2018/04/11

ブルーノ・ムナーリ展をみる・きく・よむ

Img_4206_2 この前から、ムナーリ、ムナーリといたるところで言ってきたら、なんと本当に展覧会が家の近くで開かれることになった。Img_4190 こんなことは珍しいのだが、このところわたしはサインを求められることが起こっていて、そのとき互いの名前を書くだけでは殺風景だと思い、言葉を添えることにした。そのとき、選んだのが座右の銘としている、写真のムナーリの言葉だ。もちろん、そのままでは芸がないので、少しは変えているのだが。

 

Img_4261_2 午前中、風がさっと吹き出したかと思うと、雨が伴ってきて、春の嵐になりそうだった。そこで仕事に精を出すことにして、今日は散歩を諦めていたのだが、昼過ぎになって、薄日が出てきた。Img_4185_2 すでに、2時過ぎとなっていたが、家を出て急行に飛び乗り、乗り換えなしに「新逗子駅」へ。ここから海岸通りの景色を眺めながら、20分ほどでバス停「三ヶ丘」の県立美術館に着く。

 

Img_4187_2 日本の抽象絵画展も同時開催されていたが、その奥に展示されている「ブルーノ・ムナーリ展」へ向かう。まずは、未来派としてのムナーリが現れる。卒ない真面目な抽象画が並ぶ。そして、有名な「役に立たない機械」が6体ほど、設計図を伴って展示されている。Img_4269 このあたりから、この展覧会の一つの山場である「陰と陽」シリーズ、そして具象芸術運動に加わる時代に入ってくる。「陰と陽」では、とりわけムナーリの本質的なことが描かれていると思った。

 

Img_4268 第1に、正方形などの基本的な図を重視している。第2に、基本から始まって、次第に複雑になっていく過程がつながっている。第3に、文脈や脈絡などの関係を重視している。第4に、構成そのものが重要で、内容や中心は二の次である。第5に、シンプルさのおかげで、絵本などの表現が豊かに描かれる。

 

Img_4266 絵本のシンプルさは、結局のところ、ムナーリの「コミュニケーションの時代」の象徴だと思われる。コミュニケーションの相手に、言葉多く説明することはかえって不親切であることは日常よく起こることだ。同様にして、シンプルな表現の方がコミュニケーション相手の理解を増す。むしろ、相手の想像力を引き出すような、あるいは想像力を使わなければわからないような表現の方が、「わかる喜び」をもたらすものだと言えるのだ。Img_4267 この辺は、じっさいに展覧会を見てのお楽しみ部分なのだが、コミュニケーションとは何かを教えてくれる。「どれほどの多くの人が月を見て人間の顔を連想するか」とムナーリは言っている。月のシンプルさが多くの人間の想いを生み出してきたのだし、同じ想いを抱く人びとを結びつけてきたのだ。欠けているところがあってこそ、コミュニケーションというものは成り立つ。

 

Img_4265 デザイナーはかならず、椅子のデザインを残すものだが、ムナーリの椅子はやはり「役に立たない」系の椅子だった。「短時間訪問者のための椅子」という表題がついている。この写真ではわからないかもしれないが、座面は薄く斜行していて、到底長く座ることができない代物だ。座ることができなければ椅子ではないのか、と問うているのだ。これも椅子なのだ。

 

Img_4235 2時間ほど、じっくりと展覧会を見ていたら、外の激しい風の音がいつの間にか止んで、代わりに逗子の海岸のいつもの波の音が聞こえてきた。Img_4248 春の海はまだ冷たく激しいが、サーファーたちは物ともせずに、海に漂っていた。犬の散歩はいつもみるように、欠かさずに行われ続けていた。夕陽が海に反射して眩しかった。

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帰りのバスを降りると、Img_4260 バス停前にドーナツ屋さんが出来ていて、ガラス窓の中のショーウインドウに魅せられて、そのまま店の中へ吸い寄せられた。Img_4259 シナモンときなこをそれぞれ一つずつ袋に入れてもらった。Img_4263_2

2018/03/24

学位記授与式が開かれた

Img_3961 朝、近くの弘明寺公園を足早に通り過ぎてしまったのだが、展望台を見上げると、青空に透けて、すでにかなりの桜が開花しているのが見えてきた。放送大学の学位記授与式が渋谷のNHKホールで行われる。横浜で東横線に乗り換え、渋谷へ出る。駅前の交差点を渡り、井の頭通りから山手教会の脇へ出て、坂道を登っていく。いつも途中にある喫茶店で、コーヒーを一杯飲んでから、渋谷公会堂とNHKの角を曲がって、ホールへ着くのだ。

 

Img_3967 横浜から、ちょうど30から40分くらいの道のりのところで、なぜか最近、喉が乾くようになった。東海道線で言えば、横浜から東京駅へ出た頃だが、一息ついての休憩が必要になっている。おそらく、このようなコーヒーによる休憩習慣は、老化の生理現象の一つだとは思われれるのだが、自分の中では、余裕を見せているという精神現象だと捉えたい。

 

Img_3975 ホールの前には、学位記授与式を表示する立て看が見られた。その前で記念撮影をするために卒業生・修了生たちが行列をなしていた。みんな笑顔で晴れがましい。「教員受付」のTさんとIさんが教員向けの受付を行なっていて、式次第と教員用のリボンを手渡してくれた。ホールの中では、今年も左右社の放送大学叢書コーナーができていて、わたしの叢書を編集してくださったTさんが詰めていた。1月に頼まれていた原稿が、叢書通信へ載ったということで、通信の入った封筒を渡された。

 

Img_3976 以前は、授与式の最後に必ずN響のメンバーによる室内楽が奏でられ、言葉だけに終始する儀式に彩りが添えられていたのだが、次第にこのようなことが簡素化されて、ほんとうは簡素化されるべきところはかえって残ってしまっている。儀式に付き物の音楽という必須の要素が消えてしまうのは残念なことである。儀式というものを「感動」一辺倒に染めるのではなく、多くの方を楽しませる工夫も残して欲しいものだが、それは今日的な風潮ではないのだろう。昔は遠くなりにけり。

 

Img_3981 昨年までは、四谷赤坂のニューオータニで懇親会が行われていたのだが、今年は新宿のハイアットリージェンシーに会場が移った。早くついたので、会場が開くのを待っていると、学生の方々が話しかけてきてくれた。懇親会は、大学人にとって数少ない社交の場だと思う。岩手の盛岡で面接授業を行ったときに、当地の同窓会の方々が夜に酒席を設けてくださったのだが、その面々がいらっしゃっていて、久しぶりの再会を祝ったり、左右社の叢書をわざわざ購入してくださった学生のかたが、何か書いて欲しいと持ってきたり、次第に懇親会らしい雰囲気が出てきたのだった。

 

Img_3986 会場内では、今年の修士修了の方がたは、おおよそ固まって懇談していたので、会の後で茶話会を催すことを告げておいた。懇親会の間は、みなさんはかなり自由に他の学生の方がたとの会話を楽しんでいた。

 

Img_3988 わたしも彼ら以上にかなりの社交を楽しんだ。3月に、放送大学の先生方の中でも尊敬している方々が同時に何人も退任となるので、その先生方を回って、お話を伺ったのだ。モンテーニュの「エセー」完訳を出されているM先生には、エッセイ的な文章を学生に勧めるときにはどのようにするのかを聞いてしまった。大学には、「論文を書く文化」が一応存在するのだが、それらはやはり客観性を重視する。Img_3993 現在は、実証主義の時代と言っても良いくらいだが、どう見ても実証主義には限界が多すぎる。けれども、もう一つの系譜があって、エッセイ的な手法を取り入れる場合があるのだ。Img_3996 それで、エッセイを書くにはどうしたら良いか、ということがたいへん重要ではないかと思うのだ。人文学には、エッセイを書く伝統があるのだが、社会科学では客観性に劣るとして、エッセイの価値は低い。

 

Img_3995 問題は、文章の表現力の問題だと思う。実証論文だって、表現力は必要とされると思うのだが、それが軽視されているような気がする。エッセイは、その力を呼び起こしてくれる。それで、M先生からの言葉で印象に残るのは、その文章が「自分のものであるとする」ような書き方がエッセイの本質にあるのではないかということだ。

 

Img_3997 恒例となっている、I先生の肝いりで集められた全国のお酒コーナーは、毎年欠かせない。相変わらず、多くのものは早く行かないとすぐ空になってしまう。日本酒では吟醸酒が全盛で、標準を抜くお酒が集まってきていると思う。そのような中にあって、今年美味しかったのは、甲州ワインだ。機山ワイナリーのメルローが出ていて、芳醇だがシンプルで飲みやすい、日本的できめ細やかなメルローだと思った。メルローの持つ濃厚さというのと異なる印象を持った。出雲ワインの白は、すぐに空になったらしく、香りすら残っていなかった。

 

Img_4006 懇親会の後は、卒業生のFさん、修士修了生のAさん、Kさん、Onさん、Okさん連れ立って(Gさんは奥様が待っているとのことで、すぐに会場を後にした)、ホテルの茶店を申し込もうとしたら、すでにすべての席が夕方まで満杯ということだった。ちょっと歩くが、近くの喫茶店で茶話会となった。Fさんは、この新宿から徒歩5分のところに住んでおり、Aさんは北海道の札幌から、Kさんは大阪から、Onさんは栃木からきている。また、Okさんはこの喫茶店の入っているビルに2年ほど勤めていたことがあるそうだ。この地区で、すぐに座ることができる喫茶店を見つけるのは、Okさんがいなかったら、できなかったかもしれない。

 

Img_4011 Fさんが修士の方々の論文を聞いて回る式に、雑談が進んだ。みなさんの話を聴きながら、大学が持つ「論文を書く文化」には特有の法則性があるのではないかと思ったのだ。一つは、好奇心だ。なぜそのテーマがその人の心を捉えたのか。この点を抜かしてしまうと、論文作成作業は砂漠を這いずり回ることになってしまうだろう。二つは、理解する喜びだ。ああそうか、というユーレカ効果がなければ、論文作成は辛いものになるに違いない。三つは、やはり発表の場を共有することだ。大学という場所が存在する意味は、論文発表における共有の場だという点が強いと思うのだ。学位記授与式で、学部学生・修士学生・博士学生の代表の方々がゼミや研究会での発表が最終的に論文作成を支えたと言っていたのが印象に残っている。

