて、Img_5541 まずはフランス料理の店へランチ目指して行く。ところが、店には張り紙がしてあって、本日予約で満席だとのことだった。Img_5576 こんな調子だとイタリア料理のピッツアの店も同じ状態だろうということで、方針を変えて、近くの日本料理の店に早々に入ってしまう。金目鯛専門店だった。金目鯛丼膳を注文する。

 

Img_5552 湯島天神がその店を曲がった正面近くにあった。学業の神様なので、今年の商売繁昌を報告して、感謝のお参りをする。ここには、受験生たちの合格祈願が殺到していて、絵馬を掲げる立て看板がずらっと並んでいた。読んでみると、みんな欲張りで、T大、W大、K大、R大などとずらっと受験校を書いて、祈願していたのだ。Img_5556 でも中には、親御さんたちだけの絵馬が掲げられていて、息子や娘の合格祈願をそっと願っている絵馬があって、好ましかったのだ。それから泣かせたのは、教師の絵馬で教え子が目的の試験に受かったことを感謝していた。教え子のチカラは信じていても、あとは神頼みというところは、確かにあるのだ。

 

Img_5571 湯島から男坂、女坂を下って、枯れたハスの花が茫々と続く不忍池を迂回し、上野の「時の鐘」を遠望しながら、日本芸術院の隣にある「上野の森」美術館へ出る。Img_5562 印象派とドイツ表現主義を中心としたポピュラーな絵が目白押しだった。たとえば、代表となる作品は、何枚かある有名なゴッホの自画像の一枚がきていた。ゴーギャンやセザンヌなどもそれぞれ教科書に出てくるような作品の次に控えているようなものがそれぞれきていた。

 

Img_1817 今回の中で、長く眺めてしまったのは、オスカー・ココシュカの「エレサレム」と「エルベ川、ドレスデン」だ。近景と遠景が斜め上下に分けられていて、絶壁や川によって、中間が仕切られている。ココシュカの人生全体を表しているかのようだった。Koljerusalem けれども、この景色、とりわけ遠景部分は秀逸で、不思議な盛り上がりを見せている。ココシュカの絵画では、恋愛関係にあった有名なマーラー夫人を描いた「肖像画」や「風の花嫁」などの人物像をよく目にしていたので、これまであまり注目することがなかった。Img_5592 けれども、今回の二枚ともに風景画であり、なおかつ、近くと遠くを独特の世界観で描いていて、興味深いものだったのだ。娘は、マティスの「窓」が良かったらしい。この絵の中の椅子やテーブルや窓の一つ一つを見て行くと、何の変哲の無い普通のものが並んでいるに過ぎない。それぞれの絵だって、特別に素敵なわけでは無い。Img_1821 ところが、この絵の前に立つと全ての人びとに、これは「マティス」なのだとわかるのだ。この明確さは、なんなのだろうか。

 

Img_1839 正岡子規球場の前を通って、国立博物館前を横切り、芸大の喫茶店と赤煉瓦の建物群を横目で見ながら、突き当たりの和菓子屋さんで、抹茶と和菓子のセットをいただく。Img_1858 丹波の大納言のゼリーが美味しかった。そのまま根津まで散歩して、千代田線と副都心線、東横線と乗り継いで、横浜の帰路へついたのだ。年の瀬のギリギリの散歩だった。Img_1861 Img_1849 Img_5546 Img_1841 Img_1852 Img_1853

2016/12/23

映画「君の名は。」を観る

Poster 先日、パン日和「あをや」を訪れたときに、O先生と「あをや」のご夫妻それぞれ、アニメ映画「君の名は。」を今度見ましょうということになっていた。動機は不純で、なぜ現在の日本人がこぞって、このアニメを見たのか、ということを知りたいからだ、ということだ。今年の8月に封切られ、この12月の時点で、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」を抜いて、観客動員数と興行収入で日本のアニメ映画歴代1位となっていた。とくに、日常生活学者である、O先生は何故なのかを説明しなければならないという、義務感を強く抱くほどになっているとのことだった。そういうレベルまで達するほど人気が高く、2016年の一つの社会現象になっていたのだ。これは今年の、細やかではあるが、日本特有の事件ということになるであろう。

