2012/01/20

ひっくり返された世界は、いずれは元に戻さなければならないが、戻し方が問題だ

Photo世の中で何が怖いのかというと、いつか誰かがトンデモナイような考えを行なってしまうことがあることだ。なぜそう考えなければならないのかわからない。とりわけ、比較などという方法があって、ヤメテクレと言いたくなる比較があるのだ。なぜ比較しなければならないのか、わからない。雨の中の白鳥と、晴天下のなめくじを比較するような。

そのような比較をここで行なってみたい。俎上に登らせてしまったのは、映画「ヒミズ」と映画「パーフェクト・センス」である。日本映画と英国映画、若々しい映画と落ち着いた映画、小さな地域の映画と世界中に広がるという映画、などなど、これらの映画には、似ていないところのほうが多いといえる。だから、そんな比較は行うこと自体おかしい、ということはまさに明らかである。どちらがそうだとは言わないが、野蛮と洗練というほどの違いの目立つ、両方の映画である。

ところが、冷静に観ていくと、1つだけ共通点があって、それがほんとうにグッと来るのだ。とわたしは思う。映画的という規準に合ってくる。これを問題にしないで、何が問題になるのか、というほどの問題なのだ。「ひっくり返し」という映画描法について、観ておきたい。

両方の映画で、見事なひっくり返しが行われている。「ヒミズ」では、親子が親子の感情を持たないというひっくり返しである。もしこの映画で、主人公と父親、母親との関係が通常の人間関係として描かれていたとしても、何の違和感もないものとして、鑑賞したことだろう。それにもかかわらず、ここで「親子の関係」が赤の他人よりも「悪い」関係として描かれている。それは、映画なのだから、ひっくり返してもひっくり返さなくても同値として描くことができるのだ。しかも、それによって、かえって親子とは何かを考えさせる「強調」が行われていることにもなると思う。逆を描けば、その逆も真なり、という論法は、かなり古典的表現方法だが、今回もかなり有効に働いている。

Photo_2「パーフェクト・センス」でも、ひっくり返しが問題となっている。こちらは、いわば生物学的なひっくり返しであって、人間の五感が人類全体で失われるとしたら、どうなるのか、という近未来的設定である。五感の中で、「臭覚」がまず最初に失われる。つぎに、味覚が失われる。この程度であれば、他の感覚が発達して、トカゲの尻尾を切っても、また別の感覚が現れてくるのだ。そのへんまでは、想像が付いていくし、ドラマの素材として申し分ない。現場がレストランであり、シェフが準主人公であるから、なおさら設定が生きてきて、「強調」が有効に効く。

ところが、聴覚、視覚と進んでくると、かなり設定が難しくなってきて、想像力の限界が見えてきてしまって、映画として、「映画的だ」、を通り越してしまって、映画的な映画的になってしまって、リアリティが欠けてきてしまうのは、仕方ないことだろう。

さて、ここで問題にしたいのはひっくり返しを行ったあと、いかに元の現実に戻すことができるのか、それも、人為的であるものをいかに自然に見せかけつつできるか、ということになってくるのだろう。われわれ鑑賞者を感動に導くには、外連味たっぷりのひっくり返しを見せたからには、その落とし前をきっちりと行わなければ、ひっくり返しの倫理性、正統性を疑われることになりかねないだろう。ひっくり返しは荒唐無稽であっても、映画的であるためには、現実へうまく引き戻さなければ、リアリティが欠けてしまう。

さて、ひっくり返しの「元戻し」に関しては、「ヒミズ」のほうに軍配を上げたい。(これ以降、ネタバレになってしまうので、まだご覧になっていない方は、読まないほうがよいと思う。)主人公が自殺をする場面が何回か出てくるが、最後のもうダメかもしれない、という時に、準主人公が元に戻してしまうのだ。それは、それまで蓄積されてきた恨みを小石に込めて、何回か主人公の理不尽に寛容を発揮するのだが、最後の最後にそれを解放し、池に投げ込むことによって、ひっくり返った世界が元に戻るのだ。この小石というレトリックは、うまく働いていて、きわめて映画的であるな、と感心した。

これに対して、「パーフェクト・センス」のほうは、英国式理性主義に支配されていて、それが最後にストーリーとして破綻してしまうのだ。いくつかの場面でそれが出てしまうのだが、1つだけ例を示せば、最後に主人公と準主人公が再会する場面がある。両者とも、聴覚が失われていて、音が聞こえない状態なので、呼び止めることができないのだ。遠くにいる者が、相手を認知するには、どのような方法があるだろうか。

まだ、視覚が残っているのだから、相手の持ち物がそこに認められれば、そこに居ることが確認できる。たとえば、自転車に乗って、主人公がビルに到着する。準主人公はこの時点ではいないが、主人公がビルに入っている間に、乗用車で到着する。このとき、自転車が残されていれば、彼がそこに居ることがわかるのだ。ところが、どういうわけか、主人公はすでに自転車を持って、ビルの中へ消えて行くのだ。なぜ自転車を持って、ビルの中へ行くのか、たいへん不自然な動きがここで目立ってしまうのだ。シナリオがそうなっていて、一時的に双方が会うことができないことをわざと演出するために、自転車が邪魔だったのだ。けれども、それはないな、と思う。

というわけで、わたしの今回の判定は、理性主義をとるか、感性主義をとるか、ということだったが、はからずも感性主義に軍配を挙げることになった。もちろん、趣味を聞かれれば、グラスゴーのあの暗い雨模様の「パーフェクト・センス」に憧れる。映像に圧倒的に惹きつけられ、こちらが好きなのだが、けれども構成から見れば、圧倒的に「ヒミズ」に票を入れてしまうという矛盾したことになった。これが、今回の比較であった。ちょっとコジツケだったでしょう。コジツケついでに、もう一本逆転して見せる映画を観た。「ロボジー」だ。ふつう、人間を助けるためにロボットを作るという、世界がある。ところが、この映画では、ロボットを助けるために人間が代替するのだ。これも、ひっくり返しの変わった世界を描いて面白い。

414さて、K大の試験を今日行なって、今学期も閉じようとしている。一年間世話になった414号室に感謝を込めて。

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2012/01/10

J.ポロックの「細密な線の重層的」な絵に、何を観たか

Photo昨日、じつは学生の方々と別れてからが、身体的には大変だった。昼は、同志社大学の学食でみなさんと一緒に済ませた。じつは上の階には、イタリアンのコース料理を出すレストランがあって、そちらへみんなで行ったのだが、時間がかかるらしいので昨日はパス。残念ながら、次の機会に回すことになった。

学食は好評で、会社の食堂よりずっと良いとのことだった。その理由が現実的だった。会社食堂の場合には、その会社の関連会社になりがちであるために、味が落ちるそうだ。大会社ほど、この傾向があるのだという。

Photo_2みなさんと別れてから、かねてより行きたいと狙っていた、愛知県立美術館で開催されている「ジャクソン・ポロック展」へ駆けつける。名古屋と京都との距離は、約30分で、ほぼ通勤圏の距離だ。織田信長の天下取り気分を醸成したのも十分理解できるところだ。

妻からはそんなに無理しなくても、ポロック展は東京にも来るから・・・。と数日前に言われていたが、まえにもそれで、見逃してしまった展覧会がいくつかあるので、思い立ったら吉日と考え、合宿3日分の洗濯物・荷物持参で、展覧会場へ走り込んだ。会場は大盛況で、ポロックがこれほど人気あるとは意外だった。しかも、代表作ではなく、初期や晩期の作品が中心である展覧会で、これだけの人が見に来るとは・・・。考えてみれば、具象画と違って、抽象画にはそれ自体に向い合って楽しめばよいという、気楽さがかえってあるのかもしれない。

Photo_3今回の展覧会では、前述のように、1950年ごろのポーリングを中心とした最盛期と言われる作品以外のものが数多く展示されていることが特色となっている。中には、ユング派の精神分析手法の影響を受けた作品も展示されていて、ポロックが早くから、潜在性に興味を持っていたことを示す作品も展示されており、この傾向を知ることができたのはたいへん興味深いことだったし、ラッキーだった。

Photo_4多層的である、という評価は、観て誰でも思いつく特徴だ。展示の説明パネルにも、ポロックの特徴として、「細密な線の重層的な」表現を挙げていた。幾重にも積み重ねられた、線と色とデザインとが様々な連想を生むし、色自体の連鎖を追っても楽しい。

Photo_6問題は、抽象の問題である。なぜ近代になって、具象から離れて抽象に至る絵画が多く現れてきたのか。ポロックの場合には、どのような問題を観ることができるか、という点が興味深い点である。抽象に至る筋道には、たとえば、カンディンスキーの内的必然性という理由や、モンドリアンの単純化という理由や、さらに有名なところでは、シュルレアリスムの自動化などがあって、これらはたいへん解りやすい抽象の必然性だ。もちろん、言葉にしてしまうと表面的なものになってしまうので、溢れ出るものはこれらの言葉では納められないことはわかるのだが。

Photo_10それで、ポロックでは、そのような溢れ出るものに、どのような特徴があるのか。ポロックの人気は、ポーリング(流し込み)にある。この表現方法が瞬間的で、それ自体完結しているような総合性を持っているところにあると思われる。この技法は、ちょっと模倣してみたいという気にさせられる。前衛的でパフォーマンスを行うには、格好の技法だ。なぜ人気があるのか、がこれでわかる。絵を描いたことのない人でも、このポーリングならば、できるんじゃないか、という錯覚を覚えるからだ。

Photo_9それで、今回の会場には、ポーリングを行なっているポロックの当時のビデオが流され、その隣にはニューヨーク州のスプリングスにあった制作スタジオが再現されている。とくに、ポーリングの液が垂れたあとの床が、そのまま写真で復元され、その床に裸足で上がることができるようになっている。ここだけは、写真撮影が許されているのだ。上から目線で観ていると、さっそくポーズを真似する人たちがいて、それで何がわかるのかは定かでないが、体験的な理解ができたという雰囲気だけは醸しだされていた。

抽象のもっとも良い理解は、「体験」だ、というかなりパラドキシカルな状況が、ポロックには存在する。その意味でも、抽象的な世界に生きなければならない現代人にとって、示唆するものが盛りだくさんのポロック展であった。

今回の展覧会の特色は、評論家のクレメント・グリーンバーグの評論解釈を大幅に取り入れた点である。彼のポロック解釈は、「オールオーヴァー(画面全体に均等に散りばめられた様相)」である、とするものだ。この解釈が世界中にヒットしたことになっている。たとえば、絶頂期に制作された、「インディアンレッドの地の壁画」をみれば、なるほどと思う方法だ。

http://hamajubiyama.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2011/12/16/s.jpg

このことは、たいへん逆説的なことだ。ポロックは若い頃から精神的に深く、さらに多層性を探求するような形で、絵を描いてきた画家だと思う。今回出品されている、初期の自画像や、「西へ西へ」などの絵にはじまって、精神分析医との接触からの描法へと発展させてきたことがわかる。ところが、1940年代後半になって、ほんの数年間描いたオールオーヴァーな絵が最も人びとに評価されることになったのだ。深く深くの絵画も反映されていないわけではないが、けれどもそれよりも、広く均等な絵画が評価されたことになる。

晩年には、全体的でオールオーヴァー的な絵画から、また個別で、深く深くの絵画へ帰っている。けれども、もはやこれらはあまり評価されなかった。ここには、批評と作家との葛藤を読むことができそうだ。人生には、このような逆説的なことがたびたび起こるということだろうか。この1950年頃のほんの数年間のポロックの、溢れでた、あの輝きはいったい何だったのだろうか。

Photo_11ポロック展のあと、せっかく名古屋まで来たのだからと、もう一つ展覧会を回った。さすがに、お腹が空いたので、濃厚な名古屋の味、味噌煮込みうどんを食べ、さらに、名古屋と言えば、Kのコーヒーとシロノワールで、休憩をたっぷりとって、新幹線で帰路についたのだ。

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2012/01/09

京都人にはアンチ観光イズムがないのが不思議だ

Photo_25合宿の二日目である。外に出ると、この寒さの中、朝早くから観光客が街を散策している。自分がよそ者であることをすっかり忘れ、かつてベネチアで出会った、アンチ観光イズムが京都人にはないのかが不思議だとも思った。もっとも、わたしが関東在住なので、幸いにもそのような動きに出会ってないだけのことかもしれないが。

大阪出身の先生方に聞くと、それがイケズの本質だという、京都人は使い分けが上手いとのことだ、という説がある。また、京都千年の歴史がうまく融合する知恵をつけたのだ、という説もある。何れにしても、この観光客の多さをストレスだと感じない気質を、京都人は免疫として持っているということらしい。

Photo_26予定通り、午前中ゼミを行なって、二日間の幕を閉じた。学生の方から、時間が余ったら、先生方の話も行なって欲しいという要望が出ていて、T先生がそれに答えて、学生と対話しながらの参加型ショート講義を試みた。「モデルとしての現代的な発展型として、中国モデルとインドモデルとが存在すると仮定するならば、どちらのほうが妥当な発展モデルと、学生の方々は考えるか」という討論内容だった、学生の反応はほぼ半々だった。結果は2年後に開講されるT先生の授業をとっていただければ、説明されているとのことなので、参照していただきたいと思う。このような簡単な質問と対話のゼミも交えることは、このような合宿の際には有効かもしれない。

最後に、今年の夏にI先生の地元であるS県でゼミナール合宿を行わないか、という提起を行なってみたところ、数は少ないながら、賛成票が過半数を超えた。昨年の反対票の多さからすると、この変化には隔世の感がある。S県開催の可能性が出てきて、安堵した次第だ。参加者全体にも聞くことになるが、いまや「悲願」となっていたS県開催をぜひ勝ち取りたいと、わたし自身は思った次第である。どこかの都知事のオリンピック誘致活動のような様相を呈してきているな、とひとりで自嘲しきりだったのだが。

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2012/01/08

One Purposeを借景にして、合宿ゼミナールを行なってきた

Photo_18宿を出て、地下鉄四条駅へ向かう。ずっと西へ西へたどると、駅に到達する前に、六角堂がある。立て札によると、聖徳太子に由来する古いお寺だそうだ。六角堂の名前のごとく、本堂部分が六角形となっていて、建物のどちらから観ても、同じ様相を持っていて、綺麗な形を保持している。

Photo_19平安京でも、中心地区に当たるところだから、飛鳥時代から続いて平安遷都を乗り越えて続いてきたものと思われる。当然ながら、時代が経るにしたがって、土地は削られて今日に至っていると思われる。まわりは、すべて近代的なビルに囲まれていて、おそらく庭園だったところも、他に取られ、本堂だけの今日の姿になっていると思われる。時代のなかで生き延びてきた秘訣は何なのかと想像してみることは可能だ。

ひとつは、時の勢力、時の文化と結びつくことである。政治勢力との結合は相当行われたことだろう。それから、後者のほうでは、池坊の起源に関わっているという記述もあり、まわりに、生花の道具を売る店がぐるっと並んでいる。何が驚くことなのかといえば、このような文化的な中核がちょっとした街歩きで、すぐに見つかるという点である。

Photo_20地下鉄に乗って、今出川へ出る。同志社の門をくぐれば、すぐに煉瓦作りの古い建物群が並んでいて、これに魅せられて、この大学へ入る人が居ても不思議はないだろう。それほど、魅力的な建物群だ。しかも、今回この建物群のなかの一室を借りてのゼミナールの開催だ。H先生に昨年はお世話をいただいたが、今回はN先生にすっかりご厄介になってしまった。ここを借りて、御礼申し上げる次第である。

Photo_21ゼミナールの様子は、N先生の観察に表れていて、いつも感心する。「今回のゼミナールには例年になく、優秀な方々が参加していて・・・」というところで、学生の方が「ホントですか」と質問すると、空かさず「けれども、そのなかの何人かの方は、最後まで続くか本当に心配しています・・・」と続けられたのだ。笑いを取っていたが、その笑いが失笑なのか、嘲笑なのかは確認しなかった。

Photo_22内容は、今年度は世情を反映して、金融問題が多かった。けれども、バブルの問題を扱う時代が過ぎてきていて、規制緩和から規制強化の時代を感じさせる傾向を感じさせるものだった。グローバリゼーション問題も陰に陽に、すべての方々の問題に影を落としていた。そして、その副作用は貧困問題にも及んでいて、このゼミナールで提起されている問題がすべて結びついてしまうかのような、つまり、何でも関係付けてしまう精神病に侵されたかのような状況均質的な状況に陥ってしまう、錯覚に囚われた。

Photo_23恒例の懇親会は、昨年と同じ、同志社大学の学生会館内にある素敵なレストランで行われた。大理石の大テーブルは健在で、写真のように、対岸とちょうど声の届く範囲での大きさを保持している。このような大テーブルが存在するということが、グループ性を保つためには必要な道具だと思われる。N先生のゼミナールでは、この大テーブルを利用するそうだ。頭の上には、同志社大学の校歌が刻まれた照明があり、校風を受け継いでいく工夫がなされている。全国大学のラグビー大会のときに聞いた覚えのあるフレーズ「One Purpase Doshisha」をN先生が口ずさんでくださった。

Photo_24すべて借り物であったのは残念だったが、最近富みに、地域主義・共同体主義的な傾向をゼミナールが持ってきていることを考えれば、放送大学の中にも、ちょっと違ったものでも良いから、このような時代をつなぐ工夫があるべきではなかろうか、すこし思った次第である。放送なので、空中に存在するという、空しい在り方もひとつの伝統だといえなくもないが、実在には勝てない部分があることを認め、今回のようなゼミナールを開くことの重要性をもっと認めることも時には、必要かもしれない。

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2012/01/07

疲れたときには、ヴィトゲンシュタイン方式で、後に残らないアクション映画が一番良い

Photo_14早朝から、修士論文の面接審査である。四条の宿舎から、京都学習センターのある駅前のキャンパスプラザへ向かう。途中、コンビニへ寄って、今日の審査を終えた後、千葉へ論文を繰り返すためのダンボール箱を調達する。わたしの担当分でも十数冊になるので、全部を送り返すためには、中くらいの程良い箱が必要になる。

学習センターへ着いてみると、わたしの手違いで、昨年度同様に午後だけを予定していたのだった。けれども、明らかに今回は審査の数が多いので、午前中から部屋の予約を申し込んで置かなければならなかったのだ。学習センターの職員の方が、気を回してくださって、会議室を手配してくださっていた。胸を撫で下ろしたのだった。お土産に横浜のお茶菓子を持って行っておいて、良かったな。

面接審査それ自体は、体力の要求される、長時間労働のように見えてしまうが、わたしは労力以外に感ずることのできることがあって、これまで審査の最中に退屈したことがない。もちろん、当たり前のことだが。その理由は、論文の成長というものが読み取れるからである。当初の論文と、完成した論文を比較すると歴然とした違いがわかる。とくに、書き始めてから、グンと伸びる論文というのがあって、これは観る間に間に、磨かれて違ってくるのだ。この変調は音楽で言えば、変奏曲の如くで、変わっていく必然性が読み取れる場合は、かなり頭の中の思考実験としては、楽しめる過程である。

もしかすると、書いている学生本人よりも、こちらが没入することがある。今回しかできないと思われるが、論文を書き始めてからのメールのやり取りで、これまでの最高記録を更新した。一人に関して、都合25回。双方で50回以上のメールのやり取りを行った事態が起こったのだ。通常は、こちらも印刷教材の作成を抱えているので、これほどのことはできない。したがって、来年度以降はもう行われないと思われるので、今回が最後のことである。

Photo_15どのように記述が変化していくのか、手に取るようにわかるので、こちらの道しるべの出し方にも工夫の余地があり、楽しんで行うことができる。内容も、日本の経済政策から、南太平洋の小国の政策まで、さらにはゲーム論から費用便益分析まで多彩なメニューが並ぶ。審査は発表の時間を区切って行われるのだが、やはり面白い論文では先生方が話し込んでしまって、なかなか時間通りには終わらない。今回も大幅に時間を超過して、夕方から宵闇に変わる頃、ようやく終了した。

Photo_17京都駅の向こう側には、ショピングセンターができているので、そこで食事をして、いつものように出張映画に勇んで、出かけた次第である。このようなときには、ヴィトゲンシュタイン方式で観るのが良い。映画の種類も、後に残らないアクション映画が一番良い。

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2012/01/06

葡萄との付き合いは長いが、いろいろと思い起こさせてくれた若冲の絵だった

Photo_2葡萄との付き合いは、深くはないが、長い。信州に生まれたので、乏しいときにも、秋になると近所の果樹園へ連れていってもらって、味覚を楽しんだ。リンゴをはじめとして、果物だけは豊かな土地に育った記憶がある。Photo_4とくに、葡萄は特別で、収穫の時にかならず農園に行って、蔓からたわわに実を付けているのを見ながら食べるのが、視覚も刺激を受け、味覚も増すのだった。祭りの要素は、果物のなかでも強かったのかもしれない。

年をとるにしたがって、葡萄酒を嗜むようになり、より身近な果物となっていった。けれども、農園に通っても、次から次へ出てくる品種改良の新種の名前を覚えるのは、苦手で主として味覚として覚えることにしていた。

Photo_5今、京都に来ていて、年末に予告していた相国寺の承天閣美術館に入って、若冲が鹿苑寺(金閣寺)大書院のために1759年に描いたとされる「葡萄小禽図床貼付」を観ている。禅の影響が著しいのは、正面に立ったときに、まず真ん中の白い空虚部分に圧倒されることだ。しかし、この空の空間をいかに認識させるのか、それがこの絵のすべてだと思われる。

http://www.shokoku-ji.jp/j_meihou_jaku_syouhekiga.html
良い写真は無いので、やはり実際に観ることをお勧めする。

Photo_6自然な空虚ということがあるならば、おそらくこのような描かれ方になるのではないだろうか、と想像する。もし構図のなかで、下方に何かが置かれていて、現実的な安定を想像させてしまったとしたら、空は現れなかったであろう。けれども、何かが描かれなければならない。そこで葡萄の持つ意味が出てくると思われる。

Photo_7葡萄の豊かさは、蔓にある。葡萄の蔓は上にあって、空のなかを自由に空間化している存在である。そして、葉と実を組み合わせた有機的な構成をポイントとポイントを繋ぎつつ、対比として、その間にポッカリとした白い空の空間を現出させている。もちろん、一様の白さというわけではないが、豊かな空だ。豊かな白さだ。それは、葡萄の豊かさがあって、その隣に何もないことで、豊かさだけが転移されているのだ。

Photo_8京都に在って、なぜ葡萄なのかと思う。やはり、この果物は昔にあっても、秋にしか得ることができない非日常的なものであって、特別な食べ物であったと考えられる。俗を離れて、聖に似合うものとして、葡萄は最適であったと、この絵を観ているとそのように思えてくる。メインテーマの芭蕉の図も、同じように、京都にはないものが選ばれて、非日常が自然に描かれている。

Photo_9江戸時代にあって、これほどシンプルかつ陰翳豊かな葡萄は、どこで観ることができたのだろうか。若冲は、錦小路の青物屋出身であるから、これらの植物をどこで観ることができるのかについては、豊富な知識を持っていたと思われる。Photo_13それにしても、この時代に入ってきて、俗から離れず、俗を超えるという、禅文化を理解し、なおかつ、相応の作品を寺に納めることができたという力量には見事なものがある。

Photo_11帰り道は、相国寺の裏から、出町柳へ通じる静かな街並みを歩んだ。ちょうど陽がくれてきて、出町柳の橋と駅に着く頃には、うっすらとした夕焼けと、7分ほどに満ちた月で、京都の黄昏を飾っていた。Photo_12噂に聞いていたクラシック喫茶「R」で、今日最後のコーヒーとケーキを食べる。最初はチャージを取られるということで、ちょっと敷居が高かったけれど、天井も高く、良い音が響いていて、曲目もちょうどバッハの無伴奏チェロ曲がかかっていた。その後あっという間に2時間ほどが経ってしまった。

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2012/01/05

「平凡にして偉大なすべての父と母へ」というオマージュ

Photo「平凡にして偉大なすべての父と母へ」というオマージュというのか、映画の最後のキャプションにこのような文句が入った映画「海洋天堂」を観た。何が平凡かといえば、父と子の物語であるところが平凡であり、何が偉大かといえば、父と子の普遍的な物語であるからだ。けれども、この言葉に相当する平凡さを、これまで誰が実現できたであろうか。

ガンを患い、命の短いことのわかっている「父」と、自閉症で、この世で暮らしていくことができるのかわからない、けれども泳ぐことだけは抜群にうまい「子」がいる。この二人が最後にどのような関係に行き着くのか、さらに、この関係性が維持される可能性はあるのか、これらの点でたいへん興味深い二人関係を描いている。二人関係それ自体は「平凡」だが、描かれていることは、たいへん普遍的で、「偉大」だと思う。

ヒントは、母の死である。母も、この子の母として、泳ぎがうまかったらしい。ところが、溺れ死んだ、ということになっている。なぜ泳ぎ上手な母が、溺れて死んだのか。映画の中には表に現れてこないが、母と子の関係が第一段階で、この映画が描いている父と子の関係が、第二段階で、さらに、父の死後にもう一つの段階が描かれている。そこでは、海亀と子が第三段階を形成するのだ。

わたしたちは母や父からの庇護のあと、どのような親子関係を築くのだろうか、と考えると、この映画の構成が極めて多くの意味を含んでいることに気づく。たとえば、経済的に自立したからといって、親子の二人関係が終わってしまうわけではないのだ。それじゃ、どのような関係であれば、在りうるのだろうか。

自立以後の親子関係とは何だろうかを、この映画はかえって教えてくれる。父が亡くなって後に、親子関係が世の中に成立していることがかえってわかることになるのだ。この映画の答えは明瞭であって、「海亀」をひとつの象徴として見せている。それはわたしの勝手な解釈なのであるが、そう外れていないのではないかと思っている。

海亀に託すことのできる、平凡さは非凡だと思う。母に寄って、現実を知り、父に寄って、可能性を理解し、海亀と共に、自分を生きることに目覚めたのだと思われる。

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2012/01/03

現代において、多様性の神話はいかに作られるか

Photo_14多様性に対していかに処すかということに、現代というものの行く末がかかっているといっても、ほぼ間違いないだろう。練習問題として、料理はどうだろうか。毎日毎日、お粥暮らしを続けなければならない病院生活が、いずれは訪れることは予想される年齢に到達している。病人が退院後真っ先に行うことは、旨いものに飛びつくことである。

料理には「驚き」が必要だという、強烈な主張をぶつけている映画「エルブリ」が上映されている。エルブリは伝説的な三ツ星レストランで、スペインのバルセロナ近郊にある。一年のうち半年だけしか営業しないにもかかわらず、年間200万件の予約が入るというレストランなのだ。それをスタッフの視点を追うことで描いた、ほぼドキュメンタリー映画として撮った作品である。