 

西新宿から、学生の方々は地下鉄に乗って帰っていった。わたしは少し歩きたくなって、今日の思いを反芻し、かつ冷ましながら、街を眺めたのだ。

 

2018/03/23

O先生と春カフェ

Img_1416 O先生と春カフェ。冬カフェの時期に、わたしが体調を崩してしまったので、延期していたのだ。パン日和「あをや」でランチをしようという冬カフェの予定に、ようやく追い着いた。横浜からJR湘南ライナー線に乗ると、一駅で新川崎駅に着く。Img_1406 ビルの二階をずっと数百メートルほど伝っていく連絡通路を抜け、JR南武線の鹿島田駅へ至る。昨日からの陽気で、マンション群にとおる桜並木が遠目に見えてくる。すでに満開に近い。今日の暖かさの中に、昨日までの寒さのありがたさが隠されているのだ。人生は混沌と退廃の中に、ようやく活路を見出す。有名な「荒地」の冒頭だ。

 

四月は残酷極まる月だ

リラの花を死んだ土から生み出し

追憶に欲情をかきまぜたり

春の雨で鈍重な草根をふるい起こすのだ

 

Img_1408 12時に待ち合わせをしていたら、O先生が少し遅れるという連絡が入ったので、これ幸いと、ドイツビールの小瓶をもらう。Img_1414 O先生は呑めないタイプなので、目の前で呑むには多少遠慮することにしているのだが、これほど春めいて、体調もようやく上り坂になってきていると、ちょっとアルコールが欲しいところだったのだ。鈍重な草根をふるい起こさねばならない。

 

Img_1411 「あをや」のガラス戸には、街の風景が映し出される。この店の常連さんが通り過ぎるときには、店の中へ笑顔を振りまいて行く。そのガラス戸に、店の外観をカメラに収めているO先生の姿が写った。彼は入ってきて、喉の渇きに、アップルタイザーとチョコクロワッサンで対応していた。Img_1419 続けて、彼は昼食で、BLTサンド(かな?)とマメマメ豆乳スープ。わたしは、同じスープにアボカドとクリームチーズのサンドを頼む。豆乳スープには、色々な豆が入っていて、小さな豆、大きな豆が擦りよせあって入っている。大きな方では、インゲン豆が柔らかく煮込まれていた。デザートには、いちごミルクと、アーモンドクリームの入ったいつものスフォリアテッレ。

 

Img_1420 金曜日なので、一応ウィークデイなのだが、店の1階も2階もいっぱいだった。お子さん連れが多かったといっても、2組なのだが、それから類推すると、やはり春休みなのかなと思うのだ。「あをや」の奥様が客の応対で忙しいときには、もっぱらO先生と大学事情の情報交換をして、世の中に似て非なるものや、非ならず似ているものがたくさんあることを認識したのだった。14時くらいになると、わたしたちだけになって、奥様が会話の輪に入ってきた。Img_1421 今日の話題の多くは、これからの人生をどのように生きるのだろうか、という楽しくもあり身につまされることでもありという、多くはシュムーザー的話題が多かったのだ。北海道の田舎に帰る可能性のある奥様と、蒲田からは離れることがないO先生との対比ということに話の筋は進んだ。結局、4時間もの長居をしてしまった。田舎パンを購入して、店を出る。

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Img_1457 Img_1456 Img_1455 散歩の途中でよる店を、「あをや」の奥様が紹介してくださった。この塚越商店街を突き抜けた先に、喫茶店「くもい(雲居)」があるそうだ。Img_1451 2年前に開店して、キャッチフレーズで「川崎にぽっかり浮かんだはなれ雲」という店だ。少し家や職場から離れるためには、余裕があって落ち着ける場所が必要だというメッセージが伝わってくる店だ。Img_1459 「くもい」という語感は、パステルカラーの明るいグレーを想像させる。多機能な小規模喫茶店を目指していて、女子会・ママ会・親子会を誘ったチラシがおかれていたし、さらに、夜にはBarがオープンしているらしい。お母さんと娘さんとでこの店を動かしている。

 

Img_1462 ところが、びっくりしたのは、O先生の食欲で、先ほどサンドウィッチとチョコクロワッサンと、さらにスフォリアテッレを食べたにもかかわらず、ここでも卵のサンドウィッチを食べたのだ。思わず、彼のお腹に目をやってしまったのだが、もう少し大丈夫なのかな。Img_1465 もう一軒、焙煎コーヒー屋さんが矢向駅前にあるというので、こちらの会計はわたしが引き受けることにして、「くもい」での勘定は彼が受け持った。ところが、矢向の店は夕方早くにしまっていて、ちょうど掃除の時間になっていた。またの機会ですね。

 

Img_1467 矢向からの川崎行きの電車は、通勤時間に入ってしまったために、混雑していた。日本のシリコンバレー候補の一つと言われながら、もう一皮剥けないと、単に労働力の集積だけでは追いつけないだろうと、雲の向こうのことを考えたのだった。Img_1471 文化として定着するまでに、どのくらいの時間がかかるのだろうか。また、5月に松本カフェを計画して、川崎駅でO先生と別れた。

2018/03/15

湯宿温泉への合宿に参加する

Img_1074 ヘニング・マンケルが描く「刑事ヴァランダー」シリーズの番外編に、ステファンという舌がんを患った刑事を主人公とした、佳作品がある。この「タンゴステップ」という小説では周りから周りから、物語が進んでいく構成が取られていて、なかなか核心へは入らないという方針を貫いている。この静かで、全体を横目で見ながらの展開は、好ましい物語を紡ぎだしているのだ。

 

Img_1077 たとえば、このようなエピソードが重ねられていくのだ。「以前ボローズ署にフレードルンドという老警官がいました」ステファンが話しはじめた。「固くて、融通の利かない、そのうえ仕事の遅い人でしたが、すばらしい捜査官でした。あるとき、いつになく機嫌のいいときでしたが、こういうことを言ったのです。私はいまでもはっきり憶えています。『手に明かりを持って歩くのだ。そして目の前を照らすのだ。足をどこにおくかを見るために。だがときどきは道の端のほうも照らせ。Img_1081 そうすれば、どこに足をおいてはならないかがわかる』彼がなにをはなそうとしたのか、私にははっきりわかりませんが、どこに中心があるのかを見るにはあたりを見なければならないということを言っていたのではないかと思います。いちばん重要な人物はだれか、ということを見なければならないと」「それをいまわれわれのいる状況に当てはめてみたらどうか? おれは今日話しすぎた。聞く側にまわりたい」

 

Img_1085 毎年この時期になると、昨年度と今年度との頭の中の切り替えが必要になってくる。大学という職場は、変に専門に偏っていたり、逆に専門でないところに時間が取られていたりして、上記のように、どこに中心があるのかが見失われてしまうこともよくあることだ。もちろん、頭と足と完全に引き離してしまうことはできないのだが、付かず離れずが必要になってくるのだ。ステファンのように、舌がんになると、人生が変わって周りが良く見えるようになるのだろうか。

 

Img_1079 この点で、毎年恒例となっている先生方との群馬合宿は、良い習慣となっている。半分はフォーマルな行事なのだが、公費は一切出ないことから、もう半分はインフォーマルな交流となっていて、良い習慣だと思われる。周りをみる習慣を取り戻す良い機会だと思われる。

 

Img_1056 昼に東京駅出発の「とき」を目指して、ゆっくりと家を出る。このゆったり感はやはり温泉であるということであり、また春休みにようやくはいるという季節感のせいでもある。新幹線では、定番の大和地方特産の柿の葉寿司を食べた。この甘酸っぱい味と、コンパクトな食感は、ときどき呼び起こされる感覚なのだ。

 

Img_1072 上毛高原駅では、H先生とAさんに合流する。連絡のよい猿ヶ京行きの路線バスで、30分ほどの旅程だ。H先生は、ちょうど現在NHKの「100分で名著」という番組に出演中で、わたしたちにテキストを配ってくださっていた。松本清張をめぐるエピソードが面白くて、昨日の教授会の帰りに一気に全部読んでしまった。226事件で、宮城へ入った中橋中尉の解釈がいくつかあって、謎として残っている部分の多いことがなかでも印象に残っている。

 

Img_1066 湯宿温泉では、取るものもとりあえず、まずは温泉に浸かり、まだ誰も入っていない新湯に、ぐっと身体を伸ばした。この数ヶ月の疲れとの別れを惜しんだのだった。それで急速に、血行が良くなり、すぐに空腹感をうったえ出したのだ。けれども、まずは公式行事をいくつか済ませなければならなかった。その後、ようやくにして夕食から懇親会へ入ったのだった。

 

Img_1068 ある先生は、このような会を称して、昔の左翼系の山奥合宿に喩えていたが、他の先生は、貴族趣味の温泉行楽だと言い、この温泉合宿への評価はまちまちなのだが、わたしにとっては、このインフォーマルなところに、この会の本質があるように思える。インフォーマルなところでは、日頃の凝り固まった頭もすこし解れて、複数の解釈が成り立つかのように思えてくるから不思議なのだ。Img_1058 そして、なによりも、昨年度のわたしから、来年度のわたしへの橋渡しが行われ、ちょっと後の自分が見えてくるような気持ちになるのだ。

2018/03/01

今年度も図書館へこもる季節が終わった

Img_38682月は、毎年大学テキストを書く月間となっている。こんな日々が続く。「ゆっくりと起き上がった。背中が痛い。ドアを開け、トイレへ行った。この言いようもない疲労感ほど耐えがたいものはなかった。ほとんど吐きそうなほど気分が悪かった。年とともに我慢できないものになってきた。顔を冷たい水で洗った。鏡に映る自分の顔を見るのを避けた」という暗い文章が続くのだ。相変わらず、刑事ヴァランダーが難事件を抱えて、次々に起こることをなんとか結びつけようともがいている姿と重なる日々だ。Img_3864


この小説はスウェーデンでも南部のデンマークに近いイースタ地区を舞台としている。それで、ときどき厚手のセーターを持ってきていたらなあっというセリフが1冊の中に何回か出て来る天候なのだ。こんな小説から顔をあげることができないような日々が続いたのだ。

Img_3857けれども、今朝こもっていた図書館から、すべての原稿を編集者にメールで送って、ようやく「顔を冷たい水で洗った」状態へ到達したのだった。この図書館には、フレッシュ・ルームなる部屋があって、週刊誌・月刊誌が揃えられ、仕事に疲れた時には、意味のない写真を次々にめくって、フレッシュな気分にしてくれる。Img_3871