 

大方の見るところでは、今回の動員数増大の要因は、供給側にあるという、たとえば雑誌アエラなどの意見が有力な見方だとされている。新海監督作品の東宝の映画館にかける数が、前回は23館に止まっていたのが、今回は一気に300館に増えたから、販売力の強化が観客動員数に働いているものだ、という見解である。それじゃ、観客の方はどうだったのか、という疑問は残るのだ。

 

「出張先で映画を観る」シリーズの本年最終回を飾ったのは、この映画だった。いつも訪れる、四条にある京都シネマでは、最終回時間が早く、仕事が済むまでには、すべての回が上映開始していたこともあって、それならばというので、同じく四条にある京都マックスシネマへ、サンドウィッチと自前のコーヒーを持って駆けつける。客層がだいぶ異なり、わたしと世代のかなり異なる若者のカップルが多かったが、その中に混じって銀幕に集中して目を凝らしたのだった。京都では、やはり観光客であるという共通項があるので、世代の違いなどは超えてしまうところが良いところなのだ。

 

このような映画紹介では、ネタバレを注意しなければならないのだが、すでに8月公開であることもあって、またこれだけの観客動員数を誇れば、ある程度の筋書きは漏れている。そこで、ここではネタバレすれすれの最小限の情報を使うことをためらわずに行い、なぜ日本人が「君の名は。」をこれほど観たのかを僭越ながら考えてみたいと思う。

 

まず、このアニメ映画は前半と後半に分かれている。前半に感動したのか、それとも後半に感動したのか、という点で、見解は分かれるのではないかと思われる。前半は恋愛劇という普遍性を持っていて、これだけでも動員数はかなり稼いだと考えられる。後半は災害劇という特殊性を持っていて、現在の日本人全体へ影響を与える要素を濃厚に持っていると思われる。

 

前半の恋愛劇では、主人公の高校生男の子「タキ」と女の子「ミツハ」が夢の中で入れ替わる。片方は東京の男子校、もう片方は岐阜県の高校生で、それまで会ったことがない二人が夢を通じて、意識が入れ替わる。それぞれの人間の人格・肉体はそのままの状態を維持するが、行動する感性と理性がときどき代わってしまうという想定だ。もちろん、この設定自体は荒唐無稽な設定であることは明らかだ。

 

けれども、わたしたちにとって普遍的な状況が書き込まれていないとは言い切れない部分がこの映画の前半では表現されている。それは、他者が自分の意識の中に入ってくるときには、どのような状態になるのか、ということだ。たとえば、わたしの場合には、他者たとえば妻がわたしの意識の中に入ってきた時、どのような状態であったのかを思い出してみると、それはまさにふたりが同一状況を考える状態がそこに現われたという、普遍的な状況がそこには存在した。けれども、この時の記憶は一体誰の記憶なのだろうか、という単純な疑問は厳然と残るのだ。この普遍的なことを「入れ替わり」という状況で描いている点で、みんなの共感を得たと言えると思われる。この共感が一つのポイントであることは間違いないだろう。

 

けれども、映画の前半の恋愛劇以上に日本人の共感を呼んだのは、やはり後半の災害劇だったと思われる。第1に、ここ数十年の間にほぼ日本人全体ひとりひとりが何らかの災害に遭遇したという体験が蓄積されてきており、これらの災害はそれぞれ異なるけれども、共通して存在している日本人の間の「不確実さ」というものの共通感覚が存在するようになっているということだろう。この共通感覚をどのように表現したら良いのか、ということをみんなが求めていたということだ。あたかも空から降ってくるような、これらの災害を一体わたしたちはどのように受け止めたら良いのだろうかという、目の前の現実が日本人共通に存在するのだ。

 