完全なドキュメンタリー映画ではないというのは、料理そのものの映画ではなく、あくまでオーナーシェフのフェランを中心とする、スタッフの動きに焦点を絞った点にあるからだ。この人間関係には、幾分料理的な演技の要素が含まれている。この結果、料理創作における人間関係を観るのに最適の映画となっている。たぶん、わたしにとっては、他の人がみるよりも、人間関係のいろいろなことを考えるうえで、たいへん勉強になったと言える。

美味しいか不味いか、ということを考えるならば、ふつうの家庭料理にだって、味覚の「驚き」は必要だ。舌で感じる味に、美味しさという驚きがなければ、料理は成り立たないのだが、その驚きは必ずしも常になくとも良いのだ。それがときどきあれば良いのだ。ふつうは、あまり驚く必要のないのが、家庭料理だ。

ところが、エルブリでは、つねに人を驚かすことを狙っているとフェランはいう。絶えず、多様な工夫を必要としている。多様性を最大限に実現し、かつ、美味しいという必要も求められている。たくさんの種類の美味しいを揃える必要があるのだ。

エルブリはこの点で、料理の「驚き」の要素をすっかり拡大してしまったといえる。美味しいか不味いかという基軸以外にも、熱いか冷たいか、硬いか柔らかいか、などなど、いくらでも評価の基準を広げることは可能なのだ。つまりは、味覚ではなく、食感を考えるのが、料理だ。これは、明らかに料理の概念を多様化してしまっている。

あまり詳しいわけではないが、1970年代のヌーベル・キュイジーヌの実験にちょっと似ていると感じた。当時は、料理人の直感で、新しさを作り出したのだが、エルブリは明らかに組織的に、これを生み出そうとしている。これは想像だが、料理は料理人の主観の強さで維持されてきた伝統があるが、これを超えようとしたのではないだろうか。

つまり、料理は実践知の部類に属するものであって、師から弟子へ身体で伝わっていく性質があると言われてきた。したがって、料理が選ばれて、さらに良いものとしてこれを残すためには、たいへん時間がかかってしまうことになる。ところが、エルブリでは、この過程をわずか半年でやってしまおうということになっている。どのようにして、このような神技的なことが、可能なのだろうか。映画では、この点がうまく描かれている。

多様性を制御するには、ひとたび広げておいて、その後は幾つものフィルタリングをかけることだ。たとえば、エルブリの素材選びは徹底している。バルセロナの生鮮市場で買い求められてきた食材やら、日本から取り寄せられたものやら、あらゆるものが食材として、幅ひろく集められる。そこから、どのような方向性を出してくるのかが、研究所の実験室のような隠れ家的場所で、スタッフによって問われることになる。たとえば、一晩のメニューは35品まで作られ出されるが、その24番に載っている「消えるラビオリ」が最終的なメニューとなるまでには、日本のオブラートまで食材として試されることになるのだ。

ここで想像されるのは、この無数の食材をいかに制御するのかということである。レシピは作られるが、PCへの入力がここでは強制される。また、写真による記録は必須である。つまりは、余りに多くの食材が使われているために、多くの人びとが同じ感覚で制御するためには、それ相当の管理が必要となってくる。台所での創作段階では、包丁を片手に、もう片手にはPCが必需品となっていた。さらに、世界中から集められた料理人たちが、これを半年間かけて、洗練していくのだ。組織論の教科書に載るようなスペクタクルだ。

さて、問題は、これで新しい食感という神話を作ることができたのだろうか、ということである。映画の最後に、35番までのメニューすべてが登場する。たしかに、芸術品として、観るに美しいことは認めるとしても、果たして食べて美味しいのだろうかということである。残念ながら、ここまでだ。あとは映画の限界である。次から次へ新しい料理を作ったことは認めるが、それが定番として残っていくものなのかは、映像だけではわからない。ほんとうに、人類が数千年かかった料理の歴史を、この半年に凝縮できたのだろうか。

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2012/01/01

ガレットで今年の王様を占って、元日を祝う

Photo_5昨年の記憶の多くは、東北の震災であることは間違いない。そしてさらに、元日早々にも、東北から関東にかけて、幅広い地震があって、その記憶が蘇ってきた。朝の晴れた空のように、こころも晴れる日の来ることを望みたい。

Photo_6朝は、栗と柿でお茶をいただくのが、我が家の伝統となっている。それで、これは形式が重要で、朝になって、これを食べながら、一年の会話を通じることが、何か大切な手段であると、考えてきた。もちろん、その通りなのだが、今日はいつもと違う点があった。柿が甘く美味しいのだ。一年の最初から、欲望を抑えられないということは、恥ずかしいことだが仕方がない。今年のダイエットにとっては最悪だ。来客に残しておかねばならない分も、娘といっしょに片付けてしまった。

Photo_7それから、じつは母が高齢になって、次第に、お節料理を作るのが困難になってきていて、今年も昨年にも増して、盛んに手作りをやめたいと言っていた。ところが、暮れになって、年末に近づくにつれ、手が動き出すらしい。幸いに、わたしのほうもすこし手伝うことが面白くなってきていたので、煮物作りを手伝だった。御節こそ、よろず多様性の極致で、品数の多さが確保されていないと、お正月も詰まらないものになってしまう。風習というものはそういうものだと思っていて、ひとたびルールが大幅に変更されてしまうと駄目になるようなものなのだ。それに、家の味というものがあって、その標準を守ることは、大切な割には、やってみると難しいことがわかった。この味がなくなると、どういうことになってしまうのだろうか。

Photo_9午後には、妹夫婦が来て、屠蘇と雑煮をいただき、雑談に花が咲いた。お節を並べてみると、いつもと遜色ないところまで、品揃えは整っていた。いつもとは味の取り方は違っていたにもかかわらず、味も何とか水準を保っていた。さて、こう考えてみると、時間が経っていくことはあったとしても、味や好みは多少変わるとはいえ、お節のような伝統に沿った平常的な料理というものが、家にはあり、単に食欲を満たすだけでなく、それ以上にさらに、味の恒常性というものがあることがわかる。お節は保守的な心性を養うのだ。

Photo_10元日は、義弟のプレゼントである「ガレット」で、今年の「王様」を占ってからはじまるという、これが昨年からの習慣となりつつある。ケーキに忍び込ませ、当たった人の幸運を占うという「フェーヴ」は、今年は緑のたまたま模様の小さな陶器だったが、実際には、ケーキの中にアーモンドナッツが仕込まれている。じゃんけんをして、一切れずつとっていったのだが、結局「残り物に福がある」、という格言どおり、最後に選んだ義弟のところにナッツは入っていた。人生は、つねに豊かな結果をもたらすものだ。頭上に、王冠が光った。

Photo_11雑談をしていると、義弟の経営しているお菓子の店が、渋谷と麻布に進出するらしい。それで、近頃は大変忙しいと言っていた。じつは、わたしも放送大学の授業で渋谷進出だと告げると、偶然の一致に喜んでくれた。しかも、渋谷駅を挟んで、ちょうど東口と西口とに対峙しているところにビルがそれぞれあることがわかった。

Photo_13お正月恒例のカードゲーム大会が始まる。我が家では「どぼん」と呼ばれているゲームで、一年が明けることになっている。勝敗は時の運で、昨年の覇者が今年の最下位になることがあるのだが、例年標準的に負ける人が決まってしまうのは、どういうわけだろう。また、ゲームの終わり方に、波があって、時間が経つにしたがって、大きなうねりが起こってくるところがたいへん面白いところだ。

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2011/12/31

健康診断の結果が、大晦日の食事を支配した

Photo先日おこなった健康診断の結果が出てきた。一年の総決算としては、きわめて妥当な話題ではないだろうか。赤血球が少ないそうだ。足りないとどうなるのか、ということはまだ調べてないが、少なくてもそれは血液の中心となるもの、つまり身体の熱源であることはわかる。最近どうも意気が上がらないという、生理的な理由がわかった気がした。簡単にいえば、生物学的に、元気がないということだ。一時的に、食事が草食になっているのだと思われる。

じつは、毎年恒例となっている、大晦日の仕事が今年も行わなければならなくなって、幕張の研究室へ出る。いつも不思議に思うのだが、大晦日にもかかわらず、かならず誰か先生がいらっしゃっていて、ざわざわと話し声が通り過ぎていく。いったい誰が仕事しているのだろうか。午前からはじめて、午後になって、ようやく仕事を納めて、1月4日締め切りで送らなければならない仕事を箱に閉じ込め、封をした。完了だ。

Photo_2締め切りに間に合ったことを喜び、それに大晦日だからというので、祝杯だといきたいところだが、赤血球のことが頭を過ぎり、これを増やすべく、そして元気をつけるために、ひとまず昼ごはんに繰り出す。ところが、大晦日である。いつも行くH中華料理店がお休みだった。そこで、並びにあるステーキK屋さんへ入る。血も滴るようなパウンド肉に食らいつきたかったのだが、ところがやはり、近年の調子を反映して、食欲のほうは150グラムを頼むのがやっとであった。

この店はいつも人気がある。ふつうは、近くのサラリーマンが店を占めているのだが、今日は家族連れが多い。放送大学の先生方や職員の方々にも、若い世代を中心に支持されている。なぜサラリーマンばかりか、家族連れにも、あまねく人気があるのかといえば、それは常々思っていたのだが、今日改めて観察してみると、やはりバラエティに富んでいるからではないかと思う。

Photo_4ランチの基本メニューは、スープとサラダ、メインがステーキ肉で、デザートに果物やヨーグルト、さらに飲み物が付く。これだけならば、ふつうのランチの店と同じだが、それぞれ付加的なものが付いている。おまけ付きということに弱いのは、若さの象徴かもしれないし、人間の弱みなのだと言ってもいいかもしれない。たとえば、スープにはステーキ屋さんだけあって、肉の塊がたっぷりだし、サラダは食べ放題でごはんもほぼ食べ放題だ。

そして、何よりもこの齢になって、肉の多さにもめげず、この多様性にあこがれているのは、もちろん半分は疑いつつも、ちょっと慎み深くいうならば、わたし自身が精神的に若いのではないかとも思う。多様性を象徴していると思われるものに、ここのおまけの中に、みんなのお目当てのものがあるのだ。それは、このダイエットの時代に、それに大幅に反している食べ物であって、おそらく女性たちが、そしてこのわたしがこの店に来る理由の多くを占めているものがあるのだ。

Photo_3大袈裟な言い方になってしまったが、この写真の生クリームのワッフルを見ていただければわかると思う。じつはこの写真のワッフルは、二台あるワッフル焼き器のもう一台を使っていた高校生のものだ。見栄えが良いのでお借りした。すこし恥ずかしい言い方になってしまったが、美味しいもちもちワッフルを焼いていると、みんながワッフル好きに見えてきてしまうのだ。

さて、ステーキ摂取までは、赤血球を増やしたことは間違いないが、どうもこのワッフルで相殺されたのではないだろうかとも思うが、いまさら手遅れだ。世の中は、良いこともあれば悪いこともあるということで、今年も暮れていったのだ。

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2011/12/28

城や庭園の造りに、人間関係の複雑さを観た。

Photo_8   「花の生涯」がNHKの大河ドラマとして放送されていたのが、1963年だった。東京オリンピックの前年で、わたしは練馬区の大泉にあった中学校へ通っていた。だから、到底、テレビドラマなどは見ている暇はなく、遊びに一生懸命であったから、いくら視聴率が良かったとしても、ほとんど記憶に止めているはずがないと思っていた。けれども、実はところどころではあるが、これが覚えているのである。

後のちの再々放送でも見ていると思われるので、それが残っているのかもしれないが、特に「桜田門の変」での雪の降っている場面は、印象深い。当時は幕末期の思想変化についての知識に疎くて、なぜ尊皇攘夷が幕府側を襲うのか、わからないというお粗末な歴史認識だったから、名場面だったと思っても、それはドラマとして見ていたのだと思われる。と前振りをしたのは、じつは今日は彦根に来て居て、「花の生涯」の碑の前に立ったのだ。そして、なんと、昨日からの雪が80センチも積もっている。

Photo_12 この雪の中を歩いていて、堀の向こうに、井伊直弼が青春時代を過ごした「埋れ木舎」を臨みながら、馬屋の構えを見て、さらに細い坂を登って行くのだが、天守閣は下からは望めず、なかなか複雑な造りを見せていて、さらに実践的な構えがあり、このような建物のもとで暮らしたら、やはり建物を行き来する人間関係の複雑さを理解せざるを得ない状況に陥るだろうな、と思った。

Photo_11 この彦根的な複雑さの真骨頂は、彦根城の庭園である。二つあって、じつは工事中のほうに、特徴が現れているのではないかと思っているのだが、「玄宮園」ともうひとつが、「楽々園」ということで、その後者は「智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」《論語》から取られており、智者が水の流れる如くに、物事を円滑に処理するようすと、仁者が、不動の山にたとえて、欲に動かされずに天命に安んずるようすを言っているとのことだ。

このような教訓の染み込んだ建物や庭園を持っているというのは、この地域特有の伝統であると思われる。「楽々」ということが、このようなエリートの教訓であるような井伊家というのは、厳しいなと思う。幕末の大老井伊直弼が傍系でありながら、選ばれて出てきた理由がわかった気がする。天才は何事もらくらくと、こなさなければならないのだ。楽の意味もたいへんという意味に転換するということだ。仕事は楽しくなければならない、という思想の一つの系譜の通っているのを観た。

Photo_13 この複雑さが視覚的にわかるのが、前者の「玄宮園」だと思われる。近づくと見えなくなり、遠のくと見えてくることという複雑性の考え方があるが、それがこの庭園の造りの真髄となっている。天守閣は、石垣に守られていて、近づくと姿を消すが、遠のくと、背景に見えてくる。天守閣と石垣を借景として、手前に中国の玄宗皇帝に習った庭を配している。壮大な眺めを収めた大きな庭だ。

ちょうど雪が降って、白の連続で背景をつなげていたので、さらに全体の世界を大きく見せている。ピラミッド的なパノラマを効果的に表している。この庭は、八景で構成されていて、世界の複雑さを凝縮させている。一瞬、全世界を鳥瞰したかのような錯覚に陥るが、それはすぐに打ち消され、池たる水と、城たる山と、そして今日は、真っ白な雪があって、きわめてシンプルな世界がそこに現れたのだった。

ここでその壮大さに十分驚いてしまい、また急に足も痛くなってきたので、本山である天守閣はパスしてしまった。これまでも、人生で何回もこのようなパスを繰り返してきたような気がするが、ようやくパスを気にしなくても良い年齢に差し掛かった。最後に、このような時にはせめて、すべての行程を全うしたかったのだが、遠くにあって想像することができるようになったのが、年を取るということである、と思い切りが良くなったこともあって、彦根城の見学は終了とした。

Photo_14 城の入り口付近に、Mという喫茶店があって、中に入ると、真ん中に薪ストーブがあって、暖かさそのものという空間があった。薪を集めるのはたいへんじゃないですか、と尋ねると、神社が回りにあって、何かと廃材が出るのだそうだ。印象に残ったのは、はじめテーブルに向かって腰掛けていた客たちが、少しずつ薪ストーブのほうへ向きを変え、さらに組んだ足を差し出し始めたことであった。

Photo_15 暖かさとは、ひとつには、燃えているものがあること。ふたつには、建物の周りが寒く冷たいこと。みっつには、ふわっと違う次元を広く包み込んでいることである。余裕ある建物に、ほかの何者かを同時存在させていて、たとえば、ここの半分は託児所的な空間になっていて、けれども長居できそうな空間を保っている。雪の中で、ゆったりした空間をらくらくと楽しんだ。

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2011/12/27

金ピカ文化のシンプルさを観て、なぜ金閣寺が成り立ったのかを想ってきた。

Photo 「金ピカ」ということについては、きわめて質素な家庭にわたしが育ったために、どちらかといえば、否定的な文化として忌避すべきものだ、と認識してきた。それは、金とはいえ、主として「貨幣」、あるいは「儲け」というものに対する、抑制された感情、あるいはむしろ反作用であったのかもしれない。ところが、一方でご先祖様の商家の伝統もわたしの家には存在していて、お正月には「繰り回しよく、かきとる」と言いつつ、甘栗と干し柿を食べる習慣があったりする。

それが、経済学を学ぶようになってくると、貨幣的なものや、金的なものについても理解せざるを得なくなり、かえって、不幸な身の上話を聞いてやるような、愛おしい感情が芽生えてきている。だから、「金ピカ」についても、大人になってからは、見直す機会が増えている。

Photo_2 今回、何十年か振りに、金閣寺(鹿苑寺)を拝観した。門をくぐって、目の前の池に映る金閣寺は、以前であれば、その煌びやかさは、権力者の見せびらかしで、黄金の持つハロー効果を最大限利用したものだろう、と思ってしまったところだろう。しかし、よくみると、金閣寺は色の使い方がシンプルで、一階部分は、むしろ枯れた雰囲気を持っている。

義満の時代にどうであったのかわからないところはあるが、江戸期の後水尾天皇ころに、京都で一つの動きがあり、このシンプルさが文化の基底に据えられた時代があった。この影響は驚くべきで、京都のあらゆるところに見られるようになったのではないか、と想像できる。

Photo_3 なぜ金閣寺が江戸のシンプル文化の一つなのか、ということについては、あまり確証はなかったのだが、じつは今回のテーマである「金ピカ」に引きつけていえば、金閣寺の金ピカは単色で、極めてシンプル文化の要素を濃厚に受けていていると思われるところがあるのだ。この金ピカに緑や赤が入ってきたのであれば、それは、別の宮廷文化の系統になってしまうのであるが。たとえば、隋や唐の文化の影響のある平安期までの宮廷文化であれば、赤や黄色や緑の真の意味の金ぴか文化であった。

ところが、禅宗や茶の湯が日本に伝わり、さらに江戸期の民衆文化が宮廷文化へ影響を及ぼすようになると、時代全体が変化するような動きが現れたらしい。そしてそこで、鹿苑寺などにサロンが設けられるようになったということを知って、なるほどを思ったしだいである。このことは、寛永文化論の熊倉功夫氏の幾多の書物に詳しい。

そこで、何が言いたいのかといえば、たとえ「金ピカ」であろうとも、二重三重の複雑な表現があって、「金ピカ」とみれば、画一的な黄金神話で物事を解釈することは、誤ってしまう場合があるのではないかということである。はじめは、黄金神話で作られたものであっても、時代が変わり、人が変わりすることで、金ピカ文化もいわば地味な文化として立ち現れることがあるのだ。江戸時代の寛永文化には、このような変化が濃厚に表れてきたということだと思われる。

さて、そのように解釈し直したとしても、それじゃ黄金の輝きにこのように人びとが惹きつけられるのはなぜか、を説明していることにはならないと、反論されそうである。つまり、黄金神話は神話を崩しながら、何度も黄金神話を作り変えてきた、ということではないか。その時に、揺り戻されるモデルとして、金閣寺モデルは特別な位置を占めていると思われる。「金ピカ」の中のシンプルさなのか、それとも、シンプル文化の中の「金ピカ」なのか、その表象として、今日は金閣寺をじっくりと観てきた。

雪が降ってきて、合間には陽が射してきた。その変化の中で、金の輝きは、陽の光で変幻自在に変わるのだ。光が当らないところは真っ黒だし、光がまともに当れば、真っ白なのだ。このコントラストの違いに気づけば、金一色だけで、無限のグラレーションを実現できることを知った。

残念ながら、大書院や方丈などは、今回公開されていなかったが、あの後の時代の若冲作品や、当時の後水尾天皇の足跡が、この鹿苑寺に記録されているところを鑑賞することはできなかったのだが、サロンの中で彼らの間に、どのような会話がなされていたのか、さらに後の時代にその伝統がいかに影響を与えて、若冲がここに絵を残すことになったのかをちょっと想像したくなってしまったのだ。来年早々に、同志社大学でゼミナールを開くことになっている。隣の相国寺に、じつはこれらの作品があるらしい。それに当然、修学院離宮や桂離宮との関係は興味深いところだ。

Photo_4 京都の観光客も年末になって、家に戻ったのではないかと思われた。それで、四条河原町あたりの喫茶店ですこし休もうと思って出たのだが、なんとお休みだった。さらに、もう一軒へ行くと、今度は地元の仕事納めを終えた旦那さんや和服のカップルたちで満員であり、よそ者の入る余地はなかった。そこで初めていく店で、Tという老舗の喫茶店の二階に陣取ることにした。ここもかなり古い調度品で飾られており、タバコを気にしなければ、申し分ない場所だった。Photo_5 観光で訪れた喫茶店マニア(わたしもそのひとりということになるが)たちが、ほぼ全員が写真を撮っていったのはさすがだなと思った。最初の部屋にわたしは陣取っていたので、津々浦々から集まって来たカメラに、わたしの姿も何枚となく収まったのである。宮廷文化から抜け出てきたとたんに、世の中、民衆文化だらけの年末模様となった。

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2011/12/26

家族崩壊と、「習慣の転換」との関係はあるか

9fccbf834036d651b38edb5699398fda1昨日、宿で映画監督の森田芳光氏が亡くなったのを知った。同世代だったので、多くの作品を観ている。最近の小雪主演の映画「わたし出すわ」なども楽しく観た。「A列車で行こう」も期待していた。

けれども、みんなの一致するところ、代表作は「家族ゲーム」であるということになるらしい。1980年代という時代を映している。「家族崩壊」神話という物語の方法があって、社会科学では、都市化や、工業化などがその典型な説明要因となる。それに対して、家族内部の要因として、家族崩壊を語るようになってきたという系譜が存在すると思われる。

習慣の変化ということも社会的変化としていうのではなく、個人間の意識の問題として語られるようになったのだと思っている。このなかで、家族とは、「習慣だ」、という映画「家族ゲーム」の考え方は、時代に対する強いメッセージだったと思う。

今は亡き伊丹十三の夫婦家族に、これも今は亡き松田優作の他者が入り込んでくることで、家族の変調が明らかになってくるのだ。映画のなかで、このようなシーンがあった。伊丹十三演じる夫には、目玉焼きを毎日食べる習慣があった。その食べ方は、黄身をジュっと吸うように食べるのだが、ある日ジュっと吸っても、黄身が出てこない。堅焼きで目玉焼きが出されたのだ。妻が言うには、ずっと堅焼きだったでしょっという場面は、とりわけ印象的であった。20年近く前に観たので、記憶が間違っているかもしれないが、大筋はそのとおりだったと思われる。

二人関係において、双方で趣味をすべて把握することは難しいとしても、大雑把にだいたいどのようなものかがわかっているのが、二人関係の親密さ加減でその習慣がわかるのだと思われる。もしここの部分が何らかの原因で失われると、失語症のように、相互コミュニケーションが失われることになるだろう。このところをうまく描いた映画だったと思う。

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2011/12/25

年末になって、眩暈のするバス・ドライブを楽しんだ

Photo車の運転を行わないということは、通常は快適であって、申し分ないのだが、余暇の過ごし方の一種に、眩暈という遊びの要素があって、ときどきこの要素をどのように摂取し昇華させるべきかと悩むことがある。だいたい、このような趣味は、幼児期に脱するのかもしれないが、長引くと、大人になっても時として呼び起こしてしまうものなのだ。

眩暈の代表格としての「大人のおもちゃ」が、車だと思っている。幼児期の思い出としては、鮮烈なものがある。田舎のうちに、ジープが来た時に、家にいたコーちゃんという兄さんに乗せてもらって、オープンカーの幌がヒュウヒュウなって、直に風を受ける醍醐味をはじめて知った。信州の松本から塩尻への一直線だった道を駆け抜け、ブドウ園へ行った。この眩暈の快楽は、今考えても比類のないものであった。

Photo_2このような素晴らしいと感じる体験がありながら、それなのに家族の誰も運転免許を取らない伝統があり、わたし自身も東京に出てからは、すっかり車とは無縁となってしまった。自分では、都市に住んだことが車に乗らない表の理由と思っているが、ちょっと引いて考えてみると、眩暈系のあそびについては、苦手意識があるのではないかとも思われる。

Photo_3木曽に住んでいた時に、幼稚園のブランコから落ちたという記憶があって、今でもブランコに乗ると、身体の意識がヒュっと縮むことがある。車とブランコが同じだとは、思わないし、ブランコに落ちた人が、すべて自動車の運転をできないとは限らないから、あまり信憑性はないかもしれないが、自分ではこれじゃないかなと思っている。

娘を見ていると、ブランコへの苦手意識はなさそうだし、遊園地へ連れて行っても、ジェットコースターをはじめとして、遠心力を利用した回るブランコも好きなことを見ているから、眩暈意識は遺伝的ではなく、わたしに個人的に起こっていることらしい。

Photo_4じつは、今日久しぶりに「ドライブ」を楽しんだ。妻がバス旅行を見つけてきた。以前は乗り物酔いが激しくて、これまで自動車にはほとんど乗ったことがないのだが、この年齢に達して、体質が変わったのだということだ。それもよほど気に入ったらしく、一番に申し込みを果たし、バスの一番前の席を確保した。パノラマビューとも言うべき動く景色を楽しんだ。

この効用はすごくて、富士山がつねに大画面で臨むことが出来たのだ。眩暈の典型は、フランスの社会学者カイヨワによれば、ブランコやジェットコースターだと言われている。大自然の中をジェットコースターで走り回っているような、感覚になった。現代人であれば、ドライブは習慣的な行動なので、眩暈などとは感じないだろうが、そもそも運転を行わない習慣の身に付いた、わたしにとっては十分な刺激だった。

8時間ほどの長時間のドライブとなった。数少ない経験の記憶によれば、これまでの長距離のドライブでは、講義取材で行った英国では、エディンバラからロンドンまで2日かけて一気にくだった経験があるし、さらに米国を取材して、ニューハンプシャ州の紅葉の中を一日走ったことがあったが、これに継ぐ距離だと思われる。

日本国内では、あまりドライブを楽しんだという思い出はないが、かなり古い記憶では、高校時代に一人の友人MがフェアレディZのオープンカーを買ってもらって、もう一人の友人Kの別荘が伊豆半島の先端にあり、さらにもう一人の友人M宅が西伊豆にあったので、ぐるりと半島を回った思い出が長距離ドライブのほぼ唯一のものだ。思い出しても冷や汗ものだったのは、夜中に半島の尾根から、海岸へ一気に下ったことがあり、この感覚は忘れない。ほんとうに少ない体験しかない。それ以外にはドライブの記憶はないから、わたしは圧倒的に車生活からは遠のいて過ごしてきたことになる。

ドライブの魅力は、眩暈願望にあるのではないか。とくに、下り坂で加速されて行く感覚は、ブランコの後ろから前へせり出して行く感覚に似ていて、わたしだけの特別な感覚かもしれないが、特別な身体感覚を感じるのだ。

Photo_7今日のバス旅行の休憩は、近江八幡のクラブHで取った。クリスマスの日に当たっていたので、ケーキ付きの紅茶で一時間ほどゆったりした。ここから宿までは、ゆっくり一時間ほどで着いた。

