2018/01/21

N先生のこと

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N先生が多摩川で自死したというニュースが流れた。N先生には、1973年ごろからほぼ10数年間に渡って、ゼミに参加させていただき、公私ともにお世話になった。学問上の影響を受けて独り立ちするまで、いつもの笑顔でもう駄目かと言われてしまうところまで面倒をみていただいた。わたしたちの結婚式にもご夫妻で出席いただき、いつもこのようなときにはそうであったように、テーブルの上で箸の袋にちょっとメモ書きして、ただちにスピーチしてくださったことも思い出される。また、わたしたちの新居祝いの日にたまたま、先輩のM氏を伴って八王子の山奥までいらっしゃって、お祝いの席は其処退けで、そのとき書かれていた論文内容の話をずっとしていたこともあった。 

 

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自死ということで印象に残っているのは、80年代当時ベストセラーの『機械の中の幽霊』を書いたA・ケストラーが英国の自宅で自死を選んで、ケストラー夫人も同時に亡くなったことが、ゼミの後に話題になった。遺書も立派な、決然とした自死だった。「意識がはっきりしていることが生きていることの証しだ」というようなことをN先生がおっしゃって、うっすらとではあるが印象に残っていた。N先生の奥様が亡くなってからも、このところ何回も復活していたから、今回もとは思っていたが、やはり思い描いたように生きたいという意識が強かったのではないだろうか。

 

 

 

2c11e2828786b9ea5e3467baa1ecb50c わたしはNゼミへは横浜国大の学部3年時から入り、たまたまゼミの後に、大学院へ行かないかと誘いを受けた。高校の教員になると言ったら、何とも言えない顔をなさった。わたしが4年生の時にN先生は東大へ移ったので、その後東大の大学院へ進んだ。わたしは大学院を出た後も、しばらく傑出した先輩たちのゼミの末席へ連なっていた。ゼミでは、いくつかの社会科学の大著を読んで細部にわたって議論した覚えがあるのだが、むしろゼミの後、そのまま近くの喫茶店(当時は中庭や二階のある旧い「ルオー」がまだ本郷に残っていた)あるいは酒場へ行っての議論の方が長く続いて、そのときの楽しさと厳しさが骨の髄にまで達する記憶として滲み込んでいる。

 

Unknown3 たとえば、当時わたしは玉川上水脇の借家に住んでいて、先輩たちの下宿も中央線沿線に多かったこともあって、駒場の白い会議室で議論し、場所を変えて井の頭公園の木洩れ陽の野外でゼミを行い、その後近くの他の東大の先生宅へ寄り、さらに吉祥寺と新宿(当時「ライブラ」という酒場によく寄った)で飲み屋をハシゴした。終電車を逃してしまい、線路をとぼとぼと歩いて帰った記憶も何回かある。日常の生活の中に社会科学で考えるべきことが隠れているということも、ゼミの中ではよく言われたことだった。

 

Images1 多くの著書の中でも、わたしにとって印象深いのは、やはりN先生の最初の単著であり、わたしの学部時代のNゼミでずっと取り上げてきた『ソシオ・エコノミックス』だ。雑誌「経済セミナー」連載論文の掲載時から、講義でも聴き、また何回も学部ゼミで議論してきたことで強烈な印象が残っている。それから、なぜか社会学のT・パーソンズに一生懸命に取り組んだ時代が何年かあって、これがN先生の中で最終的に結実したのが『知性の構造』だったのだと思われる。これも大方の批評は難しいということであったと思われるが、ゼミ参加者にとっては理解できる、N先生らしい特徴の出ている書物だと思う。けれども、もし百数十冊ある著書の中から1冊だけ選べと言われたならば、躊躇なくわたしは『妻と僕』を選ぶだろう。この点は、わたしの妻とも一致したのだった。妻はこの本か続編の本の中で、「妻と僕」の遺灰が森の中にまたは海辺近くにまかれることになっていることを思い出していた。

 

亡くなることには、このような思いがたくさん湧いてきて、それらが重なって一緒にくるものだ。また、それと同時に死というものには予兆ということもあって、じつは昨日の夢の中に、かなり若い時代のN先生が何十年かぶりに現れたこともあったのだった。夢や思いだけでは対応が冷たいと言う方もいらっしゃって、ここ当分わたしの中で、死ぬということと現実にとどまるということとの差異をかなり意識して生きていかなければならないだろうと思うのだった。(画像はAmazonから借りてきました。)

左右社HPの追悼文

2018/01/14

修士論文の面接審査

Img_0658 今読んでいる北欧ミステリー「警部ヴァランダー」シリーズの中の1冊で、警部が一つの事件を終えて、疲れ切って帰る場面がある。疲れてはいるものの、事件が解決されて、多少の完結した満足感は存在しているはずである。同僚の女性刑事が呼びかける。「どこへ行くんです?」「家に帰って寝る」ヴァランダーは言った。「疲れたよ。それに悲しい。すべてうまくいったのだが」彼の声に感じるものがあったのか、彼女はそれ以上質問しなかった。というシーンが出てきて、まさにこんな感じだなあと思ったのだった。

 

修士論文を読んでいる最中は、気分も高揚してきていて、この1年にどれだけの議論をしてきたのか、と面接審査を行いながら思い出にふけるのだ。今日一日、ずっと付き合ってくださった副査のK先生はブータンから帰ってきて、そのあとずっと修士論文を読んできてくださった。メモ用紙が溢れるほどにたくさん挟まった論文フォルダーを抱えていらっしゃったのだ。面接審査では、互いに声をかなりあげて、説明し対話を行い、議論を楽しむのだが、それが済むと、沈黙と空白の時間が訪れるのだ。

 

このとき、ちょっとなのだが、物悲しくなるのだ。何というわけではないのだが、達成感と裏腹の関係にある物悲しさなのである。論文作りに関心のない、陽気な人には理解できないものだ。すべてうまく行ったはずなのに、何と無く感ずる感情があるのだ。ある種の虚脱感、空虚感なのだと思う。今まで満たされていたものが、一挙に外へ出てしまって、ここには残されていないのだ。論文としては満たされているのだが、残された頭と肉体は空虚なのだ。

 

Img_0660 このままずっと平行線を続けてくれ、交わることなく、このままずっと走り続けてくれ、そうすれば、この感情からは自由になれることはわかっている。けれども、いずれ終わらなければならないときが来ることはわかっている。だから、メソメソせずに、さあ次の言葉へ移っていこう。そうすれば、自分の外の世界のあることも遂には理解できるし、自分の内の世界から逃れることもできるに違いないだろう。

 

今回提出された論文は、完全にその通りの題名ではないのだが、次のような内容のテーマだった。

 

公立図書館における公共・民間セクターの役割

日本のPFI事業のValue for Money

ワーク&バランスと生活時間の変移

オペラ活動とNPO法人

宗教における社会貢献活動

スローシティとまちづくり

行政信頼とソーシャルキャピタル

ソフトウェア産業と成長要因

六十年代安保と政治

中国の対日経済交流

 

でも、きっと2、3日が経つうちに、修論を終えた方々は、きっと警部ヴァランダーが次のように感じた境地にまた再び舞い戻ってくることだろう。「ヴァランダーはふたたび一人になった。いままでにないほど、リードベリ(ヴァランダーの相談相手だった先輩刑事)がいないことが残念に感じられた。『どんな場合にも、あと一つ質問があるはずだ』いつも繰り返し聞かされたリードベリの口癖だ。さて、いま、彼がまだもう一つ質問できるとすれば何だろう? 何が残っている? ヴァランダーはそれを探した」というところではないかと思われる。

 

2018/01/11

人間最初の道具はどのように形成されたのか

Img_0911 本郷で仕事の打ち合わせがあったのだが、その帰りに東大総合研究博物館へ寄ることにする。ここには江戸時代に加賀藩前田家があって、その名残の懐徳門近くに、この博物館施設がある。仕事で訪れた相手の先生が親切にも地図をプリントしてくださったのだ。

 

Img_0998 ホモ・ファーベル(つくる人)という、人間のひとつの定義の根源を探る問題があるのだ。 人間にとって、最初の道具は何か。諸説があるのだが、それが何だというよりは、やはり道具というものと人間との関係がどのようにして発達してきたのか、どのようにして「人間の道具」というものになりえたのかに興味がそそられるのだ。人間が自然の状態で人間であると考えられるのは生理的な理由ということになるであろう。直立して、手を使ったということになっている。Img_0920 けれども、手を使うことから、この手の延長として、道具を使うという人工的な人間の本質が現れてきたということが重要だと思われる。

 

Img_0932 先日のNHKニュースで、東大の諏訪元教授チームが数十年かけて、エチオピア発掘を行っていて、その展覧会が開催されていることを報じていた。その筋ではルロワ=グーランが指摘したことで著名な「握斧(hand axe)」の展示が年代を追って整理されているということだった。年代を追ってとはいえ、わたしたちの常識的な尺度ではなく、人類となりつつある歴史なので、およそ300万年くらいに渡る時間の中での展示だ。

 

Img_0926 「道具とは何か」という自明のことを考える機会はあまりない。産業社会に生きるわたしたちは情報機器をはじめとして、道具なしでは生活できない状況のもとにいる。人間から道具を取り去ったら、何が残るだろうかとさえ思うのだ。今回の展示は、それを考えさせられるのだ。Img_0922 最初に現れた人類の石器として、これら写真のゴナ遺跡のものが展示されていた。これらをみると、自然に破砕された礫片と、人為的に剝片を削った石器とを識別するのは難しいではないか、というほどの「道具」がありえたことがわかるのだ。

 

Katoh_1 今回の展示の中心は、最古のオルドワン石器から、人間のデザインということが認められるとするアシュール石器への変遷で、人間に何が起こったのかという点に尽きる。この展示で強調されていることは、剝片のパターン化という点である。岩から大型の剝片が素材として剥がされ、それらがいくつかの剥離する加工技術として定着していったことを示している。Img_0976 ここでも重要なことは、素材が先なのか、デザインが先なのか、という以前指摘した「資量形相論」が出てくるのだ。先日引用したインゴルドも左右社刊『メイキング』の中で、このハンドアックス問題を取り上げている。

 

Img_0935 問題はどこにあるのかというと、それはわたしたちの想像を超えるところにあるのだ。つまり、たいがいの方は、このエチオピアのコンソ遺跡から出土したアシュール石器の「ハンドアックス、ピック、クリーパー」3点セットを見て、確かに人類が作り出したものであり、そこに一定のデザインが創造されこれに関わっているいくつかのパターンを知ることができるのだ。Img_0962 だから、これらが人類最初のデザインだということは共通認識できるのだが、インゴルドによれば、それならばなぜ300万年間に渡って、これらのデザインが数種類に止まって、あまり変わらなかったのだろうか、ということが不思議な現象として浮かび上がってくるのだ。

 

Img_0969 逆にいえば、わたしたちの現代文化の下では、数十年の間には、道具はほとんど使い古され、革新されたら直ちにまた更新されるほど、技術進歩が激しいのが、人間社会の特徴だと考えられている。ところが、300万年に渡って、不変の道具が世界中で剝片文化として維持されてきたという事実があるのだ。Img_0979 道具を生み出し、何か新しいことを生み出すことが人間の本質だということから、かなり離れた認識をこれらのハンドアックスたちは提示していると考えることができるのではないだろうか。