先ずは、朝淹れてきたコーヒーを飲むのだ。この仕事は、もしコーヒーがなかったら、決して成り立たないのでないかと思うほどだ。

そして、地下の文芸書の書棚をたどり、最後の図書番号のところまで来ると、詩歌のコーナーだ。目をつぶって、えいやっと探り出した本を開いて、その一節を声に出して読む。

Img_3855まだ、図書館には人はいない。静かな文芸書の部屋では、声さえも本たちが吸収してしまう。音を吸収する本の虫がいるのだ。

地階から1階に出ると、貸出・返却コーナーがあり、検索パソコンが並んでいる。コーナーに続く大部屋が、この図書館のメインルームだ。主だった専門書は、新しいものを中心に開架式におかれていて、手当たり次第に持ってきて読み散らかすのに最適な部屋だ。しかし、この部屋は原稿を書くときには使わない。

Img_3858Img_3872もう1階上がって、3階の参考図書コーナーの横にある、2階の大部屋に張り出したように見える不思議な大きな屋根裏部屋みたいな空間があって、2階の吹き抜けの雰囲気も伝わり、勉強をする人々の息遣いも聞こえてきて、なおかつパソコンを使っても良いように電源も用意されている。その最後のコーナーがわたしの専用に使っている席なのだ。

Img_3873この席は、空間が上から下まで続く、20メートルほどの吹き抜けの中間に位置していて、正面の四角い窓から、枯葉の残った冬技が見える。その先には、晴れた日には青空が見えて、数十メートルの眺望を得ることができるのだ。手を上にいっぱいに伸ばして、腰を前に出して、一服するには、この眺望は欠かせない。手を休めたときには、水分補給で、またコーヒーポットが手に触れるのだった。

Img_3879こうした日々も、今日で終わりだ。自分だけの世界から出て行く世界があるのも、やはり救われる気分になるものだ。帰りに、いつものコーヒー豆屋さんへ寄って、明日からの外の世界との交流に備えよう。

2018/02/08

映画「スリービルボード」を観る

Img_3792 映画「スリー・ビルボード(原題:Three Billboards Outside Ebbing, Missouri)」を観た。現代版の女性ドン・キホーテを描いた映画だと思った。ビルボードというのは、大きな野外広告板のことだ。8ヶ月前に、主人公のミルドレッドの娘がレイプされ焼死させられたという事件が起こる。それから、どうしようもなく捜査が進まず、未解決のままになっていた。そこで、ミルドレッドは当地ミズーリ州エビングの警察署長を非難する広告を3枚掲げたのだった。なんとなく、この発想は風車めがけて突進するドン・キホーテのようなのだ。この事件を発端として、地域特有の深刻なのだがユーモアもある出来事がつぎつぎに起こって来ることになる。

 

最初は娘の殺人事件の解決を目指す推理小説仕立てのストーリーが展開するのだが、警察署長が意外な役回りを演ずることによって、ある時点からコミュニティとは何かというシリアスな社会小説仕立ての物語へと転換するのだった。この転換を見逃すと、結末の曖昧さに腹を立ててしまうことになるだろう。けれども、この転換を理解すると、途端にアメリカ社会のタフなコミュニティの在り方に目を開かれることになる。

 

途中で、ミルドレッドはなぜ病気で死を前にした警察署長に過酷な要求をするのかと聞かれて、この映画の主題がようやくにして、飛び出してくるのだった。この映画の隠された、と言ってもむしろそれが目立つのだが、そのような意図が見える場面が、前半にある。町の人格者とみんなが認める警察署長を攻撃するミルドレッドに対して、神父が忠告に訪れる。ここにコミュニティ・反コミュニティ思想が見え隠れする。

 

なんとその話の比喩は、わたしたちには馴染みがあまりないストリートギャングの話だった。60年代後半以降、アメリカでは信頼性が失われる犯罪社会へ入っていくが、象徴的な動きとして80年代のロサンゼルスで抗争を繰り広げた2大ストリート・ギャングの「クリップス」と「ブラッズ」の犯罪の動きがある。そのヤクザなギャングを取り締まるために新しい法律ができたとミルドレッドは言うのだ。「ギャング組織の一員であれば、仲間が起こした事件の責任があり、自分がまったく関与していなくても罪に問われる」というものだった。なにやら、旧5人組の連座制的な制度を想像させるものだ。

 

ここがミルドレッドのドン・キホーテ的飛躍につながっていくところなのだが、彼女によれば、神父もギャングと変わりがないのだ。もし神父が教会でミサを行なっている間に、別の神父がミサの少年に虐待を加えていれば、ミサを行なっている人格者の神父であろうと、やはり罪に問われると言うのだ。突拍子もない論理の飛躍があるのだが、感性的には、うなづいてしまうのだ。この調子で、神父も追い返し、町の人びとからの批判も跳ね返してしまう。ここには、特有のユーモアと悲しみがついて来る。ここが前半の山場だ。なぜ人格者である署長を貶めてでも、娘の事件を取り上げる意味があるのか、というところだ。風車小屋に槍で突っ込んでいくドン・キホーテの姿が浮かんできたのだ。

 

Img_3796 固まってしまっている状況を動かすには、生きた力が必要なのだ。親しい関係でも断ち切って、二者関係をことごとく壊して行く。それは直感的なのだが、次第に三者関係が少しずつ見えてくるのだ。破壊がかえって良い方向へ向かう場合もあるのだ。このような願望はおそらく映画の中でしか成り立たないというのが現実なのだが、このようなアイディアがありうるかもしれないという記憶を持っているかどうかは、そのコミュニティの性格を決定的なところで左右するに違いないのだ。この意味で、この映画の展開には人びとを惹きつける何かがあるといえる。

 

2018/02/01

半年間の林檎遍歴

Img_2960 去年1年間のりんご遍歴を思い返して見た。りんご遍歴とは言っても、種類はそれほど多くはないのだが、この時期になると、味の記憶をとどめておきたいという欲望が湧くのだ。20170814 先日、シナノスイーツという種類の、「訳あり」リンゴが出ていて、妻が求めてきた。ボケているのではと思われたが、意外に実がしっかりしていて、旬は過ぎているにもかかわらず、美味しかったのだ。

 

20170818 例年、りんご遍歴は8月から始まる。原稿を書くために田舎にこもるのだが、その家の近くにりんご園があって、その枝が重みで落ちてきて、たわわに実った果実が赤くなってくる時期がある。20170830 その頃から、リンゴが手に入るようになるのだ。

 

20170902 早生のりんごという種類があって、まずは農協の野菜市場をのぞくことにしている。ここに小さな農園でとれたような早生リンゴが出てくる。商用のりんごは、やはり10月すぎの最盛期を待たないとなかなか出てこない。実際に樹に果実をつけてから、甘さがついてくるまで、十分な実りを待っているのだ。174730048_unknown それに対して、早生のりんごは8月の最初が勝負で、この時期にお盆を目指して、ちょっとだけ出て、そのあとはさっぱり出てこないのだ。今年は、母の三回忌があったので、そのあとお墓へのお供え用のりんごも必要だった。

 

20170903 まず目立つのは、「祝」だ。青リンゴという感じがして、酸っぱさと新鮮さが取り柄で、この酸味が素敵だ。樹によっては、当たり外れがあるのが、早生リンゴの特徴なのだが、当たりとなるような青リンゴは、もうこれだけで良いと思えるほどだ。177474288_unknown これだこれだと、皮ごとかじってしまう味なのだ。ずっと「祝」が続いて欲しいと思うほどなのだが、この期間は驚くほど短い。1回購入できれば良い方で、例年購入を逃していまうほどなのだ。Img_2988 紅玉と同様に、酸っぱ味系のリンゴは価格は安いのだが、得難い。得難いから、美味しいのだ。もし祝がもっと後の甘いリンゴと混ざって売られていたとしても、これを手に入れたいと思うことだろう。ところが、しばらくすると祝自身の味も変わってきてしまうのだ。

 

Img_8566 次に出たのが「さんさ」だ。これも早生リンゴの一種なのだ。だから、祝の後に出て、これも次に続く楽しみがあるリンゴだ。このようにリンゴの種類は異なるけれども、連鎖を持っているのがリンゴの強みなのかもしれない。リンゴ味のネットワークが人びとの中に定着している。

 

Img_29581 8月から9月になると、近くのK農園に観光客が立ち寄るようになる。津軽、サン津軽などが出てくるのだ。実はこの「サン」がつくのとつかないのと何が違うのか、知らなかったのだ。177474304_unknown 調べればすぐわかることだが、陽に晒すか、袋をかぶせて陽を避けるかの違いらしい。これで早く熟成するのか、遅く熟成するのかが違ってきて、それが味に出てくるのだそうだ。近年、なぜか「サン」のつく津軽がこの辺では多くなってきたような気がするのだ。177474400_unknown わたし個人としては、じっくり型が好みなのだが、ほんの印象でいうならば、やはり長く味が持つような気がしてしまうのだ。

 

9月の後半になってくると、種類も多くなる。今年は2種類の珍しいリンゴに会うことができた。Img_9030 一つは赤い小リンゴだ。農協に早くに出ていたものだ。小リンゴで思い出すのは、米国のリンゴだ。20年ほど前に米国北部のニューハンプシャーをドライブして、街道沿いに真っ黄色い紅葉が連なる中、取材クルーと一緒に快調に走った。Img_8836 途中寄ったドライブインに入ったところに、赤い小リンゴが見事に山積みされていて、見た目にも、また味も素晴らしいものだった。20年経っても、リンゴの印象は変わらない。喉が乾いていたこともあって、この粗野な味は忘れることができない。Img_8817 リンゴは、罪深い人間であることを自覚させた果物として名高いのだが、他方において、自らが動物だったことを思い起こさせ、野生趣を呼び込む果物でもあると思うのだ。177474480_unknown 177737104_unknown Img_2809