眩暈の話はまだ終わらない。夜、食事に出たまではよかったのだが、足元が暗く側溝にはまってしまい、転んでしまった。老人性の転倒である。身体全体が倒れてもどうということはないが、顔を打ち付けてしまった。ワインの瓶が割れなかったので、衝撃はすくなかったことがわかった。

Photo_6眩暈がして、倒れた感覚を想ってみた。痛い記憶はあるが、どのようにして倒れたのかの記憶がなくなる。これが、眩暈の特性であり、良い面でもあり悪い面でもあるのではないか。眩暈を楽しんで、倒れつつあることが記憶に残れば、もっと眩暈を、ということになるかもしれないが、どうもその感覚がすぐ記憶から無くなってしまうのであれば、やはり、眩暈は特別の時だけに取っておきたい体験でしかない。老人となった今は、今日のドライブで堪能したのだから、この次については、すこし先延ばししたい。

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2011/12/21

会話をする以上のことを伝えるためには

Photo_35今日は、長崎学習センターで卒業研究の審査と、来年度の卒業研究についての面接を行うことになっている。忙中閑ありで、朝すこし早起きして、昨日の散歩の続きを行うことにする。前回、唐人屋敷のあった館内町を回っていた時に、孫文が長崎をたびたび訪れていて、なぜだろうかと思っていた。ちょうど今回長崎歴史文化博物館で、孫文展が催されていることがわかり、先日映画「辛亥革命」を見ていたこともあって、散歩の終着点は、歴史文化博物館と決めた。

数年来の坂本龍馬ブームのお陰で、街のいたるところに、幕末期の記念碑が立っている。思案橋の宿を出て、カステラで有名な福砂屋の前を左に曲がると、昔の花街である丸山町に出る。今は公園になっているところが、花街の中核だったところで、境界を示す石垣の跡をあちこちで見ることができる。Photo_36昨日の続きである。こちらも1640年代に、散らばっていた花街が、ここに集められたとのことだった。二重門になっていて、江戸の吉原、京都の島原、と並んで、江戸時代の三大花街だったらしい。最盛期には、1400人の遊女が集められていた。

Photo_37いまは、建物として料亭「花月」が残っていて、当時の様子を想像して見ることが出来る。公園には、案内板に当時を描いた浮世絵が張り付いていた。横浜の花街は幕末期には有名であるが、国際色豊かだったと聞く。長崎もまた国際的な交流が盛んであったらしい。Photo_42山を登ったところには、長崎ぶらぶら節の主人公となった「愛八」などのゆかりの茶屋などがあって、人びとの関係が渦巻いた地域であったことを想像させる。

Photo_43さらに、登ったところには、高島砲術を確立した高島秋帆の別邸があって、こちらは原爆で焼けてしまって、住居跡だけが残されている。床の一部だったタイルが土から顔をのぞかせている程度だ。シーボルトの塾が典型だが、当時は日本全国から、新しい知識を求めて人びとが集まってきていたのだ。Photo_45長崎全体が、日本の新しい大学として機能していて、医術、砲術、貿易術をはじめとして、実学と同時に、知識の街が誕生していたといえよう。それにしても、桂小五郎が立ち寄った料亭、小松帯刀が立ち寄った屋敷など、これだけ狭いところにこれだけ多くの人々が集まり、コミュニケーションを交わしていたということには、驚くばかりだ。この街の包容力に感心してしまう。

今回の孫文展の趣旨は、ポスターにあるように、日活映画を創業した梅屋庄吉との長い交流を描いたものだ。会場には、辛亥革命当時、庄吉が撮影隊を繰り出して、中国本土の様子を長期に渡って写した、ドキュメンタリー映画も流されていた。孫文がいかに演説のうまい政治家であり、スポンサーを大事にしたのかを如実に示していた。

もし梅屋庄吉が長崎人の典型であるならば、やはり江戸期から培われた国際的な感覚を身につけていたから、このような活躍を見せ、いたるところで、社交性を発揮することができたのだと思えてきた。

Photo_46公会堂前に出て、老舗のカステラ屋さんで買い物。レジのかたに、近くのランチの店を聞くと、すぐそばにTというランチ専門の喫茶店のあることを教えてくださった。店は昼時に掛かって、すぐに近くで働く人々でいっぱいになった。「来てますよ」とか、「まだ見えてません」という声が飛び交い、常連の多い店であることがわかる。手元が料理から離れないにもかかわらず、ニコっと、客に笑顔を返すところが、働く人には余裕をもたらすのだとわかった。このような地域固有の社交性は、わたしのような外から来たものにとても、親密感を抱かせるもので好ましいと感じた。

市電に乗って、長崎大学につく頃には、街に若い人びとがいっぱいになってきて、大学の近いことを知る。長崎学習センターは、図書館の隣にあって、長崎大学の中核にある。良い環境だと思った。

センターの所長先生や、職員方のサポートもあって、審査も卒研も順調に進んだ。来年度もここから、小さくてもよいので、また一つの知識が生まれ出でることを期待している。実際に会って話す、という極めて基本的なことに違いないのではあるが、そこでは話す以上のことが伝わっているのだ。このことを自覚できるのは、常日頃、テレビやラジオで伝達を行っていて、そのオンとオフとの感覚がわたしたちの間にあるからだと思いたい。

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2011/12/20

思案橋辺りで、昔の長崎の街を想像する

Photo_33昨日母を送った後、大学で仕事を片付けていたら、結構遅くなってしまった。エレベーターでM先生とばったり会って、師走における「三段階ギアチェンジ」を行わなければならない、共通の「走り具合」を確かめ合った次第である。例年どおり、もの悲しい暮れになりました、と言い合うだけでも慰められた気分になるものだ。横浜に着いたのは、深夜になっていた。このところ、鉄道事故に遭遇することが多いが、昨日も東京駅で少し足止めをくってしまった。

Photo_9今日になって、朝6時の電車に飛び乗って羽田空港へ、空路長崎へ向かう。旅は順調で、昼には長崎の中心部を歩いていた。左の写真は、街の中心にある眼鏡橋だが、なぜメガネ橋と言うのかわからなかったのだが、このように観てみると、なるほどメガネに見えてくる。

Photo_6ランチは、前回来た時に、美味しかった庶民的な店Yへ入る。今では珍しい下足番が居て、昼間から遊郭に上がるみたいだな。前回は二階のお座敷へ上げてもらったのだが、せっかく一人できた時には、店の様子のよく見える、一階に陣取ることにした。

Photo_8というよりは、最初靴を脱ぐのが面倒だ、と思ったのだが、誰でも歳を取ると同じことを考えるようだ。待たされた割には勘定場に近い、最も忙しないところに通されてしまった。けれども、ものは考えようで、この場所が店の様子を見るのにちょうど良かった。

歳を取ると、みんな二階を避けるらしい。圧倒的に、客の多くがたとえ座敷であっても、一階を選んでいた。多くは、馴染み客らしい。もっと観光客が多いのかと思っていたのだが、そうではなく、地元の人が友人を伴ってくる店という感じでたいへん好ましい雰囲気だ。女性比率の高いのも、地元に支持されていることを物語っている。

玄関を入って、食堂が入り口で仕切られている。この構造が、珍しいわけではない。この中間に勘定場があって、両者を分けている。もうひとつは、食堂と料理場とがついたてで、仕切られていて、男女の仲居さんが媒介していて、ついたての奥は、ここからは伺い知ることはできない。茶碗蒸しの定食がメインということになっていたが、食事屋の基本は多様性であって、どんな好みにでも対応できることが、地元で支持される要件らしい。

Photo_10これだけ異なる料理を、すぐに食卓へ並べるには、相当な組織管理能力が存在しているのではないかと、素人目にもわかる。普通の店よりも手がかかっているのは、下足番とそれぞれの部署を回って歩いている、管理要員だが、これだけの客が入っていれば、十分に補っていると思われる。仲居さんも余裕を持っていて、それぞれの部署に捉われずに、行ったり来たりしている。経営者の後継者が見習いで働いている風でもあり、この余裕がスラックとなって、全体の混雑を和らげている。

Photo_11今日の宿舎に入ってしまえば、明日の準備に取り掛からねばならなくなってしまうので、十分に時間をとって長崎を訪れたのは、これまで行ったことのないところを訪ねてみたかったからだ。前回来た時に、新地中華街の裏に広がる館内町を歩いて回って、江戸期の中国遺跡の多いのにびっくりしたのだ。それで、今回その中でも、二つも国宝に指定されていて、何やら不思議な雰囲気のあるお寺を回ろうと思っていたのだ。それから、もう一つ孫文関連があるのだが、それは明日だ。

Photo_12長崎で最も古い、というものがいくつかあるのだが、この長崎の古さというのはどのようなイメージを与えるのだろうか。わたしのように、横浜に住むものにとっては、幕末時に多くの新しいものが入ってきていて、同じような状況にあって、どのような文脈で古いのかが気になるところだ。けれども、長崎にはいくつかの歴史の波があって、横浜みたいに新しい記憶ばかりでないところが面白い。

Photo_13長崎の現存木造建築で最も古いという「崇福寺」へ行った。写真でわかるように、門などに見られる曲線が唐風である。多くの建物は原爆で焼かれてしまっているので、残されていないが、ここには1646年ごろに建てられた本堂と、門が残存している。黄檗宗の寺で、中国趣味がかなり残されている。福州の豪商が中国で材木を加工して、こちらへ運んで建てたらしい。これには、どうも歴史が関係している。というのも、明から清への転換の時期で、祖国を離れて、異教の地での信仰を継続する必要に迫られていたことが伺い知ることが出来る。

Photo_14福建省の民は海の民であり、媽祖信仰が強い。それは、昨年訪れた館内町に共通するものだ。この神の強さが異郷の地ではどうしても必要だったに違いない。左右にある千里眼像と順風耳を引き連れた強い神様を感じさせる。伝説を覚えていたと思い込んでいた。遭難時に、父か兄か、どちらかを助けなければならないときにどちらを優先するのか、正義論に出てくる伝説があったと勘違いしていたらしい。

Photo_15その後も、何回も、崇福寺は増築されており、さらに幕末にも商人たちに利用されていることからして、長崎の一つの中心をなしていたことは想像できる。面白いものとしては、1680年代の飢饉の炊き出しに使われた大鍋が残されている。Photo_16救貧院としても機能していたことがわかる。この寺に入る時に、あの中国式の三門から入るのだが、できれば左の門から入りたかったのだが、それは飾りで、狛犬に遮られていた。

Photo_18この辺は、古くからの街並みが残っていて、高級料亭のシンプルな門構えや街全体の余裕が歴史に耐えてきたことを教えてくれる。原爆の影響も山のかげになったところは、緩かったらしい。Photo_20鍛治町のゆったりした坂道を下って、繁華街へ向かう途中に、古くからの喫茶店Fがあるので、宿での仕事に備えて、コーヒーを一杯。午後は宿舎で十分仕事をする時間があった。今回も通信問題を持参してきていた。長崎旅行をした答案が届くとは、受け取る方も思ってもみないことだろう。Photo_21でも、それはわからないことだし、答案だけが楽しんだことを知っている。

Photo_22夕飯は近くの思案橋横丁にある、K店にて、汁が濃厚な、「そぼろちゃんぽん」を食べる。そぼろというのは、肉のそぼろではなく、上質なということだそうで、注釈付きの食事となった。横浜の中華街にもありそうな、家族運営の小さな中華料理の店だ。写真のように、具沢山で季節柄、カキも入っていて、そして、それにも負けない汁の味だった。Photo_23家族で守っている味なのだろう。でも、この豚骨風の味は、何処かのラーメン屋の味に近いような気もする。たぶん、想像するに、研究熱心な豚骨ラーメン屋のことだから、この味に当たって、ラーメン屋の方が真似した可能性がある。

Photo_24西浜町に出て、今回も夜はジャズ喫茶Mへ入る。前回は、ほぼ数時間貸切状態であったが、今回は先客があって、気の置けない話をマスターとしていた。母の介護をしているわたしと同年輩くらいの女性で、介護に疲れるとここで話すそうだ。聞くとはなしに聞こえてきたのだが、どうやら聴いてもらいたいという退っ引きならない状況があったらしい。

Photo_26今日の最後は、焼酎尽くしで、この店に飾られた壜の焼酎を、推薦されるままに端から飲んで行った。九州中から、美味しいものを集めて置いているので、それぞれ個性があった。焼酎H、つぎはM、そしてMの麹の異なるもの。Photo_27三杯目になるころには、酔いが回ってきたのだが、相変わらず、世界へ向けて開かれた窓の景色の素晴らしさと、街で購入した書籍二冊が読みごこちの良いものだったので、気持ちよくテーブルを独占し続けたのだった。

Photo_32深夜をすぎた頃、公務員のグループが二次会で流れてきて、静かな空間ではなくなったので、今日はこれでお開きとした。何処かで、酔い覚ましのコーヒーを飲んで帰ることにしよう。

宿へ帰る途中に、島津藩の蔵屋敷跡があった。観光用の立て札に、鎖国で立ち寄ることが禁止されていたポルトガル船が1647年に現れたため、西国各藩から守護の兵を駐留させることになったことで、蔵屋敷が建て始められたことが記されていた。Photo_34オランダ商館長の報告によると、金銀探索隊だったそうだ。マルコ・ポーロのころの伝説が、そのころまでもまだ続いていたことを知った。世界の情勢に右往左往していた状況は、いまでも変わらない。

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2011/12/19

病院の退屈さは、普遍的な問題なのか

Photo_3母親の診療の付き添いで、病院に来ている。朝の通勤時間を避け、歩くのも最大限避け、ようやく実現した。ところがじつは、行き帰りはそれほど困難を感じないが、病院のなかでは、どのように時間を使うのか、そのことが本当のところ大問題なのだ。

病院の中では、行動を制限される。これは、病人がいるのだからで仕方ない。写真に写っているのは、呼び出し機器である。PHSで順番が来ると医師が呼び出してくれる。それまでは、病院内にある売店や、喫茶店に居ても良いという、昔なら考えられないほどの自由さが今日の病院にあるのは事実である。

Photo_5けれども、病人は健康人と同じには、扱うことができないだろう。そこで行動に制限を受けたことで、自分で行おうとしたことができないと感じ、二次的な行動を取らなければならないと認識することになる。このために、窮屈な感情を持つことになってしまう。

二次的な行動で我慢することは、古典的には、「退屈」ということになってしまう。社会心理学者のクラップの説によると、近代的な退屈については、二つの考え方があると言われている。

ひとつは、従来からの古典的な考え方で、何もすることがないから、退屈を感ずるというもので、貴族や王様が感じてきたような貴族主義的な「過小負荷」的退屈である。これについては、貴族でなくとも、近代になると大衆層でも感ずるようになる考え方である。例を上げろといえば、数限りない。

じつは、もう一つが問題で、人びとが「過剰負荷」に陥ると、退屈を感ずるという、極めて近代的な悩みである。おそらく、貴族や王様はこのような悩みを持たなかったと思われる。押し付けられたペースで動くベルトコンベアの流れの中に、常にいる人びとはどうだろうか。ある国では、時の総理大臣が仕事を放り出すくらい負荷がかかるらしい。このときの心理状態がどうなのか、下にいるものにとっては、本当のところは想像できないが、強迫観念で義務感を維持できれば、退屈しないのであるが、そうではなく、強迫観念が過剰に働きすぎると、かえって退屈を感じてしまうことになるのだろうと想像される。

病院での退屈は、おそらく病人と、付き添いとでは異なるのではないだろうか。病人ならば、この待たされる時間はかなり辛い時間で、イライラして、相当な過剰負荷がかかってしまうだろう。付き添い人のばあいには、まだ古典的な退屈にとどまることができるのではないかと思われる。同じ時間について、二人の間のイライラ感が何となく異なるのは、このような違いなのではないだろうか。

珍しく、気の長いはずの母が、4時間にも及ぶ待ち時間に怒っていたのは、どうにも説明をつけることは難しいが、あえて言ってみると、このような上記の違いがあるように思われた。

つまり、本当に行いたいと考えていることができない、あるいはわからないときに、二次的な行動を行わなければならず、この二次性に我慢出来ない人は、退屈してしまうのではないか、と考えた次第である。

話はすこし飛ぶが、退屈の万能薬は読書であると、古今東西言われ続けてきている理由が、ここでかなりわかって来るのではないかと、個人的には思っている。というのも、読書は他の意見を受け入れることを第一義とする作業である。つまり、読書は二次性行動の権化のような、いわば時間つぶし行動であり、退屈との親和性はたいへん高いのではないか。そのことが、読書をして、退屈つぶしへと向かわせることになるのだと言えよう。ここから考えるに、退屈の時代にあって、その特効薬は二次的な活動にも満足する精神性を身につけることが必要なのではないだろうか。

自分にとっての一次活動を見つけようとするのか、あるいは、二次活動でも満足できる体質を作ることに精をだすのか、この辺に岐路があるように思える。病院には、ほんとうに読書が進むという現実がある。

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2011/12/18

グーグル問題は「紙の書物」を絶滅へ追い込むのだろうか

Photo「グーグル問題」という問題群が存在している。わたしの理解では、簡単にいえば、各国の国会図書館が行っている著作物の「電子的保存維持・二次利用」などを、米国のグーグル社という一営利企業が行ってしまったという現実問題だと考えられている。

このことが、幅広い問題を連鎖的に惹起していて、ついにわたしのところへも影響が出始めた。他の人びとにとっては、たとえば、作家などは「被害」として認識される問題かもしれない。作者の立場からすれば、勝手にコピーされるのと同じだから、単純には許すことはできないだろう。他方で、解釈しだいでは、好ましい傾向も存在する。これまで限定的でありすぎた電子的利用が、情報の公共性の観点からは自由さが認められ、学問の自由にとっては格段の進歩がもたらされると言えるかもしれない。

じつはわたしは数年間に渡って、放送大学補助金をいただいて、放送大学テキストの電子化を行って、検索システムを作ってきている。もちろん、著作者からは許諾を得ている。そこでは、すべての言葉から検索して、その言葉がテキストの何ページに載っているのかわかるという擬似的な全文データベースを作成している。

何のために、こんな面倒なことを行っているのかといえば、一大学で使われている言葉群がどのような言葉の塊であるのか、その特性を知りたいためだ。たとえば、放送大学の授業で頻繁に使われる言葉はどのような言葉なのか、あるいは、あまり使われない言葉はどのような言葉なのだろうか、ということがわかってきているのだ。それは、大学で使われている言葉群の特徴を明らかにするためにも、どうしても必要な作業ではないかと勝手に思っている。たとえば、「教養」という考え方には、どのような言葉で、その時代の知識が伝わるのか、ということも重要な項目として含まれているのだと考えている。

グーグル問題がここで大きな問題を提起している。それは、通常「オプトインーオプトアウト」問題と呼ばれている現実があるからだ。電子化して二次利用する場合に、現行では、許諾が先でそれから利用が可能となるというオプトイン方式をとっている。それをグーグルは、利用してからあとで許諾を取るオプトアウト方式をとってしまったのである。この方式は妥当なのか否かをめぐって、ひとしきり議論が続いた。

考えてみるに、現在の常識からしても、オリジナルそのものは、それを生み出した本人のものだが、それ以降のコピー商品については、たいへん曖昧になりつつあるのが現状だ。書物というものがどこまでがオリジナルで、どこまでがコピーなのかは、たいへん悩ましい。もし電子書籍がもうちょっと出てくれば、現在のように書物の形態がすべてオリジナルであると認識されるとは限らないだろう。

このデータベース作りで、オプトアウト方式が認められれば、たいへん作業がやりやすくなるのだが、じつは作業のやり易さの問題ではない。ちょっと間違えば、エーコたちの書名にあるように「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」などということになってしまう。

そこでは、言葉の問題であるという認識が重要だと考えている。ちょっと視点を変えるならば、その言葉をどの程度、固有の文脈から切り離しても良いのかいう問題であるとも言えるかもしれない。言葉が意味を持つのには、文脈が必要であることはよく知られている。オリジナルという考え方は、言葉には固有値が存在するという考え方だとさえいえるだろう。赤という言葉があっても、それだけでは、何の赤なのかがわからない。信号の話をしていて、赤が出てくれば、止まれという意味がわかってくる。

それで、もともと言葉が意味を持ち始めるには、文脈に埋め込まれている必要がある。それをもう一度、その文脈から切り離して、別の使い方をした場合、それは著作権に抵触するか否かということが起こってくるのだ。厳密にいえば、別の使い方をしても、そもそもオリジナルな著作物というものがあって、あるいは、オリジナルな著作物を改変するという考え方があって、それだから、今日的な常識からは、それは、違反だということになってしまうだろう。けれども、検索システムのようなものは、オリジナルに対して、何か被害を与えるものでないし、むしろ、オリジナルを強化するものである。この場合でも、許諾が必要なのか、ということが起こってきてしまうだろう。

複製時代にあって、オリジナルとは、あるいはオリジナルの著作権とは、どこまでのことをいうのだろうか、今後ともに目を話せない問題となっている。わたしの立場からすれば、立場の違いを乗り越える方式を模索することを望みたいのだが・・・。

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2011/12/17

赤い風船の行方に期待したい―発表会の提案

昨日から寒さが続いていて、外が寒いのかと思っていたら、そうではなく内側が寒いことがわかってきた。もちろん、念のために言っておけば、精神的に寒いのはいつもの通りなので気にすることはないのだが、風邪をひいて、身体が冷えているのだとようやくわかってきた。

今回の風邪の特徴は、頭痛が激しくて、つぎにお腹が痛くなるという、ウィルス系の典型的な風邪だ。今年は予感があったので、初めて大学でのインフルエンザ予防接種を受けていたのだが、普通の風邪に襲撃されるとは計算外だった。

東京文京学習センターへ向かうが、途中の東京駅で電車は事故で遅れるし、体調は悪いしと不幸が重なり、最悪の身体条件のもとでゼミは始まった。M2のUさんが特別参加していて、修士論文を提出した後なのですっきりした顔して、ゼミを盛り立ててくださったこともあって、どうにか電車が回復したように、こちらの体調もゼミナールが進むにつれて、次第に回復へ向かったのは、たいへん有難かった。

いつも身体の脆弱なところを自分自身で嘆いていたのだが、職業的義務感がこれほど自分の中に存在して、物的な身体を律することができるとは、今日のところは不可解ではあるが、自分の肉体であるとはいえ褒めてやりたい気分だ。

今年度のM1の方々は、よく言えば、などと言うと失礼かもしれないが、荒削りでかなり不確実な研究論題に意欲的かつ果敢に挑んでいると思われる。新自由主義から共同体主義まで、幅が広いし、存在論から言語分析まで奥も深い。そのためか、内容もいつになく、多岐に渡っていて、議論を行うにも気が許せない。

風船の糸をつかんでいるのがやっとで、昨日のような強い風が吹いたなら、それに乗って、あっと言う間に何処かへ飛んで行ってしまうような勢いである。修士論文を完成させるまでに、あとちょうど一年間になってきて、心配するどころか、未だ未だ発展を目指している。赤い風船の行方に注目したい。

Photo_9どうやら、演習室3というのが、定着してきている。学習センターの方でも同じゼミ室を割り当ててくれているらしい。場所は重要だと思われるので、配慮に感謝したい。今日は、栃木学習センターから、web会議でYさんが参加してきた。このシステムの成否は、音声にかかっているといって良いと思われるが、最初なかなか通じなくて困ってしまった。このストレスがなければ、web会議も良いのだが。救われたのは、Yさんの声が大きかったことだ。聞こえない時に、聞こえないと言ってもらえるとじつはほっとするのだ。絶えず通信を確認するのが、コミュニケーションにとっては重要なことを思い知った次第である。

昼食には、校門の前に昨日開店したという、軽食を出す喫茶店を試してみる。パン屋さんを兼ねており、値段も安いので、きっと商売繁盛することだろう。わたしたちにとっては、空いていることが第一条件である。ゼミナールが終了してからも再び訪れ、コーヒーを飲んでしまった。今日のように、数人がすぐに席を取れるところが、駅前にはないのが茗荷谷の悩みだったが、これで解消した。

ゼミナールは無事終わった。人数がすくないからすぐに終わるかな、と考えていたのだが、結局は十分な時間がかかってしまった。初期段階でアイディアを出し合うゼミナールは、荒っぽいが、野性的な魅力もあるのだ。

さて、ゼミナールを預かる身として、ちょっと反省していることがある。昨年は、OBの誘いがあったために、M2の方々の送り出しは行わなかった。それで、昨年のM1の方々には、中途半端な感じがあったらしい。今日ゼミに参加してきたUさんから、今年度はゼミ発表会を行うのはどうか、という提案があったので、2月にはぜひ懇親会も含めて開催したいと、考えた次第である。M2の方々、いかがでしょうか。

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2011/12/16

枯葉の現実と、アニメの虚構

Photo強い風が吹いている。これで、今年のすべての枯葉は落ちてしまうことだろう。いつもより遅く、黄色に染まった銀杏の葉の落下も加速するだろう。

Photo_2今日は、K大の今年最後の講義である。それで、いろいろと片付けなければならないことがあったのだ。来週が祝日なので、例年より早く年末の休みに入った。学生も年末は忙しいらしく、いつもより出席率が悪かった。けれども、今日出席している学生は、むしろ熱心な学生が多いはずなので、ちょっと趣向を変えて、特別のメニューをこなしてきた。

また、今年度は講義のレジュメを比較的たくさん作ったのだが、残りをすべて持って行って、在庫一掃を行った次第である。それでも、学生からのレポートや欠席届などがロッカーに溜まってしまっていた。それらを整理していたら、いつものとおり図書館へ行くつもりだったのだが、すっかり時間がなくなってしまった。

駅に出る住宅街の外れに、昨年まで魚屋さんがあって、歳をとった人びとの多い街なので繁盛していた。ところが、さらにそのことをご本人たちがビジネスチャンスだと感じていたらしく、この魚屋さんが何時の間にか料理屋として店を出してしまった。この地域は商店も高齢化して、閉じる店が相次いでいた。住宅街であるから、このような料理屋さんが続くわけがないと思われていた。

ところが、いつ見ても客はそれほど入っているわけではないが、店は活気に満ちていて、失礼ながら今なお持続している。不思議だな、動物的カンという言葉はあるが、魚的カンという現実も、高齢社会では有りうるのかなと思った。メニューも美味しそうな魚、うなぎ中心の献立が並んでいる。ここを通るのが、2時から4時であるために、ランチにも、夕飯にも中途半端な時間なのだ。まだ店に入ったことはないが、冬のうなぎを一度いただきたいと考えている。

Photo_4電車で、川崎のチネチッタへ出る。クリスマスの飾りがきれいで、ここへ来ると、いかにも遊びにきた、という雰囲気の世界になってくるから感心する。一直線に映画だけを観て、すぐ帰るという人もいないだろうから、このようなちょっとした雰囲気がやはり重要なのだ。