第2に、災害でバラバラになってしまった都市や農山村・漁村が、もしもう一度何かを一緒に行おうと協力するのならば、そのときどのようなところまで降りていけば、その一致を見つけることができるだろうか。今もし日本人の心を一致させることができるとしたら、それはどのようなことなのだろうか、という社会の現状をうまくすくい取っている映画だと思われる。それぞれの災害体験は、異なるものであったけれども、日本人の共通体験の底にあるものが何なのかを、イラスト的に単純明快に、情報量を少なくズバッと描き出したのが、この映画なのではないかと思われるのだ。このことが後で考えてみれば、安易な描き方だと批判が出るのかもしれないのだが、少なくとも2016年のこの時期に必要とされた描き方だったと思われるのだ。

 

そして、災害の記憶という問題が提起されていた。記憶が残っていれば、バラバラになっても、それを結合する強い力が再生される可能性は残されているのだが、一度記憶が途絶えるならば、人と人の結びつきは完全に失われてしまうという、災害の現実があるのだ。

 

第3に、もしこの災害を避けることができたなら、その後の世界がどのようであっただろうかという、災害を受けた人びとの中には、現状維持したかったとする強い願望がある。これは今となっては、果てない願望かもしれないけれども、そして現実は映画のようには反転できないのかもしれないけれども、わたしたちの中には、限りない願望としてまだまだ残っている。これを胸にしまったままでいるよりは、何らかの方法で表に出した方が良いだろう。表現には限りはあるけれども、他方で限りないものを追求したいという強い欲求には止めることはできないものがある。

 

これらから考えるに、わたしの場合には、日本人の心を捉えたのは、やはり後半の災害劇のエピソードではないか、という結論となったのだ。もちろん、この災害劇は前半の恋愛劇と緊密に結びついてはいるのだが。さて、O先生と「あをや」のご夫妻はいかがでしょうか。

京都で博士課程のゼミを行う

Img_1800 博士後期課程の「経済学研究法」と「特定研究」の集中ゼミを京都で行って来た。京都学習センターでは、講義室が少なく限られているので、計画通りにゼミ室を取ることは難しい。そこで、学習センターの入っている、駅前のキャンパスプラザ京都の研修室を一日中借り切って、三日間に渡ってゼミを行ったのだ。島根、滋賀、大阪から加わってくる大学院生にとっては、駅前のビルは交通の便も良く、食事の心配もなく(一階に入っている「Kenya」は、学割が効くし、研修室まで出前してくれるのだ)、静かな空間が保証されている。

 

Img_5490 Fさん、Yさん、Hさんそれぞれにテーマは違っているのは、放送大学大学院的特性であって、縦に深く、さらに横に幅広くという大学の理念通りの課題を抱えており、好ましい議論ができる状況が現れたのだ。Img_1812 一人は消費者・生産者関係、一人は患者・医師関係、一人は被ケアラー・ケアラー関係で、内容や言葉はかなり異なるにもかかわらず、共通点もあって、大きな構図をみんなで描いているような気になってくる。朝から議論していて、気がつくと昼食となり、さらに気がつくと夕食の時間になっている。

 

Img_5511 そのうち、彼らの議論は査読論文などで現れてくると思われるが、それぞれの微妙に異なる点が他の人のテーマへ少なからず影響を与えていて、差異にこだわればこだわるほど、その差異が共通の課題となって現れてくるという、言葉で書いてしまうのは簡単だけれど、実際に現れてくると少し驚くようなことが起こっているのだ。Img_5515 この小さな差異となって現れる特殊な現象を一度解体して見ると、その底では原理的なところで結びついてくるという、意外な共通点が明らかになって来たのだった。

 

Img_5501 いくつかのキイポイントはあるのだが、それらは、消費者・生産者関係、患者・医師関係、被ケアラー・ケアラー関係のほぼ中間で問題になるという、きわめて普遍的な言葉で括ることができ、さらにそれぞれに異なる現象が生ずるところが面白いところだ。諸氏の健闘に期待したい。

 