2018/01/21

N先生のこと

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N先生が多摩川で自死したというニュースが流れた。N先生には、1973年ごろからほぼ10数年間に渡って、ゼミに参加させていただき、公私ともにお世話になった。学問上の影響を受けて独り立ちするまで、いつもの笑顔でもう駄目かと言われてしまうところまで面倒をみていただいた。わたしたちの結婚式にもご夫妻で出席いただき、いつもこのようなときにはそうであったように、テーブルの上で箸の袋にちょっとメモ書きして、ただちにスピーチしてくださったことも思い出される。また、わたしたちの新居祝いの日にたまたま、先輩のM氏を伴って八王子の山奥までいらっしゃって、お祝いの席は其処退けで、そのとき書かれていた論文内容の話をずっとしていたこともあった。 

 

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自死ということで印象に残っているのは、80年代当時ベストセラーの『機械の中の幽霊』を書いたA・ケストラーが英国の自宅で自死を選んで、ケストラー夫人も同時に亡くなったことが、ゼミの後に話題になった。遺書も立派な、決然とした自死だった。「意識がはっきりしていることが生きていることの証しだ」というようなことをN先生がおっしゃって、うっすらとではあるが印象に残っていた。N先生の奥様が亡くなってからも、このところ何回も復活していたから、今回もとは思っていたが、やはり思い描いたように生きたいという意識が強かったのではないだろうか。

 

 

 

2c11e2828786b9ea5e3467baa1ecb50c わたしはNゼミへは横浜国大の学部3年時から入り、たまたまゼミの後に、大学院へ行かないかと誘いを受けた。高校の教員になると言ったら、何とも言えない顔をなさった。わたしが4年生の時にN先生は東大へ移ったので、その後東大の大学院へ進んだ。わたしは大学院を出た後も、しばらく傑出した先輩たちのゼミの末席へ連なっていた。ゼミでは、いくつかの社会科学の大著を読んで細部にわたって議論した覚えがあるのだが、むしろゼミの後、そのまま近くの喫茶店(当時は中庭や二階のある旧い「ルオー」がまだ本郷に残っていた)あるいは酒場へ行っての議論の方が長く続いて、そのときの楽しさと厳しさが骨の髄にまで達する記憶として滲み込んでいる。

 

Unknown3 たとえば、当時わたしは玉川上水脇の借家に住んでいて、先輩たちの下宿も中央線沿線に多かったこともあって、駒場の白い会議室で議論し、場所を変えて井の頭公園の木洩れ陽の野外でゼミを行い、その後近くの他の東大の先生宅へ寄り、さらに吉祥寺と新宿(当時「ライブラ」という酒場によく寄った)で飲み屋をハシゴした。終電車を逃してしまい、線路をとぼとぼと歩いて帰った記憶も何回かある。日常の生活の中に社会科学で考えるべきことが隠れているということも、ゼミの中ではよく言われたことだった。

 

Images1 多くの著書の中でも、わたしにとって印象深いのは、やはりN先生の最初の単著であり、わたしの学部時代のNゼミでずっと取り上げてきた『ソシオ・エコノミックス』だ。雑誌「経済セミナー」連載論文の掲載時から、講義でも聴き、また何回も学部ゼミで議論してきたことで強烈な印象が残っている。それから、なぜか社会学のT・パーソンズに一生懸命に取り組んだ時代が何年かあって、これがN先生の中で最終的に結実したのが『知性の構造』だったのだと思われる。これも大方の批評は難しいということであったと思われるが、ゼミ参加者にとっては理解できる、N先生らしい特徴の出ている書物だと思う。けれども、もし百数十冊ある著書の中から1冊だけ選べと言われたならば、躊躇なくわたしは『妻と僕』を選ぶだろう。この点は、わたしの妻とも一致したのだった。妻はこの本か続編の本の中で、「妻と僕」の遺灰が森の中にまたは海辺近くにまかれることになっていることを思い出していた。

 

亡くなることには、このような思いがたくさん湧いてきて、それらが重なって一緒にくるものだ。また、それと同時に死というものには予兆ということもあって、じつは昨日の夢の中に、かなり若い時代のN先生が何十年かぶりに現れたこともあったのだった。夢や思いだけでは対応が冷たいと言う方もいらっしゃって、ここ当分わたしの中で、死ぬということと現実にとどまるということとの差異をかなり意識して生きていかなければならないだろうと思うのだった。(画像はAmazonから借りてきました。)

左右社HPの追悼文

2018/01/14

修士論文の面接審査

Img_0658 今読んでいる北欧ミステリー「警部ヴァランダー」シリーズの中の1冊で、警部が一つの事件を終えて、疲れ切って帰る場面がある。疲れてはいるものの、事件が解決されて、多少の完結した満足感は存在しているはずである。同僚の女性刑事が呼びかける。「どこへ行くんです?」「家に帰って寝る」ヴァランダーは言った。「疲れたよ。それに悲しい。すべてうまくいったのだが」彼の声に感じるものがあったのか、彼女はそれ以上質問しなかった。というシーンが出てきて、まさにこんな感じだなあと思ったのだった。

 

修士論文を読んでいる最中は、気分も高揚してきていて、この1年にどれだけの議論をしてきたのか、と面接審査を行いながら思い出にふけるのだ。今日一日、ずっと付き合ってくださった副査のK先生はブータンから帰ってきて、そのあとずっと修士論文を読んできてくださった。メモ用紙が溢れるほどにたくさん挟まった論文フォルダーを抱えていらっしゃったのだ。面接審査では、互いに声をかなりあげて、説明し対話を行い、議論を楽しむのだが、それが済むと、沈黙と空白の時間が訪れるのだ。

 

このとき、ちょっとなのだが、物悲しくなるのだ。何というわけではないのだが、達成感と裏腹の関係にある物悲しさなのである。論文作りに関心のない、陽気な人には理解できないものだ。すべてうまく行ったはずなのに、何と無く感ずる感情があるのだ。ある種の虚脱感、空虚感なのだと思う。今まで満たされていたものが、一挙に外へ出てしまって、ここには残されていないのだ。論文としては満たされているのだが、残された頭と肉体は空虚なのだ。

 

Img_0660 このままずっと平行線を続けてくれ、交わることなく、このままずっと走り続けてくれ、そうすれば、この感情からは自由になれることはわかっている。けれども、いずれ終わらなければならないときが来ることはわかっている。だから、メソメソせずに、さあ次の言葉へ移っていこう。そうすれば、自分の外の世界のあることも遂には理解できるし、自分の内の世界から逃れることもできるに違いないだろう。

 

今回提出された論文は、完全にその通りの題名ではないのだが、次のような内容のテーマだった。

 

公立図書館における公共・民間セクターの役割

日本のPFI事業のValue for Money

ワーク&バランスと生活時間の変移

オペラ活動とNPO法人

宗教における社会貢献活動

スローシティとまちづくり

行政信頼とソーシャルキャピタル

ソフトウェア産業と成長要因

六十年代安保と政治

中国の対日経済交流

 

でも、きっと2、3日が経つうちに、修論を終えた方々は、きっと警部ヴァランダーが次のように感じた境地にまた再び舞い戻ってくることだろう。「ヴァランダーはふたたび一人になった。いままでにないほど、リードベリ(ヴァランダーの相談相手だった先輩刑事)がいないことが残念に感じられた。『どんな場合にも、あと一つ質問があるはずだ』いつも繰り返し聞かされたリードベリの口癖だ。さて、いま、彼がまだもう一つ質問できるとすれば何だろう? 何が残っている? ヴァランダーはそれを探した」というところではないかと思われる。

 

2018/01/11

人間最初の道具はどのように形成されたのか

Img_0911 本郷で仕事の打ち合わせがあったのだが、その帰りに東大総合研究博物館へ寄ることにする。ここには江戸時代に加賀藩前田家があって、その名残の懐徳門近くに、この博物館施設がある。仕事で訪れた相手の先生が親切にも地図をプリントしてくださったのだ。

 

Img_0998 ホモ・ファーベル(つくる人)という、人間のひとつの定義の根源を探る問題があるのだ。 人間にとって、最初の道具は何か。諸説があるのだが、それが何だというよりは、やはり道具というものと人間との関係がどのようにして発達してきたのか、どのようにして「人間の道具」というものになりえたのかに興味がそそられるのだ。人間が自然の状態で人間であると考えられるのは生理的な理由ということになるであろう。直立して、手を使ったということになっている。Img_0920 けれども、手を使うことから、この手の延長として、道具を使うという人工的な人間の本質が現れてきたということが重要だと思われる。

 

Img_0932 先日のNHKニュースで、東大の諏訪元教授チームが数十年かけて、エチオピア発掘を行っていて、その展覧会が開催されていることを報じていた。その筋ではルロワ=グーランが指摘したことで著名な「握斧(hand axe)」の展示が年代を追って整理されているということだった。年代を追ってとはいえ、わたしたちの常識的な尺度ではなく、人類となりつつある歴史なので、およそ300万年くらいに渡る時間の中での展示だ。

 

Img_0926 「道具とは何か」という自明のことを考える機会はあまりない。産業社会に生きるわたしたちは情報機器をはじめとして、道具なしでは生活できない状況のもとにいる。人間から道具を取り去ったら、何が残るだろうかとさえ思うのだ。今回の展示は、それを考えさせられるのだ。Img_0922 最初に現れた人類の石器として、これら写真のゴナ遺跡のものが展示されていた。これらをみると、自然に破砕された礫片と、人為的に剝片を削った石器とを識別するのは難しいではないか、というほどの「道具」がありえたことがわかるのだ。

 

Katoh_1 今回の展示の中心は、最古のオルドワン石器から、人間のデザインということが認められるとするアシュール石器への変遷で、人間に何が起こったのかという点に尽きる。この展示で強調されていることは、剝片のパターン化という点である。岩から大型の剝片が素材として剥がされ、それらがいくつかの剥離する加工技術として定着していったことを示している。Img_0976 ここでも重要なことは、素材が先なのか、デザインが先なのか、という以前指摘した「資量形相論」が出てくるのだ。先日引用したインゴルドも左右社刊『メイキング』の中で、このハンドアックス問題を取り上げている。

 

Img_0935 問題はどこにあるのかというと、それはわたしたちの想像を超えるところにあるのだ。つまり、たいがいの方は、このエチオピアのコンソ遺跡から出土したアシュール石器の「ハンドアックス、ピック、クリーパー」3点セットを見て、確かに人類が作り出したものであり、そこに一定のデザインが創造されこれに関わっているいくつかのパターンを知ることができるのだ。Img_0962 だから、これらが人類最初のデザインだということは共通認識できるのだが、インゴルドによれば、それならばなぜ300万年間に渡って、これらのデザインが数種類に止まって、あまり変わらなかったのだろうか、ということが不思議な現象として浮かび上がってくるのだ。