今日は、外国のアニメ映画に挑戦した。これまで、アニメ映画は、全般的に敬遠してきた。それは、いわば写像の問題だと、自分では思っていた。実物と映画とは、ほとんどがフィクションなのだから、写像関係にある。実と虚の対比が映画を成立させている。現実の社会があるから、描かれる虚構の世界が意味を持つのだ。

Photo_6アニメも同様だ、と言ってしまうこともできる。それでも良いのだが、やはりアニメは最初からアニメ独自の世界を形成していて、手を挙げる仕草を描いたとしても、それはすべて頭の中で計算されて描かれているのだ。けれども、実写映画の場合には、同じく手を挙げるにしても、役者それぞれの演技によって異なり、その自然の元に、演技が構成されることになるのだ。これは、かなり違う世界なのだと思われる。

Photo_8つまり、虚構の構造そのものについて、異なる点が多いと言えるのではないだろうか。今回の映画のテーマだと思われるが、アニメが実写と同じリアリティを出そうと思ったら、すごく大変だな、ということである。アニメはアニメであることで、リアリティが出るのであって、実写と同じリアリティを出そうとした途端に、なぜアニメにしたのかがわからなくなってしまうだろう。今回観た映画は、この辺をまったく取り違えてしまっているのではないかと思われた。

虚構の世界の奥深さは、現実を写しとるだけでは満足せず、現実に近づけることでも、なおさら満足せず、現実を超えたときにようやく満足するというところにあるのではないだろうか。

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2011/12/12

二人関係の難しさ―ボーヴォワールの場合

Photo映画「サルトルとボーヴォワール」を観るために、渋谷のユーロスペースへ出る。25年ほど前、まだ駅の近くにこの施設があったころ、映画「アンナ・マクダレーナ・バッハ」を、妊娠していた妻と観に来て、不覚にも二人とも眠ってしまった記憶がある。

ところで、先週から今週にかけては、修士論文の締め切りが迫っていて、連日連夜メールの嵐が吹き荒れていた。卒業論文の波が第一波とすると、修士論文の波は、第二波で、さらに、通信添削の波が第三波ということになる。今の期間、カバンの中には、常に学生からの通信問題が入っていて、いつでもどこでも、添削の出来る体制にある。

この波をくぐり抜けながら、自分の仕事も当然ながら行わなければならない。昨日、例年より早目に、修士論文の終結宣言をゼミテンの方がたに送って、後は自分の責任で提出するようにとの、メールを送った。今年は、自分の仕事が谷間にあって、多少余裕があるので、ほぼ全員の方々とのおおよその作業を終わらせることができたのは、わたしにとって仕合せであり、またそれは学生の方々の精進の賜物だったと思われる。

修士論文の制作者たちの、今年度の意気込みはとりわけ凄かった。9月から草稿の検討が始まって、ほぼ3ヶ月間に渡って、お互いにかなりの分量のある論文のやり取りを通じて、通常のコミュニケーションとは明らかに異なる交流を行うことができた。毎年数名ずつはこのような状態になるとしても、これだけ多くの方々との間で、新しい知識を生み出した、という経験は、これまでもまたこれからも、わたしの老いていく体力と能力を考えると、そう滅多には起こらないことであることは間違いない。

Photo_3さて、このような集団関係ならまだ付き合いやすい。それが親密な二人関係に入ると、途端に難しい関係になってくるのだ。映画「サルトルとボーヴォワール(原題は、フロールの恋人)」の監督の弁によれば、「複雑で気難しい人びと」を描いたということらしい。二人関係とは、どのような関係か、というのが、この映画の主題である。二人関係の伝統型を解体した途端に、n個の二人関係モデルが成立し、それらは無限地獄に陥ることになる。家庭ではなく、むしろ喫茶店フロールを中心にして、自由恋愛を展開させた二人関係にはどのような意味があったのだろうか。

それは比較すべくもなく、まったくのところ、当事者にしか理解出来ないことではあるが、最もオープンにした二人関係というものが存在しうるのだろうかということだと思われる。サルトルとボーヴォワールとの関係は、日常的な自由恋愛と、気難しい哲学、という二つのコミュニケーションチャンネルの両方において、関係を持続させることが、いかに難しいことなのかを描いている。哲学者の結婚だからではなく、自由だからであり、それはこの映画を通じて伝わってくる重要なポイントとなっている。「時代に挑むようなカップル像」という言葉では到底表現されないものがある。実験的であったとは言え、いかに難しい社会関係であったのか、ということがわかる映画だった。

本当のところ、観念の動きを映画に定着させようとすると、かなりの困難さがある。けれども、映画は日常を描くことには、秀でていて、書物よりも複雑な動きを表現できるのが映画の取り柄だと思う。この点では、この映画が哲学関係の方はとりあえず諦めたことが、成功に導いた要因であると言えるかもしれない。これは皮肉ではなく、映画の真実なのだ。哲学映画と言うよりは、二人関係に焦点を絞ったことで成功した映画であると思われる。

自由恋愛を成功させるには、家族という枠組みを破らねばならないが、それでも二人関係を持続させるには、かなりの知性と理性の力が必要になる。実存主義という考え方にそれだけの力があったのか、今とあってはかなり疑問だ。これについては「必然的な愛」という表現を使っていたが、二人が理念的にかなり似ていて、倫理的に自由意志をもっていて、個人から直ちに、社会参加出来るような自立した精神があったから、この関係が続いたのだと考えられる。個人的な意志の、強度の「費用負担」に耐えられる丈夫な「理性」を持っていたといえよう。けれども、普通の人ならば、たとえばわたしなどはすぐに降参してしまうだろう。何に降参するのかは、あえて伏せておきたいが。映画の中で、当時、批判の対象となった「小市民」という、懐かしい言葉も登場させていて、ボーヴォワールの親子関係が描かれていた。「いかめしさを伴った美しさ」というボーヴォワールの特徴をよく掴んでいた。

ここまで観てくると、やはり、サルトルとボーヴォワールの例はかなり特殊であって、すべての人にとっての普遍的なモデルとしては適当できないように思われる。n個の家族関係の最左翼に分類されることは、間違いないとしても、それ以上の位置づけを得ることは、難しいだろう。各国の成績優秀者の一、二位をすべて結婚させたとしても、人類全体の歴史の中では、ようやく数例が存在するくらいしか成功しないだろう。

サルトルとボーヴォワールの示す二人関係の難しさは、普通の人が無意識に済ますところを意識的に行おうとしたところであり、習慣的に行おうとしたとしたことを、理性的に行おうとしたところにある。それは「参加」という意味の半分でしかないことを明らかにしてしまったのだ。

Photo_4これは、極めてレアな二人関係ではないかと思われる。普通の人には、家族とはいかないまでも、擬似家族的な共同体は少なくとも必要になるのではないか。それは映画の中でも成立していたとおりだ。個人が社会との関係をどのように結んで行くのか、その時に何を媒介とする必要があるのかなどを、実験的に試した例として、この二人の関係は、人類学上の重要なコレクションとして欠かすことができない例を形成したといえよう。

Photo_5ちょうど映画を見終わったのが、ランチ時に当たっていたので、東急百貨店を迂回して、程ないところにある喫茶店「M」で、大豆豆がいっぱい入ったカレーを食べる。浅煎りコーヒーもたっぷりとしていて、落ち着いた。来年からは、ほぼ週一回は渋谷に出る仕事ができたので、休憩に使える場所を確保する必要がある。Photo_6ここは第一候補である。真ん中の大テーブルでどっかと構えて、二時間ほど、サルトルとボーヴォワールの関係と比べて、自分にとっての二人関係はどうだったのか、想いに耽った次第である。Yさん、どのような関係だったのでしょうね。

Photo_8渋谷から東横線、みなとみらい線へ出て、馬車道を歩いた。夕暮れ時のランプは年の瀬の間近なことを告げていた。悲しいことに、馬車道にあったゆったりした席のある喫茶店は、閉店していて、ビルも壊されていた。また、居場所がひとつ無くなってしまった。

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2011/12/09

なぜ柳宗悦は方向転換を行ったのか

Photo先日、横浜に来ていた「柳宗悦」展へ行ってきた。大学院生時代に、図書室にただ居れば良いという、書生風のアルバイトを駒場でやっていて、裏門から出てすぐに日本民芸館と柳の自宅があり、二度ほど訪れたことがあった。今から思えば、もっと観て探っておくべきだったと、ちょっと今になって後悔している。

今回の展覧会で注目したのは、なぜ新進気鋭の西洋美術評論家だった柳宗悦が、当時としては、異端であった「民芸」という方向を取らねばならなかったのか、という点である。芸術というものが、つねに存続の「危機」意識を持って展開されて来ていることは、いつの時代にも通じていて、それほど不思議ではないが、芸術の持つ「卓越性」の根本に民衆の在り方を盛り込むということはかなりの大冒険であり、矛盾を抱えることになることは明らかだった。

けれども、時代の方向としては、間違っていなかったと思われる。芸術の価値が、その後西洋ではPOPの方向に向かい、「無価値と無意味」を好んで芸術の内容にする方向に向かっていったことを考えれば(ボードリアールの受け売りだが)、方向は同じであっても、内容の違いを打ち出すことができたことにおいて、民芸運動は現代の一つの方向を示すことができたと言えるだろう。

展覧会の中の展示物には、数多くのみるべきものがあったが、中でも注目したのは、「京都の朝市」という生原稿であった。自分で版木を持っていて、原稿用紙を木版で作ってしまうという、柳の趣味は素敵だが、さらにデザインはもっと素敵なのだったのだが、ここでそのことを言いたいのではない。

このエッセイの冒頭で、京都に住んだ若い時代に、その「周辺」をもっと知っておくべきだったと述べている。なぜ京都で工芸が発達したのかといえば、もちろん伝統の継承が行われたことが大きいが、それ以上に、周辺との関係を維持できたことは、もっと大きかったという意味であろう。生原稿は最初の1ページしか見ることができなかったので、そのあとは全集を探して、読んでみたい。

展示会の部屋に入って、最初に目に飛び込んでくるのが、朝鮮の壺である。先日この欄でも紹介した浅川伯教・巧兄弟のうちの伯教が、ロダンを観せてもらったお礼に、柳に贈ったものと書かれていた。

薄ねずみ色のまだら模様に変色した白磁の肌に、うす水色で草花がふたつ前後に描かれている。控えめな色調であるにもかかわらず、こちらに伝わってくるものは物凄く強い。柳が朝鮮の焼き物に関わっていく端緒となった壺であるとされる。

芸術とは技術(アート)だ、という強い芸術家側の主張もあるが、見る側からすれば、観方によって変わるでしょう、ということになるだろう。名もない陶工の造ったものに、感動するということがあり得るのだ。エーコとカリエールの対談集『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』では、読書はフィルタリングだ、と言っているが、芸術にもそのような性質があるのだ。

それにしても、柳は身の周りに良いものを集めていたのだ。青磁の水差しもさることながら、黒田辰秋の制作した大作りの木製ペーパーナイフは、この時代にしか作られなかったであろうと、おそらく将来には言われることになるかもしれない。けれども、今でも毎日多くの郵便を受け取っている我が身にすれば、現代でも、このペーパーナイフは本当に欲しいと思わせる1品だった。

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2011/12/04

卒業研究発表会での社交と食欲

1昨夜の荒れた空が、今日起きてみると、真っ青な快晴に変わっていた。桜の木などの広葉樹がすべて彩りを変え、すでに晩秋から初冬への色模様を見せている。秋の青空は、底抜けに透明で、紅葉した葉っぱとの対比で、その青が余計に際立ってくる。

Photo清々しいというよりは、少し寒いという気候だ。こちらも、コートを着込んで、風を防ぐが、首の周りからはいる通気が、早足で急ぐ汗を抑えてくれるくらいの陽気である。

さて、今日は、わたしの所属する放送大学「社会と産業」コースにとっては、特別な日である。卒業研究審査発表会と、学生との懇親会、続いて先生方のコース忘年会があるのだ。もっとも、特別な日というのは、むしろわたしにとってである。今年は当番でコース主任を仰せつかっていて、今日が一番の働きどころなのだ。

朝のイトーヨーカ堂への買い出しに始まって、スピーカーやマイクの設置、さらにはAVホールと大会議室の発表機器配置など、肉体労働の目白押しだ。カンファレンス室のAさんがつねに行っていることを、支援するだけだと言ってしまえばその通りだが、慣れない仕事なので、ホールのスタジオ施設を見たり、大会議室の隠し部屋の中に入ったりして、脱線しつつ楽しみながら何とかこなすことができた。

12時には、発表の学生がどっと押し寄せて、13時ぴったりに、分刻みの発表が行われた。何時もながら感じるのは、放送大学生の多様性である。年齢の多様性はもちろんであるが、考え方の多様性は、一般社会の多様性をはるかに超えているようにも見える。それは、社会での紋切り型の考えを越えようとするところに、理由があるように思える。

Photo_2時間が少ないのが、何時もながら不満に思う点であるが、それは毎月のゼミナールで済ませているので、違う形で満足するようなシステムが必要なのではないかと思っている。昨年は、卒業生で論文集を作ったが、これなどは意欲的な試みではないかと思われる。

15_2発表会の方は予定通り、目出度く終了した。「新しい公共」論の事例研究を行ったKさん、理容美容産業と社会意識の変化を関係付け展開したT氏、防衛費の費用便益分析をリアルオプション手法で論じたH氏、社会保障費と人口減少を報告したM氏、そして、壮大な価値論を試行したK氏が今年度のわたしのゼミ生であった。発表には、いつもより熱が入っていて、たいへんよかったと思う。

Photo_6その後開かれた懇親会で、今日の参加者については、かなり良い成果であったことを伝えた。合格内定を聞いて、参加者からは安堵の声が聞こえてきた。懇親会の楽しみは、ひとり一人の苦労話だ。悲喜こもごもが聞こえてきた。社会人らしい発言としては、仕事が忙しく、ここに到達するには、数年間を費やした人。子供が大学生だったので、自分も論文を書いてみたいと思った人。この大学ならではの動機だと思う。

Photo_8さらには、OBの先生であるK先生、Y先生も参加くださった。ゴルフに年間62回通ったという元気な話も聞くことができたが、論文を書いていて、60歳代の勉強が大事だ、というお話もさらにあって、70歳過ぎての生活に想いを致した次第であった。

Photo_9このように良く働き、よく勉強し、さらによくおしゃべりした後は、よく食べなければならないだろう。懇親会後、場所を幕張の海岸側にあるC店に替えて、コースの忘年会へと雪崩れ込んだ。Photo_10K先生の行きつけの店が、日曜日でお休みにもかかわらず、開いてくださって、特別料理と、さらには日頃手に入れることができないという、「幻の酒」を用意してくださった。写真にあるように、刺身、牛肉、ハタハタなどが次から次へとできてきた。

Photo_12途中、相当酔ったらしく、酒瓶の写真でピントが合っていないのも、「幻」さ加減をいや増していると言えるのではないだろうか。先生方の評判は、一家言の持ち主ばかりなので千々に乱れたが、大方は、Photo_14岩国の酒でHという銘柄に人気が集まった。さて、帰りは、A先生と、千鳥足を楽しみながら、京葉線に乗ったのであった。横浜まで、いつもは長いと感ずる通勤距離も、かなり短く感じた次第である。毎年のことながら、卒業研究を終えた方々には、ほんとうにおめでとうと言いたい。また、職員のFさんとカンファレンス室のAさんにも、たいへんお世話になった。感謝申し上げる次第である。

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2011/12/01

「三銃士」はなぜ4人なのか

なぜ三銃士は4人なのか、子供のときに、みんなが疑問にもつことである。ここで、3ないし4ということが、重要な意味を持っているのだけれども、それじゃなぜ2じゃなくて、3ないし4なのだろうか。

神奈川学習センターに所属していたころに、学生研修旅行という企画があって、学生たちを「地域通貨」の街へ連れて行ったことがある。そこで、各街には、それぞれが弁士だという人たちがいて、説明してくださった。

その中で繰り返された質問の一つは、人間の社会というものは、人が何人で成り立つものなのだろうか、というものがあった。社会だから、集団ということになるが、それじゃその集団というのは、何人からなのだろうか。

映画「三銃士」を観る。テーマは上記で言ったように、なぜ三銃士は3なのか、さらには、3と言いつつ4なのかという点である。近衛隊である銃士は、数多くいるはずである。それにもかかわらず、3になぜこだわるのだろうか。

物語は17世紀フランス、ルイ13世の時代、歴史上名宰相と言われたリシュリューが暗躍する策略に対して、ダルタニャンと三銃士が王妃側に回って、苦難を乗り越えるものだ。

この映画は、何故か、かのヴェネツィアから始まる。物語はフランスと英国との間で、生ずるのだから、なぜヴェネツィアから始まるのだろうか、という疑問は当然である。実際の原作に忠実に作るならば、映画のタイトルのあとのように、ダルタニャンの故郷、ガスコーニュ地方から始まるべきである。

有名な標語である「one for all」のこのoneであるダルタニャンの物語として展開されるべきである。これが現代というものの恐ろしさで、現代ではallの方が重要で、まずなぜ3なのか、ということから始めるために、ヴェネツィアが選ばれている。

三銃士であるアトス、ポルトス、アラミスに役割分業が設定されている。原作とは少し違っていて、それぞれの性格付けがはっきりしている。アトスは、水を支配し、愛に敏感でウェットな性格である。ポルトスは、火を支配し、腕力があることになっている。そして、映画ではあまり見せ場のなかったアラミスは、風を支配し、金に強いというぐあいだ。もちろん、三人とも銃士であるから、剣は共通に強いことは言うまでもない。

つまり、仕事の分業として、水と火と風を繰ることを役割分担にしていて、それぞれの取り柄を協力することで活かしている。社会にあっては、金と権力と愛も必須だ。この三つが組み合わされていることで、三銃士の力は、通常のものの数倍の力を発揮することになっている。この組み合わせからすれば、2ではなく、やはり3なのである。この3を見せるために、ヴェネツィアのシーンがまず作られた。

ところがである、3でもダメだったのである、というところが、この物語が普遍性を持ち、今日の世の中でも通用する物語になっている所以である。ダルタニャンは、なぜ必要か、と改めて問うている。仲間の力、チームのパッションを象徴しているのが、ダルタニャンであり、物語の最初に、パリへ出るに当たって、「勇気」が与えられている。三銃士は、チームとしては完璧だが、パッションはその外側から入れ込まれ、その心臓部として、ダルタニャンが登場する。このことが真の意味で、「all for one」という標語の後半を表しているのだ。

ということで、映画「三銃士」は、社会的支援論の最も典型例であるといえる。そして、支援ということが、欧米のように、近代モデルである「二人モデル」から出発すべきではなく、「三人モデル、あるいは四人モデル」を出発点すべきことを如実に教えている。近代に入る前には、このような思想もあったのである。

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2011/11/29

「栽培職人」という職業があるならば

京都出張が続いている。卒業論文の指導は終了しているが、来年度の相談を受けたり、さらには、修士論文指導が最終段階を迎えたりしていて、この時期、分厚い、というのか、かなり長いメールが毎日届いている。

今年度、3名の方が、京都から登録されてきていて、そろそろ最終の草稿段階に到達している。ところが、みなさんお勤めがあり、面接時間の希望をきいたところ、朝晩、それぞれがバラバラに会わざるをえないような時間設定となった。今日も朝から1名、夕方から1名と予約が入っている。

今日の方々は、前以って草稿を送ってくださったので、問題点も極めて明解になって、もしそれらが話し合ったとおり実現されるとするならば、かなり良い論文になるはずだ。放送大学での論文は、大方、経験的な内容が多いという特徴がある。だから、学術的には、ずいぶんと新しい内容のものが多い。多少、褒めすぎかもしれないが、ここのゼミは論文の成立過程で、いくつもの観念を生み出しているという自負がある。Photo_26それほど、完成度は高いものが求められ、もちろん実現か否かは個性に依存していてわからないのだが、だからバラエティは激しいのではあるが、それでも、ふつうの大学よりはずっと奥深い味のある論文生産が可能となっている。

Photo_27朝のMさんとの話し合いが終了すると、ここが放送大学生の取り柄だと思われるのだが、ものの本でランチの店を調べてきてくださったのだという。じつは、夕方のIさんも同じように、夕飯を一人で食べるのは可哀想だという配慮を見せてくださったのだった。ふつうの大学では、先生の方から提案することはあっても、学生の方から提案されることはない。いつもながら、面白いなと思っている。

Photo_29午前中は、12時半ごろには終わったので、夕方までの少しの時間を見つけて、近代美術館と紅葉見学に出かける。美術館では、竹久夢二展を特集していた。多作な人だったので、これまでかなりのものを見てきているが、それでもまだ見ていない絵画が多かった。特に、「セノオ楽譜」と呼ばれた一連の楽譜表紙絵については、多くのものが展示されていた。右のポスターになっている写真の絵も、楽曲「宵待草」の表紙である。他にも、夢二の家族観などが表現されていて興味深かった。Photo_30夢二の描くものは、時代の象徴的な様子を大づかみで捉えており、夢二自身の境遇とは無関係ではないかと思えるほどに描かれていて、イラストレーターとしての絵画観が現れている。

Photo_32夢二の蔵書の中に、カンディンスキーたちの青騎士の創刊号が含まれていることを、初めて知った。Photo_33画家であれば、当時の世界状況が気になるところだから、現在からみれば不思議ではないが、当時はそれほどの必然性があるようには思えなかったのではないか。けれども、時間が経てば、その意味がわかってくる。

Photo_34近代美術館から琵琶湖からの疎水沿いに出て、野村美術館と、野村別荘の間にある小川沿いに歩みを進める。これで紅葉に至るとは思えなかった。ここまでは、人かげはほとんどなかったが、野村美術館の横から表に出ると、ずらっと観光客が並んでいるのにぶつかった。

Photo_36ほとんどの客は、永観堂へ通じていた。表から見るだけでも、ここだけは、特別のモミジやカエデが植わっているらしいのが良くわかる。すこし離れて門に寄りかかって、写真を撮る人びとを見ていた。僭越ながら、おおよそ3種類の人びとがいることが観察できた。

Photo_37一つは、写真プロを目指す人。この人たちの装備は並大抵ではない。大方はハシゴを片手に持ち、もう片方には、ズームレンズの何キロもの写真機を持っている。けれども、それでもやはりどう見ても、それらがプロではないとわかる一群がいる。

Photo_38二つは、センスがあると自分では思い込んで写真をとっている人。たとえば、他の人々とは違うところに位置していて、特別な陰翳の場所を探すのが得意だ。最初に、特別な視角を見つける人々である。そのうち、それを真似して、多くの人々が寄ってくる。

Photo_41三つには、カメラ群衆だ。闇雲に撮りまくっている。どう見ても、みんなが撮るから撮っている風を装っている。ここの写真に現れているように、同じ姿勢で同じ方向に、ものの見事に右へ慣らへという感じだ。わたしもここの部類に入ることは確実だし、写真に写っている人はホンの1分前のわたしだ。

Photo_43もみじ中心の庭が作られていて、その調合も植木職人の腕の見せ所なのであろうことは想像がつく。黄色と赤の配合は大方のところ、自然が作り出しているのだが、やはり大枠は植木職人が植えたように実現されていることは確かだ。

Photo_44それから、明らかに木樹の高低は、職人によって切り揃えられている。もちろん、直前に調合されたわけではなく、何年もかけてこの状態に至ったことは素人目にもわかるところだ。写真の隅に、職人の名前をクレジットしておきたいと思うほどであった。

Photo_45さて、問題は、学生の方々の論文の仕上がり具合だ。「栽培人」という職業があるならば、それはわたしの職業だと言いたい。あるいは、植木職人でも良いのだが、わたしの役割は、いわば控えめな「栽培職人」ではないかと思っている。論文は明らかに、論文生産の手段であって、これに乗せて、日々観念の育成・生産とその支援を行なっているのが、わたしの仕事ではないかと考えている。今年の論文生産も収穫期を迎えて、8割程度は豊作ではないかという感触を持ち始めている。しかし、最後の1週間が仕上げとしては、最も重要な時期で、ここで樽の中の、葡萄酒の今年の味が決まってしまう。

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2011/11/28

読書室の啓示が降りてきた

現代においても、突然のように、啓示が降りてくるなどということが、ほんとうにあるのだろうか。ニーチェが湖のほとりである種の啓示を受けたことはたいへん有名な話だが、私たち現代人にもそのようなことがあり得るのだろうか。

Photo_18今日、京都駅から歩きはじめて、偶然に「読書室」いう空間が、目の前に現れた時には、正直言ってびっくりした。江戸時代に、「五条油小路西入る」という場所に、人びとが集まり、読書空間を共有したことがあったらしい。写真は、その場所である。実際には、幕末期の禁門の変で、建物自体は焼けてしまったらしいが、この場所というものが重要である。ほんの10メートル四方のこの空間が、これらの観念の生産に力を与え、実際には、多くの書物に乗って、世に出て行ったらしい。

Photo_20山本亡洋という京都本草学派の学者がいて、実際に数十回に渡った研究会を維持したところが、ここであったと、ものの本に書かれている。じつは、油小路という場所は懐かしいところでもある。私たちの世代は、東京大学が紛争で入試を中止したことがあって、わたしの旧友のS君が京都大学に来ていて、たびたび下宿に厄介になった。その下宿がずっと上がって行った方ではあるが、やはり油小路だったのだ。

Photo_21さらにじつは、来年のことを言うと、ほんとうに実現するのか、疑わしいと言われてしまいそうであるが、4月から東京では、放送大学の世田谷学習センターが新たに渋谷へ移転することになっている。それに合わせて、すこし今までの面接授業と異なるような試みを行って見ることになった。

これはわたしの場合だが、じつはこれも偶然なのだが、東京文京学習センターで、読書会を行う企画が別に進んでいたのだ。それを渋谷へ転換した次第である。場所はたいへん重要で、ちょっとイメージが変わったかもしれないが、青春時代から渋谷に住んだ経験もあるからして、十分にこちらの意図が貫かれた企画となりそうだという予感がある。また、スタッフも充実することを認めていただいて、当初よりも期待できる内容となりそうである。

渋谷において、京都の「読書室」というものを受け継ぐことができれば、たいへんいいな、と思っている。その時に、山本が志向したように、単なる読書ではなく、読書空間で何が生まれ、何をやり取りでき、さらに、蓄積することができるか、というところまで行ってみたいと考えている。時間はかなりかかるかもしれないが、江戸時代から受け継いだ、という今日のご託宣があれば、鬼に金棒の気分だ。京都での200年以上前の試みを、現代に復活させ、さらに現代版「読書室」を特徴あるものにしたいと考えている。渋谷という、ちょっと変わった場所が与えられたのも、何かの縁かもしれない。京都のサロン文化に敬意を表しつつ、新たな渋谷のサロン文化を作り出す心意気で、当初は臨みたい。