 

Img_0945 問題は何かといえば、つくるということが自然からもたらされた素材に対して、人間の文化的パターンを忠実に転写することという、今日の産業社会の方法と同じだと考えると、このようなアシュール文化は生まれなかったということだ。300万年もの時間がかかって移行していった石器文化というものには、このような石器を生み出すデザイン能力はあったが、それを実行できない物理的・肉体的理由が存在していたのか、それとも、物理的・肉体的能力はあったが、技術的・デザイン的能力が劣っていたか、などの難点を克服する必要があったのだといえる。Img_0905 いずれにしても、遅々として進むか進まないかの中で、素材から剝片を削り、それを制御していく知的な作業の進化過程が必要であったのだといえる。新しいものを次々に生み出す中に、人間の文化が宿るのではなく、遅々として進まない、むしろ停滞しているとさえ見えるような、100万年規模の文化の在りようの中にこそ文化は宿るのだと教えているとさえ見えるのだ。


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帰りに、エチオピアに敬意を評して、いつもの焙煎の店によって、「エチオピア・ハロバルディ」のコーヒー豆を購入して一息をついた。

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2018/01/08

ゼミ研修旅行で宇治の平等院へ行く

Img_0807 ゼミ合宿の熱が冷めやらぬうちに、論文に向かうのが良いだろう。とは思われるのだが、京都にきたからには、やはり仏様にお祈りしてから書けば、ご利益もますのではと考え、かねてより放送大学のM先生にお願いして、平等院を訪れることにしていた。Img_0806 M先生は昨年の4月から、奈良女子大から放送大学へ移って来られた。平等院塔頭の最勝院ご住職なのだ。お正月早々であったので、ご家族の方々にご迷惑ではとは考えたのだが、お話をすると、快く承諾してくださったので、ゼミの方々を連れて、午前中早々に宇治へ参拝となったのだった。

 

Img_0799 平等院の正門でM先生が出迎えてくださった。あいにくの雨がむしろ幸いして、いつもならば見学者の列がずっと並ぶところ、まだまだ少なかったのだ。正門を入って、平等院を左手に見て、まず連れて行っていただいたのが最勝院で、門がとにかく古く、紫の垂れ幕がよく似合う。Img_0798 左手に源頼政の墓があり、お不動さんのお堂が連なる。最勝院の玄関を入って、左手には苔が雨に濡れて光り輝いている中庭があり、縁側には和風のラウンドチェアが2脚おかれていて、静かな佇まいだ。奥様にご挨拶して、お茶とお団子をいただく。

 

Img_0810 平等院鳳凰堂では、あらかじめM先生が10時30分の拝観予約の切符をとってくださってあり、直ちに入堂させていただいた。鳳凰堂には、仏師「定朝」作である阿弥陀仏を中心として、雲中菩薩像52体が祀られてあり、極楽を現出させている。Img_0815 また、壁絵には、貴き人も賤しき人もそれぞれ極楽浄土へ召される図が階級ごとに描かれていているのだが、じつはどれも平等な召されかたであることを印象づけている。この壁絵を見ると、死は万人に平等であるという、平等院の名称の由来?がわかる仕組みになっているのだ。説明をお聞きしているうちに、やはり気になってくるのは、自分自身の死のイメージだ。「何もない」というイメージがこれまで占めていたのだが、「何か雲の上からやってくる」という死のイメージも悪くないことがわかる。

 

Img_0816 鳳凰堂の正面にまわる。十円玉に描かれている有名な、池に映る景色を堪能する。そして、鳳凰堂の中心に火が入ると、正面の扉に丸く開けられた穴を通じて、阿弥陀仏の顔が浮かび上がってくる仕組みに気づく。写真のシャッター音がしばし鳴り止まなかったのだ。鳳凰堂の向かって左手が宇治川の河岸段丘になっていて、その中がくり抜かれて、コンクリートで内部が固められたミュージアムが現れる。外からはまったくわからないほどの自然さだ。Img_0818 一番下に入口があって、釣鐘や雲中菩薩像を間近に見ながら、登っていくと河岸段丘の一番上にある出口に到達するように、デザインされている。印象に残ったのは、雲中菩薩像で、本堂に半分の26体があり、このミュージアムに残りの26体がある。この中で、死の行列のイメージの中でも、真っ先に現れる菩薩をじっくりと瞼に焼き付けたのだった。

 

Img_0820 これらの雲中菩薩像は、定朝の工房が制作に当たったらしい。発想からすると唐突ではあるのだが、工房製作の利点は、画一性よりも多様性だと思う。Img_0851 52体もの菩薩像を作り分けなければならない。一人で彫刻するならば、同じパターンになってしまうだろう。けれども、複数の弟子たちが腕を競い合って製作しており、その多様な像に自分を象徴するものを投影するものが必ず見つかると思わせるものがあるのだ。

 

Img_0850 M先生と奥様にお礼とご挨拶をして、門前に並ぶお茶屋さんの一つ、中村藤吉にて食事。宇治川に面していて、雨で増水しだくだくと乱れた流れを見ながら、鰊茶そばとスイーツをいただく。裏門から出ると、宇治川の沿岸沿いの歩道に出る。Img_0841 この土手道に沿って、平等院と宇治川の中間に民家が一列に並んでいるのだが、昔はおそらく平等院から直接宇治川を望むことができたのだろう。その一軒が和風に改装されて、今は珈琲店スターバックスとなっている。昔はさる方に囲われたひと(女)の住まいだったそうだ。

 

Img_0845 宇治川の奥の方に煙って観える悠久なる眺望を楽しみながら、朱色の橋を渡る。観光客がちらほらして、源氏物語の宇治十帖の舞台があちこちに現れる。宇治にあるもう一つの世界遺産である宇治上神社と宇治神社が道なりに出現する。Img_0855 ゼミの方々は、仏ばかりか神様にまでお願いしたからには、ずいぶんと霊験あらたかな論文が出来上がるのだろう。わたしの原稿についても、決して神まかせにするつもりではないのだが、ついでに成就祈願を行った次第だ。

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2018/01/07

大学院ゼミナールと懇親会を行った

Img_0767 朝起きて、京都おばんざい風の食事を摂り、いつものように部屋でコーヒーを淹れた。今日1日は長丁場になるので、ポット入りのコーヒーは必需品だ。眠け覚しだとは決して言わない。やはり、10時から夜の11時過ぎまでの長時間の議論の中では、時々ではあるのだが、エアポケットに吸い込まれる感覚の時があり、ぼーっとしてしまう。Img_0770 おそらく老化現象の一つだと思われるのだが、このような時には、ちょっとの苦味と気付が必要なのだと思っている。コーヒーを旅行先で淹れる時には、いつもはプラスティック製のロートを持ち歩くのであるが、今回は紙製のロートを用意できたので、これを駆使したのだ。

 

Img_0768 宿泊場所から出ると、冷たい小雨が降っていたので、まだ準備中の錦小路を辿って、地下鉄の四条駅に出る。徒歩5分、地下鉄5分、徒歩で3分で、駅前のキャンパスプラザへ着く。すでに、学生の方々が揃っていて、早急にパソコンやプロジェクターを準備して、机をコの字型に並べ替えて、それぞれの発表へと入っていく。

 

Img_0769 さあ、「答えはすべてこの中にあるはず。でもわたしたちにはそれが見えない」と北欧ミステリーも呟いている。それにメゲることなく、一つ一つ討論の俎上に乗せていこう。

 

Img_0772 M1の方々の今回のテーマも多様な領域に及んでいて、楽しい。また、今回の発表会には、OBの修士修了生たちも5名、H氏、Y氏、F氏、K氏、そしてTさんが加わった。さらに、卒論生も1名T氏が参加した。

 



「現代社会における消費者哲学に関する研究」

「地域における大型社会基盤事業と非公式組織に関する研究」

「貿易自由化(グローバル化)と産業・企業との関係について」

「さいたま市の第三セクターにおける考察」 

「災害における人間の安全保障」

「観光とサンゴ礁保護手段の環境経済学的研究」 

「消防小隊隊員間で共有されるソーシャルキャピタルの研究」

 

Img_0778 昼食の時間もそこそこに、議論は夕方まで続いた。今回の課題が、論文の中核についての予備的な考察を行うことということだったので、結論を意識した自分の論文へのコメントが中心となった。Img_0781 多くの方々が、転地によるゼミ開催の効果を認めてくださった。ちょうど論文作成の転換期であることも手伝って、いつもと異なる雰囲気のもとで、自分の論文作成を十分に振り返ってみる、ちょうど良い機会となったことだろう。

 

Img_0785 幹事のK氏とH氏の奮闘によって、忙しい中、懇親会の準備を行なってくださった。キャンパスプラザの1階にあるイタリアンの店「ケニヤ」が会場となった。いつもは昼食を取りに入るところだ。Img_0787 二方にガラス張りのテラスになっていて、会場は極めて開かれた感じの素晴らしい場所での開催となった。アルコール類も持ち込みが自由なので、幹事の方々が昼食時を利用して、近くまで買い出しに行ってくださったのだ。2時間の時間いっぱいまで、それぞれのお話と雑談が続いたのだった。

 

Img_0790 明日も研修旅行があるので、京都に泊まる方々中心に近くのビルの3階にあるBarにて、二次会を催した。この頃になってくると、アルコールも程よく回ってきて、雑談もいろいろな方向へ移って行くことになった。Barの静けさが、京都にいることを感じさせたのだった。わたしたちの話し声だけがガラス窓に響いているようだった。Img_0789

 

 

 

 

2018/01/06

仕事始めの京都合宿

Img_0727 今年も仕事始めは、京都からだ。修士論文審査と大学院ゼミナールが開かれる。往きの新幹線の中では、相変わらず北欧ミステリー「ヴァランダー警部」が時間を埋めてくれた。曰く「この事件には、パターンがない。自動車事故に見せかけた父親の弁護士が殺された事件と、数週間後息子の弁護士が銃殺された事件の間には、目に見える関連性はない。息子の死は父親の死の結果に続くものとは限らない。順序が逆かもしれない。リードベリーが最後の頃に言った言葉を思い出す。殺人事件の捜査で暗礁に乗り上げたときのことだ。『原因が結果の後からわかる場合もある。いつでも原因の後に結果があるわけではない。警察官は逆も考えることができなければならない』」という、仕事始めから、何やら波乱含みのスタートとなる予感があった。

 

Img_0737 今年も、不確実で、ちょっと先が闇の世界が支配している状態から出発するというご託宣だ。修士論文に取り掛かったころには、みんなが感ずるのは、このような不確実性だ。何が原因で、何が結果なのかわからない。それどころか、事実の過大な姿に圧倒され、原因・結果を考えることすら、忘れるくらいだったことだろう。このようなときに、どれだけ柔軟な考え方ができるかが、かなり重要なことだ。