 

Img_0969 逆にいえば、わたしたちの現代文化の下では、数十年の間には、道具はほとんど使い古され、革新されたら直ちにまた更新されるほど、技術進歩が激しいのが、人間社会の特徴だと考えられている。ところが、300万年に渡って、不変の道具が世界中で剝片文化として維持されてきたという事実があるのだ。Img_0979 道具を生み出し、何か新しいことを生み出すことが人間の本質だということから、かなり離れた認識をこれらのハンドアックスたちは提示していると考えることができるのではないだろうか。


 

Img_0945 問題は何かといえば、つくるということが自然からもたらされた素材に対して、人間の文化的パターンを忠実に転写することという、今日の産業社会の方法と同じだと考えると、このようなアシュール文化は生まれなかったということだ。300万年もの時間がかかって移行していった石器文化というものには、このような石器を生み出すデザイン能力はあったが、それを実行できない物理的・肉体的理由が存在していたのか、それとも、物理的・肉体的能力はあったが、技術的・デザイン的能力が劣っていたか、などの難点を克服する必要があったのだといえる。Img_0905 いずれにしても、遅々として進むか進まないかの中で、素材から剝片を削り、それを制御していく知的な作業の進化過程が必要であったのだといえる。新しいものを次々に生み出す中に、人間の文化が宿るのではなく、遅々として進まない、むしろ停滞しているとさえ見えるような、100万年規模の文化の在りようの中にこそ文化は宿るのだと教えているとさえ見えるのだ。


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帰りに、エチオピアに敬意を評して、いつもの焙煎の店によって、「エチオピア・ハロバルディ」のコーヒー豆を購入して一息をついた。

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2018/01/08

ゼミ研修旅行で宇治の平等院へ行く

Img_0807 ゼミ合宿の熱が冷めやらぬうちに、論文に向かうのが良いだろう。とは思われるのだが、京都にきたからには、やはり仏様にお祈りしてから書けば、ご利益もますのではと考え、かねてより放送大学のM先生にお願いして、平等院を訪れることにしていた。Img_0806 M先生は昨年の4月から、奈良女子大から放送大学へ移って来られた。平等院塔頭の最勝院ご住職なのだ。お正月早々であったので、ご家族の方々にご迷惑ではとは考えたのだが、お話をすると、快く承諾してくださったので、ゼミの方々を連れて、午前中早々に宇治へ参拝となったのだった。

 

Img_0799 平等院の正門でM先生が出迎えてくださった。あいにくの雨がむしろ幸いして、いつもならば見学者の列がずっと並ぶところ、まだまだ少なかったのだ。正門を入って、平等院を左手に見て、まず連れて行っていただいたのが最勝院で、門がとにかく古く、紫の垂れ幕がよく似合う。Img_0798 左手に源頼政の墓があり、お不動さんのお堂が連なる。最勝院の玄関を入って、左手には苔が雨に濡れて光り輝いている中庭があり、縁側には和風のラウンドチェアが2脚おかれていて、静かな佇まいだ。奥様にご挨拶して、お茶とお団子をいただく。

 

Img_0810 平等院鳳凰堂では、あらかじめM先生が10時30分の拝観予約の切符をとってくださってあり、直ちに入堂させていただいた。鳳凰堂には、仏師「定朝」作である阿弥陀仏を中心として、雲中菩薩像52体が祀られてあり、極楽を現出させている。Img_0815 また、壁絵には、貴き人も賤しき人もそれぞれ極楽浄土へ召される図が階級ごとに描かれていているのだが、じつはどれも平等な召されかたであることを印象づけている。この壁絵を見ると、死は万人に平等であるという、平等院の名称の由来?がわかる仕組みになっているのだ。説明をお聞きしているうちに、やはり気になってくるのは、自分自身の死のイメージだ。「何もない」というイメージがこれまで占めていたのだが、「何か雲の上からやってくる」という死のイメージも悪くないことがわかる。

 

Img_0816 鳳凰堂の正面にまわる。十円玉に描かれている有名な、池に映る景色を堪能する。そして、鳳凰堂の中心に火が入ると、正面の扉に丸く開けられた穴を通じて、阿弥陀仏の顔が浮かび上がってくる仕組みに気づく。写真のシャッター音がしばし鳴り止まなかったのだ。鳳凰堂の向かって左手が宇治川の河岸段丘になっていて、その中がくり抜かれて、コンクリートで内部が固められたミュージアムが現れる。外からはまったくわからないほどの自然さだ。Img_0818 一番下に入口があって、釣鐘や雲中菩薩像を間近に見ながら、登っていくと河岸段丘の一番上にある出口に到達するように、デザインされている。印象に残ったのは、雲中菩薩像で、本堂に半分の26体があり、このミュージアムに残りの26体がある。この中で、死の行列のイメージの中でも、真っ先に現れる菩薩をじっくりと瞼に焼き付けたのだった。

 

Img_0820 これらの雲中菩薩像は、定朝の工房が制作に当たったらしい。発想からすると唐突ではあるのだが、工房製作の利点は、画一性よりも多様性だと思う。Img_0851 52体もの菩薩像を作り分けなければならない。一人で彫刻するならば、同じパターンになってしまうだろう。けれども、複数の弟子たちが腕を競い合って製作しており、その多様な像に自分を象徴するものを投影するものが必ず見つかると思わせるものがあるのだ。

 

Img_0850 M先生と奥様にお礼とご挨拶をして、門前に並ぶお茶屋さんの一つ、中村藤吉にて食事。宇治川に面していて、雨で増水しだくだくと乱れた流れを見ながら、鰊茶そばとスイーツをいただく。裏門から出ると、宇治川の沿岸沿いの歩道に出る。Img_0841 この土手道に沿って、平等院と宇治川の中間に民家が一列に並んでいるのだが、昔はおそらく平等院から直接宇治川を望むことができたのだろう。その一軒が和風に改装されて、今は珈琲店スターバックスとなっている。昔はさる方に囲われたひと(女)の住まいだったそうだ。

 

Img_0845 宇治川の奥の方に煙って観える悠久なる眺望を楽しみながら、朱色の橋を渡る。観光客がちらほらして、源氏物語の宇治十帖の舞台があちこちに現れる。宇治にあるもう一つの世界遺産である宇治上神社と宇治神社が道なりに出現する。Img_0855 ゼミの方々は、仏ばかりか神様にまでお願いしたからには、ずいぶんと霊験あらたかな論文が出来上がるのだろう。わたしの原稿についても、決して神まかせにするつもりではないのだが、ついでに成就祈願を行った次第だ。

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2018/01/07

大学院ゼミナールと懇親会を行った

Img_0767 朝起きて、京都おばんざい風の食事を摂り、いつものように部屋でコーヒーを淹れた。今日1日は長丁場になるので、ポット入りのコーヒーは必需品だ。眠け覚しだとは決して言わない。やはり、10時から夜の11時過ぎまでの長時間の議論の中では、時々ではあるのだが、エアポケットに吸い込まれる感覚の時があり、ぼーっとしてしまう。Img_0770 おそらく老化現象の一つだと思われるのだが、このような時には、ちょっとの苦味と気付が必要なのだと思っている。コーヒーを旅行先で淹れる時には、いつもはプラスティック製のロートを持ち歩くのであるが、今回は紙製のロートを用意できたので、これを駆使したのだ。

 

Img_0768 宿泊場所から出ると、冷たい小雨が降っていたので、まだ準備中の錦小路を辿って、地下鉄の四条駅に出る。徒歩5分、地下鉄5分、徒歩で3分で、駅前のキャンパスプラザへ着く。すでに、学生の方々が揃っていて、早急にパソコンやプロジェクターを準備して、机をコの字型に並べ替えて、それぞれの発表へと入っていく。

 

Img_0769 さあ、「答えはすべてこの中にあるはず。でもわたしたちにはそれが見えない」と北欧ミステリーも呟いている。それにメゲることなく、一つ一つ討論の俎上に乗せていこう。

 

Img_0772 M1の方々の今回のテーマも多様な領域に及んでいて、楽しい。また、今回の発表会には、OBの修士修了生たちも5名、H氏、Y氏、F氏、K氏、そしてTさんが加わった。さらに、卒論生も1名T氏が参加した。

 



「現代社会における消費者哲学に関する研究」

「地域における大型社会基盤事業と非公式組織に関する研究」

「貿易自由化(グローバル化)と産業・企業との関係について」

「さいたま市の第三セクターにおける考察」 

「災害における人間の安全保障」

「観光とサンゴ礁保護手段の環境経済学的研究」 

「消防小隊隊員間で共有されるソーシャルキャピタルの研究」

 

Img_0778 昼食の時間もそこそこに、議論は夕方まで続いた。今回の課題が、論文の中核についての予備的な考察を行うことということだったので、結論を意識した自分の論文へのコメントが中心となった。Img_0781 多くの方々が、転地によるゼミ開催の効果を認めてくださった。ちょうど論文作成の転換期であることも手伝って、いつもと異なる雰囲気のもとで、自分の論文作成を十分に振り返ってみる、ちょうど良い機会となったことだろう。

 

Img_0785 幹事のK氏とH氏の奮闘によって、忙しい中、懇親会の準備を行なってくださった。キャンパスプラザの1階にあるイタリアンの店「ケニヤ」が会場となった。いつもは昼食を取りに入るところだ。Img_0787 二方にガラス張りのテラスになっていて、会場は極めて開かれた感じの素晴らしい場所での開催となった。アルコール類も持ち込みが自由なので、幹事の方々が昼食時を利用して、近くまで買い出しに行ってくださったのだ。2時間の時間いっぱいまで、それぞれのお話と雑談が続いたのだった。

 

Img_0790 明日も研修旅行があるので、京都に泊まる方々中心に近くのビルの3階にあるBarにて、二次会を催した。この頃になってくると、アルコールも程よく回ってきて、雑談もいろいろな方向へ移って行くことになった。Barの静けさが、京都にいることを感じさせたのだった。わたしたちの話し声だけがガラス窓に響いているようだった。Img_0789

 

 

 

 