Photo_22夕方になって、K氏と会う約束をしている、いつものMへ出かける。まだ、時間が早かったので、人もまばらで、しばし黙考する時間を得る。クリスマスの飾り付けが眩しい中庭の、いつもの席を占め、ストーブがそろそろ入るかな、という季節感を楽しむ。

白ワインは安い割には、柑橘系の香りがして、すっきりした飲みごこちだった。じつは今年は、わたしのゼミで「世代間倫理」を取り上げている学生がいて、その話内容などを話題にしながら、時を過ごす。その考え方を普及させたH.ヨナスは、ハンナ・アレントなどと「友人」関係にあり、K氏の関心領域に関わっているので、ぜひ話を聞きたかったのだ。Photo_24日本の論者たちの間にも、世代間倫理という考え方が、普遍主義的な倫理観のなのか、相互主義的な倫理観のなのか、という論争が存在するらしい。たいへん面白いところだ。ヨナスの個人生活についても、スキャンダル調の話が伝わっていて、興味は尽きない。さらには、いくつかの興味深い点に話が及んで、次第に夜が更けて行くのが気にならなかった。

最後は、いつものように、スープソーサーよりもたっぷりとした、もっと大きなコーヒー茶碗にアメリカンをいれてもらって、一日を終えることにした。

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2011/11/21

富士屋ホテルはなぜレトロのままか

Photo_2どうしても、昔から見ておきたい建物があって、それは箱根の宮の下にある、明治期からたいへん有名な「富士屋ホテル」本館である。写真がよく雑誌に取り上げられるので、すっかりそれらの写真のイメージで頭の中は一杯だったのだが、実際はかなり違っていた。

Photo_3妻と旅に出かけると、良い意味で予想していなかったことがたびたび起こるのだ。今回も、行ってみるとイメージとは全く異なる建物が次から次へ現れたのだ。特に、文化というのは、周りとの調合だと言われるように、ぐるりとした周りが重要なのだ。周りとどのような歴史を作ってきたのかが見所なのだ。

Photo_8例えば、古い写真館が近くにある。これは、このような古い館というものには付きもので、角を回ってその直前のコーナーに、明治時代からの写真が飾られている、その写真館があるのだ。もちろん、ヘレンケラーや、ジョンレノンなどの写真も飾られていて、有名であるためには誇示することが必須だが、明治期の様子を伝えるものを、何も知らない人びとの見えるところに配置することが、周りとの関係で重要なのだ。

Photo_14また、箱根という場所柄から、老舗の組木細工店はここでは必須であるし、現代的な観点からは、女性好みのパン屋や、ケーキ屋、さらに甘味処のついた喫茶店は周辺ぐるりを有機的に構成する配置としては、必ず存在しなければならないものだと思われる。そして、それぞれが日常的な下界の世界を超越していることが必要で、ちょっとレトロ調でなければならないのは、もちろんだ。ここでは組木細工店が典型で、観光地のお土産品程度のものでは駄目で、売れなくともよいから、品が良く、多くの人々を惹きつけるような仕組みが必要なのである。

Photo_11けれども、中心にあるのは、ホテルそのものでこの本体がかしいでいるととんでもないことになってしまうのだが。ここの建物はそれ自体で、ホテルの本質を表している。それはここにきて見ないとわからないのだが、何がここでわかるのかといえば、明治期の変動そのものが保存されている点だ。このことは、たぶん明治期の人々であれば、身に迫ってきたことで、よくわかることなのだが、つまりは、西洋文化と日本文化のすり合わせ問題が起こったということだ。

Photo_9現代人がこの建物を見た時の第一印象は、それほど良いとは言えないだろう。たとえば、ちょっと目にはやはり「キッチュ」ということになるだろう。つまり、現代人がこの建物を建てたら、そのような評価になるかもしれない。けれども、問題は明治人問題である。彼らが西洋風のホテルをこのような山の中に建てるという必要性が起こった時に、どのような反応をせざるを得なかったのか、ということは想像できることである。

問題は、結果として、どのような事態が生じたのかということである。おそらく、当時、富士屋ホテルは商業的には成功したのだと思われる。また、現代において、類稀な建築物として残っていて、これだけの人びとを呼んでいるのだから、現代においても成功しているのだといえるだろう。けれども、この成功は、決して偶然の産物でもない。人びとがこのような自体を望んで行ったことだから、文化そのものと言えるだろう。

もし良い点をあげるとすれば、中心とぐるり周りとの調和の良い点をあげることはできるだろうが、それ以上に、生き残ってきていること自体を指摘していておきたい。100年も生き残った建物は、それ程多くはない。これは凄いことだ。

欠点は多いと思う。見せびらかしで、高価過ぎるし、見栄の固まりでしかない。観光客目当てが見え見えで、高級な客は見るだけで、大衆のバスツアーがもっとも金をおとしているに過ぎないのではないか、と思われる。自分のことは、一応、勘定にいれずに、言うならば。

さて、ようやく結論に到達できたのだが、じつはこの江戸期の様式を残した、西洋様式と容易に融合出来なかった、言ってみれば不器用な、そしてもしかしたら、不調和な状態が、じつはこの建物を存続させてきた原因ではないかと思われるのだ。もしこれがお雇い外国人が建てた近代風ホテルだったならば、とうに飽きられてしまっていて、これほどの時代耐久的な作用を持たなかったのではないか、と考えた次第である。

Photo_16さて、場所は飛んで、箱根から小田急線に乗って、途中地下鉄に乗り換え、至った場所は神田神保町のTという喫茶店である。娘が学士会館で行われるコンサートの切符を渡してくれるというので、勇んで東京に戻った次第である。Photo_17東日本大震災の募金活動の一環で、演奏はベルリン・フィルの弦楽団、演奏曲は弦楽五重奏曲で、それぞれモーツァルトとブラームスのものだった。とくにアンコールで再度演奏してくれたブラームスの第2楽章は、今日一日の変化の激しい私生活を、静穏のもとに戻してくれるに十分の、感情の揺さぶりとそして最後には、安寧を授けてくれるものだった。

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2011/11/20

箱根の紅葉直前

Photoうちの近くに、毎年この季節になると、真赤なモミジが咲く。この谷間に住む人たちの目を奪ってきた。ところが、今年に限っては、葉っぱが枯れてしまい、茶色の無惨な姿を見せている。なぜ今年だけ枯れてしまったのかは、諸説はあるがハッキリとはわからない。

それでも、紅葉を見たいということで、妻が箱根の寮を予約した。遅い紅葉の季節を迎えている山に入った。といっても、旅行というよりは、出かけたというくらいのものである。車を運転するのであれば、半日のレジャーというところだろうが、バスであっても一時間ちょっとの小旅行を楽しむ。仙石原まで横浜から、高速バスが出ていて、御殿場周りで箱根に入ってくる。

Photo_3バス自体は、たいへん空いていて、羽田から直行してきた様子の中国人の労働者グループが最大の人数を構成していた。グローバル化もここまで来ているのかというところだ。Photo_4仙谷原から徒歩で、ポーラ美術館を目指す。昨日の強い風と、豪雨とで、道には濡れた落ち葉が散らばっていた。美術館でのお目当ては、藤田嗣治展でポーラ美術館が日本最大の所有をほこっているらしい。

Photo_5今日の一枚は、「理想の住宅」と題された、あくまで想像力の練習として、ミニチュアが作られ、絵画に描かれたものを挙げたい。Photo_10レンガの床と、藤田特有の壁の白地が良くあっていると思う。台所と居間と寝室が一体となっていて、一日中、絵を描くことができる部屋だ。階段で、居間と寝室を区切っていて、この世界の切り分け方も、理想的だ。けれども、明らかに全体的に膨らんだ、余裕部分が過剰に含まれていて、これが藤田の世界を表していると思われる。ここで、写真を掲げられないのは残念だが、興味のある方はまだ時間があるので、ぜひ足を運んだらいかがでしょうか。

Photo_12ちょっと外れると、現代版のイラストと間違えてしまう絵画もあった。何が絵画で、何がイラストかということは、藤田の絵画を見ていくと、明らかになるかもしれない。Photo_14子供を使った職業尽くしは、面白い切り口だと思われる。職業の特徴を捉えて、描いているという点からみると、イラストだといえなくもない。けれども、子供の世界に置き換えていて、現実世界をずっと乗り越えてしまっている。現実世界をの想像を超えていて、一つの象徴世界まで到達している。Photo_15たとえば、石炭運搬人を描いている。頭から黒い布で、運搬袋を背負っている。顔は幼く、辛さよりも楽しさが全面に出ていて、仕事の観念をひっくり返している。こうなってくると、これは絵画ということになるだろう。

Photo_17このあと、美術館を出て、周りを見て歩くが、やはり紅葉は部分的に見られるだけだ。自然のリズムが明らかに今年は狂っている。バスで強羅へ出るが、駅に近づくに連れて、夥しい人びとが道に出ていて、それは深く街を歩くことができなくて、表面的な道に観光客が出ているだけだ、といってしまえば、そのとおりだが、それにしても、駅の人波は紅葉の遅延と同時にかなり異常な状態を醸し出していた。Photo_18駅には、昼に大量に押し寄せたらしい。それで、電車待ちの人びとを規制した標識がまだ片付けられずに放置されていた。ケーブルから降りてきた客で満員の登山電車に乗って、大平台へ向かう。

Photo_20近くの酒屋へ寄ると、甲州のY葡萄酒がおいてあったので、直ちに購入する。Photo_21また、「見る工場」という、箱根特産の寄木細工店があって、オリジナルだというマグネットと、最後に逆転するコマを購入する。

Photo_23この宿は、箱根の谷にせり出していて、多くの家屋が林に隠れ、ほとんど人家が見えない。奥深い谷に面していて、眺望最高の場所であった。Photo_24


例年であれば、当然紅葉は、最高度にたっしているはずであるのだが、今年はまだまだだ。大浴場から、紅葉間近の山を眺め、自然の微妙な采配に思いを寄せながら、一日を終えた。

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2011/11/19

「ゲーテの恋」のように論文が書けたら

今日は、東京文京学習センターで大学院ゼミナールである。M2の人たちは、修士論文の締め切りが1ヶ月後に迫ってきているので、早々と論文作成のため欠席との通知が舞い込んでいた。けれども、考えてみると、例年11月には、もうゼミはM1だけのゼミになっていたような気がする。

M1の人たちも、ようやくターゲットの的が少しずつ狭まってきていた。あくまで論文を書くのであって、書籍を書くのではない、と比喩的に言っているのだが、これが比喩であるとは思っていないらしい。つまり、服装には、寒いときには暖かくなる格好が必要であり、暖かいときにはそれなりの格好が必要である、というに過ぎない。

それじゃ、論文らしい論文の書き方とはいかなるものなのか、これはこれで難しい。枚数で、短いから論文で、長いから書籍で、というわけにはいかないのが、論文の面白いところだ。ポイントが一つに絞られているのが論文で、多数のポイントが同居しているのが、書籍だ、などといったら、たぶん大反発に会うだろう。けれども、文化・風土というものがあって、論文文化は書籍文化とちょっとちがうところにあるのではないかと思われる。短編小説と長編小説とに違いにしているが、しかしながら繰り返しになるが、長さの問題ではない。

一つの観念をしっかりと前面に出したいということであれば、やはり論文が似合っている。起承転結の形式で、一つのことを言い切る、というのが論文だと思っている。

今年も新たな観念がいくつか生まれたと思う。観念と言われるまで、高められたものとして存在するならば、やっぱり論文という形式が最適ではないかと思われる。人間の活動を描写し、それが意味を持ってくる。これを一言で俳句のようにいうのは、困難だ。また、本のように、長くなってしまっては、何が追究されているのかわからなくなってしまう。

よく時間的、空間的、中心的、というが、この三つを一つの文章に閉じ込めることは、余程の文学者じゃないとできない。けれども、それぞれ別の文章にバラして、くみあわせれば、いちおう誰でも議論を行うことができるようになるのだ。これが、人間が言語を使い出した根本的な理由だと思われる。

過去の人がどのようなことを言ったのか。現世界の人びとが何を問題にしているのか。これらの中心に何が存在するのか。考えるだけでも、ムズムズしてくるだろう。

雨が激しくなってきたので、ゼミを前倒しして、最後までおこなって、遅めのランチへ向かう。前回もみんなで入ったインド料理で、今日はシーフードカレーとナン。風が出てきて、傘が飛ばされそうになる。

一人だけ都合で遅れてついた方がいて、面白い観点を持ち込んできたので、夕方までおつきあいする。今は現象を追求している段階だが、何となくこれが現代の日本社会にとって重要な観念に発達しそうな気になってきた。というような、思い込みがときには必要なのである。

結局、午前中からゼミを始めていたので、銀座に出る頃には、まだまだ帰宅までには時間があった。今週には上映が終了してしまう映画「ゲーテの恋」を観る。というと、消極的に聞こえてしまうが、この18世紀後半から19世紀に渡って活躍した文学者には、期に触れて読んできた。「親和力」「修行時代」などは、中学校、高校などで読んできたが、「若きウェルテルの悩み」は、読まされたというくらい、まわりのみんなが読んていた。今では、恋愛に古典的も何もないと言えるが、当時はこのような古典的な恋愛が、あり得るのかとさえ、思っていた。

ということで、現代でも、このような映画が成り立つのかは、大変関心のあることだあった。結論からいえば、やはり限りなく古典的だった。第一に、出会いが祭りだということだ。これは遭遇が神がかりであるということの象徴だ。第二に、経済的な理由、親との関係などの制約してくる条件が存在する。第三に、恋が破れて、それに共感する、という部分だ。誰にでも、共通に起こるかもしれないところを、掬いとっている。

むしろ、現代性は、ゲーテの相手役のロッテにあるかもしれない。恋は恋として、結婚は結婚として、さらには、出版をマネジメントする、という面を強調していた。現代の女性に対して、この映画を見てもらいたかったのかもしれないが、この意図もやはり古典的な気がする。

映画の中で、ゲーテが牢獄において、何も資料も見ずに一気に情熱に任せて、小説「若きウェルテルの悩み」を書き上げるシーンが出てくる。小説と論文とは、かなり異なるけれども、このような場所と時間と、そして、なによりも状況が揃っていて、時代背景が後押しするならば、凄いことだなと思う。そんな論文が書けたらな、という願望を抱かせるに十分な映画であることは間違いないだろう。

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2011/11/18

映画「マネーボール」

映画「マネーボール」は、野球の映画かと思って見るならば、そうだとも言えるし、どうも違うのではないか、という風にも思える。それじゃ、何の映画かと言えば、最高度の資本主義を描いた映画だと、思う。それも、アメリカ的、新自由主義的映画の典型ではないかと思う。良い意味でも、悪い意味でも。

現在のところ、資本主義市場では、すでに金融中心主義的な段階を迎えている。この前提をもし受け入れるならば、かつてのように、生活必需品をより安く造るとする産業資本主義段階をすでに超越して、芸術やスポーツを売り物にする、資本主義段階に入ってきているのではないかというところまでは、みんなが感じているのだが、その先にどのような世界がありうるのだろうか、と疑問に思っているところだ。それで、このような「マネーボール」的な世界が存在するということは、ちょっと想像逞しくする部分が見えて面白い。現実のシステムを超えようとするところがある。

どの部分かといえば、スポーツを売り物にするのは、通常その選手たちが提供するサービスについてなのであるが、この映画では、選手そのものが売買の対象となる市場を描いている点である。たとえば、ジェネラルマネジャー(GM)である主人公が、ダンカン選手を他球団からトレードで獲得したいというと、オーナーが難色を示す。すると、GMが個人資金を出して、来年度ダンカンの価値が上がったところで、差額を得たい、と申し出るシーンがある。

アメリカの特殊事情であると、現在時点では、片付けてもよいが、資本主義が進み、市場化が進めば、芸術、スポーツ文化は、人、モノ、サービスを含めて、すべて売買の対象になるのだと言える。そこには、この映画で描かれたようなドラマが存在するようになるかもしれないが、それは「金銭文化」の極致という、認識が正しくて、映画の面白さと、金銭文化の浸透とは、軌を一にしていると、わたしは考えておきたい。

今回の読売巨人の、GMとオーナーの対立は、極めてウェットな感じだ。これに対して、マネーボールでは、このような交渉がドライに進められている。権力の問題と考えるのか、それとも金の問題と考えるのか、という違いだ。監督が自分の意見に反対ならば、自分の権限のなかで、自分の意見を通すことに、誰も不合理だとかんがえない。けれども、GMはこの決定を、人を変えることで覆すことは合理的である、とアメリカでは考えていることがわかる。一昔前は、日本人こそエコノミックアニマルだと叫ばれていたが、実はそうではなく、アメリカ人こそ極めて、経済合理的に動く人種であり、この感覚が正常であると思い込んでいる人びとなのだ、とこの映画は描いている。この文化の違いは意外に大きいのかもしれない。

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2011/11/15

映画「ラビットホール」

朝起きて、天気が良いのにつられて、千葉市内へ出る。いつものように駅前から、100円バスに乗って、本町3丁目で降りる。「きぼうる」と名付けられた、大きなガラス張りの県の施設があって、多目的なというのか、雑居ビル風に使われている。空間がたくさん取られていて、かなり贅沢な使い方をしている。たぶん、バブル時代の遺跡のひとつではないかと思われる。時代が経ってみると貴重な資源となっている。でも、かなりの税金が使われていることは間違いないだろう。

千葉劇場で、映画「ラビットホール」を上映していて、不思議なことに、ここ以外には首都圏でもあまり上映されていない。映画の趣味が、みんな合うとは思われないが、それにしても偏在は否めない。

千葉劇場の特徴は、年配者が多い点であり、それも女性はグループで来る。男性は圧倒的に一人が多い。それで、全体に落ち着いていて、ちょっと落ち着きすぎているような気もするが、居心地が良い。前の方の特等席は、みんな控えめなせいかいつも空いていて、助かる。今日も前から5番目くらいの、真ん中の特等席を占めた。もちろん、慎み深く、開演直前に席につくことにする。

ニコール・キッドマンが製作に加わったとクレジットされているとおり、冒頭から彼女の趣味が出ていた。彼女がガーデンで花を植えるシーンから、映画は始まる。屋根からのショットで庭が写って、屋根の端からガーデン道具を荷車で牽いて、彼女は登場する。日中にガーデニングという、日常そのものを象徴するシーンは、きっと彼女の趣味ではないかと思われる。そこへ隣の奥さんが現れて、食事に誘われるが、その足元で、花が踏みつけられている。別れてから、その折られた花をじっと見ている。何気ないシーンではあるが、映画全体をそのまま語っている。

ざっくり言ってしまえば、子供喪失感から、いかに回復するかがこの映画のテーマである。ところが、夫婦の問題で難しいところは、片方が深刻で、片方が深刻でなければ、全体としてバランスが取れるのだが、共通の問題というのは、意外に、このようなバランスを取ることが難しいのだ。

そこで、家族以外の、外のグループに頼ろうということになるのだが、これは日本には無い文化だ。きわめて、アメリカ的だと思われる。そこで、映画のようなグループセラピーが主人公たちによって、批判されることになるのだ。ということは、アメリカでも、このようなセラピーの在り方に批判が存在するということで、必ずしもアメリカ的とはいえのだろうか。

主人公は結局、夫や妹や、さらには母親との葛藤の中で、次第に回復を図ることになる。ひとつだけエピソードを紹介するならば、石の比喩はわかりやすかった。子供を失った当初は、重い石を負った気がした。けれども、次第にそれは軽くなって、小石になって行く。しかしながら、それでその小石が消えるわけではない、と母が語るシーンは印象的だった。

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2011/11/10

月夜空の下、ささやかな想いが育っていた。

Photo_2久しぶりに、夕べは徹夜の仕事となった。やはり、老化現象が出ているのだろうか。全般的に文章が長い。そこで、削りに削った。これはこれで、文章がみるみるうちに消えて行くのは、快感だ。あれだけ苦労して書いたのに、それがあっと言う間に消えるのだ。

などということを繰り返しているうちに、時間が経ってしまったのだ。すでに締め切りを2回も待っていただいているので、これ以上は待たせるわけには行かない。

メールで原稿を送って、すこし休んでいると、電車の時間になってしまった。これだけ、眠気があると、通勤電車も夢の中だ。東京駅から、流線型の新車である「はやぶさ」に乗って、仙台へ向かう。

Photo_3N先生のプロジェクトで、宮城県の亘理町のいちご農家を支援している。N先生とK先生が毎月訪れて、ヒアリングを重ねている。わたしは支援の支援を買って出たが、今のところはあまり役に立っていない。けれども、支援というものはぎりぎりの必要なときに行うべきものだと考えているので、ふつうはお話を聞くことに徹している。だから、むしろ他の支援活動がそうであるように、こちらのほうがたいへん勉強になっている。

Photo_2途中、農協のふれあいセンターへ寄る。ここには、ちょっと休憩するところがあって、パンやジェラートを食べることができる。写真のパンは、かぼちゃ米粉パンでもちもちしていて、中に甘いかぼちゃがそのまま入っている。Photo_5野菜とご飯をいっぺんに摂ることができる。そしてもちろん、かなり美味しい。野菜が現地のものなので、安心できるのだ。写真でわかるように、ほとんどの商品には、生産者の名前が入っている。ここに来て、これを見れば、誰だって、共同体主義者になってしまうだろう。

Photo_6上の写真のジェラートは、赤い方は現地のいちごが入っている。ちょっと見えにくいが、緑色のほうはよもぎで、わたしはこちらのクリーミーなジェラートが好きだ。程よい、すっきりした野菜味と、クリーム味がとても調和している。そしてまた、よもぎ米粉パンも見つけてしまった。これには、あずきが入っていて、ほどよい緑の味と甘い小豆味が絶品だった。

Photo_7野菜売り場へ行くと、色鮮やかな野菜が目白押しで、唐辛子の干したものを縄で結わえたものは、なんとなく魔除けの雰囲気がある。紫色の古代米をこれに結わえて売っていたので、これも購入してしまった。Photo_6かぼちゃの種類も多く、たぶんそれぞれ味の違いがあるのだろうと想像される。

ここで、東京と地元の生協の方々と落ち合って、Mさんのところへ伺うことになっていた。震災地でふつうの取引が始まり出して間もないが、彼らのような冷静で、かつ社会的視点も持った方がたが事実上の経済を再構築して行くのだと思われる。

Ja_2夕方に見に行くことになるが、亘理のいちご団地の中心がほぼ壊滅状態になってしまったので、Ja川の堤防で守られたこの一帯に、新たないちご団地がつくられつつあった。

手前のハウスのものは、たぶんクリスマスには間に合わないかもしれないが、Ja青々とした肉厚の葉を付けていたから、きっと立派な実をつけることだろう。

Photo_10いよいよMさん宅へ到着した。ガレキはすっかり片付けられ、すでにハウス栽培が始まり、数ヶ月が経っていた。苗床が高設になっていて、だいたい1メートルくらい通常よりも挙げてある。Photo_11塩を防ぐためにである。最初に作ったときには、わたしの胸に達する位の高さに作られていた。試行錯誤という言葉どおりに、お隣の農家と相談しながら、高さを決めていったそうだ。そして、現在では、通常の高さの作りもすでに試されていた。Photo_15何が起こるのか、まったくわからないとき、人はどのような行動を取れば良いのか。これまでの経験を越える知識が必要となったのである。それは、まさにわたしたち現代人の問題でもあるのだ。

お昼には、亘理町名物の「はらこめし」と「はらじる」をごちそうになった。混ぜご飯と鮭の切り身にいくらがかかっている。Photo_14北海道との関係が強いので、その食文化も入ってきたのだろうか。そのあと、夕方から、かつてのいちご団地の中心部へ、みんなで向かった。

今回ほんとうにすごいなと感じた点が、二点あった。写真に映っているのは、いちごの苗である。

Photo_7なぜここにいちごが植えられているのか。この海外沿いの砂地がかつてはこの地域最大の産地だった。カマボコ型のハウスが乱立していたところだ。それほど、ここの土地はいちごに合っていたのだそうだ。それを津波が襲った。そのため、ここにあったいちご畑は壊滅状態に陥った。そして、すべての瓦礫が撤去されたあとでも、塩を被った土地だけがこのように荒れたまま残ったのだ。

Photo_16いちごが塩に弱いことは、通説となっている。だから、残留した塩が取り除かれなければ、いちごは育たないと、みんな考えた。ところが、どうだろうか。少なくとも、ここの一ヶ月では、育っている。社会の思い込みというものが、いかにわたしたち全体を支配してしまっているのかを示している。いちごたちは、育ちたいと思っているのだ。いちごをめぐる環境は、すでに現実を大きく超えている。自然というものの、懐の深さを、素人のわたしでさえも思い知った次第だ。

Photo_18空には、満月の月が輝いている。月の隣には、漆黒の夜空に木星がポイントを加えている。ずっと目をしたに降ろして来ると、海岸の防風林が、守るものが失くなって、なんとなく意味もなく並んでいる。じつは、Mさんの話によると、この場所に夜来るのはご法度で、警察官の職務質問を受けてしまう場所だった。当時、クリスマス近くになると、いちご泥棒がここへきて、夜ハウスからごっそりと盗って行ってしまう事件が頻発した。いちごが価値をはなっていた時代、それはほんの一年前なのだが、今はもうない。夜空の月と星が、空しく輝いているだけだ。

それにしても、ここに植えてみないか、というK先生の慧眼と、実際に植えてみたMさんの試みは、素晴らしかったし、映えある一歩だったと思う。この土地に密着し、ここを離れずに、とにかく続けてみることに意味があるということだったのだ。経験と想像力の勝利だ。

Photo_22二番目の話は、いちご畑を観察していると、その現実を超えて、日本全体の現状がわかってきた、という事態だった。Mさんによると、この地域にハウスがずらっと建っていたのだが、それを担っていた中核の世代が、団塊世代だったのだ。それで、震災を受けたために、新たな設備投資が必要なのだが、その借金を完済するには、一世代では無理なのだそうだ。後継者のいるうちは継続できるが、多くはダメらしい。

Photo_20つまり、一番人数の多かった世代がまともに被害を被ったために、再建できない状況も、最大の世代である団塊世代の状況に依存しているということになる。震災はすべての世代に平等に起こったわけではないのだ。Photo_21最も多く、最も強大だったところをじつは直撃していた。この事実は津波によって明らかになったのだが、じつは日本のあらゆるところで、このことは起こっているのが現実だ。

つまり、病気や事故、制度改変などの日常の出来事で、最も直撃されているのが団塊の世代で、社会からの撤退を余儀なくされているという現状があるのだ。

Photo_19さて、すっかり日が落ちてしまった。いつものように、S店へ寄って、いちごと、うめ、そしてゆずの羊羹、それから、いちごのジャムを購入して、帰路に着いた。月夜空の下、小さな小さな想いが育っていた。