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今年は、この半月間で17本の修士論文審査を行う予定になっている。まずは、関西方面の方々から提出された4本を今日審査しなければならない。多彩な論文が並んだ。

 

日本の生産力の変化と就業形態の変化と高齢化

ワイマル共和国のもとでのナチス台頭

地方空港のナイトスティ機とストロー効果

企業におけるインターンシップの有効性

 

Img_0740 放送大学では、学生が論文テーマを選択し指定するために、盛り沢山と感ずるくらい多様な論題がどうしても多くなってくるのは仕方ないことである。この中で、経済とは関係ないと思われる「ワイマル共和国のもとでのナチス台頭」がなぜわたしの審査を受けるのか、不思議に思う向きもあるかもしれない。簡単にいえば、学生はプログラム全体で承認されるので、その後どの先生が担当するのかは、かなり未知数なのだ。けれども、当時の経済的・政治的社会構造については、十分に社会経済学のテーマになりうることはわかっていた。

 

Img_0755 わたしは、阪大にいた友人の故K君がフランクフルト学派だったので、何度かアドルノやハーバマスやアーレントの議論は行っていて、今回も昔懐かしい議論を振り返ってみたかったということがあったのだ。それを楽しみにして引き受けることになった。Img_0746 今回の論文の作成者Ka氏は期待通りに、大著を次々に読みこなし、それらを丁寧に読み解いて、緻密な修士論文を完成させたのだった。Img_0753 近年の海外文献を多少議論し残したのは残念だったのだが、それでもわたしにとっても、たいへん興味深い内容の議論ができたのだった。わたしにとってもK君との思い出が至る所で呼び起こされて、不思議な体験を何回も受けたのだった。論文作成には、このような覚醒の効用のあることも知ったのだ。

 

Img_0749 今日はまだ4本だったので、夕方の京都散歩を楽しむ余裕ができた。K君と会うときに利用していた料理屋が、またオーナーが変わっていて、地元のビールを出す店になっていた。様子を見ながら、いつも座った賀茂川に近い中庭に席を占める。一乗寺ブリューワリーという地ビールIPAを頼み、K君との議論を思い出したのだった。ビールは旨かったのだが、ピザがそれほどではなかったので、場所を変えて食事を探す。

 

Img_0757 一人で食事をするところは限られていて、やはり長く落ち着けるところにおさまることになる。年末にも過ごした姉小路のKocsiへ向かう。4人掛けのゆったりした席を一人のために用意してくださった。ここの食事は、パンを基本としていることもあって、スープやシチューなどの日替わり料理が多いのだが、中には今まであまり挑戦したことのないものもメニューにあって楽しめる。Img_0759 今回はアヒージョを選んだ。「ベーコンとキノコのアヒージョ」で、ニンニクの効いた汁にパンをつけて食べたら、という趣向だ。グツグツと煮えたぎった小皿が届いて、オリーブオイルがたっぷりと入っている。Img_0762 本来のニンニクの強烈さは、実は次の日になってようやく身体に現れるほど、密やかなものだった。この料理でも、そして今年全体を占って見ても、「原因」と「結果」が後からわかるような、一年の始まりとなったのであった。Img_0731_2 Img_0734

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2018/01/01

謹賀新年

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2017/12/31

今年も押し詰まってきた、静かな年の瀬だ

Img_0661 今年も押し詰まってきた。この1年間にとりわけ時間を割いたのは、自分の仕事だが、それ以外のボランティアとして、放送大学の「過半数代表者」という労働活動だ。放送大学のような労働組合のない職場では、職員・労働者の立場を代表して、就業規則改正などに署名する無償奉仕の役職だ。労働基準法に定められている。ただし、今年は労働契約法問題があった。

 

周りの人びとには、なぜそんな歳になって、労働争議などに加わらなければならないのか、と多くの不評と少しの賞賛をかっていたのだ。ふつう、このような労働活動には体力がいるので、若手の「職員・労働者」が大学から指名されて、いやいやながら行うのが相場だ。自ら進んで行う、しかも定年間近な人はいない。

 

なぜ行ったのかといえば、やはり社会科学を学んできて、机の上以外でどのくらいのことができるのか、ということだと思っている。1年間という限定的な活動なので、かなり限られた、威力の少ないものになることは当初から予想されたのだが、限定的な中で、どれほどのことができるのかが勝負だった。相変わらず、自分の人生と社会との関わりを凝視し動かしてみたいという自分の癖が出たのだと思われる。

 

ところがやはり、自分ではそう思っていても、社会に出て行う活動には、どうしても他者の人生を左右してしまうということがあるために、その結果については重い責任を負い、辛く感ずることが多いのも現実であった。ある種の運動だからして、多少の勝ち負けの感覚はあり、戦闘性ということが求められるために、気分の高揚は避けることができなかった。したがって、たとえ勝利があったとしても、それはかなり苦い、繰り返すがさらに苦い苦いものであったと告白せざるをえない。

 

実際の内容については、全「職員・労働者」に向けてのお知らせで述べたので、ここで述べることはないのだが、そのことに関係しない点で、別の苦い敗北感を持った例ならば、ここでも書いても許されるだろう。

 

国会で「退職金諸法案」というのが11月に通った。簡単にいえば、それは退職金のプールが足りなくなってきたので、国家公務員の退職金を直ちに切り下げたいというものだ。放送大学ではこれまでの慣例として、給与や退職金などに関して、国家公務員に準ずる措置が取られることになっていた。放送大学は、「特別な私立大学」なので、この法律に従う義務はないのだが、慣習としてそうなっているらしいのだ。それで、過半数代表者が呼ばれ、ここに署名してくれと求められたのだ。

 

新聞によると、この措置によって、国家公務員の退職金は平均75万円くらい引き下げられることになるのだそうだ。結構な大金が減らされる。つまり、これに署名した途端に、わずか数年後に迫ったわたし自身の退職金が、どんと減らされることになり、そのことにここで署名せよということなのだ。あっという間に目の前で、75万円が消えてしまうという悪夢を見なければならないというのだ。

 

その場では、「なんという巡り合わせなのだ」と呟いてしまったくらいなのだ。慰めてくれているのだろうが、総務課の若手の職員の方は、僕らはもっと将来減らされますよ、というのだが、まだ実感はないだろう。言葉は悪くなるが、負の「宝くじ」に当たったような、「もってけ! 〇〇」という気分だったのだ。

 

おそらく、今までの過半数代表者の方もそうだったと思われるが、放送大学は私立なのだから、慣例とはいえ、これだけ補助金が減ってきていて独立採算の可能性を求められているのだから、そろそろ近い将来には、国家公務員に準じなくても良いと一言書いて置くことも必要になってきている。今後も、人件費削減案が目白押しなので、もう少しの任期になったとはいえ、憂鬱な日々が続くのだ。このように、お金で済む問題ならばまだ良いのだが、そうでないことが起こるともっと苦い日々となる。借りをつくって生きるのが人間の特性なのだということだと諦めなければならないのだろうか。

 

山之口獏の「年越しの詩」をよんで、気分を紛らせた。

 

詩人というその相場が

すぐに貧乏と出てくるのだ

ざんねんながらぼくもぴいぴいなので

その点詩人の資格があるわけで

至るところに借りをつくり

質屋ののれんもくぐったりするのだ

書く詩も借金の詩であったり

詩人としてはまるで

貧乏ものとか借金ものとか

質屋ものとかの専門みたいな

詩人なのだ

ぼくはこんなぼくのことをおもいうかべて

火のない火鉢に手をかざしていたのだが

ことしはこれが

入れじまいだとつぶやきながら

風呂敷包に手をかけると

恥かきじまいだと女房が手伝った

 

Img_0664 大晦日の最後の最後に、英国のサッカーチーム、マンチェスターシティの19連勝の記録のかかっている英国プレミアリーグ「マンチェスターシティ対クリスタルパレス」戦を見ていた。クリスタルパレスが意地を見せた、引き分けの熱戦だった。ところが、試合の終了近くになって、わたしの好きな選手のデブライネ選手が反則にあって、足を負傷し担架で退場してしまった。パスがうまく決まるのがサッカーでは重要な要素だとわたしは思っていて、デブライネはこの直感的なパスのうまい人で、ずっと今年は眺めていたのだが、ざんねんな出来事だった。デブライネには、早く怪我を克服してパス回しの輪に戻って欲しいと切に祈ったのだ。こんなこともあったにもかかわらず、またマンチェスターシティの連勝ストップということでも、選手たちや監督が顔色ひとつ変えないで、試合後相手の監督、選手と激励しあい、互いの肩を叩いていたことにも感動したのだった。

2017/12/26

『都市と農山村からみる身近な経済』が出来上がってきた

Img_3696_0000 島根大学I先生、近畿大学のS先生とA先生が主任講師で、わたしが分担講師として加わっている、放送大学のテキスト『都市と農山村からみる身近な経済』が出来上がって送られてきた。何と最速で印刷された(わたしの経験内でのことだが)テキストだ。今までで、年内に受け取ったのは初めてだった。

 

今回、この4人で制作したことには、意味があるのだ。I先生がうまくまとめてくださっているので、「まえがき」の最後の部分を引用したい。

 

Img_3697_0001 「我々四名が放送大学において知己を得、本書を共同執筆することになったきっかけは、故林敏彦先生(元放送大学教授)が自身のゼミにおいて、学生たちを分担指導する仕組みを整えられたことによるものである。林先生は20174月に74歳の若さでご逝去された。林先生の教育・研究のスタンスは林ゼミで体現され、我々はそこに参加し自由闊達な議論の中から多くのことを学んだ。そういう意味で、本書は林ゼミの一つの産物でもあると思う。林先生の学恩に思いを致し、ご冥福を心からお祈りしたい」


2018年度4月からの新規科目なので、一度手にとって、ご覧ください。ラジオでは、講師たちが会話形式で収録を行っている。

 

2017/12/22

年末恒例、博士後期課程の京都合宿

Img_0588 今年も年末恒例となった博士後期課程合宿が京都で始まった。今年度の修士論文提出締切が先週あって、M2の全員の方14名が提出したと報告があった。みなさん、頑張りましたね。Img_0585 それに加えて、副査を担当する分の6名の修士論文が送付されてきたから、年末には20論文を読むことになる。修士論文の20の想念をそのまま頭の中には止めた状態で、身体だけは宙を滑るように飛んで、京都に来ている。

 

Img_0586 合宿の1日目は、4人の方が発表し合うことで約8時間くらいかかり、世界の縮図がわたしたちの頭の中に住みついたかのように思える時間だったのだ。2日目からは、経済学研究法という授業で、2名参加者で、朝9時から夜9時まで部屋をとった。3日目にはやはり朝9時から午後3時まで行った。Img_0644 とはいえ、多少途中で早めに終わらせたりしたために、合計24時間くらいの合宿となった。アイディアの世界だけで満たされた世界のあることを実感する。24時間が「浦島太郎的時間」となったのである。

 