2018/01/06

仕事始めの京都合宿

Img_0727 今年も仕事始めは、京都からだ。修士論文審査と大学院ゼミナールが開かれる。往きの新幹線の中では、相変わらず北欧ミステリー「ヴァランダー警部」が時間を埋めてくれた。曰く「この事件には、パターンがない。自動車事故に見せかけた父親の弁護士が殺された事件と、数週間後息子の弁護士が銃殺された事件の間には、目に見える関連性はない。息子の死は父親の死の結果に続くものとは限らない。順序が逆かもしれない。リードベリーが最後の頃に言った言葉を思い出す。殺人事件の捜査で暗礁に乗り上げたときのことだ。『原因が結果の後からわかる場合もある。いつでも原因の後に結果があるわけではない。警察官は逆も考えることができなければならない』」という、仕事始めから、何やら波乱含みのスタートとなる予感があった。

 

Img_0737 今年も、不確実で、ちょっと先が闇の世界が支配している状態から出発するというご託宣だ。修士論文に取り掛かったころには、みんなが感ずるのは、このような不確実性だ。何が原因で、何が結果なのかわからない。それどころか、事実の過大な姿に圧倒され、原因・結果を考えることすら、忘れるくらいだったことだろう。このようなときに、どれだけ柔軟な考え方ができるかが、かなり重要なことだ。

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今年は、この半月間で17本の修士論文審査を行う予定になっている。まずは、関西方面の方々から提出された4本を今日審査しなければならない。多彩な論文が並んだ。

 

日本の生産力の変化と就業形態の変化と高齢化

ワイマル共和国のもとでのナチス台頭

地方空港のナイトスティ機とストロー効果

企業におけるインターンシップの有効性

 

Img_0740 放送大学では、学生が論文テーマを選択し指定するために、盛り沢山と感ずるくらい多様な論題がどうしても多くなってくるのは仕方ないことである。この中で、経済とは関係ないと思われる「ワイマル共和国のもとでのナチス台頭」がなぜわたしの審査を受けるのか、不思議に思う向きもあるかもしれない。簡単にいえば、学生はプログラム全体で承認されるので、その後どの先生が担当するのかは、かなり未知数なのだ。けれども、当時の経済的・政治的社会構造については、十分に社会経済学のテーマになりうることはわかっていた。

 

Img_0755 わたしは、阪大にいた友人の故K君がフランクフルト学派だったので、何度かアドルノやハーバマスやアーレントの議論は行っていて、今回も昔懐かしい議論を振り返ってみたかったということがあったのだ。それを楽しみにして引き受けることになった。Img_0746 今回の論文の作成者Ka氏は期待通りに、大著を次々に読みこなし、それらを丁寧に読み解いて、緻密な修士論文を完成させたのだった。Img_0753 近年の海外文献を多少議論し残したのは残念だったのだが、それでもわたしにとっても、たいへん興味深い内容の議論ができたのだった。わたしにとってもK君との思い出が至る所で呼び起こされて、不思議な体験を何回も受けたのだった。論文作成には、このような覚醒の効用のあることも知ったのだ。

 

Img_0749 今日はまだ4本だったので、夕方の京都散歩を楽しむ余裕ができた。K君と会うときに利用していた料理屋が、またオーナーが変わっていて、地元のビールを出す店になっていた。様子を見ながら、いつも座った賀茂川に近い中庭に席を占める。一乗寺ブリューワリーという地ビールIPAを頼み、K君との議論を思い出したのだった。ビールは旨かったのだが、ピザがそれほどではなかったので、場所を変えて食事を探す。

 

Img_0757 一人で食事をするところは限られていて、やはり長く落ち着けるところにおさまることになる。年末にも過ごした姉小路のKocsiへ向かう。4人掛けのゆったりした席を一人のために用意してくださった。ここの食事は、パンを基本としていることもあって、スープやシチューなどの日替わり料理が多いのだが、中には今まであまり挑戦したことのないものもメニューにあって楽しめる。Img_0759 今回はアヒージョを選んだ。「ベーコンとキノコのアヒージョ」で、ニンニクの効いた汁にパンをつけて食べたら、という趣向だ。グツグツと煮えたぎった小皿が届いて、オリーブオイルがたっぷりと入っている。Img_0762 本来のニンニクの強烈さは、実は次の日になってようやく身体に現れるほど、密やかなものだった。この料理でも、そして今年全体を占って見ても、「原因」と「結果」が後からわかるような、一年の始まりとなったのであった。Img_0731_2 Img_0734

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2018/01/01

謹賀新年

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2017/12/31

今年も押し詰まってきた、静かな年の瀬だ

Img_0661 今年も押し詰まってきた。この1年間にとりわけ時間を割いたのは、自分の仕事だが、それ以外のボランティアとして、放送大学の「過半数代表者」という労働活動だ。放送大学のような労働組合のない職場では、職員・労働者の立場を代表して、就業規則改正などに署名する無償奉仕の役職だ。労働基準法に定められている。ただし、今年は労働契約法問題があった。

 

周りの人びとには、なぜそんな歳になって、労働争議などに加わらなければならないのか、と多くの不評と少しの賞賛をかっていたのだ。ふつう、このような労働活動には体力がいるので、若手の「職員・労働者」が大学から指名されて、いやいやながら行うのが相場だ。自ら進んで行う、しかも定年間近な人はいない。

 

なぜ行ったのかといえば、やはり社会科学を学んできて、机の上以外でどのくらいのことができるのか、ということだと思っている。1年間という限定的な活動なので、かなり限られた、威力の少ないものになることは当初から予想されたのだが、限定的な中で、どれほどのことができるのかが勝負だった。相変わらず、自分の人生と社会との関わりを凝視し動かしてみたいという自分の癖が出たのだと思われる。

 

ところがやはり、自分ではそう思っていても、社会に出て行う活動には、どうしても他者の人生を左右してしまうということがあるために、その結果については重い責任を負い、辛く感ずることが多いのも現実であった。ある種の運動だからして、多少の勝ち負けの感覚はあり、戦闘性ということが求められるために、気分の高揚は避けることができなかった。したがって、たとえ勝利があったとしても、それはかなり苦い、繰り返すがさらに苦い苦いものであったと告白せざるをえない。

 

実際の内容については、全「職員・労働者」に向けてのお知らせで述べたので、ここで述べることはないのだが、そのことに関係しない点で、別の苦い敗北感を持った例ならば、ここでも書いても許されるだろう。

 

国会で「退職金諸法案」というのが11月に通った。簡単にいえば、それは退職金のプールが足りなくなってきたので、国家公務員の退職金を直ちに切り下げたいというものだ。放送大学ではこれまでの慣例として、給与や退職金などに関して、国家公務員に準ずる措置が取られることになっていた。放送大学は、「特別な私立大学」なので、この法律に従う義務はないのだが、慣習としてそうなっているらしいのだ。それで、過半数代表者が呼ばれ、ここに署名してくれと求められたのだ。

 

新聞によると、この措置によって、国家公務員の退職金は平均75万円くらい引き下げられることになるのだそうだ。結構な大金が減らされる。つまり、これに署名した途端に、わずか数年後に迫ったわたし自身の退職金が、どんと減らされることになり、そのことにここで署名せよということなのだ。あっという間に目の前で、75万円が消えてしまうという悪夢を見なければならないというのだ。

 

その場では、「なんという巡り合わせなのだ」と呟いてしまったくらいなのだ。慰めてくれているのだろうが、総務課の若手の職員の方は、僕らはもっと将来減らされますよ、というのだが、まだ実感はないだろう。言葉は悪くなるが、負の「宝くじ」に当たったような、「もってけ! 〇〇」という気分だったのだ。

 

おそらく、今までの過半数代表者の方もそうだったと思われるが、放送大学は私立なのだから、慣例とはいえ、これだけ補助金が減ってきていて独立採算の可能性を求められているのだから、そろそろ近い将来には、国家公務員に準じなくても良いと一言書いて置くことも必要になってきている。今後も、人件費削減案が目白押しなので、もう少しの任期になったとはいえ、憂鬱な日々が続くのだ。このように、お金で済む問題ならばまだ良いのだが、そうでないことが起こるともっと苦い日々となる。借りをつくって生きるのが人間の特性なのだということだと諦めなければならないのだろうか。

 

山之口獏の「年越しの詩」をよんで、気分を紛らせた。

 

詩人というその相場が

すぐに貧乏と出てくるのだ

ざんねんながらぼくもぴいぴいなので

その点詩人の資格があるわけで

至るところに借りをつくり

質屋ののれんもくぐったりするのだ

書く詩も借金の詩であったり

詩人としてはまるで

貧乏ものとか借金ものとか

質屋ものとかの専門みたいな

詩人なのだ

ぼくはこんなぼくのことをおもいうかべて

火のない火鉢に手をかざしていたのだが

ことしはこれが

入れじまいだとつぶやきながら

風呂敷包に手をかけると

恥かきじまいだと女房が手伝った

 

Img_0664 大晦日の最後の最後に、英国のサッカーチーム、マンチェスターシティの19連勝の記録のかかっている英国プレミアリーグ「マンチェスターシティ対クリスタルパレス」戦を見ていた。クリスタルパレスが意地を見せた、引き分けの熱戦だった。ところが、試合の終了近くになって、わたしの好きな選手のデブライネ選手が反則にあって、足を負傷し担架で退場してしまった。パスがうまく決まるのがサッカーでは重要な要素だとわたしは思っていて、デブライネはこの直感的なパスのうまい人で、ずっと今年は眺めていたのだが、ざんねんな出来事だった。デブライネには、早く怪我を克服してパス回しの輪に戻って欲しいと切に祈ったのだ。こんなこともあったにもかかわらず、またマンチェスターシティの連勝ストップということでも、選手たちや監督が顔色ひとつ変えないで、試合後相手の監督、選手と激励しあい、互いの肩を叩いていたことにも感動したのだった。

2017/12/26

『都市と農山村からみる身近な経済』が出来上がってきた

Img_3696_0000 島根大学I先生、近畿大学のS先生とA先生が主任講師で、わたしが分担講師として加わっている、放送大学のテキスト『都市と農山村からみる身近な経済』が出来上がって送られてきた。何と最速で印刷された(わたしの経験内でのことだが)テキストだ。今までで、年内に受け取ったのは初めてだった。

 

今回、この4人で制作したことには、意味があるのだ。I先生がうまくまとめてくださっているので、「まえがき」の最後の部分を引用したい。

 