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2011/11/04

学術と政治の夢を見ながら、海とウォーキングを楽しむ

Photo夜になって、雨が降ってきた。先ほどまで、海辺の公園に座って、今日一日の幸運な天候を感謝していたのとは、大違いだ。今日は、神奈川学習センター恒例の、ウォーキングの日であった。

Photo_4今週は卒業研究の仕上げの段階に入っていて、学生の方々からは、連日分厚いメールが送られてきている。昨日も三人の方から相談を受けたところだ。もし卒業研究が終わっていれば、何人かの方々も参加してくるのでは、と期待していたが、やはり論文作成に専念しているらしく、見えなかった。今年度は、震災の影響や、仕事上の理由で、何人かの方が途中で卒業研究を最後まで成就することができず、ゼミナールにとっても、特別の年になった。

Photo_8ウォーキングのほうは、薄曇りで丁度良かった。歩くとふつうは汗ばんで来るのだが、今日はそんなに暑くもなく、寒くもなく、今日のためにセットしてくださったような一日の天候だった。

京急線の金沢文庫駅に集合して、8班に別れて、それぞれ10数人のグループで行動した。称名寺の入り口に到着した。わたしの班は5班で、リーダーWさんが場所場所での歴史・地理などの説明を交えて、引率してくださった。

Photo_9称名寺入り口の門に差し掛かったときに、1班を引率してきたFさんの解説している姿を見かけたので、挨拶の合図を送ると、話しながら会釈を返してくださった。Fさんは全体のリーダーでもあり、毎月のリーダー勉強会を主宰している。このような会がうまくいくには、特定の人びとが情熱を持って維持していく必要がある。もちろん、他の方々の助けも必要なことは言うまでもないが、会全体が乗り移ったかのような人格の存在は必須である。

運慶の像のあることで有名な、光明院は現在は、この門を観るだけである。けれども、4柱作りで、清楚ではあるが、基礎のしっかりした、質実剛健という鎌倉期の特徴をよく表している。

Photo_11さらに、山門はもっと大きく、この模様を伝えている。金剛力士像も千年余の風雪に耐えて、剛毅な様子を伝えている。これらが、野の中でそのまま維持されてきたということは、ほとんど信じられない状況だ。Photo_12戦国期になると、ここの金沢文庫の資料は、豪族、大名、幕府などによって、略奪されたらしい。力の背景がないままに、これだけ残っていることのほうが、奇跡的だと言えよう。

Photo_46称名寺は、平泉の毛越寺を模して建てられたらしい。天国への道を想像して作られた橋をわたって、極楽浄土の本堂へ導かれる。

本堂の後ろには、ずっと自然の丘が連なっていて、昔は、海の中に半島が突き出て、その一角がこのように盆地のように囲まれた別天地だったのだろう。Photo_16海からの遠方の訪問者たちには、強い印象を残したことが伺える。権力者が宗教と学術の形で見せびらかしを行い、力を誇示するのに最適な装置だった、と想像される。

Photo_18センター所長のW先生、リーダーのFさん、さらにサポーター事務局のKさんの挨拶を聴く。全体で、100名を越える参加者があったそうだ、また、放送大学生以外の方が、3割であったとのこと。そういえば、第1回に参加した時も、イタリアからの留学生も参加していたことを思い出した。地域への貢献大なることを思った。

池を臨みながら、昼食を取り、山へ登るグループと、近くの文庫を散策するグループとに別れて、お昼休みを楽しむ。わたしは、Hさんのグループとベンチに座り、雑談に余念がなかった。この後のことを考えると、ここで歩く力を貯めて置かないと到底最後までついて行けないと、ただちに認識していたのだ。これはあとで、正しいことが証明された。

H先生ともう一人のH先生は、ストレッチ体操をこなして、それっとばかりに勇んで山へ登っていった。このような元気な先生方がいるかぎり、放送大学の未来は明るいし、こうでなければ、学生と対等に付き合うことはできない。わたしはもっぱらコミュニケーションに精を出す事にきめ、歳相応のことを行うことに決めた。

称名寺から道なりに坂を下ってくると、不自然に曲がりくねった国道16号線にY字に交差するところに出る。

Photo_20山道をなだらかに斜めに海岸線の大きな道に合流するように、鎌倉時代の地図にはなっていて、なぜ16号線が曲がりくねっているのか、の理由がそれで分かった。この16号線が内湾になっていた海岸線沿いの道だったのだ。曲がりくねったほうが、自然だったのだ。この道を平潟湾のほうへ向かって歩く。

Photo_19途中、R寺という、かなり裕福そうな、格式が高い寺があって、国宝や重要文化財を複数保持しているらしい。宝物殿も立派なものが建っていた。目を吸い寄せられたのは、みんな同じで、「ぼけ封じ観音」という現世利益の観音像であった。霊験を試そうなどと大それた方はいなかったが、それでも賽銭箱の音は絶えなかった。裕福な寺は何かが違う。これは皮肉ではなく、現実だ。

Photo_22さらに、平潟湾へ近づくと、今度は明治期の歴史物が出来してくるのだ。まず、「明治憲法創設の地」の碑が建っていて、この近くの「東屋」という料亭で、金子や伊東たちが草稿を練ったらしい。

瀬戸神社の前を通り、金沢八景の駅に出る。八景の由来となる行くつかの風景を見て歩く。Wさんが浮世絵をプリントしてきて、添えられた歌などを鑑賞しながら、頭と足の両方の満足するウォーキングとなった。

Photo_25平潟湾を左に見ながら、海岸沿いを戦前海軍基地のあった方向を目指す。この平潟湾は、現在では、水が透き通っていて、近くの釣り客が釣り糸を垂れていた。飛魚などが獲れるらしい。一緒に歩いたTさんたちは、ちょうど結婚して、横浜へ関西方面から移ってきて、このへんの住宅地を探して歩いたらしい。Photo_24

話を聞いていて、わたしも思い出したのだが、結婚したときに、いくつかの公団住宅に応募して、多摩地区とこの金沢地区とそして、八王子地区を選んだのだ。そして、結局八王子が当たったのだが。金沢地区が当たっていたならば、このような風景のもとで暮らしたのか、と思い、ちょっと違う、太公望のような人生を想像してみた。

Photo_29Photo_30そろそろ疲れが出てきた。坂道を登って、そこをさらに下ると、グループがずっと先を歩いているのがわかった。

野島に入って、海軍があり、現在は住友造船が占有している夏島を臨む公園が集結地だった。

Photo_32そのとなりが伊藤博文の別邸で、現在公開中であった。海に面して座敷のガラス戸がざっと並んでいて、東京の雑務を逃れて、一人で考えるには最適の場所だっただろう。この島は、住人数が限られるという地域協定があったところで、保護された別荘地という雰囲気だ。

Photo_31縁側のある別棟もゆったりとしており、特別に作られた風呂場も、長時間の湯浴みに耐えられるほどのゆったりした作りだった。

Photo_34最後は、金沢八景の駅前に戻り、打ち上げとなった。久しぶりに使われた筋肉が、焼酎のアルコールで、弛緩するのを感じながら、家路に着いた。Photo_35

街中を散策するのも良いけれども、今回のように、さまざまな海の変化を楽しむウォーキングも気持ちよいな、と思った。それに、学術の文庫と、政治家の別邸という、贅沢なものに触れることもたまには必要ではないかと感じた次第である。

Photo_47いつか、素敵な図書館のそばの別荘を借りきって、議論しながら、勉強に励むようなことをしてみたい、という気分を煽るような一日の出来事だった。

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2011/10/21

映画「ツレがうつになりまして。」

Photo_2世の中には、なかなか理解できないことがあって、心の境界問題はとくに見えないのだ。けれども、ほんとうのところ、よくわからないことがあっても、本人には失礼だが、そこが不思議なことに面白くもある。映画「ツレがうつになりまして。」を観る。漫画家であるハルが、主人公である。そのツレがウツ病になって、会社を辞めることになる。色々な事件が起こるが、それらを乗り越え、社会復帰する様子を描いている。

複雑な病気であるウツなのであるが、目に見えないところを、いかに見えるようにするのかというところが、この映画の腕の見せ所だと思われる。さて、ウツになったということを、どのように映画として見せるのだろうか。

Photoちょっと変な言い方かもしれないが、「エッジを切る」という表現はどうだろうか。説明は必要かもしれないが、直感的な理解ができるかもしれない。写真を撮っていて、木樹と空の境目がくっきりとわかる時がある。これは、境が明瞭である、という証拠だ。それに対して、写真を見ていても、境目がはっきりしない場合がある。

それは、レンズが曇っていたり、ピンボケだったりするのではなく、明らかに映るものが不自然に飛び出ていたり、形がおかしかったりして、通常とは異なる映像が映る場合があるのだ。ここで掲載している風景の写真のように、シャープに形が見えていれば、問題はない。けれども、この境界が曖昧になりだすとふつうではないことが起こっているということだ。

この映画で、「エッジを切る」ことがうまくいかないところがあり、どのような場面でそうなのかと言われても、なかなかわからないかもしれないが、監督がとくにこだわったと思われるシーンで、繰り返されているところがあって、成る程と感心したのだ。

それは、髪の毛に寝ぐせがついていて、立ってしまっている、という単純な映像だ。何だそんなことか、という向きもあるかもしれないが、これは中々な表現だとわたしは思う。ウツがひどくなって、会社に出たくなくなるときには、必ず髪の毛が立っている。そこから、髪の毛が立っていると、具合が悪いということを象徴しているのだな、と映画の聴衆に訴えかけることができることになる。

Photo_3じつは今日歩いていて気がついたのだが、わたしも今日は髪の毛が立っていて、自分では気がつかない状態だったのだ。ところが、朝日を浴びて、歩いていると、自分の影法師が現れて、アタマの部分から、髪の毛が立っているのがわかった。

髪の毛は、自分のものであるにもかかわらず、自分ではわからないのだ。エッジを切ることができるならば、何も問題がない、ところが、自分では分からない内に、突出してしまう部分を作ってしまっていて、他人にはそれが見えてしまうのだが、自分ではずっとそれがわからないのだ、ということが起こってしまうのだ。

Photo_5境界問題の生じているところでは、ある部分は奇妙に几帳面に見えるのだが、それ以外の部分のところでは、他者に対して無頓着に現れてしまうところがあるのだ。このような不明瞭な部分が現れたら、ウツということかもしれない、と直感的な理解をしたのだ。

 

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2011/10/16

青リンゴと夕陽と富士山と

Photo_7午前中の仕事がうまく行ったので、葉山へ行くことにする。妻が数日前から、天気が良かったら海を見に行こうと誘っていた。

昨日は強風が吹き、雨が夜中まで降っていた。それで、天気が心配だったのだが、昼になる頃には、気温が27度まで上がって、天気は回復した。Photo_8すこし夏に逆戻りした感じだ。日差しが強いので、腕の隠れる服装をした。

けれど、風はさらっと肌を撫でていくことから、秋の風であるとわかる。つまりは、あつくもなく、寒くもなく、良い季節だ、ということである。

Photo_9いつものように、家を出て、30分くらいで、逗子へ着く。話しながら、バス停へ向かうが、惰性で歩いていたので、通り過ぎてしまったらしい。振り返ると、海岸まわりのバスが出発したところだった。

Photo_11仕方なく、さらに、十分待つ。京急の新逗子駅はいかにもリゾートだ、というような駅舎構えで、三浦半島の観光地図も近くに掲げられていた。妻は時間があれば久里浜のコスモスも見たいなどと、相変わらず距離感のない空間的欲望を、ずっと午前中から言っていたのだが、この地図を見て、ちょっとは思い直してくれただろうか。

Photo_12先日きた時に、山口蓬春記念館の年間会員になっていた。今日は、今回の企画展「北海道と蓬春」の最終日だったのだ。前回もそうだったが、ここの企画では下絵の展示が、本物と一緒にあるのが特徴だ。そこで、いつも思うのだが、画家の下絵というのは、感情がこもっていて、むしろ本物を超えていることがあるように思う。

Photo_14今日の一枚というならば、リンゴの絵だ。毎年、様々なところから、りんごが送られてきたそうだ。秋田の青りんごを描いた絵は、同系色の調和を狙ったもので、グリーンの配置が素晴らしかった。評論家の言葉が添えられていた。山口蓬春には乱れがない、と。これは、わかりやすい言い方だとおもわれる。表面的には、乱れはないように見える。安定した仕事をたくさん残したと思う。もちろん、内面は見ることができないという前提のもとであるが。

Photo_18奥の部屋に飾られた、やはりもう一つの、青りんごの図も良かった。こちらは鉛筆画に、淡い水彩が乗せられただけの未完成の魅力を見せるものだった。

北海道というテーマでは、アイヌの模様が模写されていた。一見、単純な左右対称の唐草的顔模様なのだが、細い線で加えられた重層的な非対称線が描きこまれていて、複雑をいかにシンプルに見せるのか、という練習を行なったかのような一枚だ。Photo_19玄関を出て、裏山に通ずる林を振り返ると、鳶が山腹に沿って、弧を描いて、吹き上げてくる風を楽しんでいた。

Photo_21いつもの県立美術館脇の小径を抜けて、海に出る。この気温のせいだろうか。サーファーたちが極めて多く、一色海岸全体に展開していた。波は荒く、天気は良く、風は少々強い。日本の海岸特有の小波を捉えて、数十メートルほどのサーフィンを、あたかも無窮動のように、サーファーたちは楽しんでいた。

妻は、相変わらず海を見ていると、びくとも動かない。Photo_22海岸に座り込んで、時間のない世界に入っていた。


Photo_24仕方ないので、海岸へ降りる階段に陣取って、カメラを繰っていたのだが、それも飽きてしまって、散歩者の人びとを見ていた。

Photo_48海と風と、そして心地良さとが、すっと流されて、ちょっと先を漂っている感じだ。Photo_50

荷物の中にいれてきたコーヒーを急に思い出し、一服ついた。

座り込んだ時には、まだまだ太陽は空の上の方にとどまっていたのだが、目を瞑って、顔全体を海の方へ突き出し、想いに耽っていたら、何時の間にか、陽が傾き始めていた。Photo_31
Photo_51その頃までには、何回か、もう少しと言われていて、まだまだ動く気配を見せなかった妻も、ようやく腰をあげた。

Photo_34県立葉山公園に着く頃には、もうすこしだ、ということで、夕陽の沈むのをみようということになり、公園の階段に陣取る。


Photo_36なぜか外国人のバイオリン弾きがいたのだが、彼女が低音の音楽を奏でているうちに、すっかり陽は落ちた。Photo_38


それと共に、それまでは、富士山は霞の彼方にあり、輪郭のはっきりしないものだったのだが、後ろから照らされて、くっきりとした影を浮かび上がらせていた。Photo_40







Photo_45思いも掛けない、夕陽ショーに立ち会い、何時間もの海の眺めと、心地良い強い風と、なにもかも十分に堪能した、今日一日だった。

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2011/10/15

収穫の時

Photo_4収穫の時を迎えている。写真に写っているワインも、さることながら、論文も仕上げの季節を迎えている。

今日も、東京文京学習センターで修士の学生たちとゼミナールを開催した。先週は、卒業研究のゼミナールを行なったから、二週連続となる。

この季節のテーマは、「問題提起と結論」を整えることとしている。例年みていると、仕上げにもいくつかのタイプがあって、なかなか一律にはいかない。けれども、一般ルールからすれば、問題提起と結論を定めて、中間の文章を整えていくのが常套手段だと思われる。

あと二ヶ月というところでは、書き始めてしまうと、なかなか止まらずに注意を引くことはむずかしいが、この時期であれば、まだパテの時期なので、どうにか形を変えることがまだ可能だ。

そこで初心に、帰って本当のところ、なにを書こうとしていたのか、もう一度考え直してみるのも良いと思われる。毎年みていると、この辺で文章を蓄積していって、後戻りできなくなってしまう人が見られる。

などと、言うのはやさしいが、一筋縄でいかないのが、論文の面白いところだと思われる。ちょっと変えてしまうと、全体に影響を及ぼしてしまう性質を持っている。これまでの調子を持続すれば、かなり良い論文になるな、と皆に思われていた論文でも、どういう訳か内容は良いにもかかわらず、問題提起でその重要な中心点がうまく押し出されていなかったりする場合が現実にあるのだ。

Photo_5なぜ論文において、先人の書いた論文が重要な意味を持つのか、ここで複数の考えが総合されて成立するのが論文の醍醐味 だと思われる。理科系の論文では、よく言われることだが、それは一枚でも立派な論文があり得る、という言い方をしている。これも、一枚に凝縮されていることは認めるにしても、その命題を立てる際に、皆が納得している問題提起が行われているから、一枚でも論文になるのだといえるのではないだろうか。

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2011/10/14

映画「アリス・クリードの失踪」

三人しか登場しない映画である。これだけでも、「映画的」映画として、観る価値がある。けれども、役者さんたちをみていると、何となく舞台演劇だったのかな、と思ってしまうところもあるのだが、その辺はあまり気にしないでおこう。

映画「アリス・クリードの失踪」を観る。先月ごろ、千葉劇場にかかっていたのを見逃してしまったのだ。それで、地元の名画座「ジャック&ベティ」でかかっているというので、買い物などを自制して、講義のあと、さっそく駆け付けた次第である。

途中、黄金町駅近くで、学生時代から気になっていた建物があって寄る。ちょうど電車の高架からその仕事場が見えるのだ。窓が異様に広い、というのが気になっていた理由なのだ。いつもその窓が空け放たれていて、中で職人たちが動いているのが分かる。大きなテーブルと衣類の山の間を職人たちが巡っていたのだけれども、何の仕事場なのかは、ずっとわからなかった。

ちょうど映画が始まるまで、時間が空いたので、尋ねて見た。どうやら、現在は持ち主の事業が不振で、この仕事場は使われていないらしい。と隣の宝石屋さんが教えてくださった。衣類の仕上げを行っていた仕事場らしい。大勢の人びとがここに結集され、そして、去って行ったと思うと、何となく愛おしいような気分になってしまうのだった。このような減価償却の終わって、再利用を待っている建物が何となく好きなのだ。この黄金町には、そのような再生プロジェクトが起っているので、この建物もぜひ加えていただきたいと、勝手に思ったところなのだ。

さて、映画のほうだが、三人しか出ないからと言って、話が単純なわけではけっしてない。ヴィックとダニーという二人の男性の誘拐犯が、金持ちの娘で勘当されているアリスを誘拐する。ここから、すべてが始まる。次第に、三人にはそれぞれ関係がある、あるいはできることがわかってくることになる。

最初は、それぞれ別々の人格であり、強いて言えば、犯罪関係で強制的に結ばれた人間関係として、映画は始まる。ところが、次第にそれぞれの人間関係がわかってくる。AとBは愛人関係であり、BとCも「愛人」関係にある。AとCだけが他人関係にあり、開かれた関係にある。さて、Bはどうするのか。

けれども、ここに誘拐という犯罪と、金という利害意識が絡むことで、人間関係、信頼関係が微妙におかしくなっていく。最後は、開かれていたAとCとの関係が閉じられて、めでたく物語は終結するのであるが、その中身はここで言ってしまうと面白くないので、明かすことはしないが、一つだけとりあげるとすれば、やはりこれだろう。

愛情という人間の関係性には、一つの愛の中でも、いろいろのバリエーションが可能だということだ。その結果、愛が理由となって、犯罪が起こることもあり、愛が理由となって、犯罪を糾弾することも出来るのだ。したがって、愛の物語であっても、内容はたいへん複雑である。愛の物語の中で、信頼関係の物語が育ち、さらにいつ裏切られるのかわからない、不信の物語が幕を開けることになるのだ。ふつう、物語は外部へ外部へ、夢のまた夢へ展開して、わたしたちの欲望を満足させるのだが、この物語は三人に限ったことで、内部へ内部へ展開していき、内部の世界の奥深さ、空虚な広さをかえって明らかにしていると思われる。

最初に、三人だけの世界を作り出す、映画的手法が面白かった。まず、二人が登場して何を行うのかというと、スーパーへ行って、部屋を外界から遮断する防音材、壁材を買ってくるのだ。これでもか、これでもか、というほど、三人だけの世界を強調してから、物語が始まる所が映画的だな、と感心してしまった。

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2011/10/11

映画「エンディングノート」

Photo映画「エンディングノート」を観る。午前中、どうしても書かなければならない、という仕事があったので、それを終わらせてから、電車に飛び乗って、千葉へ向かう。もちろん、書かなければならなかったのは、エンディングノートではないのだけれど。千葉劇場が会場だったので余分に時間がかかると思い、急いだことが幸いして、少し余裕を持って千葉駅に着いた。おかげで、千葉駅近辺で買物をする時間ができた。

この季節で気になるのは、今年の勝沼ワインはどうかな、ということだ。ボジョレーの騒ぎに乗るつもりは無いが、同じ趣向なのかもしれない。昨年は、宅配便で取り寄せたのだが、今年は関東圏での店がいくつかわかってきたので、そこを覗いて、たまたま欲しい銘柄が置いてあるかどうかを楽しみにしている。

今日は、大当たりだった。デパートの地下で、授業番組でも取り上げさせていただいたC醸造のGという、一般向きだが、喉が唸るような美味しいワインを手に入れることができた。棚に置かれた瓶も、すでに前面の何本かがなかったから、この銘柄を目当てにくる客が少なからず存在するものと思われる。

さて、千葉劇場には、固定ファンがついていて、いわゆる名画座の雰囲気を残している。名画座の雰囲気とは、封切りの人気映画だけを見るのではなく、個人的に選択した映画を見ているのだという、ある種の幻想を伴っている雰囲気である。だから、そこには、映画を観るという直接的な効用以外にも、同好の士が集まるという間接的な効用があるのだと感じている。

それで、今日の「エンディングノート」という作品は、たいへん面白い点を想起させる。エンディングノートとは、気楽に書く、非公式の遺言状のことだ。このノートを書くのは、本人なのだが、実際に書かれたことに従って使うのは、残された者たちであるのだ。この意味では、通常の「ノート」という、個人使用のイメージではなく、むしろ周囲の人たちに影響力を及ぼす、「手紙的」なものとしての性質が強いものだといえる。人びとを媒介することを通じて、かなりの影響力を行使する、第三者として現れるかもしれない、という可能性を、エンディングノートは持っているのだと思われる。

もっとも、本当に親しい人であれば、かつては日常のつきあいでわかっていたことを改めて公式的な遺言ということで、残そうというのだから、現代のコミュニケーション不足の時代を反映していると見て良いだろう。また、他方で、完全な公式性は持っていないので、少しばかりの非公式性をも兼ね備えたものとして、エンディングノートは存在していて、その点でもきわめて現代的なモノであり、また現代的なテーマでもあるといえよう。

映画の中で、主人公が仏教徒であるにもかかわらず、カトリック教会で葬式をあげたいということになり、主人公の娘がインタヴューをして、なぜキリスト教で葬式を行うのか、を問うている。三つの理由を答えるのであるが、このやり取りに、公式、非公式の微妙な違いの現れているのを見ることができる。その場面は、観てのお楽しみなのだが、フィルムに載ることと、載らないことがあり、けれども、載せてしまうことは可能である、という映像ならではのやり取りがあって、プライベートと公共の情報のあり方で、興味深いものがあった。

この映画は、砂田監督が主人公の次女として、プライベートに撮り続けてきたフィルムが元になっているのだが、このような映画と成るについては、是枝監督のプロデューサーとしての手腕が効いているのではないかと想像できる。彼の作品のなかで、ドキュメンタリー志向の部分をこれまでも何回も試してきていて、現実と映画の垣根を超える、というか、リアリティのある映像空間のあり方のひとつの提案があるのでは、と思われる。Photo_2それは、この映画のナレーション担当を砂田監督自身に行わせているところに現れている。主観をちょっとズラせるのだが、あまりズラせないところに、現実が存在する、とでも言うようなリアリティだ。

最後の場面で、主人公が亡くなって、周辺を漂っているかのような、映像があり、もうまもなく自分にもこのような風景が訪れるのかと思うと、妙に納得する映画となった。

Photo_3帰り道、いつもの焙煎屋によって、珍しいエルサルバトルの豆と、セールのブラジルを購入する。ブラジルは浅煎りにしたせいか、アメリカンとして飲むと、少し草の香りのする、特徴ある味を出していて、昔よく飲んだ味が再現され懐かしい感じだった。

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2011/10/01

文京での研究会

10半年振りの「比較地域研究センター」の研究会である。第三回になるが、幹事の方々も忙しい中、連絡を取り合って準備に余念がなかった。

地下鉄の中で、F氏とあって話していたら、文京での会合は初めてだということで、このゼミナールの思い出を考え直してみると、近年になってようやく東京を本拠とする様になったのであって、それまでは神奈川を中心としていたことに思い至った。

今回文京での学習センターが新築となって、ゼミをここでまた開くことができるのは、ゼミが定着する意味でも、たいへん良いことだと思われる。社会人の方々が集まるには、やはり地理的な条件は重要だと思われる。

Photo_16第10講義室は、前回の大学院ゼミナールでも使ったので、二度目だ。廊下との境の壁も、ガラス戸なので外を歩く人たちが見えてしまう。今日は、筑波大学の学生たちが多かったので、顔見知りは居なかったが、これが時間が経ってきて、顔を知った人々が、授業中に外をどんどん歩いているようになったら、どういうことになるのだろうか。それも、気にしないほど、講義に集中しなさいという、環境設計であると解釈しておこう。

さて、研究会発表のほうは、刺激的な論題が並んでいたので、活発な質問が飛んだ。今はまだ、発表会だけだが、そのうち議論が発展するような形式も試すことができるかもしれない。などという、期待を持ちながら、聴いていた。

Photo_17K氏は、SNSの最近動向を報告してくださった。Kさんは、ワーキングプア問題を、さらに、Y氏はシェアカルテルの問題を発表した。それぞれの異なる分野の問題であるが、それをすべて引き受けてしまうのが、放送大学学生の包摂力のあるところだと思われる。

終了後は、地下鉄の駅の下にある居酒屋で、意見交換会。ちょうど前の席に座ったNさんとKさんは、キリスト教に詳しいので、先日のピエタ問題についていろいろと教えてもらった。ひとつわかったことは、マリアの位置づけである。旧教では、マリア信仰がたいへん強いとのことで、その意味でも先日のような家族関係的なピエタ解釈は、意味のあることらしいとわかった。

この席で、読書会を企画していることを話し、どのような傾向の本をみんなが求めるのだろうと興味があったので、リストを示して、投票をしてもらった。純粋な経済学の本も少なからず人気があったが、今日的な高齢化や、支援学のような分野の本にも票が集まったのは、やはりご時世と言えよう。

来年の早い時期の開催を目指して、すこし調査をして、企画を練り上げることにしたい。手伝っても良いと思われる方がいらっしゃったら、加わっていただきたいと思っている。この企画も、一応、今日の比較地域研究センター内の動きだという、了承は今日受けたところだ。