Img_0607 2日目と3日目の授業では、文献研究だったので、それぞれ自宅での自習時間がそれに加わり、全体では、2日間だけのメニューに限れば、この自習時間を加えて、2単位分の22時間を優に超えて時間を費やしたことになる。3人だけで1室に籠って、2日間をしゃべり続けるという世界があるのだ。学生にとっては約30時間以上、わたしにとっても、かなりハードな授業だと思うのだ。Img_0608 彼らの場合自習時間とはいえ、全体で500ページを超える大著をテキストに選んでいるので、1日100ページずつ2時間かけて読んだとしても、5日かかるし、参加したS氏のように関連論文に目を通すとなると、準備だけで1週間はかかってしまうだろう。年末に行うことが妥当な授業といえよう。

 

Img_0611 今回の文献研究では、ひとつの現象を二面性でみていくという態度を改めてみようと考えた。三面あるいは場合によっては、3層構造で考えていくことを3人で行ってみたのだ。Img_0618 このように、二面構造を三面構造にするには、結局平面を立体で考えることになるので、二面の間に中間を設けたり、二面と異なるレベルをもうひとつ外に設定するなどの、これまでの考えをもう一度ひっくり返す必要が生ずることになる。

 

Img_0620 このようなたっぷりした時間の流れの中でしか試すことのできない、貴重な体験なのであった。時間に余裕が出て来たときにのみできることであり、3人で底の底まで降りて行ったという自負が生まれたのだ。これをさらに遡るのは個人的に行わなければならないのだが、このように複雑化させ、形而上的なやり方に凝ってしまうのも、やはりこの場だからこそ行われたのに違いないだろう。

 

Img_0622 授業を午後3時に終了させて、ゼミ全体をまとめ、評価簿を書かなければならない。そのまま京都に滞在した。二日目には夜になっても、ゼミの熱気が冷めないので、京都に来たら必ずよる喫茶店「Kosci」へいく。じつはゆうべも夜になってから来たのだが、あいにく満席で入れなかったのだ。今日は、クリスマス・イブなので、ひとりで過ごす人はそんなにいないだろうと考えたのだ。窓際のゆったりした席を取ることができた。やはり、ゼミの最中では頭に血が登ってしまっていて、これが少し冷めないと正常な仕事には入れない。

 

Img_0623 最初にアーモンドのかかった栗のペーストの入ったパンとコーヒーを頼む。持って来た北欧ミステリーのH・マンケル著、刑事ヴァランダーシリーズの中に、ヴァランダーが捜査の行き詰まったときに相談する、故人で年上の同僚リードベリーがいる。これが、いつも適切なアドバイスを行っていて、素晴らしい。たとえば、「振り出しに戻った」とリードベリーなら言っただろう。「空白や不明瞭な点はそのままにしておくのだ。お前さんがはっきりわかっていることから始めるがいい」と言ってくれるのだ。そして、ここだというところでは、「あり得ないと思うところでも関係性を探すのだ」とはリードベリーがしばしば言っている言葉なのだ。

 

Img_0619 まさに、今日のゼミ参加者たちに贈る言葉はこれなのだ。わたしのところに降りてこずに、みんなのところへ降りてくれと言いたい。この頃には、ちょうどお腹も空いて来て、本日のさつまいもの温かいスープと、パンとサラダを注文する。もちろん、収穫の多いときには、ワインが必要だ。窓の外には、雨が降り出して、雪になりそうな雲行きとなった。このたっぷりした、京都的まったりさには感謝したい。5時間ほど止まったのだが、まったく席を立ちたいと思わないサービスが素敵だった。帰りに、感謝を述べて持ち帰りのパンを購入すると、おまけにもうひとつのパンを紙袋に入れてくれたのだ。パンをかじりながら、北欧ミステリーをついに読みきったのだ。

 

Img_0639 次の日の午前中、整理すべき今回のゼミのことが意外に多く、ずっとホテルで作業を行った。このようなとき、チェックアウトの時間が遅いところは助かる。昼食は、ここも毎年おなじみとなった、1年には一回食べたいと思う、菜根譚「雪梅花」へいく。担々麺がおすすめなのだ。濃厚な味と辛味が寒さに効く。Img_0637 Img_0633 Img_0629

 










640 新幹線までにかなり時間が余ったので、四条へ出て、京都シネマを覗くと、映画「わすれ草」がかかっていた。60年代の学生運動で、女性闘士だった人がアルツハイマー病にかかり、息子がドキュメンタリー作家として撮った映像だ。印象的だったのは、昔のことは覚えているのだが、近年のことが駄目なのはわかっているのだが、それで過去のことだけでもやはり人間は生きられないという現実だ。6401 いずれ、自分にもやってくる状態なので、そのときどのようになるのか、たいへん憂鬱である。とともに、そうなったら記憶がなくなるから、周りのことさえなければ、意外に幸せなのかもしれないとつい思ってしまう楽観主義の自分も見つけたのだった。Img_0601 実際には、この映画の中で、かなり辛い最後がある。

 

Img_0641 帰りの新幹線では、これもいつものように、カツサンドとコーヒーを飲食し、北欧ミステリーは昨夜読了してしまっていたので、用意していたプリントを楽しみながら、今回の合宿旅行を終わりにすることにしたのだった。

 

 

 

2017/12/21

横須賀美術館で伊藤久三郎展を観る

Img_0504 午前中、放送大学総務課から呼び出しがあって、東京文京学習センターの中にある放送大学の東京オフィスで会合があった。余裕のある時間に家を出たのであるが、京急線が遅れてしまって、品川近辺で止まってしまったのだ。一つの電車が遅れると、玉突き式に次々に乗り換える電車ごとに遅れてしまい、途中挽回できないまま、ついに遅刻してしまった。案の定、そのあとは悪いことが続いた。

 

Img_0445 午後、失地を回復しようと、かねてより妻と約束していた横須賀美術館行きを実行に移す。本来であれば、逗子市にあるいつもの店へ、美味しいパスタとピザを食べに回るのであるが、その店が残念なことに秋に閉店となってしまったのだ。それで、今回は美術館の中にある、イタリアンの店に変えたのだった。まずは腹拵えしてからということで、ランチで混んでいる店へ入る。海鮮の具が美味しかった。

 

Img_0512 企画展は、京都の抽象画家の伊藤久三郎だ。普段観ることのできない、個人蔵のものや、他の美術館からの出展のものも多く、充実した展覧会だった。全部を見終わってから、妻と珍しく意見が一致したのだった。それは初期の頃の作品がよかった、という感想だった。もちろん、単なる感想なので、観る人がみれば、やはり後期の抽象度の高い「キャタピラー」や意味不可解な「KOPFFUSSER」の方に軍配が上がるのだろうが、印象は印象なのだ。

 

Img_0507 初期のものにも、抽象画と同じようなモチーフが出てくるのだが、最初の方が活き活きとしているように思えるのだった。たとえば、灰色の使い方に独特なところがある。初期には、思わず灰色なのだが、後期になると意識的・意図的に使われた灰色が濃厚になってくるのだった。

 

Img_0501 日が落ちるまで、まだ時間があったので、美術館の図書室で資料を散策する。年賀状の図柄を決めていたのだが、なんとなく地味な感じがしていた。ここの資料室には、英国ウィリアム・モリスのケルムスコット書の数万円する復刻版がおいてあった。Img_0519 それを見て行くと、大方は見たことがあったものなのだが、一つ晴れやかな真っ赤な花のついたNのイニシャルをかたどったものが急に目の前に現れたのだった。これを来年の年賀状にしようと決める。コピーを撮ろうとすると、カラーコピーは行っていないというのだ。それでも、なんとか手に入れて、来年の図柄が決定されたのだった。

 

Img_0462 それから、モリスのデザイン書の隣には、たぶんこの横須賀美術館でも企画展が開かれたことがある、イタリアのブルーノ・ムナーリの絵本がおかれていて、その中の詩が素敵だったのだ。

 

子どもの心を 一生のあいだ

自分の中に持ち続けるということは

知りたいという好奇心や

わかる喜び

伝えたいという気持ちを

持ち続けるということ

 

ブルーノ・ムナーリ

 

第1に、「知りたいという好奇心」、第2に、「わかる喜び」、第3に、「伝えたいという気持ち」というまさに三段階説が実現されている詩なのだ。僭越ながら、同じことを考える人が時空を超えているのだな、と共感してしまったのだった。


Img_0463Img_0469Img_0439 Img_0475 Img_0465 Img_0563

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なぜか、横須賀へ来ると、帰りのバスはしあわせのバスとなる。富士山が見えようが、見えなかろうが関係なしに、海岸は波を作り出しているし、ヤシの木は風をいっぱいに受けているし、街は人の息吹を自然に伝えているのを観ることになって、帰りの電車はアイディアをエネルギーとして、それこそこの時とばかりにガタピシと動き出して行くのだった。

 

2017/12/20

予てから企てていた「ウィスキーレモン」をつくる

Img_0386 わたしの本を編集してくださった編集者Tさんがやはり左右社で編集した本、『makingつくること』(T・インゴルド著)を読んでいたら、対照(co-responce)という言葉に出会った。意味からすれば、「共呼応」という、二つの対象が互いに共鳴しあって、物事を作り出していく意味に相当すると思われる。Img_0398 つくることは、つくる人と対象物との間の相互に感入する関係だということだ。この観点は、何も新しい考え方でなく、プラトン=アリストテレス以来の「質量形相論」で「個体というものがいかに形成されるのか」という議論の延長線上にあるものだ。衒学的ではあるのだが、改めてアリストテレスの『形而上学』の新訳を購入して、読み直した次第だ。これは次に書く本で、使いたい題材となった。

 

Img_0396 秋に、松本市にあるコンフィチュールの店、シェモモのM氏からおおよそのことを聞いたのちは、「ウィスキーレモン」なるコンフィチュールに憑かれている。このところずっと、これを自分でつくる機会を狙っていた。パンにつけて食べるのに、甘さばかりでなく、苦味と酸味の効いたものが欲しくなってきたのだ。シェモモでもときどき製造しているそうで、そのタイミングに店へ行けば手に入るのだし、Img_0406 また、通信販売という手もあるが、その場合自分でつくる機会を逃してしまうことになる。まずは自分で作ってから、シェモモの「ウィスキーとレモンのコンフィチュール」の購入を考えることにしよう。

 

Img_0392 シェモモではレモンは瀬戸内海産と言っていたのだが、それで、もし自分でつくるとしたならば、「レモン」という素材をいかに手に入れるかがキイポイントとなる。外国産のレモンにはモノカルチャア的な栽培法が取られており、そのため大量生産に有利なポストハーベストの薬が使われていて、ジャムを作るには不向きであることは知られている。Img_0391 また同様に、長期に運搬されるために、ワックスがかかっていて、レモンの皮そのものを使いたいようなマーマレードを作るには、やはり日本産で、ワックスのほとんどかかっていないレモンを探さなければならなかった。

 

Img_0411 もちろん通信販売の発達している現代なので、すぐにもインターネットで無農薬レモンは見つかるのだが、それらは3キロとか5キロとか、少なくとも1キロ以上は購入しなければならず、運送費だけでもままならない費用となるらしい。レモンという対象物にかなりの思い入れと購入のための手間暇をかけなければならないことを、思い知った次第なのであった。まずは、「質量」たる素材に、つくることが支配されていることを実感した。プラトンのようにレシピというアイディアさえ整えば、「ウィスキーレモン」がすぐ手に入ると思ったのが間違いだったのだ。