Img_3697_0001 「我々四名が放送大学において知己を得、本書を共同執筆することになったきっかけは、故林敏彦先生(元放送大学教授)が自身のゼミにおいて、学生たちを分担指導する仕組みを整えられたことによるものである。林先生は20174月に74歳の若さでご逝去された。林先生の教育・研究のスタンスは林ゼミで体現され、我々はそこに参加し自由闊達な議論の中から多くのことを学んだ。そういう意味で、本書は林ゼミの一つの産物でもあると思う。林先生の学恩に思いを致し、ご冥福を心からお祈りしたい」


2018年度4月からの新規科目なので、一度手にとって、ご覧ください。ラジオでは、講師たちが会話形式で収録を行っている。

 

2017/12/22

年末恒例、博士後期課程の京都合宿

Img_0588 今年も年末恒例となった博士後期課程合宿が京都で始まった。今年度の修士論文提出締切が先週あって、M2の全員の方14名が提出したと報告があった。みなさん、頑張りましたね。Img_0585 それに加えて、副査を担当する分の6名の修士論文が送付されてきたから、年末には20論文を読むことになる。修士論文の20の想念をそのまま頭の中には止めた状態で、身体だけは宙を滑るように飛んで、京都に来ている。

 

Img_0586 合宿の1日目は、4人の方が発表し合うことで約8時間くらいかかり、世界の縮図がわたしたちの頭の中に住みついたかのように思える時間だったのだ。2日目からは、経済学研究法という授業で、2名参加者で、朝9時から夜9時まで部屋をとった。3日目にはやはり朝9時から午後3時まで行った。Img_0644 とはいえ、多少途中で早めに終わらせたりしたために、合計24時間くらいの合宿となった。アイディアの世界だけで満たされた世界のあることを実感する。24時間が「浦島太郎的時間」となったのである。

 

Img_0607 2日目と3日目の授業では、文献研究だったので、それぞれ自宅での自習時間がそれに加わり、全体では、2日間だけのメニューに限れば、この自習時間を加えて、2単位分の22時間を優に超えて時間を費やしたことになる。3人だけで1室に籠って、2日間をしゃべり続けるという世界があるのだ。学生にとっては約30時間以上、わたしにとっても、かなりハードな授業だと思うのだ。Img_0608 彼らの場合自習時間とはいえ、全体で500ページを超える大著をテキストに選んでいるので、1日100ページずつ2時間かけて読んだとしても、5日かかるし、参加したS氏のように関連論文に目を通すとなると、準備だけで1週間はかかってしまうだろう。年末に行うことが妥当な授業といえよう。

 

Img_0611 今回の文献研究では、ひとつの現象を二面性でみていくという態度を改めてみようと考えた。三面あるいは場合によっては、3層構造で考えていくことを3人で行ってみたのだ。Img_0618 このように、二面構造を三面構造にするには、結局平面を立体で考えることになるので、二面の間に中間を設けたり、二面と異なるレベルをもうひとつ外に設定するなどの、これまでの考えをもう一度ひっくり返す必要が生ずることになる。

 

Img_0620 このようなたっぷりした時間の流れの中でしか試すことのできない、貴重な体験なのであった。時間に余裕が出て来たときにのみできることであり、3人で底の底まで降りて行ったという自負が生まれたのだ。これをさらに遡るのは個人的に行わなければならないのだが、このように複雑化させ、形而上的なやり方に凝ってしまうのも、やはりこの場だからこそ行われたのに違いないだろう。

 

Img_0622 授業を午後3時に終了させて、ゼミ全体をまとめ、評価簿を書かなければならない。そのまま京都に滞在した。二日目には夜になっても、ゼミの熱気が冷めないので、京都に来たら必ずよる喫茶店「Kosci」へいく。じつはゆうべも夜になってから来たのだが、あいにく満席で入れなかったのだ。今日は、クリスマス・イブなので、ひとりで過ごす人はそんなにいないだろうと考えたのだ。窓際のゆったりした席を取ることができた。やはり、ゼミの最中では頭に血が登ってしまっていて、これが少し冷めないと正常な仕事には入れない。

 

Img_0623 最初にアーモンドのかかった栗のペーストの入ったパンとコーヒーを頼む。持って来た北欧ミステリーのH・マンケル著、刑事ヴァランダーシリーズの中に、ヴァランダーが捜査の行き詰まったときに相談する、故人で年上の同僚リードベリーがいる。これが、いつも適切なアドバイスを行っていて、素晴らしい。たとえば、「振り出しに戻った」とリードベリーなら言っただろう。「空白や不明瞭な点はそのままにしておくのだ。お前さんがはっきりわかっていることから始めるがいい」と言ってくれるのだ。そして、ここだというところでは、「あり得ないと思うところでも関係性を探すのだ」とはリードベリーがしばしば言っている言葉なのだ。

 

Img_0619 まさに、今日のゼミ参加者たちに贈る言葉はこれなのだ。わたしのところに降りてこずに、みんなのところへ降りてくれと言いたい。この頃には、ちょうどお腹も空いて来て、本日のさつまいもの温かいスープと、パンとサラダを注文する。もちろん、収穫の多いときには、ワインが必要だ。窓の外には、雨が降り出して、雪になりそうな雲行きとなった。このたっぷりした、京都的まったりさには感謝したい。5時間ほど止まったのだが、まったく席を立ちたいと思わないサービスが素敵だった。帰りに、感謝を述べて持ち帰りのパンを購入すると、おまけにもうひとつのパンを紙袋に入れてくれたのだ。パンをかじりながら、北欧ミステリーをついに読みきったのだ。

 

Img_0639 次の日の午前中、整理すべき今回のゼミのことが意外に多く、ずっとホテルで作業を行った。このようなとき、チェックアウトの時間が遅いところは助かる。昼食は、ここも毎年おなじみとなった、1年には一回食べたいと思う、菜根譚「雪梅花」へいく。担々麺がおすすめなのだ。濃厚な味と辛味が寒さに効く。Img_0637 Img_0633 Img_0629

 










640 新幹線までにかなり時間が余ったので、四条へ出て、京都シネマを覗くと、映画「わすれ草」がかかっていた。60年代の学生運動で、女性闘士だった人がアルツハイマー病にかかり、息子がドキュメンタリー作家として撮った映像だ。印象的だったのは、昔のことは覚えているのだが、近年のことが駄目なのはわかっているのだが、それで過去のことだけでもやはり人間は生きられないという現実だ。6401 いずれ、自分にもやってくる状態なので、そのときどのようになるのか、たいへん憂鬱である。とともに、そうなったら記憶がなくなるから、周りのことさえなければ、意外に幸せなのかもしれないとつい思ってしまう楽観主義の自分も見つけたのだった。Img_0601 実際には、この映画の中で、かなり辛い最後がある。

 

Img_0641 帰りの新幹線では、これもいつものように、カツサンドとコーヒーを飲食し、北欧ミステリーは昨夜読了してしまっていたので、用意していたプリントを楽しみながら、今回の合宿旅行を終わりにすることにしたのだった。

 

 

 

2017/12/21

横須賀美術館で伊藤久三郎展を観る

Img_0504 午前中、放送大学総務課から呼び出しがあって、東京文京学習センターの中にある放送大学の東京オフィスで会合があった。余裕のある時間に家を出たのであるが、京急線が遅れてしまって、品川近辺で止まってしまったのだ。一つの電車が遅れると、玉突き式に次々に乗り換える電車ごとに遅れてしまい、途中挽回できないまま、ついに遅刻してしまった。案の定、そのあとは悪いことが続いた。

 

Img_0445 午後、失地を回復しようと、かねてより妻と約束していた横須賀美術館行きを実行に移す。本来であれば、逗子市にあるいつもの店へ、美味しいパスタとピザを食べに回るのであるが、その店が残念なことに秋に閉店となってしまったのだ。それで、今回は美術館の中にある、イタリアンの店に変えたのだった。まずは腹拵えしてからということで、ランチで混んでいる店へ入る。海鮮の具が美味しかった。

 

Img_0512 企画展は、京都の抽象画家の伊藤久三郎だ。普段観ることのできない、個人蔵のものや、他の美術館からの出展のものも多く、充実した展覧会だった。全部を見終わってから、妻と珍しく意見が一致したのだった。それは初期の頃の作品がよかった、という感想だった。もちろん、単なる感想なので、観る人がみれば、やはり後期の抽象度の高い「キャタピラー」や意味不可解な「KOPFFUSSER」の方に軍配が上がるのだろうが、印象は印象なのだ。

 

Img_0507 初期のものにも、抽象画と同じようなモチーフが出てくるのだが、最初の方が活き活きとしているように思えるのだった。たとえば、灰色の使い方に独特なところがある。初期には、思わず灰色なのだが、後期になると意識的・意図的に使われた灰色が濃厚になってくるのだった。

 

Img_0501 日が落ちるまで、まだ時間があったので、美術館の図書室で資料を散策する。年賀状の図柄を決めていたのだが、なんとなく地味な感じがしていた。ここの資料室には、英国ウィリアム・モリスのケルムスコット書の数万円する復刻版がおいてあった。Img_0519 それを見て行くと、大方は見たことがあったものなのだが、一つ晴れやかな真っ赤な花のついたNのイニシャルをかたどったものが急に目の前に現れたのだった。これを来年の年賀状にしようと決める。コピーを撮ろうとすると、カラーコピーは行っていないというのだ。それでも、なんとか手に入れて、来年の図柄が決定されたのだった。

 

Img_0462 それから、モリスのデザイン書の隣には、たぶんこの横須賀美術館でも企画展が開かれたことがある、イタリアのブルーノ・ムナーリの絵本がおかれていて、その中の詩が素敵だったのだ。

 

子どもの心を 一生のあいだ

自分の中に持ち続けるということは

知りたいという好奇心や

わかる喜び

伝えたいという気持ちを

持ち続けるということ

 

ブルーノ・ムナーリ

 

第1に、「知りたいという好奇心」、第2に、「わかる喜び」、第3に、「伝えたいという気持ち」というまさに三段階説が実現されている詩なのだ。僭越ながら、同じことを考える人が時空を超えているのだな、と共感してしまったのだった。


Img_0463Img_0469Img_0439 Img_0475 Img_0465 Img_0563

Img_0548 Img_0453












 