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2011/09/26

まだまだ旅は終わらない

09252部屋に薄明かりが差し込んできて、街に朝日が差し始めた。今朝の人通りはまばらで、人声もあまり聞こえない。向かいのアカデミア美術館の壁が、陽を受けて紅くなってきた。

0925旅はまだまだ終わらない。そろそろアリベデルチと呼びかけられる回数がふえてきたのだが、旅特有のハードルがいくつか待ち構えていた。まず最初に、宿をチェックアウトしようとしたら、宿代とは全くべつに、ヴェネチアの都市税というのを、現金支払いで求められた。この8月に導入されたばかりだとのことだ。

0922金額は大したことはないので、すぐ支払ったのだが、じつはこの現金は、空港までの船賃として残して置いたものであった。宿代はカードで支払うから問題はないが、宿の人に確かめると、船の中での支払いだから、たぶん現金支払いだとのことだった。

09252_2こんなことであれば、お土産などをカードで支払って、現金を温存しておくべきであったと思ったが、後の祭りだ。結局、船をひとつ遅らせて、銀行に走ることになった。朝早かったので、両替は、まだ開いていない。カードで現金を引き出すしか方法はなかった。朝のザッテレ海岸沿いは、気持ちの良いランニングコースになっていて、海からの清々しい風が吹いている。グランデに入ることのできない、大きな客船も、こちらへはゆうゆうと入ってきている。

09252_3昨日、ここを歩いていて、海沿いに銀行が二、三軒あるのを記憶しているのが幸いした。日本にいても利用しないような、カードローンをこのようなところで使うことになるとは思わなかった。自動支払機も英語表示に変わるので、すぐに現金を手にすることができた。「ベニスの商人」ではないけれど、どんな時にお金が必要になり、そこに思いもかけない金貸シャイロックが現れるのか、予想がつかないものだ。日本へ帰って、肉一ポンドを要求されないようにと祈った。

0925_3無事、次の船に乗ることができたのだが、次に起こった問題は、この船が空港まで1時間だとガイドブックに書いてあるにもかかわらず、じつは1時間40分もかかってしまったことだ。もちろん、船に乗った醍醐味は十分堪能して、海からしか眺めることのできない風景もたっぷり観ることができたのは、感謝している。0925_4造船所や、海軍などもあったし、ムラノ島の風景も海からの眺めることができた。さらに、海の高速道路とみんなに呼ばれる、杭を打ったラグーナの道も観ることができた。

Photo_4船着場での標識に徒歩7分と表示されていたのをみたときには、まだ30分余裕があった。けれども、空港に入った時にはさすがに、これはマズイと思い出したのだ。カウンターへ行くと、すでに終わりました、ととうとう言われてしまった。

係りの人に待機していただいて、電話連絡の上、緊急の入り口から入って、どうにかセーフであった。窓口の方が、 国内線と国際線も含めて 必死に手続きをしてくださったのだ。荷物も、最後の運搬にどうやら間に合ったらしい。じつは、わたしたちのすぐあとに、同じ便の客がもう一組いて、自分のことは棚に挙げつつ、上には上があるものだと思った次第である。

帰りの飛行機は、結局2時間遅れ、と言っていたのだが、さらにずいぶん遅れが出た。もちろん、ローマで乗り換えたので、その後の遅れであって、わたしたちのせいではない。機内では、映画を観たのだが、さらにミラノとヴェネチアを振り返る十分な時間があった。とりわけ、手元に残った美術館や博物館の入場券と、交通の切符にはカラフルなものが多く、記憶を呼び戻す効果がある。以下で、記念のために、列挙しておきたい。

フォルツア城の入場券Photo_6

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2011/09/24

ティントレットの最大の絵画

0922五日目になると、疲労が溜まってくるのかと思っていたがそれ程ではない。むしろ、イタリアの環境に慣れてきた感じだ。朝の食事をきちんと取っているためかもしれない。

このヴェネチアの宿は、親子二代で運営しているらしい。最も中心となってしっかりとマネジメントを行っているのは、母親と思われるかなり年配の女性だ。だいたい朝にフロントを務めていて、コンピュータの中の、各部屋の管理画面と睨めっこして、電話でかかってくる予約に対応していた。

09252このフロントは、天井の低い中世の宿の様相を呈していて、入り口をくぐって入るような感じだ。カウンターだけの部屋で、機能的な仕組みになっている。そこからは、階段が繋がっているのだが、たいていは荷物を持っているために、奥のエレベーターのほうへ行ってしまう。

0925_2ミラノのホテルもそうだったが、数百年も経ったような建物の内部に、エレベーターをつけるには、このような二人乗りのものが良いと思われる。エレベーターの左に行くと今朝も朝食を取った、中庭形式の食堂に至る。

0924_3今日の最終的な目的は、海事博物館を観ることと、昨日の続きで、ティントレットのすべてを踏破することだ。とは言ったものの、ものの本によると、まずはサンマルコ広場からはじめよと書いてあり、昨日の市場に続いて、政治の中心たるサンマルコ広場を外すことはできない。もちろん、フローリンなどの名だたる喫茶店文化も、観ておかねばならない、ということで、二日目の訪問は結果として、ドカーレ宮殿のティントレットということになった。

Photo1500年代になるころに、なぜヴェネティア派が栄える様になったのかについては、当然、スポンサーの存在は抜くことはできないが、そのスポンサーの要請の大半は、これまで宗教の要請が強かった。だから、これに政治的な要請が加わると、要請の程度は倍加することになる。

この意味で今日のドカーレ宮殿のティントレットには、重要な意味があったのではないだろうか。そして、彼はこれまでの連作に加えて、この宮殿の作品を仕上げることに関しては、組織的な対応を迫られたことになる。つまり、宮殿の絵画という大量で大作の絵画を仕上げるには、需要側のスポンサーの条件もさることながら、供給側のスタジオ制の整備も、重要な意味を持ってきたのだと思われる。

Photo_3このことを象徴的に表しているのが、世界最大の屋内壁画と称される「楽園」だ。このような宮殿の大広間という場が提供される必要性があったし、さらにキリストとマリアを中心とする数々の物語が、部分部分に小分けれて、それぞれの担当に配置されなければならなかった。

ひとつひとつの物語が部分的に完結し、なおかつ、全体としての物語も保持して、このホールの物語性を主導しなければならなかったからである。

楽園が主たるテーマであるが、ヴェネティアの成功の物語はどうしても必要な要素だったと思われる。ティントレットが描く、戦争の物語は晩年の新しいテーマだ。スペクタクルも、全体の統一は必要であるものの、部分的な物語の積み重ねで全体を描いていくことが可能である。

さらに、宗教で発揮した、序列的人間関係の描き方も、ひとりひとりはティントレットそのものだが、全体としての統一よりも部分的な詳細さをうまく描いている点は、ティントレットという工房の存在があればこそ、可能であったと考えられる。ティントレットには、何本の腕が存在していたのだろうか。

宮殿見学では、英国人の次はフランス人、次はドイツ人、さらに日本人と集団入り乱れて通り過ぎていく。ここでは、写真についてはたいへん厳しかった。ほかの美術館では、フラッシュは禁止されていても、写真はOKのところがあったのだが。そこで、事件が起こった。フランス人の流暢なガイドがしゃべっていて、その集団の中の人が写真を撮って、一度注意されたのだが、そのあとまた写真をとったのだ。そのときの監視員からの注意は、これまでに見たことがないくらい、激しいものだった。ヴェネチアとフランスの歴史を彷彿とさせるような、もちろんそんな歴史意識の問題ではないことはわかるが、攻撃的なものであった。

0924_4なんやカンやあって、牢獄の見学まで結局フルコースの見学となってしまった。従って、歴史の勉強は、またの機会に行うことにしようと思う。細い路地を入っていったところに、魚の美味しい店があるということだったので、入る。たぶん、夜になるとかなり高くなってしまうので、ランチをと考えたのだが、それでも内部で食べる人は少なく、もう一組がいただけだった。

09242料理はごくごく繊細な前菜と、飛びきり美味しい魚料理だった。ズキーニの花の中に、これまで食べたことのないような、クリームチーズが入っていて、周りのカリッとしたものとの調和が素晴らしかった。09243


魚はスズキを簡単に焼いたものだったが、ソースが淡い感じで、きゅうりとの取り合わせがうまく合っていた。

このあと、いくつかのオプションはあったのだが、ティントレットの墓のある教会など、どう観ても、このあとの時間からして間に合わない距離にあった。Photo_8そこで宿のそばにあり、ほぼ毎日散歩コースに当たっていて、趣のある館のグッゲンハイム美術館へ向かうことにした。

毎日、ルネッサンスばかりだったので、最後に現代へ戻る必要があった。ペギー・グッゲンハイムがニューヨークでの生活を切り上げて、娘と一緒に過ごす場所として、世界中でどこが良いのか、と考えてここが選ばれたのだと思われる。2ポラックは、やはり特別扱いで、一室が与えられていた。

美術館の最後の部屋に、1枚印象的な絵があった。U.ボッチョーニの少女を描いた線画だ。彼には「未来派」という先入観があったので、作者が違うのではないかと思えるほどだった。家族を描いたシリーズの1枚らしい。個人蔵となっていたので、今後観ることはできない1枚だろう。カンディンスキーにしても、同じように、具体的なものを描いても、相当に素敵な世界や人物を描き出してしまうのだ。またいつか、もう一度観てみたい1枚である。

0924_5夜には、クラシック・コンサートを予約していた。右の写真は、ヴィヴァルディが指揮者を務めていたピエタ教会であるが、ここをはじめとして、本島の数か所で、毎夜コンサートが開かれている。宿のすぐ近くで、朝のうちに予約を済ませておいたのだ。曲目は、やはり、ヴィヴァルディの「四季」、そして、バッハの「組曲2番」で、アンコールに1曲。

0924_6教会の建物は、祈りの音がグワングワンと響くように作られている。そこで、その共鳴を打ち消すような演奏が求められるのだ、と娘に教えられた。席の座り心地は極端に悪かったが、それを我慢してでも余りあるほどの、臨場感あふれる演奏だった。最後の夜にふさわしい、音楽だった。

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2011/09/23

ヴェネチア本島の縦断

3今日は、ヴェネチアの本島を縦断して、街の成り立ちを建物を中心にして観てまわることに決めた。アカデミア橋を渡って本島に入った途端に、前も後ろも、湧いて出るように、観光客に囲まれてしまった。Photo

過去、千何百年に渡って、交易商人を引きつけ、さらに独特の文化と文明を築いて、世界中の人びとを引きつけて来た街がここにあると実感した。

0923それにしても、サンマルコ広場に着く頃には、狭い路地では身動きができないほどになった。店の多様性も驚くばかりで、どこにもあるような、相変わらずの観光客目当てや、職人工芸品を売る店はそれなりに客を集めていることは確かだが、Photo_4この多くの観光客の大半は庶民層であるのだから、価格の競争も激しさを増して来ているように見受けられる。

0922_2ブランド戦略についても、富裕層を狙うことも必要であるかもしれないが、それだけではこの人波として押し寄せてくる観光客にはに勝てないと思われる。

0923_2サンマルコ広場では、歴史があって名高い、フローリンなどの喫茶店を見物するだけにして、早々に今日の目的地のリアルト橋へ向う。ちょうどフローリンでは、この古さを映像に取り入れようとする広告や宣伝の映像を撮っていた。そして、楽団が広場へ向かって演奏しており、喫茶店という趣からは相当離れた存在と化していた。かつて、J.J.ルソーたちが寄ったころのフローリンに、できれば入りたいと思った。

0922_20観光客の波に押されながら、リアルト橋へ着く。この観光客に対して、地元の人でも反感を持つ人たちが居ることは察するところだ。写真のような、書付が裏のポスターなどに見られた。

0923_3シェイクスピアが「ベニスの商人」を描いた中心地がここで、取引所の意味ですでに、リアルトという名称が使われていた。この場所で、金を借り、返さねば、肉と引き換えるという証文が書かれたのである。

0923_5リアルト橋を越えると、聖ジャコモ教会があり、この辺で銀行というシステムが発生したことになっている。 

Photo_9この庇のしたで、当時の世界金融がやり取りされていたのだ。まさに、東西を結ぶ国際的な市場というものが発生したところだ。交易商人たちがここを闊歩して歩いた中世を想像してみた。0923_4市場には、公正を図る裁判所がかならず附属するのだが、その象徴とも言うべき、女神像が建物の角に立っていた。魚市場もかなり古い。

09232昼食は、リアルト橋の近辺の店を考えていたのであるが、穀物倉庫や商館を観て歩いているうちに、袋小路に迷い込んだり、運河に出て行き止まりになったりして、ほかの観光客に道を聞かれたりしているうちに、かなり魚市場や商店街から離れてしまった。

0923_6近くでレストランの固まっているところをみつけ、ラ・ズッカ、かぼちゃという名前の店にはいる。テラスもあったが、中に入ると、運河沿いの席を作ってくれた。注文をしていて、大方はメニューを観てわかったのであるが、飲み物を聞かれて詰まってしまった。09232最後に、水の種類を聞かれたのだが、聞き返したら、奥から日本人の女性が出て来て、エプロン姿で親切にも応対してくださった。

0923パスタとラザニアが美味しかった。とくに、ラザニアには微妙な味が良く出ていて、今回の旅行の食事のなかでも、かなり上位の味であった。

0923_9そのあとは、地図のまったく役に立たない、路地の世界に足を踏み入れてしまった。けれども、南へ南に進んで行くと、その探していた建物が現れて来るから不思議だ。道は人びとを発散させると同時に、まとめる力も持っているらしい。

0923_10S先生に推薦していただいた、聖ロッコのスクオーラにある、ティントレットの壁画群を観ることになる。一階と二階に展開するこれらの絵画は、並大抵の意識では成就できないほどの、仕事量だと思われる。この空間を提供したスクオーラの推進力はかなりの実力だと思われる。

今日注目した絵は、二つある。というとかなり効率が悪いように思われるかもしれないが、あまりに多過ぎてどれを選んで良いのか実際のところは、わからないのだが、ティントレットにこだわるならば、とりあえず二枚にしておこう。

0923ひとつは、二階の角に掲げられていた、最後の晩餐の絵だ。これまでの常識的な描き方に従えば、最後の晩餐では、キリストを中心とした大きなテーブル席を思い出す。ダ・ヴィンチの有名な絵でも、真ん中にキリストが配置され、左右に、弟子たちが展開するという、構図を崩したことがない。これに対して、このスクオーラの最後の晩餐は、斜めにテーブルが並んでいて、斜めの位置から描いているのだ。なぜこのような配置にしたのかは、明らかである。それまでの、常識的だった 絵画を引っくり返したいと考えていたからである。

時代と世界と、さらに、人々の考え方を変えたらどうなるのかということが、絵として描かれて、教会関係者たちに受け容れられて行ったことを示している。ヴィジョンということが、もし描かれるとしたら、このような過去の情報の組み替えがどうしても必要だったことがわかる。

時代が変わるということを、過去の情報の書き換えという手法で成し遂げている点で、時代を十分に変化させていると、考えることができる。過去の情報を書き換えて、過去から現在への同一性を保つことで、ヴェネチア共和国の伝統というものを繋いできていると考えられる。

この作業は、並大抵の仕事ではない。それまでの伝統を打ち消して、そのうえでさらに繁栄の物語を繋いでいかなければならなかったからである。ティントレット中に、ある時期から、明瞭にこのような歴史的な、とでもいうような、自覚が現れているのを観ることができる。

さて、もう一枚は、キリストの磔刑というかなり大きな絵である。壁画に近いほどの、大きさだ。しかも、かなり完成度が高くて、色彩の配合や塗り方に至るまで、洗練された絵となっている。

特別の部屋であって、この絵は、多くの寓意が隠されていると思われるが、勉強不足でどこまで理解できたかは定かではない。目立ったのは、ピエタにつながる文脈で、ティントレットはキリストに対するマリアの感情をかなり人間的な位置に引き下ろしている点だ。支援的なモデルケースからすれば、マリアがキリストの支援者として、ワンアップする位置から支援するのが過去の解釈であったが、それに対して、この絵の場合には、両方がダウンする構図で一貫している。同等たいぷのモデルであるということなる。

この構図は、磔刑のしたで嘆き悲しむマリアよりも、もう少し感情を表に出したものだと思われる。それに対して、いつも現れるのは、キリストを抱きかかえる第三の人物である。これがマリアである場合が多く、先日のロンダニーニのピエタのように、圧倒的にキリストとマリアの関係として、この期のキリストを描いてしまうことは可能である。

Photo_5けれども、ここはもう少し推理を入れることも可能かもしれない。第一の推理は、キリストの社会的な位置づけである。マリアとキリストだけの関係に閉じ込めてしまうと、それは家族関係で完結してしまうことになるのだが、それに第三者を入れることで、社会性を呼び込むことが可能になる。

Photo_7今日の最後に、本島で車の見ることのできるローマ広場へもまわってみた。ヴェネチア人も車を持っているのである。ただ、本島では使う場所がないというだけだ。

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2011/09/22

ヴェネチアでも「ピエタ」

0920_16三日目の朝も、快晴で、旅日和だった。テラスにての食事も今日で最後かと思うと、毎日届けてくださった係りの方にも、なんとなく情が移るのだ。いつものドォーモの鐘がなってほどなく、ドアをコンコンと鳴らしてせわしなく入って来て、朝食を届けてくれた。0920_17贅沢だと思えるのだが、それはそうではなく、ホテルの部屋が狭いので、却って部屋で朝食を摂って欲しかったらしいのだ。それが証拠に、当初、15ユーロだと言われていた値段も、10ユーロに割引されていた。

0920_18昼には、ミラノの中央駅へ着かねばならないので、朝の散歩と言っても、それほど遠くへは出られない。これまで近づくのは夜だけだった、ドオーモの天辺まで登ってみようということになって、スカラ座の横へ直に出る道を、ようやく昨日習得し、今日はその近道を通って、スカラ座の裏から広場へはいる。

0922ドオーモの外見は、コンクリートの塊のような薄ペラな感じだと当初は思っていたが、それは石というものに対する見識がなかっただけで、中に入ってみると、ゴシック建築特有の天にのぼっていく象徴的な作り方を行っていることがわかる。0922_2すべて大理石でできている。屋上に至るまで、内部からみると、重厚な感じがあるのだ。

一つの頂点に向かって複数の頂点が組み合わさっていわば、加速度的に建物自体が急激なピラミッド構造を示している。そして、観光客もその先端を目指して登る。人間はこのような加速度的な構造がトコトン好きなのではないかと思ってしまう。0922_4とくに、この景色をカメラに納めたいという人びとが多く、ほとんど頂上にまで登った人は、だいたい立派な一眼レフのカメラをもっていたのは、偶然なのであろうか。

09225景色自体はミラノの全景で、どうということはないのだけれども、やはり頂点ということにこだわったつくりなのだと思われる。09226


いくつかの頂点がそれぞれ何かを指し示しているかのような世界を演出していた。

娘が日本のソニープラザみたいな、デザイン・スーパー・マーケットというところに行きたいというので、お付き合いする。手作りの陶器や、台所用品がたくさん並んでいる。ここでも文房具では、モレスキンと、たいへん手触りの良い、LEGAMIのノートが占めていて、日記帳のトピックス用手帳をちょうど探していたので、こちらの目立つ、赤のものを購入する。見た目よりずっと手触りが良い素材で作られている。

0922_5さて、のんびりとしていたので、時間が迫って来てしまった。ホテルに戻り、荷物をもって地下鉄の駅からミラノ中央駅へ向う。木漏れ日が、そろそろ秋を感じさせる。何とか15分前には、ヴェネチア行の特急へ着く。0922_6ちょうど昼食時間だったので、駅のバールで丸い大きなパンにチーズと生ハムを挟んだものを、注文して、娘はさらに甘い菓子パンも購入して、席に着く。番号が飛び飛びなので、席を見つけるのに苦労したが、無事にインターネットで取った席に座り、車掌さんの検閲も無難に過ごすことができた。

0922_7窓の景色には田園風景がすぎて行ったが。0922_9自分の好きなものが目に入るらしい。09223_2


葡萄畑がかなり多くを占めているという印象を持った。鉄道の旅の最後には、海に出て、その中を進む汽車という構図である。ヴェネチアに来たのだな、という感慨を持った。

0922_8終点のサンタルチア駅を降りて、駅舎を出ると、目の前がいわゆるヴェネチアの大運河で、ここから定期船にのって、宿のあるアカデミア橋まで下って行った。途中、古い建物で歴史を負った場所が次から次へと現れる。その建物の間には、小運河が流れ出て来ていて、水上タクシーやゴンドラなどがそこから出てくる。0922_10


かなりの混み合いを見せるが、衝突寸前で、体を交わしていく。リアルト橋を過ぎ、運河に面した広場を観ながら、ようやくアカデミア橋を観る場所に出る。ここまで来ると、乗客も少なくなっている。

0922_11橋のたもとのバールを左にみて、綺麗な石畳の小道を、アカデミア美術館沿いに下ると、すぐ宿がわかった。入り口も小さな小ホテルという雰囲気だ。0922_12部屋にはいると古い家具で統一され、改修したばかりのトイレ回りがあり、すっかり居心地の良い空間に、わたしたちははまることになった。

アカデミア美術館が、7時過ぎまで、観覧できることがわかっていたので、移動の疲れも何のその、ヴェネチア派が集められた空間へ飛ぶことにする。昨日のブレラ絵画館の続きにすっと入っていった。

0922_13ティントレットと、 ヴェロネーゼの大作ぞろいだった。ティントレットの聖マルコシリーズも、他の画家と異なり、楽しめたが、やはり今日も一番の関心は、「ピエタ」場面である。昨日のベッリーニのものと比べて、ティントレットのピエタは、神を描くというよりも、人間としての受難を憐れむという場面を描いている。

0922_15ティントレットの解釈は、マリア自身も失神してしまう、という意味を付け加えることで、他の画家と異なっている。神との同一化という方向性を失神という表現におきかえているのだ。これまでのマリアが支える形式なのか、マリアが支えられるのか形式に対して、両方ともにダウンしてしまう形式が現れることになった。

0922_16何がここで変わったのか、ということは、ひとつの系譜の考え方としては正当なものだと思われるが、ヴェネチアという都市でこのことが生じたことは、重要な意味をもっていると思われる。都市に住む人びとがこのような芸術を求めたという現実があったと言えよう。

0922_17夕飯は、散歩に出て、グッゲンハイム美術館前の運河沿いにある飲み屋さんで、軽く済ませる。

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2011/09/21

ピエタの多様な解釈

0920_15今日も身体にとって、ハードな一日となった。昨夜、時間が間に合わなかった、スカラ座の博物館を訪れた。われわれと同じように、オペラファンで無くとも、世界各国の団体ツアーの格好の巡り場所であるらしく、次から次へあらゆる言語が飛び交う空間を現出している。

0921_4たとえば、いくつかの間があって、団体客がそれぞれの部屋ごとに、集まっている。日本人を案内するガイドの話をイヤーホンで違う言語に、翻訳しながら、聞いていると言った具合だ。

0921_5オペラ通の人びとは、団体客のこない、さらに上にある、ライブラリーで本を検索し、知識の蓄積に余念がない様子だった。ロッシーニなどの自筆手紙など満載であった。人形には、舞台で使われた、魔笛などの衣装が付けられ、展示されていた。

0921_6スカラ座ツアーのもう一つの呼び物は、練習風景を聴かせてくれるサービスだ。リハーサル前には、劇場の席に案内され、劇場の生の雰囲気を味わうことができた。そのうち、席にガラス窓が取り付けられるころには、指揮者が現れ、音声チェックの機械が調整され、舞台に出演者たちがラフな服装で現れる。

今晩の出し物は、貴族の男性が女性と会って、出かける場面から始まるらしい。同じ場面を二回ほど繰り返していた。

リハーサルの舞台には、ある種の組織論的力学が働いている。わたしはむしろこちらに関心があった。つまり、なぜリハーサルが必要で、リハーサルでは何が問題になるのか、という点である。わたしたち放送大学のリハーサルと同様で、一人の演技から、複数の人の演技、さらに客が入るときの演技には、合わせる基準が異なる。たぶん、タイミングが最も重要になってくるのだ。シナリオもあるのだが、シナリオに載せることのできないことが、リハーサルの対象となるのだ。

0921_7次に向かったのは、徒歩十分ほどのところにあるブレラ絵画館で、ここには後期ルネッサンスのヴェネチア派の大作が集められているとのことで有名で、ベッリーニやティントレットなどを中心に観て回る。それにしても宮殿の壁一面を使ったような大作が、その状況そのものを大きな状態でみることができるのだ。このような大きな部屋自体、ひとつの文化環境だと思われる。それぞれ絵のまえには、椅子が用意されていて、じっくりと観ることができる。

注目したのは、サンマルコ広場の絵や聖マルコの絵もさることながら、キリストの死に対するマリアの「ピエタ」を題材とした絵だ。昨日からの続きである。キリストとマリアの関係についての考え方が、ここには如実に反映されている。

ベッリーニの場合には、夫婦の関係を重視した人間的な展開を中心に描かれていることがわかる。ティントレットの場合には、夫婦関係も描かれているが、さらに弟子との関係や世俗との関係が描かれていて、さらに複雑な人間関係が描かれている。

ここに至って、中世以来の宗教的な意味付が少し背景に退いて、人間社会の物語としてこのピエタが復活していることが現れているのではないかと、思われる。それにしても、マリアの顔色の悪さは、ヴェネティア派の場合には、特別だ。どう観ても、聖なる家族として描かれてはいないことが理解できる。それでは、宗教関係がスポンサーでないとすると、人間的な、これらの絵のスポンサーはだれだったのだろうか。これらの楽しい推理をさせてくれる空間が用意され、いつでも開かれているのは、たいへん良いことだと思われる。二階にある絵画館を出て、したにおりてくると、美術大学が入っていて、大学らしい活気ある空気が流れていた。

0921_8絵画館界隈には、オープンテラス形式のカフェが並んでいた。その一角に陣取り、昼食を食べる。オフィス街にも近いらしく、コーヒー一杯だけで、読書を楽しむOLも見かけた。

0921_9娘の関心ある雑貨・子供のオモチャを観て回ろうとということになり、都心部をはなれて、新興の再開発が行われている、ガリバルディ地区へ行く。0921_10ここでハイテックという、日本でいえば、東急ハンズや無印良品のような文房具と雑貨の店がある。古い家を改造していて、地下室も使って、素敵な空間を作っている。09212このような趣味趣向は、世界共通のものがある。ここでは、イタリア製文具の代名詞的なモレスキン社のシネマ・ノートとラベル・ノートを購入した。