Img_1807 ゼミの後には、京都で生まれ育ったHさんの紹介で、全面がガラス窓で、駅前広場が一望のもとに見ることができる、素敵なレストランへ入った。前に見える京都タワーが改装されたそうで、この塔のライトアップが当初は古い京都で違和感があったのだが、Img_5525 これだけの歴史を経ると、かえって京都のランドマークになっていると思われる。京都駅の成り立ちや、洛中洛外の話など雑談の方も盛んになった。このあといつものように、四条の方へ宿をとっていたので、夜には喫茶店「Kocsi」に出かけて、食後の甘い系統のパン数種と、コーヒーを飲んだ。Img_5519 Img_1808

2016/12/20

ラジオの最終収録

2017_4 年の瀬が迫ってくると、仕事もあらゆるものが最終を迎える。今日は、二年前からテキストを製作し、さらに今年度ラジオ講座を製作して来たものが、収録の最終回を迎えることになったのだ。『日本語アカデミックライティング』と題する放送大学のラジオ講座だ。書くことをとりわけ意識した論文作成講座なのだ。

 

ヨーロッパ経済史のK先生と日本語学のT先生が主任講師となって、天文学のY先生、教育社会学のI先生、そしてわたしが加わっての異なる専門領域の5名の先生による講座だ。先生方は、それぞれの専門領域で一家言を持つ方々ばかりなので、全ての番組に立ち会ったK先生とT先生は色々な意味でたいへんな思いで臨んだものと思われる。苦労が多かったラジオ制作だったと推察される。

 

けれども、こうして終わって見ると、かえって良いことばかりが思い出されて、多くの先生方と一緒に作る楽しさが思い返される。今回の中で、最も印象に残っているのは、番組の中へ挿入された対談者の言葉だ。

 

わたしは、今回おもしろいテーマをいただいて、二章分書いた。一つはこれまでも何回か書いたこともある「情報を調べる」という章であるのだが、これはこれで、今回書き直して色々と興味深いものがあったのだ。けれども、もう一つのテーマが変わっていて、「他者の言葉で書く」というものだった。この他者という言葉を使って、書くということを考えさせてくれるというので、二つ返事で飛びついたのだった。

 

それで、わたしの担当回の「他者と書くことの関係」についてはそれはそれで楽しかったのだが、それに加えて、今日の座談会でも、他の先生方からも興味深い話が飛び出して来たのだった。K先生のお話はとくに印象的だった。若い頃に漱石全集を購入して、日夜文体を真似したのだそうだ。そしてときには、字体までなぞったとのことだ。

 

もちろん、そのままを真似ること自体に意味があるのではなく、真似ることで自分の体内に文体や字体が浸透することが重要なのだ。おうむ返しのように、すぐに真似ることの結果を求めるのではなく、自分のものになったという確信が必要なのだ。他者が自分の中に入ってくるということは、思った以上に困難があり、これを克服しなければ、他者の言葉を使って書くなどということはできないということだろう。

 

じつはラジオにおける座談会は、時間との勝負のところがある。一人の話者が時間を取ってしまうと、他の話者は時間が少なくなるというジレンマがあるのだ。だから、何か言おうと考えている場合に、ふつうは自分のいうことだけを考えて発言すれば良いのだ。ところが、ラジオの座談会では、それこそ他者がこの次どのようなことを言うのかまで予想を立てつつ、発言しなければならない。今回の座談会では、この「他者」がどのように言うのかを意識しつつの座談会であり、時間がぴったりに終わったことから考えて、5人の先生方がそれぞれの発言ばかりか、他の4人の発言を考えながら、つまりは、他者の言葉を意識しながら座談会を行なったのだと推察されるのだ。


この時間のぴったり感は、文章を書くときには、すこぶる大事なものだと思われる。ぴったりしていれば、表現もぴったりするということだ。ぜひ来年4月から始まる『日本語アカデミックライティング』のラジオ放送を聴いていただければと思うのだ。

2016/12/12

触感の記憶について

 