 

Img_0416 じつは、今回の沖縄出張で、「レモン」素材のことがクリアできた。妻に沖縄の黒糖購入を頼まれていた。沖縄学習センターの事務長Y氏にお聞きすると、黒糖ならばぜひ「多良間」のものをというので足を伸ばしたのだ。宮古島物産店というのが、那覇の国際通りにあって、そこで求めたのだ。それで、ひょいっと隣をみると、そこにレモンがあったのだった。宮古島産の無農薬レモン2個を求めた。

 

Img_0409 あとはウィスキーだ。住んでいる近くの小さなスーパーマーケットでは、ときどき酒類の安売りを行っている。偶然にも今回、通常値段の半値の伝統的スコッチが棚に並んでいた。砂糖は通常の蔗糖で間に合わせた。レシピは以下のとおりとなった。

 

レモン    300g(レモンの量に合わせて、以下の素材の量を考える)

ウィスキー 60g(好みでプラス/マイナスするが、今回はかなり多めにした)

砂糖      200g(今回はもっと少なくした)

水        200gM氏に聞けば水は入れないと答えただろうが、今回は少量)

 

1. タワシでレモンを洗って、4つに割り、皮と身を離す。

2. 身から種を取り出し、ざく切りにする。

3. 鍋に身と皮を入れて、最初は強火で、あと弱火。

4. 砂糖を3回に分けて入れる。

5. ウィスキーを入れて、とろみがつくまで煮詰める。

6. 火を止め、冷まして瓶詰め。これで出来上がり。

 

Img_0421 まだとろみが固まらない汁の暖かいときに味見をしたのだが、自分でいうのも何なのだが、なかなかの出来上がりだった。皮の苦味がウィスキーの苦味と輻輳して、さらにレモンの酸味と、とろみの甘さがそれらに乗り、複合した味が絶妙だったのだ。

 

Img_0424 こうなってくると人間の心理というものは恐ろしいもので、「ウィスキーレモン」の観念がわたしの中に住み着いてしまったのだ。シェモモの「ウィスキーとレモンのコンフィチュール」と、さらにはスコットランドのアイラ島で有名な伝統のモルトウイスキー「ボウモア」のウィスキーマーマレードも取り寄せて、じっくり味わって比べてみたいと思うようにもなっているのだ。メイキングとは、インゴルドが述べるように、観念と素材の限りない相互作用として存在することをコンフィチュールのつくることに見たのだった。

 

2017/12/17

沖縄学習センターで再び面接授業

Img_0337 台風のせいで、というのか、台風のおかげというのか、再び沖縄で面接授業だ。10月の季節外れの台風襲来で、二日のスクーリングのうち、1日分だけようやく消化して、今回後半の授業のために再び来沖した次第だ。

 

Img_0336 この時期は師走というくらいに、私たちにとって、収穫祭が開かれる時期だ。先日卒業研究が終了して、審査発表会が開催されたばかりなのだが、現在の時期は、次の修士論文の締め切りが間近に迫ってきているのだ。Img_0322 仕事なのだと割り切ってしまえば、固まるのを待って、それを取り込み、批評して返せば良いのだが、仕事と割り切れないところがあって、やはり「収穫祭」という言葉の方が妥当な感じがするのだ。それは、ある程度なのだが、一緒に作ってきたというちょっとばかりの思い入れが、わたしにとっても収穫だと思わせるものがあるのだ。

 

Img_0332 今年は、10人ほどの方が入れ替わり立ち替わり、50枚から100枚くらいの分量のファイルをメールで送ってきている。わたしも一度はファイルへワード文書のコメント機能を生かして、なるべく詳細に、時間の許す限り、批評コメントに織り込んで返信している。けれども、何回もコメント機能を繰り返しても意味がないだろうと考えて、臨機応変に短い指摘を文書で送付することも行っている。

 

Img_0334 今年の特色は、1ヶ月前に周到に送ってくるタイプの方はいらっしゃらなくて、だいたい遅め遅めの第1波、第2波、第3波と続いた。このため、論文の重なりが激しかったのだ。特に、最後の金曜日は13日ではなかったのだが、朝の枕元でパソコンが鳴り始め、夜までに6本の論文が送られてきた。このうち3本はすでにコメントを送っていて、2回、3回、4回目のものだったので、簡単なコメントで返した。Img_0328 けれども、あと三日という段階で、初めて送ってきた学生が3人もいたのは初めての経験だ。わたしもその昔、この手のことをした覚えがある。三日前に先生に見せるということを一度行ったことがあり、大手町の地下の喫茶店で呆れ顔でコメントを受けたことがあるので、因果応報とはまさにこのことだ。

 

Img_0326 先日富山出張の折に、天候が崩れ、雪が舞ってきたのだが、その時に体調を崩し、それが1ヶ月も長引いている。この1ヶ月には様々な事件も起こって、ちょっと強い薬を医者に処方してもらっている。その薬が効いている時には、モルヒネの代わりになる薬だけあって、割と気分が仕合せになって、夢のような中にあり、そこではいろいろなアイディアが空を飛んでやってくるのだ。やあと叫んで、論文を突き動かしていくのだ。Img_0323 わたしに構わず、執筆者本人に直接到達すれば良いと思うのだが、と思って返事を出すと、実はそこがキイポイントでしたとすぐに答えが返ってきたりして、このような時には、まだまだ論文書きの商売はやめられないなと思ってしまうのだ。それでも、こんなに3人も残ってしまったのは初めての経験だ。

 

Img_0330 それぞれの人びとに、本来であれば書かれるべく生まれてきたアイディアたちは、今頃どの辺を彷徨っているのだろうか。誰かに取り付いて、この世に現れてほしいアイディアたちだったと言っておこう。未練がましいとはいえ、アイディアたちが可哀想だなと思ってしまうのだ。

 

Img_0327 さて、沖縄行きの時間が迫ってきてしまって、返事を出すのもできないかもしれない。例年はこんなこともないのだが、今年だけは台風のせいだから致し方ないだろう。諦めも自然災害のうちに入るのだ。

 

Img_0335 面接授業の方は、1ヶ月以上も間が空いてしまった。全員の日程あわせは行ったのだが、それでも、この間に新たな予定が入ってしまうかたもいらっしゃったことだろう。わたしにとっては、二日間続けるよりは、1日ずつ切り離された方が1回毎の密度が濃くなったような気がする。話の道草が多くなったことでも、そのことがわかるのだ。

 

Img_0329 「椅子の社会経済学」というテーマで、1年間面接授業を行ってきたが、今回で一応の区切りをつけて置きたいと思っていたのだが、講義をしている最中に、また新しい観点が出てきてしまったので、また、1年後には第2弾として再開しても良いと思ったような、今回の授業だった。

 

Img_0338 今回も、友人のTが夕飯を一緒に摂ってくれるというので、琉球大学から急行便に乗って、安里へ出る。「アグー」という、豚を神に捧げる風習が沖縄にあるそうで、そこでは在来種の豚が捧げられていたらしい。Img_0345 それの復活を目指している農場からの「豚しゃぶしゃぶ」を食した。中学からの友人Tと、なぜ会いたいのか、と互いに問うたのだが、やはり「懐かしさ」かなという常識的な答えに、雑談が巡り巡った果てに到達したのだった。Img_0349 互いの自慢をしてもそこそこだし、互いの不幸を嘆いてみてもそこそこなのだ。元は一緒ではないかというところに、いつも落ち着くのだった。

2017/11/14

富山県美術館へ来ている

177095296_unknown 今年、旧富山近代美術館が新しくなった。富山駅近く、運河の再開発地域に、「富山県美術館」として開館した。その報道の中で、これまで美術館が19世紀からの近代椅子のコレクションを行なって来ていることを知った。現在、わたしは放送大学の授業で、近代椅子を数多く取り上げ、これを経済社会的な見方で再構成している。177095616_unknown 講義室内では、教育のためなので、これらの近代椅子を見せても著作権フリーなのだが、実際には椅子デザインにも著作権があって、テキストに椅子を出すにも、許可が必要で、もし映像をまとめて撮るとしたら、どうしようかと考えていた最中だった。177096944_unknown それで、富山県美術館のコレクションをどのような形で大学授業に使うことができるのかを確かめようと、出張し取材することになった。ちょうど、コレクション展ということで、170種類ある椅子のうち、3分の1ほどが実際に展示中だった。この展示が本日最終日で、明日からは展示が変わると電話で知らされたのだった。ピンポイントのチャンスということだ。

 

177098592_unknown 昨日は、幕張のCスタジオ(放送大学の制作棟にはABの二つのラジオスタジオしかないのだが、もう一つ予備的に使われる研究棟にあるスタジオ)で、交通経済学のA先生と来年度からの授業科目「都市と農山村からみる身近な経済」のラジオ収録を行った。177097632_unknown A先生は秋にルーマニア出張に行って、ヨーロッパの交通事情調査を行なっていたので、なかなか打ち合わせする機会はなかったのだ。けれども、先日亡くなったH先生のゼミを通じて、すでに十数年議論を行い合った仲間なので、心配はなかった。収録にはすっと入って行けた。わたしの1段落を取り直しただけで、あとは初録りで予定していた時間を残して早々と終了した。

 

177099872_unknown その足で、東京駅から北陸新幹線で富山へ向かう。横浜へ帰るよりも、早く富山の宿泊所へ入る。このホテルが、ちょうど路面電車の停留所前にあって、数分に一度通り過ぎるガタガタピシャという音が生活のリズムにあっている。音が聞こえるたびに、窓際へ行って眺めてしまったのだ。

 

 橋をこえて、音が聞こえてくる

 グーという軌道を通じて伝わる音と

 ガタガタピシャという空気に伝わる音と

 

 姿をあらわす外側の恥じらいと

 きらびやかな内部の照明と

 

 客ひとりひとりの心を集めて

 包み込む光線の集団が通り過ぎていく

 夜の冷たさの中で

 そこだけが温かいものを感じさせる

 音と光を超えて、橋を渡っていく

 

177095776_unknown あくる日の当日、激しい雨になった。天気予報によると、途中から雪に変わるそうだ。市内ループ線の新型電車に乗って、富山駅へ出る。ここからの開発地域には、散歩歩道が川沿いに整備されている。その曲がり角に美術館もあり、運河の再開発地域もあるのだ。水平線と垂直線の際立った近代建築型の美術館へ着く。二階の迫り出した一階のエントランス、二階・三階の回廊式展示、屋上の庭園という典型的な美術館建築だ。それに、周りの魅力的なモニュメントが配置されていて、建物と環境全体が美的空間を強調している。

 