0921_11そう言えば、ガリバルディの駅で、娘がチョコレート屋を観ていたら、「ここのは高いからやめなさい」と助言してくれた、年寄りの女性がいて、その女性が、このハイテックにも現れたから驚いた。類は類を呼ぶの類いなのだろうか。うちの母親のような性格の人も、世界共通であることにびっくりしたのだった。

0921_12今回の旅行で、中心となった物語がいくつかあって、19世紀の小説のモチーフをなぞってみようということも、話していた。今日の午後は、買い物の合間を縫って、二つの教会を訪れた。わたしたち日本人は、アミニズム的な宗教観のもとにあるので、仏教徒でありながら神社に詣でることも気にならない。同じように、教会に入るのも、小さなときから習慣化している。西欧の都市にある、教会の静かで自省できる空間の存在は、それだけでかなり魅力的だ。0921_13B教会とC教会では、そのような時間をそれぞれ1時間ほど持つことができた。もっとも、教会を出ると、すっかりまた世俗的な自分に戻っていて、このこと自体反省することしきりであった。C教会には附属の書店があり、須賀敦子が関係していたことでも有名である。

0921_14この日の最後になって、道に迷ってしまった。ペックという食料品店がどうしても見つからないのだ。街の人びとに聞くと、きりっとした若い女性の方が、親切にも、近くまで案内してくださった。地図上のインデックス線を見間違えていたらしい。娘がバルサミコ酢やかなり臭い匂いのチーズなどを購入していた。

0921_15夜の鐘の音が街を流れながら、今日一日が暮れて行く。

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2011/09/20

支援することと支援されること(ピエタ)

0921今朝は、朝の七時半に近くのドォーモの鐘が鳴り響き、頼んであった朝食が、部屋に運ばれてきた。この古い建物のテラスで食事を取ることになった。朝から快適な一日が始まった。生絞りのジュースが美味しかったし、パンも素朴な味で、このあと、この種のパンが毎日出たが、この宿のパンが一番おいしかった。

0920今日の目的は、念願のロンダニーニのピエタを観ることと、ミラノを舞台とした19世紀の小説の跡を辿ることにあった。ダンテ通りを北に、徒歩5分で、スフォルツア城へ着く。城周りを一通り観たのちに、中へ入るが、思った以上に収集品が充実していて、なかなか目的のピエタ像にはたどり着かない。

0920_2ロンバルディア地方は、昔から交通の要所であったために、多くの石像が残されている。とくに、興味を引いたのは、唐草模様となった葡萄の意匠が変遷して行くのが面白かったことだ。0920_3

それから、縄文土器と弥生式土器の時代が、日本にあったように、ロンバルディアにも、粗っぽいロマネスク様式から、ロンバルディア派が生じて洗練されて行くのを見ることができる。

0920_4問題は「ロンダニーニのピエタ」だ。ミケランジェロの最晩年1564年の制作で、最後死の三日前まで作っていたと言われている。他のピエタの解釈には二つの解釈が並んで来たと言えよう。一つ目はピエタそのもので、マリアのキリストに対する哀れみの情が表現されたものだ、という解釈で、最も古典的なものである。この場合、マリアの情をキリストへ注がれるものとして、いかに写すかが問われることになる。ところが、ミケランジェロは最初の構想を翻して、キリストの顔の位置をマリアの右肩へ移動することになる。そこで、にわかに、ピエタの意味が異なるものになったと言われている。

09204_3二つ目は、キリストを中心に置いた解釈があり、マリアを背負っているキリストという解釈があり得るだろう。クライアントは、精神的には、支援者を逆に支えている面をもっている。支援論的にいえば、キリストの位置から、マリアの位置をワンアップしたと解釈できるかもしれない。

09208三つ目が微妙な位置づけだ。ミケランジェロが第一構想から第二構想へ移る過程で、これまで二つの別の像を描いていたミケランジェロは、マリアの右肩にキリストの顔を描き始める。これによって、クライアントと支援者が一心同体となる。あたかも、二人の像が一人の像の如くに一体化する契機が訪れることになる。これは、協力関係というものの、一つの理想を表現している。

092010さて、問題は第一構想と第二構想との関係になってくる。なぜミケランジェロは当初の構想を捨てて、第二構想へと移行したのか。上記の第三の理由があるからなのだろうか。けれども、右腕が残されていて、未完の状態であることによる、この作品の力というものがあるように思われる。第一構想があり得たから、第二構想があり得たのであって、両方の動的な過程そのものが、このピエタの作品の力なのだという解釈はどうだろうか。

09206ベンチに座って、1時間ほど眺めた。「support」ということを考え出したら、この像から離れることが出来なくなった。どこかに書く機会があったら、再挑戦してみようと思う。

0920_5さて、途中、多くの彫刻があったのだが、そして写真のような他の作者のピエタ像などもあって、それらはわたしたち素人が見ても十分に2時間はかかる行程だった。が、それは日記に任せておいて、一気に問題の像へきてしまった。0920_6娘は別行動をして、途中の展示物で、皿に描かれたマリア像が気に入ったらしい。25歳以下は入場料無料という制度があって、それも利用したとのことだ。

0920_7当初の予定を大幅に超過して、まだ半分も終わっていないことに気づき、昼食を食べたあと、もう一度戻ってくることにする。お昼は、昨夜の散歩のときに目星をつけておいた、コンヴィヴィウムというレストランへ入る。まずはリゾットとピザを食べることにするが、前菜あたりでお腹がいっぱいになってくるほどの量であった。ワインはTという銘柄で、たいへん美味しかった。名前を教えてもらったのはよいが、特別な醸造所らしく、どこの酒屋へ行っても、置いてないと言われ、ついに手に入れることはできなかった。

0920_8スフォルツア城の収集品では、絵画も後期ルネッサンスを中心にして、充実している。偶然なのか、工事中でこの16世紀の部屋に最初に出て、それから前後の時代を順に見ていくような通路構成になっていた。これから始まるヴェネチア派の前哨戦が始まったという感じである。0920_9やはり、ヴェネチア派のティントレットの肖像画はすこし違っている。

その後、陶器博物館や楽器博物館などを回ることになるが、それも全体から見れば、一部に過ぎず、いくつもの美術館・博物館で構成されていて、すべての開館状況を把握している人もいないらしい。0920_12それに、お昼の休憩時間が長く、途中で数時間入ることができないところがあるのも、要注意である。

0920_10最後にひとつ、陶器博物館を回っていたら、18世紀ウェッジウッドのクリームウェアで出来たカップ&ソーサーを見つけた。ヨーロッパの貴族は、このようなところは、抜け目ないところだ。

0920_14最後は、歩き疲れてしまい、城のちかくのカステロというバールで街を眺めながら、一休み。その前から、ミラノの街見物のツアーバスが出ているらしい。0920_11どのバスも二階建てで、満員だった。

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2011/09/19

経済衰退と文化の深い関係

0919北イタリアのミラノに来ている。今回は、「社会の中の芸術」という授業科目の関連で、さらに、社会的論理を芸術の中に呼び込んでいる作品と考え方を収集しようという試みだ。もっとも、自費研修であることから、勉強だけではなく、社会全体を観察しようという、娘を伴った気楽な旅行となった。

とりわけ、以前から気になっている点があった。文明の栄えたところでは、経済衰退と文化・芸術との関係が深く現れてくることが多いという事象だ。英国の衰退論には、多くの議論が存在することは知っているのだが、他の文明国ではどうなのだろうか。

イタリアではどうなのだろうか。ローマ帝国衰退と文化との関係は歴史ではよく取り上げられるが、その具体的な現象は、都市文化にはどのように現れてくるのだろうか。なぜミラノに来たのかといえば、それは以上のことがあったからなのだ。さらに、ヴェネチアでは、貿易衰退期がルネッサンス期にあたっているということもある。

けれども、それにも増して、もうひとつの旅行の理由があった。それはいつも、放送大学の評議会で隣の席に座るS先生が、哲学から観た芸術について一連の作品をお書きになっていて、とりわけ印象的な評論に、「ロンダニーニのピエタ」に関する作品があり、それを読んで、一度はミラノを訪れなければと考えていたからだ。

「ミラノとヴェネチアは初めてですか」と先週の評議会でも言われてしまった。「ピエタはもちろんですが、ティントレットとベッリーニも観て来たほうがいいですよ」とちょっと呆れ顔なのか照れ顔なのかなさって、細かいことを教えていただいたところだった。先生は、20年程まえに、3回ほどいらっしゃったとのことだった。

0919_2さて、今日は、成田からミラノへの直行便だったにもかかわらず、飛行機が大幅に遅れて、マルペンサ空港に着くと、空がすっかり闇に包まれてしまっていた。空港から鉄道に乗って着いたカドルナ駅で、空腹だったので、さっそくピザを頬張った。駅から10分ほどのところにある宿は、18世紀の古い建物群がならぶミラノの中心街で、一階には本屋や美術品の店が入ったマンションの2階、3階、4階を占める、いわば「民宿」という雰囲気のホテルだ。

0919_3日中はドアが開いているのだが、夜になると頑丈な扉が閉まってしまって、初めて来た者には到底入ることができないようなところだった。表札には宿の名前が書いてあるが、扉は固く閉まっていて、周りの店もはすべて鎧戸が降りている。外からは、到底ホテルのようには見えない。

0919_4ところが、偶然友人を訪ねて来た親切なミラノっ子で、歴史家の面持ちのある方が現れて、内部と連絡を取ってくれた。連絡をとって、扉の内部へと導いてくださった。この建物は歴史的な建物らしく、Mercantという名称がついているところを見ると、昔は商人の館だったところかもしれない。それにしても、もし入れなかったら、どうなっていたのだろうか。

0919_5フロントの女性は親切で、部屋を案内して、ダブルの部屋をツインにするか、それとも、初めからツインの部屋にするか、など面倒を見てくれた。最初に案内された部屋が、4階のテラスに面した部屋で、部屋と同じくらいのスペースが自由に使え、しかも、朝食もここへ持ってきてくださるというので、決めることにする。

0919_9夜の散歩として、歩いて5分くらいのところにある、街の中心のドォーモとスカラ座へ行き、外見だけ観て帰ってくる。ちょうどスカラ座が跳ねたところらしく、楽器をもった団員たちが帰宅するところだった。産業や商業は今いちの状態だが、文化は盛んな街だ。0919_7

文化に関心がなくても、街を散歩すれば、スカラ座のようなところに当たる。プログラムも、柱に掲げられていて、天井桟敷に通うツウたちがいかにも現れそうな街だ。

0919_15古い町並みをダンテ通りをさかのぼり、明日行く予定である、0919_16スフォルツア城へ向かってゆっくり歩き、宿に戻った。



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2011/09/17

ゼミの新しい拠点

放送大学の東京文京学習センターが、新しくなった。元の筑波大学の茗荷谷にあった建物をすべて壊して、新しく作り直したのだ。

10月から、ゼミで使おうと申し込んでいたが、9月にも使うことができるということなので、第10講義室を借りることにした。面接授業もまだ始まっていないし、開校のセレモニーもまだなので、サークルの一部と、わたしたちのようなゼミが使っているだけである。

茗荷谷は、ひところは学生街というイメージだったが、近年大学生よりもマンション住人のほうが目立ってきた。それから、印刷工場がたくさんあった街だったのだが、それもマンションに変わってしまい、今はやはりソフト系のサービス業が多くなっているような気がする。

地下鉄の駅を降りると、二年前までは、まだ 同潤会女子アパートビルが残っていて、モダンではあったがオールドモダンの雰囲気があった。並木道もそれに似合っていたのだが、今日行ってみると、駅前のセリでた雑居ビルも、歩道分だけ退いた近代ビルになってしまった。

文京の学習センターへ入っていった第一印象は、ゆったりしているということだった。一階のエントランスには、椅子がバラバラ置いてあるだけで、何もないのだ。奥のほうには講義室があって、筑波大学の授業がすでに始まっている。また、図書室も共用で、こちらも学生がいっぱいだ。こんな一等地なのだから、ここに通ってきて図書室が利用できるのであれば、東京の学生は恵まれている。

二階は、放送大学がほぼ占有しているのかな。それでも、共用の講義室とゼミ室も申し分ないほどたくさん並んでいて、授業再開を待っているという感じだ。講義室は今流行りの、ガラス張りの部屋になっていて、明るいし、中がスケスケに見通せる。中で飲み物を飲んでいると、見付かってしまう。10月から、第一演習室から第三演習室辺りを専用に割り振られている。この小さな部屋からどのような観念や知識が立ち上がって行くのだろうか、思い描いてみた。

今日借りた第10講義室は、40人ほどの中規模の教室だが、机の配置はゆったりとしていて、廊下というのか、共通スペースの続きに設置されているので、なんとなく外から見られているような感覚をもってしまう部屋である。逆に考えれば、イベントなどのような見せる催しのときには、見栄えのする部屋になるだろう。

ゼミは、最終コーナーを回ったところだ。そろそろ、草稿の全体が見てくる学生が多くなっている。じつは、これからが論文の面白いところだ、と当事者たちは思いようがないだろうが、終わってみると、じつはこの時期に、自分の頭の中で、ぐるぐるといろんなことが回転していて、仕事場で他の人から話しかけられても、無視してしまう、心理状況にある時期だったことがわかるのだ。

という緊張感を揉みほぐすためには、美味しい物を食べるに限るので、久しぶりに播磨坂のパスタ屋さんへ、十数人で繰り出す。タイミングよく、奥のテーブルが空いていて、それぞれ好みのパスタを食べながら、雑談に精を出した。すこしは気分が晴れたでしょうか。

結局、周りが暗くなる頃、ゼミは終了して、互いの健闘を祈って散会した。

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2011/09/15

映画「うさぎドロップ」のドロップとは何か

「うさぎドロップ」という名前がどこから出てきたのか、それが知りたくて映画を観た。最初から細部にこだわって注意して観た。もちろん、うさぎは出てきた。主人公の一人であるりんは「うさぎ」が好きで、ぬいぐるみもうさぎだ。原作が漫画であるところからだと思われるが、イラストはたくさん出てきて、いたるところで、うさぎがオンパレードである。

ところが、ドロップは最後まで出てこなかった。原作には出ているであろうことは、推測できる。映画でも、最後の最後まで座っていると、dropという文字が一箇所だけ出てくるのだ。けれども、けっきょく、うさぎとドロップを結びつけるものは、映画には、一切出てこなかった。だから、今でもわたしのなかでは、この題名は謎のまま残されている。

映画「うさぎドロップ」では、とりあえず、題名は関係ない。そのまま観ても、問題ないと思われる。この物語は、一人のおじいさんが死ぬところから始まる。このおじいさんには子供がたくさんいるのだが、その上に、隠し子として6歳の女の子が残される。そこで、この子を誰が面倒をみるかということになり、もう一人の主人公であるダイキチが名乗りを上げる。そこから、代理性を主題とした物語がスタートする。

「所詮、代わりじゃん」という人物が出てきて、代理性という世間一般の観念を批判しようという、意図はかなりはっきりしている。一般の受け取りとは異なるかもしれないが、この映画は、そうゆう意味では相当観念的な映画である。

ところが、この観念の匂いを消そうとすると、かなりの感情移入を覚悟しなければならない。そこで演技過剰になってしまっている。不必要な感情表出を入れすぎたのではないか。たとえば、子供がふたりで墓のまえで、大声で泣くという状況はあまり考えられない。映画とはいえ、それはやりすぎだろう。

という風に、最初に批判しておけば、あとはかなり良好な映画だと思う。現代社会の、代理状況を良く描いている。本物の親子より、擬似的な親子のほうがリアリティがある、という状況は、今日の社会では、かなり現実感がある。

最初が肝心である。人間関係は出逢いによって、始まるから、このときになんらかの同意の存在が必要となってくるだろう。この物語の出逢いは、一人の死ということであるが、それが通常は、近づけるだけの必然性が必要となるのであるが、それがここではかなり希薄であるのだ。これは意図したものであるというところが現代的だということだろう。

代理性の必要条件は、親しく近しい関係よりも、すこし他人的であり疎遠な関係のほうが、成立し易いという特性を持っているという点にある。このような認識は、現代において出てきた関係であって、すこしまえまでは、このような描き方は行わなかったのではないかと思われる。

過剰が良い方向で出ているシーンもあって、りんを引き受けたのち、行き詰まったときに、女性雑誌のヒロインと踊る場面を夢想するシーンがあって、これはかなり映画的で飛んでいる。このような場面の転回がこの映画には必要であって、連続性を強調する泣きの場面は、全くいただけない。

この映画でどこがよかったのか、と聞かれたならば、それは映画の冒頭だ、と答えるだろう。主人公のふたりが並んで歩いていて、女の子を抱っこする。なぜ良いかと言えば、それは女の子を育てたことがあって、ふたりだけでどこか彷徨する経験を持った人であれば、この良さはすぐわかることである。

冒頭の疑問点に戻りたい。「うさぎドロップ」は想像力を刺激する。これまでは、これが一体のものと考えたから、考えが詰まってしまったのではないか。原作を読まなかったものの特権として、いろいろのことを想像して見ることができる。

たとえば、うさぎの形をしたドロップでは、うさぎの形が重要なのか、それとも、ドロップの甘さが重要なのか、と考えることも可能だろう。

あるいは、うさぎという比喩と、ドロップという比喩が別物であると考えたら、どうなるだろうか。あるときに、うさぎとドロップが出会って、もともと結びつくはずのないもの同士であったはずなのだが、うさぎの形がドロップの甘さを支え、ドロップがうさぎを支える関係が、この物語で成立したことを言いたいのかもしれない。

誰がうさぎで、誰がドロップなのかは、観てのお楽しみなのだ。

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2011/09/08

先端医療か、地域医療か

Photo_8川崎のチネチッタへ行く回数が増えている。時間があれば、やはりゆったりと、もちろん、気分の問題だが、観たいと思う。今日、グローバル化の最先端を行っていて、隣を歩く人が何語をしゃべっているのか、わからない街は数多くあるけれども、川崎ほど錯綜している街は少ないだろう。群衆の孤独と、都市の自由を味わうとしたら、この街を散歩するに限る。

M地方から帰って来てから、それこそあっという間に時間が経っていく。M地方では、ゆるやかに時間がすぎていたので、平静というのはこんなものか、と思っていたが、帰って来てしまうと、そんな時間感覚は、過去のものとなりつつある。平静とは、もっと忙しいものだったのだ。

Photo_9そんな中で、M地方をロケ地として撮った映画「神様のカルテ」が封切られた。この小説では、M平という信州らしい呼び方になっていた。これならば、M市も入るし、A野も含まれることになる。アルプスの山並み、黒と白のコントラストの城郭、適度な人口規模の小都市、そして比較的大きな民間病院を写すだけで、なぜこの街に日本中から人びとが集まってくるのか、という事情がわかってしまう。自慢しているわけではないのだけれど、この街の場合には、観光で集まるだけでなく、この地方へ住みたいと思っている人びとがいるということがあって、わたしの子供時代からの疑問だった。

北杜夫や辻邦生などが、学生時代をここで過ごしたという有名な例もあるが、わたし自身の経験でも、ここの大学を受験に来た人を、小学校時代に案内した記憶がある。山登りが好きだ、山が好きだという答えが帰ってくるのが不思議だった。

「神様のカルテ」は、M地方の大きな民間病院に勤めて5年になり、新婚一年目に当たる「イチシ」君が大学病院からの誘いを受け、進路に悩むが、一人の患者とのやり取りを通して、将来を決めていくという人格形成型ストーリーの「教養小説」映画だ。妻の「はる」とのやり取りも、心和むなあ。

イチシというのは、「一止」と書いて、ふたつを合わせれば、「正」ということになるらしい。このことは、盆地であるM地方の特徴を表していて限りないのだ。山に当たって、ちょっと考えるのだ。それは、かなり、当たっていると思う。この字に現れる「滑稽なまでの生真面目さ」という趣きは、いまでも健在だ。

映画のなかでは、つぎのように描かれていた。古い旅館を改造した寮を、友人が出て行くというので、「追い出し祭り」として、徹夜で飾り付けを作る。それに対して、その友人が笑ってしまえば、ユーモアということになるのだが、どうやら、ユーモアの一歩手前で引いてしまう。奥ゆかしいのか、真面目すぎるのか、いずれにしても突き抜け方に、スッキリさがない。何らかの引っ掛かりを必要としてしまうところがあるのだ。このような生真面目さを、ユーモアとして楽しんでしまえるところまで、あと一歩という感じである。わたしとしても、あと一歩手前で立ち止まっているところが好ましく、これを楽しみたいのだ。

このような「積極的な消極性」という性格は、九州や北海道の人びとから見れば、前世紀的で理解できないかもしれないし、M地方でもすべての人がこのような性格をもっているわけではないが、やはり昔からの、山に閉ざされているという地域特有の性質を具現しているところがあり、その結果として、このような性格が定着したのではないかと思っている。

主人公が悩む「先端医療か、地域医療か」というモチーフは、かなり現代的な問題だ。医療に限らず、あらゆる産業の問題でもある。技術進歩を重視するのか、それとも、サービスの厚さを重視するのかという、問題を孕んでいる。そして、この両方を狙うことができる地方は、日本の中でも限られてくるだろう。その意味でも、M地方の特色が出ていたと思う。

街の中心地から、城山のほうへ登っていく坂道は、わたしの少年探偵団時代には、それほど馴染みのあった街ではなかったが、合唱団のコンクールや学校訪問で訪れた時があって、この辺りにあった高校から、街を眺める景色と似ていて懐かしかった。この街に残っていたら、誰かと眺めていたであろう景色である。

Photo_10さて、「支援学」という学問分野が始まって、すでに四半世紀が経ってしまった。その間に、学問分野が広がったのはたしかだけれども、それ以上に、現実の広がりはもっと広がってしまったと言える。支援モデルの中核の一つは、明らかに「医師」モデルであったことは間違いない。クライアントに対して、どのような助けをおこなうことができるのかが本質的な問題であったのだ。

「神様のカルテ」は、一人の患者とのやり取りを通して、この「医師モデル」の痛いところを、間接的に突いている。この物語は、今後も姿を変えて、品を変えて現れるだろう。今後も、注目して行きたい問題だ。

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2011/09/06

白磁の二重性

すこし期間の長い旅行を計画している。と言っても、一週間だが。それでも出ようとすると、それまでに片付けなければならない問題が生じてきてしまう。とくに何がというわけではないが、図書館本の返却だけは、チェックしておかなければならない問題だ。この期間に、ちょっと物陰に隠れて忘れてしまう危険がある。

放送大学図書館からは、常時数十から数百冊借りているが、一般図書として借りる場合は、ルールにしたがって返さなければならない。たくさん借りる必要のあるのは、この大学特有の問題で、常にテキストを自前で書かなければならない、という事情があるからだ。次から次へ借りると同時に、次から次へ返さなければならない。

さらに、K大図書館からは、50冊借りることが許されていて、しかも6カ月も借用できる。図書館の天国のようなところなのだ。この図書館の席は、良く借りるし、また専門分野の図書が数多く揃っていて申し分ない。けれども、近年それでもこれらの分野を超えて発達する分野が数多くなり、そのためにこの図書館でも、不足を感じるようになってきた。

Photo今年度は、ここに強力な、W大図書館が加わることになった。こちらは、学部や専門図書館がそれぞれ貸し出し期間が異なる為に、さらに在庫管理が必要になった。さてそこでだが、相変わらず、前書きが長くなってしまったが、今日は、W大学の講義が前期で終了したので、それに合わせて、すべての図書を返却することにして、まだ夏休みのW大キャンパスを訪れた次第である。

Photo_2このW大の図書館の中でも、最もお世話になったのは、じつは教えている文化構想学部の図書館ではなく、社会科学系、なかでも洋書の充実しているT記念図書館であった。改めてこの建物を眺めてみると、正門の脇にあるにもかかわらず、あまり目立たない。メインの入り口とは異なるところからはいることもあって、入り口からして地味な感じだ。

Photo_3写真でわかるように、Y記念館と同じ建物なのだが、裏からはいる感じである。入り口には、特徴ある「石羊」がおかれていて、朝鮮李朝の墳墓の趣を持っている。

Photo_4ここに収められている洋書は細かなテーマ別に並べられていて、そのテーマの古い本から、新しい本へたどっていくことができる。研究者にとってたいへん便利だ。それに最大の利点は、品揃えがすこぶる良いことである。

Photo_5もっとも、大学Web検索から逃れているのだが。 12日が返却期限の本をどさっと持ってきた次第だ。

Photo_6また、ここは通常、大学院生が閲覧することになっているので、中央図書館ほどの混雑はないことも、気に入った理由である。授業の前に、早めにきて随分と利用させてもらった。

南門と正門の中間に位置しているのだが、その道を隔てた反対側には、タワービルが立っていて、ここの14階には、展望のたいへん良い食堂が入っている。学食を中心にチェーン展開しているらしい。日替わりランチで、スイス風ハンバーグを食べる。大きな窓からの景色も、おかずに加えることができるだろう。

Photo_7写真にあるように、眼下に先ほど寄ったT記念図書館があり、後ろに法学部、工事中なのが、政経学部で、後ろに演劇博物館、さらに奥に中央図書館が見える。空からみると、まだまだ、空間的には活用できる部分が少なくないと思われる。街に溶け込む大学という意味では、都市型特有の典型を示している。完成型としては、ロンドンのLSEのように、街そのものが、大学であるということになっていくのでないだろうか。またあと半年後に、お世話になることになろう。

今日の二つ目の訪問は、千葉市美術館である。ここで「浅川伯教・巧」展を開催している。李朝の白磁・青磁にどうしても目が行ってしまうが、それ以外にも吟味されて、収集された綺麗なものがたくさん集まっていた。綺麗ということは、均整がとれていたり、直線が美しいということではなく、むしろ、中心を外し、白にも様々な白がありうることを示しているようなものである。このような、手垢のついたものであるがゆえに、美しさにつながっているということが観て取れるものは、探そうとすると、なかなか現実には存在しない。

Photo_8なぜ浅川兄弟は、柳などが注目するまえに、早い段階で李朝磁器に注目したのだろうか。この点は、この展覧会を観た人びとが必ず持つ疑問だ。朝鮮に教師として渡って、日ごろ日常生活を営む中で、出会いがあった、という説明は説得的だと思われる。ある日、道具屋で、ということである。けれども、その後、窯の発掘にまで手を染め、かなりのところまで深入りしていくことになる。

白磁の透きとおった美しさは、表面にあるガラス状のものと、奥にあるものとが一体となって出てくるところにある。表とその下の層との組み合わせが重要だ。表面の明るさと、二層目の複雑さとが、日本と朝鮮の歴史とダブるにしたがって、その両方に通じた浅川兄弟のひたむきさに敬意を表すると同時に、彼らの考えに想いを馳せたのだった。

もう少し時間が欲しいというところが帰り時かもしれない。名残惜しいけれども、研究会の約束をしていた本部のゼミ室へ向かう。もちろん、いつものお菓子屋で、ロールケーキを買うことを忘れなかった。

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