Img_5467 五月に見てきた松本市美術館の子ども椅子展で、「座るのが好きなんです」という子どもを連れていた母親がいて、本源的な欲求として「座る」という趣味が存在することを改めて知った。寝ることと、立つことは人間の基本的な本能であることは、よく議論されるが「座ること」もやはり基本的な本能であると言えるのかもしれない。お尻が覚えている本能なのだ。

 

Img_5454 けれども、人間の姿勢の中でも、寝ることと立つことに比べると、動物たちとの対比ということになるのだが、座ることには何となく文化的な匂いがするような気がする。母親が椅子好きだから、また、いろいろな椅子を知っているから、座るという本能が開発されている子どもが存在するようにも思えるのだった。

 

Img_5463 じつは今日、ハンス・J・ウェグナーが北欧デンマークのPPモブラー社でデザインした椅子の展示が行われているというので、横浜から千葉への移動のときに、銀座で途中下車してアンティーク家具屋さんが並んでいる銀座の一角を訪ねた。「ダンスク・ムーベル・ギャラリー」という洒落た小さな展示室で、「クラフトマンシップの真髄」という展覧会だった。単なる見学のわたしにも、親切に解説してくださった。本来は、PPモブラー社の展示即売を目的としたものだっただろうけれども、このような催しは素人にとってありがたい。

 

Img_5469 エレベーターを降りて、展示室に入って、まず目立ったのは、主力とするラウンドチェアである「ザ・チェア」「ブルホーン・チェア」「カウホーン・チェア」だ。三脚並んで展示されていた。最初見たときに、真ん中の「ブルホーン・チェア」を食卓椅子の「エルボー・チェア」と間違えてしまっていて、なぜエルボー・チェアがこんなに大きいのか、質問してしまったのだ。Img_5473 素人のわたしに対して、鼻白む思いだっただろうけれど、顔色ひとつ変えない努力をしつつ応対してくださったのはありがたかった。もしかしたら、「ブルホーン・チェア」は鉄の足の食堂椅子の方をいうのかもしれないが、そうならばこちらは「ブル・チェア」というのだろうか。この角の肘木に特色があるのだ。

 

Img_5465 このような間違いを経て、かえってこの「ブルホーン・チェア」の素晴らしさをじっくりと見ることができたのだ。座ってみるとわかるのだが、食卓椅子と異なって、ラウンドチェア特有のゆったりした座り心地があって、とくに横の余裕が身体の自由度を保っていてちょうど良い。そして、何と言っても、肘木の部分がグッと前まで突き出ていて、同じくウェグナーがデザインした有名なYチェアのような中途半端さはないのだ。Img_5466 特に注目したのは、やはり「後脚」だ。以前にもこの欄でコメントし、さらにテレビ番組の中でも強調したことだが、Yチェアで有名になった、「斜め45度に柱が向いていて、二次元の素材を三次元的に見せる工夫」が施されている。しかも、Yチェアのように、細い木が使われているのでなく、たっぷりとした太い脚となっていて、さらに太い分だけ、木目が美しく現れていて、曲がった木がほんとうに綺麗だ。削りの手間に余念がないのだ。この椅子を見ただけでも、今日来た価値があったといえよう。

 

Img_5464 ザ・チェアは1964年のケネディ・ニクソンの大統領選挙時のテレビ討論のときに座っていた椅子で、その写真が有名である。わたしもテキストに取り上げさせてもらったくらいだ。脚に抜きを入れないでも、この堂々とした椅子のバランスを保っているという、北欧デザインの中核的な考え方が含まれている。

 

Img_5453 もちろん、他のウェグナー・デザインの事務椅子や食卓椅子も十分に素晴らしいのであるのだが、それにも増して存在感があるのだ。この三脚を一度に比較して座ることができたのはたいへんな収穫であった。さらに奥の部屋には、ウェグナーのデザインしたテーブルが置かれていて、Img_5455 その前には、独身者用の椅子として名を成した「バレット・チェア」が置かれていた。楽器のような、木の削りと組み合わせの精巧さを見せていて、その曲線に沿って思わず触って撫でて、それからそっと座ってしまったのだった。Img_5461 Img_5457

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。