なぜか、横須賀へ来ると、帰りのバスはしあわせのバスとなる。富士山が見えようが、見えなかろうが関係なしに、海岸は波を作り出しているし、ヤシの木は風をいっぱいに受けているし、街は人の息吹を自然に伝えているのを観ることになって、帰りの電車はアイディアをエネルギーとして、それこそこの時とばかりにガタピシと動き出して行くのだった。

 

2017/12/20

予てから企てていた「ウィスキーレモン」をつくる

Img_0386 わたしの本を編集してくださった編集者Tさんがやはり左右社で編集した本、『makingつくること』(T・インゴルド著)を読んでいたら、対照(co-responce)という言葉に出会った。意味からすれば、「共呼応」という、二つの対象が互いに共鳴しあって、物事を作り出していく意味に相当すると思われる。Img_0398 つくることは、つくる人と対象物との間の相互に感入する関係だということだ。この観点は、何も新しい考え方でなく、プラトン=アリストテレス以来の「質量形相論」で「個体というものがいかに形成されるのか」という議論の延長線上にあるものだ。衒学的ではあるのだが、改めてアリストテレスの『形而上学』の新訳を購入して、読み直した次第だ。これは次に書く本で、使いたい題材となった。

 

Img_0396 秋に、松本市にあるコンフィチュールの店、シェモモのM氏からおおよそのことを聞いたのちは、「ウィスキーレモン」なるコンフィチュールに憑かれている。このところずっと、これを自分でつくる機会を狙っていた。パンにつけて食べるのに、甘さばかりでなく、苦味と酸味の効いたものが欲しくなってきたのだ。シェモモでもときどき製造しているそうで、そのタイミングに店へ行けば手に入るのだし、Img_0406 また、通信販売という手もあるが、その場合自分でつくる機会を逃してしまうことになる。まずは自分で作ってから、シェモモの「ウィスキーとレモンのコンフィチュール」の購入を考えることにしよう。

 

Img_0392 シェモモではレモンは瀬戸内海産と言っていたのだが、それで、もし自分でつくるとしたならば、「レモン」という素材をいかに手に入れるかがキイポイントとなる。外国産のレモンにはモノカルチャア的な栽培法が取られており、そのため大量生産に有利なポストハーベストの薬が使われていて、ジャムを作るには不向きであることは知られている。Img_0391 また同様に、長期に運搬されるために、ワックスがかかっていて、レモンの皮そのものを使いたいようなマーマレードを作るには、やはり日本産で、ワックスのほとんどかかっていないレモンを探さなければならなかった。

 

Img_0411 もちろん通信販売の発達している現代なので、すぐにもインターネットで無農薬レモンは見つかるのだが、それらは3キロとか5キロとか、少なくとも1キロ以上は購入しなければならず、運送費だけでもままならない費用となるらしい。レモンという対象物にかなりの思い入れと購入のための手間暇をかけなければならないことを、思い知った次第なのであった。まずは、「質量」たる素材に、つくることが支配されていることを実感した。プラトンのようにレシピというアイディアさえ整えば、「ウィスキーレモン」がすぐ手に入ると思ったのが間違いだったのだ。

 

Img_0416 じつは、今回の沖縄出張で、「レモン」素材のことがクリアできた。妻に沖縄の黒糖購入を頼まれていた。沖縄学習センターの事務長Y氏にお聞きすると、黒糖ならばぜひ「多良間」のものをというので足を伸ばしたのだ。宮古島物産店というのが、那覇の国際通りにあって、そこで求めたのだ。それで、ひょいっと隣をみると、そこにレモンがあったのだった。宮古島産の無農薬レモン2個を求めた。

 

Img_0409 あとはウィスキーだ。住んでいる近くの小さなスーパーマーケットでは、ときどき酒類の安売りを行っている。偶然にも今回、通常値段の半値の伝統的スコッチが棚に並んでいた。砂糖は通常の蔗糖で間に合わせた。レシピは以下のとおりとなった。

 

レモン    300g(レモンの量に合わせて、以下の素材の量を考える)

ウィスキー 60g(好みでプラス/マイナスするが、今回はかなり多めにした)

砂糖      200g(今回はもっと少なくした)

水        200gM氏に聞けば水は入れないと答えただろうが、今回は少量)

 

1. タワシでレモンを洗って、4つに割り、皮と身を離す。

2. 身から種を取り出し、ざく切りにする。

3. 鍋に身と皮を入れて、最初は強火で、あと弱火。

4. 砂糖を3回に分けて入れる。

5. ウィスキーを入れて、とろみがつくまで煮詰める。

6. 火を止め、冷まして瓶詰め。これで出来上がり。

 

Img_0421 まだとろみが固まらない汁の暖かいときに味見をしたのだが、自分でいうのも何なのだが、なかなかの出来上がりだった。皮の苦味がウィスキーの苦味と輻輳して、さらにレモンの酸味と、とろみの甘さがそれらに乗り、複合した味が絶妙だったのだ。

 

Img_0424 こうなってくると人間の心理というものは恐ろしいもので、「ウィスキーレモン」の観念がわたしの中に住み着いてしまったのだ。シェモモの「ウィスキーとレモンのコンフィチュール」と、さらにはスコットランドのアイラ島で有名な伝統のモルトウイスキー「ボウモア」のウィスキーマーマレードも取り寄せて、じっくり味わって比べてみたいと思うようにもなっているのだ。メイキングとは、インゴルドが述べるように、観念と素材の限りない相互作用として存在することをコンフィチュールのつくることに見たのだった。

 

2017/12/17

沖縄学習センターで再び面接授業

Img_0337 台風のせいで、というのか、台風のおかげというのか、再び沖縄で面接授業だ。10月の季節外れの台風襲来で、二日のスクーリングのうち、1日分だけようやく消化して、今回後半の授業のために再び来沖した次第だ。

 

Img_0336 この時期は師走というくらいに、私たちにとって、収穫祭が開かれる時期だ。先日卒業研究が終了して、審査発表会が開催されたばかりなのだが、現在の時期は、次の修士論文の締め切りが間近に迫ってきているのだ。Img_0322 仕事なのだと割り切ってしまえば、固まるのを待って、それを取り込み、批評して返せば良いのだが、仕事と割り切れないところがあって、やはり「収穫祭」という言葉の方が妥当な感じがするのだ。それは、ある程度なのだが、一緒に作ってきたというちょっとばかりの思い入れが、わたしにとっても収穫だと思わせるものがあるのだ。

 

Img_0332 今年は、10人ほどの方が入れ替わり立ち替わり、50枚から100枚くらいの分量のファイルをメールで送ってきている。わたしも一度はファイルへワード文書のコメント機能を生かして、なるべく詳細に、時間の許す限り、批評コメントに織り込んで返信している。けれども、何回もコメント機能を繰り返しても意味がないだろうと考えて、臨機応変に短い指摘を文書で送付することも行っている。

 

Img_0334 今年の特色は、1ヶ月前に周到に送ってくるタイプの方はいらっしゃらなくて、だいたい遅め遅めの第1波、第2波、第3波と続いた。このため、論文の重なりが激しかったのだ。特に、最後の金曜日は13日ではなかったのだが、朝の枕元でパソコンが鳴り始め、夜までに6本の論文が送られてきた。このうち3本はすでにコメントを送っていて、2回、3回、4回目のものだったので、簡単なコメントで返した。Img_0328 けれども、あと三日という段階で、初めて送ってきた学生が3人もいたのは初めての経験だ。わたしもその昔、この手のことをした覚えがある。三日前に先生に見せるということを一度行ったことがあり、大手町の地下の喫茶店で呆れ顔でコメントを受けたことがあるので、因果応報とはまさにこのことだ。

 

Img_0326 先日富山出張の折に、天候が崩れ、雪が舞ってきたのだが、その時に体調を崩し、それが1ヶ月も長引いている。この1ヶ月には様々な事件も起こって、ちょっと強い薬を医者に処方してもらっている。その薬が効いている時には、モルヒネの代わりになる薬だけあって、割と気分が仕合せになって、夢のような中にあり、そこではいろいろなアイディアが空を飛んでやってくるのだ。やあと叫んで、論文を突き動かしていくのだ。Img_0323 わたしに構わず、執筆者本人に直接到達すれば良いと思うのだが、と思って返事を出すと、実はそこがキイポイントでしたとすぐに答えが返ってきたりして、このような時には、まだまだ論文書きの商売はやめられないなと思ってしまうのだ。それでも、こんなに3人も残ってしまったのは初めての経験だ。

 

Img_0330 それぞれの人びとに、本来であれば書かれるべく生まれてきたアイディアたちは、今頃どの辺を彷徨っているのだろうか。誰かに取り付いて、この世に現れてほしいアイディアたちだったと言っておこう。未練がましいとはいえ、アイディアたちが可哀想だなと思ってしまうのだ。

 

Img_0327 さて、沖縄行きの時間が迫ってきてしまって、返事を出すのもできないかもしれない。例年はこんなこともないのだが、今年だけは台風のせいだから致し方ないだろう。諦めも自然災害のうちに入るのだ。

 

Img_0335 面接授業の方は、1ヶ月以上も間が空いてしまった。全員の日程あわせは行ったのだが、それでも、この間に新たな予定が入ってしまうかたもいらっしゃったことだろう。わたしにとっては、二日間続けるよりは、1日ずつ切り離された方が1回毎の密度が濃くなったような気がする。話の道草が多くなったことでも、そのことがわかるのだ。

 

Img_0329 「椅子の社会経済学」というテーマで、1年間面接授業を行ってきたが、今回で一応の区切りをつけて置きたいと思っていたのだが、講義をしている最中に、また新しい観点が出てきてしまったので、また、1年後には第2弾として再開しても良いと思ったような、今回の授業だった。

 

Img_0338 今回も、友人のTが夕飯を一緒に摂ってくれるというので、琉球大学から急行便に乗って、安里へ出る。「アグー」という、豚を神に捧げる風習が沖縄にあるそうで、そこでは在来種の豚が捧げられていたらしい。Img_0345 それの復活を目指している農場からの「豚しゃぶしゃぶ」を食した。中学からの友人Tと、なぜ会いたいのか、と互いに問うたのだが、やはり「懐かしさ」かなという常識的な答えに、雑談が巡り巡った果てに到達したのだった。Img_0349 互いの自慢をしてもそこそこだし、互いの不幸を嘆いてみてもそこそこなのだ。元は一緒ではないかというところに、いつも落ち着くのだった。

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。