177095872_unknown 瀧口修造コレクションも藤田嗣治の特別展示もジャスパー・ジョーンズの絵もあって、魅力的な美術館なのだがそれらを通り越して、さっそく3階にある近代椅子の展示会場へ直行する。4段のひな壇が30メートルほど大会場に作られていて、それぞれ横に13脚ほどが乗せられている。177095920_unknown 一望で40脚あまりの名作椅子を眺めることができる仕組みだ。右上段のトーネット椅子に始まって、左下段のポストモダン椅子まで並べられている。椅子は見るよりも、座って感じるものなので、この方式はどうなのかと思われるのだが。

 

177095840_unknown したがってそれに加えて、広いフロアには、さらにブロックごとに分けて合計15脚ほどの椅子が配置されている。少し身近におりてきたというところだ。マッキントッシュ、リートフェルト、ブロイヤーと続く。そして、5脚ほど座っても良いとする椅子が置かれている。本当のところ、ここが一番重要なのだが、5脚とはちょっと出し惜しみという感は免れない。177096064_unknown 全部座れる形で展示して、どうしても壊れやすいものだけ、ひな壇に飾るべきなのではと思うのだが、管理の側からすれば、そうもいかないのではと思われる。ガウディーのベンチ、イームズの安楽椅子などはなかなか触感を楽しむところもないので、これらに座って、数時間過ごしてしまったのだ。

 

177096176_unknown さて、このように美術館で、近代椅子の展示を行う理由・意味にはどのようなことが考えられるのだろうか。一つは、当たり前なのだが、一覧展示の魅力だ。比較と歴史を一望できる点だ。「椅子の世界」というものが、個々の椅子でしか、わたしたちは感じて来なかったのだが、177096352_unknown このように一覧展示されると、すべてが一団となって、一つの世界を形成していることを知るのだ。名作椅子とは、どのような椅子のことを言うのだろうかということがわかるのだ。

 

177096400_unknown 「万物照応」というボードレールの詩がある。感性があちこちの椅子と感応して、自分の五感が部屋全体に張り巡らされる。一つの椅子に座っただけなのに、感性は60以上の発達を見せるのだ。椅子の世界という象徴の森に入り込んだかのようだ。このように詩を作り変えても、許されるだろう。

 

 人は椅子の間を静かに歩む

 象徴の森をゆくが如くに


 遠くから響き来るこだまのように

 夜の闇 昼の光 の深い調和のなかに

 五感のすべてが反響する


 栗の木理のような鮮烈な感触

 オーボエのように優雅で 拍子木のように枯れて

 甘酸っぱく 豊かに勝ち誇った 肘木の触わり


 無限へと広がりゆく力をもって

 紫檀 杉 楢 桜の木の香りが

 知性と感性の交感を奏でる


177098992_unknown コーヒーポットは持参したけれども、昼食は持ってこなかったので、すでに3時をすぎてしまったのだが、遅めの昼食を近くのコーヒーショップで食べることにする。美術館の向かいが江戸時代からの運河を復元した環水公園になっていて、広い敷地と運河に面して、公共の施設が並び、その中で単独で商業施設のSBコーヒショップが中央に迫り出している。177099152_unknown ちょうど紅葉を背景として、環境を加味したコーヒーショップとしては贅沢な配置を見せている。コーヒーだけでなく、プラスα部分がかなりある喫茶店であると言えよう。店内は「世界一美しいSB」というキャッチコピーに魅せられた観光客で賑わっていた。

 

177099056_unknown さて、師走へ向かって、忙しくなる季節だ。例年通り、今回の出張には、学生たちから送られてきている論文草稿を持参した。毎晩、1編ずつコメントをつけて送り返している。今年も力作揃えで、すでにA4ページの100枚を超えるものも送られてきている。これらが、2、3回やり取りされて、完成されていくのは、何か不思議な文字の世界を見ているようだ。線がいっぱい描かれ、その中でも何か選びとられた、活気のある線たちだけが残っていくのを見ている。177474048_unknown 花火が打ち上げられて、それらがずっと空高く線を描いて、美しい線画が大空に出来上がるように、学生たちが打ち上げてくる論文の描く軌跡を修正しつつ、その軌跡が意味ある美しさになるように、こちらも線を描いて返しているのだ。

 

177096736_unknown というようなことと同時に、わたし自身の論文も線を描きつつあるのだが、しかしそれは、他者の論文を直すようにはうまくいかない。こっちを塞ぐと、あっちから漏れてしまうし、あっちを埋めるとこっちが裂けてしまっている。沖縄で買ってきたCDから、詩人山之口獏の歌が響いてくる。

 

 

 靴にありついて

 ほっとしたかとおもうと

 ズボンがぼろになっているのだ

 ズボンにありついて

 ほっとしたかとおもうと

 上衣がぼろぼろになっているのだ

 上衣にありついて

 ほっとしたかとおもうと

 もとに戻ってまた

 ぼろ靴をひきずって

 靴を探し廻っているのだ


という、「動作の連鎖」が続いているのだ。ボロボロがホロホロになったり、ボロボロがポロポロになったりして、連鎖が幾重にも循環する。

 

 

 

 

2017/11/01

「社会経営研究」「社会経営ジャーナル」第5号のβ版発行!

Img_9202 沖縄から幕張へ帰ってきた。毎日、ポットへコーヒーを入れてから、1日が始まるので、那覇にいても、幕張にいても、それほど日常は変わらない。悪い夢を見た日は違うのだが、午前中には原稿に向かい、午後から活動が始まるというサイクルの内にあれば、どこに居ようと大差ない。はや11月となり、遅ればせながら来年度から始まるラジオ科目「都市と農山村からみる身近な経済」収録の季節が巡ってきた。Img_9204 2年間かけてきたテキスト作成も最終段階になってきて、初校、再校、フレンドリー・アドバイスなどと3回目の点検も済み、今回は放送原稿を2回作成したから、少なくとも5回くらいは内容の検討を重ねたことになる。悪い夢とは、検討を重ねるときに見えてしまうから始末に悪いのだが、もう放送の段階では迷っている暇はないのだ。研究室の窓からの景色も変わり、紅葉が目立つようになって来た。

 

Img_3476_2 制作棟3階にあるRBスタジオへ向かう。ラジオスタジオは幕張にABと2つあり、きょうは小さな方のBスタジオでの収録だ。調整室では、島根大学のI先生、ディレクターのK氏、録音技師の3人が待っている。日頃、中国へ出張したり気管支炎を患ったりした人たちが、決められた日時にぴったりと一堂に会すなどということが起こることが不思議な現象だと思えてしまう。

 

Img_3079 今回の科目録音では、すべて対話形式で収録を行うことにしている。4人の講師が入れ替わり立ち替わり、2コマずつ収録し、攻守を変えて、1コマずつそれぞれ話す役と聞き役とを務めることにしている。一回は専門を語り、一回は相手の話を聞くということだ。とくに、聞き役は重要で、話す役からうまく話を引き出さなければならない。Img_3080 話す方はこれまで書いて来たことだから、それなりに道成りで話していけば良いのだが、聞き役は聴取者・受講者たちの代表という意味があって、どのように決められた話をうまくわかりやすく聴きだすのかが問われる。日常にはない、きわめて面白い役どころなのだ。もっともうまくいけばの話で、うまくいかなければ、悪夢になるのだが。

 

Img_3479_2 金魚鉢のこちら側と向こう側とで、また金魚鉢の中では向こう側のマイクとこちら側のマイクとで、次々と合図とおしゃべりが繰り返されていく。音楽が始まって、ディレクターがキューを出してからの互いの共通意識の世界を彷徨する緊張感はたまらない。シナリオ案は一応作っておくのだが、それは保険のようなもので、主としてアドリブ部分を一生懸命考えつつ、番組は進んでいく。Img_3075 アドリブが続かなくなったときには、このシナリオへ帰って来て、対話者とレベルを一致させて、さらに先へ進んでいく。ウォーキングを2人で行なっているようなものなのかもしれない。一緒に歩き、前へ行ったり後ろへついたりしながら、2人とも常に足を前へ出していくのだ。I先生は初めての経験だとおっしゃっていたが、コンビネーションはとてもうまく行って、少し削っただけで、初取りで済ますことができたのだった。

 

20171102_232436 沖縄からのお土産の35珈琲と、牧志市場で購入したサーターアンダギーを、「社会と産業」カンファレンス室のAさんに渡して、早々に幕張を出る。きょうは、研究同人誌の「社会経営研究」と「社会経営ジャーナル」の再校を行なって、とりあえずβ版を発行する日なのだ。先日、執筆者へ校正を依頼しておいたメールが続々と届いている。Kさんは85歳を過ぎているのだが、校正原稿をプリントアウトして、修正点を書き出して送ってくださった。明日からは奈良を来訪する予定の忙しい中、校正原稿を送ってくださったのだ。他の執筆者も編集者たちの懸命の編集に耐えて、寛容の精神を発揮してくださっていて、感謝の言葉もないくらいだ。

 

20171102_233045 校正段階で依頼された中には、編集委員会の趣旨に合わないところもあり、そのことで執筆者の意にそぐわないことも出てきてしまうかもしれないが、その場合には、三校の段階でもう一度連絡をお願いしたい。β版の良いところは、直しながら発行できる点であり、紙版の雑誌では考えることができない発行形式が可能になるのだ。夜遅くになってしまったが、どうやら今年もようやく発行にこぎつけたことを執筆者と編集者と読者とともに喜びたいと思う。

「社会経営研究」「社会経営ジャーナル」第5号β版はこちらから

 

2017/10/30

「海の青さに空の青」の沖縄

Img_3401 「海の青さに空の青」というイメージで、沖縄へはいつもは向かう。ところが、今回ばかりは、台風22号の風雨で、この青さには接することができないらしい。そこで、うちの中で楽しむことのできる沖縄料理に徹することに決めた。

 

Img_3412 1日目の夕食は、沖縄に住んでいる友人T氏が東京に住んでいる息子さんS君を一緒に連れて来て、那覇市栄町市場にある沖縄料理の店「パヤオ」にて食事。パヤオとは素敵な名称なのだが、フィリピンでの浮き漁礁のことで、これが海に浮いていると、その下に魚たちが集まって来るのだそうだ。まさに、そのような雰囲気の店だった。

 

Img_3413 T氏とは中学時代から一緒に育って来ていて、結婚も同じ頃にしたし、彼のシンポジュウムに招かれたり、わたしの授業番組に出ていただいたりして、共通の話題がたくさんあり、もちろん食事をするよりも話をしている方が多いのだが、今回は料理も十分に楽しんだのだ。息子のS君は好青年に育っていた。沖縄へ戻って来て、この湿気を吸った、ちょっと気温の高い気候がとても良いと言っていた。そのような感覚が地元出身の人びとの中にはあるのだな、と彼の感想に好ましさを感じたのだった。Img_3414 彼が幼少の頃に、やはりわたしが沖縄に来て、T氏の奥様も一緒に食事をした記憶がある。酒はT氏がボトルキープしていた、那覇の泡盛「瑞泉」を水割りでいただく。結局、彼は最終バスがなくなるまで、一緒に飲んでくれたのだった。

 

Img_3421 じつは、2日目も彼と食事をした。前から気になっていたという店が、やはりホテルの近くの栄町にあって、そこでは山羊料理をイタリア料理として出していた。「ル・ボン・グー」というまさに山羊中心の店だ。ロビンソン・クルーソーが孤島で、家畜を飼っていて、確か山羊だったと思われるが、やはり島には山羊が似合うと思うのだ。断崖絶壁の草を食んでいる構図は、想像するだに、興味がわく。野生のように放牧された、沖縄の山羊はさぞかし美味しいのだろうと来店したのだ。Img_3425 予想に違わず、山羊肉の入ったカルパッチョには山羊の粉チーズまでかかっていて、香りはかなりキツかったのだが、美味しい夕食となった。その後も、山羊尽くしが続いた。この歳になってくると、T氏と互いに、人生の苦しいことも楽しいことも両方あって、それぞれ乗り越えて来たという感慨があるのだ。とついつい、老人の会話が続くのだ。

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3日目には、ようやくにして、本来の仕事である面接授業を1日分だけはたっぷりと行ったのだ。少しでも仕事になって良かったと思ったのだ。そして終了した後、沖縄学習センター所長のT先生と、沖縄料理の代表的な居酒屋で、丸ビルへも支店を出している「うりずん」へ行く。このうりずんという言葉の響きもとても良い。2月から4月の潤いたつ季節を表した言葉だそうだ。ここでも、島らっきょう、チャンプルーなどの沖縄特有の料理を堪能した。T先生がキープしている酒の甕には相当な年季が入っていた。すでに40年あまり、この店に通っているのだそうだ。

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Img_9101 最後の日には、午前中に仕事を早々に済ませて、午後は国際通りから、牧志公設市場あたりを散策する。まず妻から頼まれていた菓子「サーターアンダギー」を買う。その店は、午前中で完売するほどの人気店のところで、卵黄がそのまま菓子の中核部分の黄色を決定していた。沖縄の母みたいな方が出て来て、おまけだといって、もう一つを紙袋に入れてくださった。それをつまみながら、公設市場の一階の魚屋や肉屋などを見てあるいたのだ。

 

Img_9110 市場の向かいにある店を見ていると、こんなところに古本があるのだという店を見つける。「ウララ」という店で、一間ほどの狭いスペースに下から上までぎっしりと古本・新本を並べている。とくに、注目される店先には、「世界の市場」とか「日本の市場巡り」などの市場本と店主が書いた本が置いてあった。Img_9107 興味を覚えて、奥の書棚を覗いてみると、沖縄出身の「山之口獏」の詩集が置いてあった。フォーク歌手の高田渡が歌っていたことで、わたしは知っている。その高田渡がプロデュースしたCD「獏」が売られていたので、購入した。Img_9122_2 最後に、「生活の柄」という詩が入っていて、沖縄民謡歌手の大工哲弘が歌っていて、高田渡の内地的歌い方に比べて、ウチナンチュー的な歌い方になっている。Img_3481_2 高田渡の歌も悪くはないものの、作った本人よりも本人らしい歌の歌い方というものがあることを理解したのだった。Img_9121 ベターっと大地に寄り添うような、湿気たっぷりのウチナー的情緒いっぱいの歌に変わっている。

 

Img_9156 昼食は、市場の近くを歩いていて見つけたのだが、並木の素敵な壺屋町の自然食店「Mana」で、自然食の日替わりプレートを食べる。当然のように、女性たちが時間になるとわっと入って来た。Img_9139 美味しさを楽しむというよりは、自然さを楽しむという食事だった。身体の中がすっとして行くような感覚がある。そのあとは珈琲だ。向かいの喫茶店「Mahou Coffee」にて、アメリカン風味のコーヒー。すっきりとした苦味系の味だ。Img_9140 この近辺には、ギャラリーや雑貨屋やDIYの店が多く、以前紹介した絵本「きょうはパーティのひ」を店先に並べている絵本屋さんもあって、1日を十分に過ごせそうな街だ。つまりは辺境の街なのだ。

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ここを右に曲がり、もう一度右に曲がり、さらに、小高い希望ヶ丘公園と、ハイアットリージェンシーホテルに挟まれた急な坂道を登って行くと、両側に不思議な飲み屋さんやブティックが並んでいて、そして行き着く先に目指す「桜坂劇場」という名画座、カフェ、カルチャセンターのビルに当たる。Img_9134

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出張先で映画を、という習慣を忠実に実行すべく、東京で見逃していた映画「ギミー・デンジャー」を見る。映画「パターソン」が同時に公開されたので、こちらの映画はスルーしていたのだ。ロック歌手ギミー・ポップをジム・ジャームッシュ監督がドキュメンタリーで描いた作品だ。Img_9168 60年代から今日に至る、ロックの「危険」性を扱っているのだが、このように社会の中で相対化されると、ちっとも危険ではなかったといえる。ロック歌手の常道で、人気が出て、薬に溺れ、心と健康と家族が崩壊するのだが、ギミーの場合には、このあと復活するのだ。当時はこのような状況が見えなかったので、みんながギミーの方向性を危険だと考えていたのだが、時代が変われば、「危険」という考え方もかなり変わるということだ。

 

Img_9100 最後に、駅のコーヒースタンドで、「35」珈琲を購入し、飲みながら沖縄での生活を反省する。パンフレットによると、この珈琲は風化した骨格珊瑚を利用したサンゴ熱で焙煎されているらしい。Img_9198 カルシュウムの乾いた感触を思わせる、これもさっぱりした苦味系の味だ。沖縄から珊瑚を持ち出すことが県の漁業法で禁止されているので、地域特化のコーヒーといえる。現地でしか、生産が許されないのだ。そして、この代金の3.5%が珊瑚礁再生・保護に寄付されているということだ。フェアトレード的手法だと思う。「何気ない1杯のコーヒーで沖縄の海にサンゴが増える」というキャッチコピーは泣かせる。これはアイディアだ。

2017/10/29

2日目だけの沖縄の面接授業

Img_3445 昨日吹き荒れた「台風22号」は北上したために、まだ雨は残っているが、風は止んでいた。沖縄の人びとは多少の雨では傘はささない。また、暴風雨になると、傘をさしても役立たない。結局、傘はささないのだ。そんな小雨の中、ネットで検索した時刻に合わせ、琉大行きのバスに乗るために、早めにバス停へ行く。Img_3446 ところが、停留所には、張り紙があって、数日前にダイヤ改正が行われたというのだ。確かめると、5分前にバスは通り過ぎていた。日曜日なので、朝にもかかわらず、30分に1本しかない。万事休す。

 

Img_3447 と思って、顔を上げると、97番琉大と書いたバスがすっと現れたのだ。この世に神様がいるのではないか、と感じる一瞬だ。ステップを踏んで、腰掛けてもまだ信じられない。バスなので、5分くらいは遅れて当たり前なのだが。じわじわと湧いてくる、日常のラッキーを反芻するのだった。

 

Img_3450 琉大の構内には、低層の広葉樹が並木を形成している。風で飛ばされた小枝や葉っぱが歩道を埋めている。置き場の自転車が乱雑に横転している。10数年前にも来たことのある琉大図書館へ行く。入り口で部外者用書類へ記入して、閲覧者カードをもらう。Img_3451 調べたい図書のレファレンスを受けようとすると、わたしたちは日曜日のアルバイトなので、とやんわりと断られた。けれども、図書館は改装されていて、図書の配列はわかりやすく、書庫に入ってからも、目指す雑誌にすぐ到達できた。書庫には、このような閲覧用の椅子が置いてあって、書庫でちょっと本を読んだり仕事がしやすかったりするようになっている。難なく、コピーをとって、一仕事終わった気になった。

 

Img_3453 学習センターへ着くと、事務長さんとSさんが教務の応対をしてくださった。問題は、行うことができなかった昨日の補講をいつ行うのか、という点だ。結局、出席している学生の方々と相談して、全員が再会できる日を探ることになった。つまりは、11月、あるいは12月にもう一度沖縄へ来ることがほぼ確実になったのだ。教室でこの協議を行ってみると、まずわたしの都合の良い日は、ほぼ誰かが都合が悪く、完全に全員が一致する日は、1月の成績提出までの間には存在しないことがわかったのだ。Img_3452 困ったな、と言っていると、1人の学生が遅刻を認めてもらえるならば、一日を譲ってくれるということになって、ようやく全員参加の一日を作り出すことができたのだ。このような日程調整の困難さは、社会人大学の宿命だ。その予定日は、前日に東京文京学習センターで大学院ゼミを終えてから、羽田から那覇へ飛んで、次の朝を目指すという、猛烈サラリーマン並みの忙しさを味わうことなる。

 

Img_3448 今回の面接授業のテーマはこれまで3年ほど続けて来たが、「椅子の社会経済学」というテーマは今回が最後だ。いつものように、最初に自己紹介を兼ねて、受講生の方々の椅子体験を語ってもらう。聞いていて、定番となっているのは、小学校の椅子なのだが、木製派とパイプ派に別れる。戦後すぐの方々は木製派が多く、少し後になって来ると「パイプに合板」派が多くなるのだ。現在はほぼ「パイプに合板」をビスで止めた椅子が体勢を占めている。やはり、小学校時代からの記憶で、座板などの要所では「木」という素材は外せない。全部が金属とプラスチックになるには、時代の変化が必要だろう。

 

Img_9085 今回の話の中で、今までになかったのは、籐の椅子だ。柔らかなイメージと曲線・曲木に優れた素材だ。部屋の雰囲気が、この籐の素材によって、かなり決定されるほどに、強烈な印象を残す椅子だ。この椅子に、電灯のシェード、そして衝立も籐で揃えれば、立派なアジアン趣味の部屋になるだろう。沖縄のように、風が吹き抜けて行く部屋に似合いそうだと思ったのだ。

 

2017/10/26

育ててもらった場所が失くなってしまうこと

世の中には、思いも寄らず、そこに属している間に育ててもらえる場所というものがあるのだ。生まれてから、長らく家庭がそうだったし、妻との現在の家庭もそうであることは間違いないのだが、働くようになって、社会へ出るようになり、いくつかの場所を見つけていったと、今になって思うのだ。その一つが「財団法人家計経済研究所」だった。設立時の常任理事だったM氏が呼んでくださって、研究員になった。週に1、2回出れば良いということで、厚遇してくださった。

 

この研究所で書いた論文で、機関紙『家計経済研究』の創刊号に載せていただいた「家計原理と家族」は、その後のわたしの研究方向を決定的に左右するものだった。大学院までの研究を清算して、新たな一歩を踏み出したと自覚したものだった。現在でも、この時の問題意識を大事にしている。この意識は、1日や2日で育つものではなく、若い時といっても当時すでに30代になっていたのだが、経済的にも以前と比べれば恵まれて、放送大学での仕事もあってかなり忙しかったけれども、自分の研究にじっくりと取り組める心の余裕が、この場所に所属していることで培われたと今でも思っている。この論文は、とくに常任理事をはじめ、なぜか監事の方々にも、パーティの場などで褒めていただいたことも覚えている。

 

昨日、厚紙の立派な案内状がこの家計経済研究所から送られて来た。今年の12月5日をもって、31年間続いた家計研究の場を解散することになったそうだ。パネル調査など研究活動と4名の研究員の方がたについては、慶應大学が引き継ぎ、懐かしい「家計経済研究」雑誌などについてもN先生(日本女子大)が引き取ることになって、活動そのものは当分維持されるようだが、やはり場所、研究の拠点という具体的な場を失うことの影響は大きいと思える。研究員のK氏へ直ちに電話をかけたのだった。

 

論文や書評を書かせていただいた他に思い出深いのは、お茶の水大学の故M先生たちとの研究会の思い出だ。夕方になって、研究所が閉じる頃を目指して、若手の研究者たちが集まって来て、家計研究について議論を戦わせた。研究所はかなり鷹揚で、研究会のスポンサーになってくださったばかりか、この都内の一等地で議論の場所を提供してくださったのだ。現在、放送大学でゼミのために場所を大学以外の場所で借りようとすると、かなり高額な請求が来ることを考えれば、たとえ当時時間外の使用であったとしても、交通の便の良い(当時は文藝春秋社近くの麹町にビルがあったのだ)部屋を提供してくださったことは、今になって考えれば有難いことであったのだ。Img_3482 現在でも、この時対立した時の議論の夢を見るほどなのだ。議論が対立する中で、わたしは育てられていったのだと自分では考えている。

2017/10/23

台風の影響が心配なのだが、Tupera Tupera展を観に行く

Img_3337 横須賀美術館へ、Tupera Tupera展を観に行く。昨日の台風21号が日本を縦断して、近くの弘明寺公園には、樹々、葉っぱ、どんぐりの実などが所狭しと地面に散乱していた。Img_3323 午前中には、印刷教材の執筆と研究誌「社会経営研究」と「社会経営ジャーナル」の印刷を行なっていた。それで、理由はいくつかあるのだが、なぜか頭が詰まってしまっていたのだ。それを観た妻が、先週から行きそびれていた、この展覧会を勧めたのだった。

 

Img_3387_2 Tupera Tuperaとは、若手の絵本作家(だけではなく、多才能のデザイナー)亀川達矢氏と中川敦子氏の二人のユニットだ。展覧会の最後の方に、なぜ絵本を始めたのかという説明のコーナーがあって、当初は布の切り絵の画家だったそうだ。これにストーリーが付き始めて、絵本になったのだそうだ。じつは、見ていて、この初期のものに興味を思えたのだ。ストーリーよりも、形・色・素材などの楽しさに満ちている。言葉よりもモノの直感的な世界を重視しているように思えたのだ。

 

Img_3345 けれども、通常のモノの直感だけとは異なるところがあるようだ。絶えず、二つ以上のものの組み合わせで、制作を行なっているという特徴がある。たとえば、絵本の一つとなった、「しましまじま」は典型例だ。一本の筋だけではなく、色の異なる他の筋が数本組み合わさってリズムを作っている。Img_3388 ストライプと一言で言ってしまえば簡単なのだが、このストライプが島の人びとのあらゆるところに出現するのだ。まず、島全体がストライプだから、一本の線と2本目の線とは調和が必要になってくる。ということで、島に存在するもの全てが、一本では決まらないのだ。二色以上でデザインされるという意味がここにある。一つの考え方だけでは決定できないのがストライプの思想だ。

 

Img_3364 ふつうは、1人のデザイナーが二本のストライプの配色を調和させていくに違いないのだが、もしこの基礎的な段階から、2人のデザイナーが話し合いで配色を考えていたとしたら、どうなるだろうか。おそらく、意図するところはこのようなところではないかと思われる。Img_3334_2 あえて、2人に仕事を分けてみると、そこの見えてくることがあるのだ。縞模様自体が共同性を内包していると、Tupera Tuperaを見ていると思うのだった。ストーリーで共同性を描くのではなく、形・色・素材などで共同性を描いている。

 

Img_3348 結局のところ、この展覧会を見ていて、考えたのは「好奇心」という、絵本の世界の重要な要素だ。好奇心はどのようなときに浮かぶものなのだろうか。展覧会では、亀川氏が「思いつく」好奇心派を担当して、中川氏が思いついたことを「面白いと感じる」好奇心派を担当していた。Img_3360 会場には、ビデオが映写されていたのだが、制作のときに2人は、横に並んで机に対している。そして、2人の間にある画用紙に、まず亀川氏が思いついた、切り抜きの素材を置く。すると、その思いつきに反応して、次の切り抜きの素材が中川氏によって、画用紙に置かれるのだ。この対話的方法によって、作品が作られていく。

 

Img_3349 何か思いつくということは、最初の出発としてはたいへん重要な要素であることは間違いないのだが、じつはそれに連なる次の面白さが続かないと、作品は一方的な作者の独りよがりに陥ってしまう。だから、特に注目したのが、中川氏の役割だ。好奇心には、イニシャルなものだけでなく、作者の思いつきに対して、次の共感を準備することがとりわけ重要な好奇心となるのだ。以前、同僚の心理学者O先生と電車で一緒になったときに雑談した。Img_3352 やはり、心理臨床のあり方として、共感ということを多様に準備する(言葉は多少違っていたような気がする)必要があり、それが臨床の訓練ともなるという話を聞いたことを思い出した。好奇心の発揮には、単に思いつきの尊重だけでなく、思いつきへの共感が必要であることを、Tupera Tuperaの作品を見ながら想像したのだった。

 

Img_3372 いつものように、椰子の樹が並ぶ海岸通を、強い風にもかかわらず、満たされた気分でバスに揺られたのだった。Img_3375

 

2017/10/21

ウィンザーチェア展を観る

Img_3322 今年の卒業研究が追い込みに入っている。全員の参加者が下書きを届けてきた。卒業研究では、手いっぱいに広げていた知識は、いずれは妥当なところまで縮小して、無理のないところまで切り下げなければならないだろう。でも、無理したところは無理した過程で、そのぶんだけ苦労したので、なかなか捨ててしまうわけにはいかなくなっている方もいる。けれども、あえてこのようなところは、そのまま出すのではなく、すっぱりと切り、削る覚悟が必要なのであろうとあえて申し上げておきたい。カンナで仕上げを行うごとくに、最後は手触りの良いように、論文についてもそのような状態まで持っていきたいものである。

 

Img_3274 夏に長野市で開かれていた「ウィンザーチェア展」が東京に回ってきていた。長野市へ行きそびれてしまっていたのだ。現在は、この展覧会が駒場の日本民藝館で開かれている。Img_3267 井の頭線で先頭車両に乗って、改札を出てすぐの駅前の蕎麦屋「満留賀」で久しぶりのケンチンうどんを食べる。洒落た街並みが続く住宅地の中を日本民藝館へ向かう。

 

Img_3393 4分の1ほどの展示物は、松本民藝生活館からの出品だったので、すでにみたり触ったり、座ったりしたものが多かったのだが、椅子の場合には、やはり個人蔵というのが見逃せないのだ。なかなか個人蔵になってしまうと、見ることが難しくなるので、このような機会は得がたいのだ。どのような座り方をしたら、このようになるのか、そのことを想像するだけでも、展覧会を楽しむことができる。

 

Img_3394 修理の形跡などは、とりわけじっくりと見させてもらった。どうしても、木製製品では年季が立つと、もっとも弱点のところに無理が出る。ウインザーチェアの場合には、まずは「貫」部分だ。脚に来るのは、人間と同じで、椅子を斜めにして座ったり、負担がかからないと思われているところに、必要以上の力を加えてしまったりということが、故障の原因となっている。もう一つは、木という素材の問題だ。数百年経ったときにどのようになるのか、たいへん興味を覚えるところだ。

 

Img_3392 二つの椅子に注目した。一つは、他の椅子からあり合わせの貫を持ってきて、自分のウィンザーチェアの補強に使っているものだ。この場合、本来であれば、部品を持ってきてしまう、そちらの椅子も修理に出さなければならないのだろうが、それはかなり融通性の効く「貫」の採用を行っていたのだった。それも、職人に任せれば、もっと上手く修理するだろうが、いかにも素人が行なったと直ちにわかるような形跡が残っているのだ。これも難しいところだ。自分で直したくなるほどに、愛着を持っていたのだろうか。

 

Img_3391 もう一つは座面の板の歪みだ。この椅子を眺めれば眺めるほど、この歪みが「自然」のものに見えて来るのだ。実際、自然の成せる技なのだ。歪んでいても、座っても大丈夫そうだ。むしろ、お尻の曲がった人や、曲がって座る人には、むしろ座りやすい椅子なのだと言えるかもしれない。この持ち主は、おそらくあまりに少しずつ変わっていったであろうから、この歪みを意識したことはなかったのではないかと思われる。歪みが輝きを持って、存在する椅子だと言えよう。この歪みがあったからこそ、持ち主の愛着を勝ち得たのではないかとさえ、思ってしまうほどなのだ。

 

Img_3282 民藝館の向かいの屋敷が、柳宗悦の邸宅だ。くぐり戸を入って、廊下を経て、階段を登る。小さな部屋がたくさんある。おそらく、客人たちを泊めるために、多くの部屋を作ったに相違ないだろう。真ん中に、書斎があった。壁は本で埋められているのだが、目立つのは、机と椅子だ。

 

2017 注目したのは、異形な動物の顔の彫刻が前脚から肘木にかけて刻まれている、大きな椅子の方だ。晩年、机に向かうことができなくなったときには、この頑丈そうな肘木に板が渡されて、そこで書き物が行われていたらしい。Img_3320 なんとなく、民藝に似合わないと感じたのは、椅子に取り付けられていた金属製のキャスターだ。床にくっきりとキャスターで傷つけた跡が認められた。そういえば、京都の河井寛次郎も書斎でキャスター付きの椅子を使っていたのを思い出したのだ。けれども、河井の方は、木製のユニークなキャスターだったのだが。

 

Img_3270 この椅子は、どこで作られたものだろうか。野生動物の彫刻の模様を見ていると、日本でもないし、欧米でもないことがわかる。それで、係りの方に聞くと、アフリカではないかという方もいらっしゃるとか。Img_3291 答えに慣れているところから、この部屋に入って来る一定比率の客で、この椅子はどこで作られたものですか、と聞く人びとがいるということだろう。

 

Img_3295 雨はなかなか止みそうにない。渋谷へそのまま出ずに、途中の神泉駅で降り、Bunkamuraシネマで上映されている、映画「ル・コルビュジエとアイリーン」をみる。アイリーンはデザイナーとして有名で、コルビュジエの一つの系統の椅子のデザインも行なっている。今回の映画は、「E.1027」邸を巡る問題を扱ったものだったが、シャルロット・ペリアン同様に、当時の著作権問題はかなりゆるく、後で問題となって来るのだとわかる映画なのだ。Img_3314 考えてみれば、使っている人には使用権が存在しており、あまりにその対象作品に愛着があるならば、著作権の一部をその使用者が持ったとしても、法律的にはありえないとしても、現実の世界ではありえてしまうような気になって来るのだから、不思議なのだ。

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Img_3306 アイリーンのデザインした椅子とサイドテーブルが映画館の入り口に置かれていて、観客たちは座って、写真に収まっていたのだ。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。