2017/05/11

青空のもとで、デンマーク・デザイン展

Img_7647 なぜこれほど、わたしが観たいと思っている展覧会が次々に開かれるのか、不思議なのだ。逆に考えれば、みんなが観たいと思っている展覧会に、わたしの趣味が迎合しているということなのかもしれないのだが。けれども、それで訪れる展覧会が他の展覧会よりも空いているのも、もっと不思議なことなのだ。

 

Img_7699 青空の広がる横須賀の海を、貨物船や軍艦が通り過ぎていく。時折、小さな漁船もスピードを上げて横切る。5月の浦賀水道は、行き交う船でまんぱいだ。Img_7719 バスを降りて、真っ青な海を左手に、浦賀へ通じる道を右に横切ると、なだらかな丘の上に横須賀美術館の建物が広がっている。建物の前面には、レストランのテラス席が並んでいて、ランチ後の喫茶を楽しみながら、こちらを見ている客たちが見える。Img_7652 丘には、芝生が敷き詰められており、緑が青空に映える。ときどき、白く見えるまだら模様は、クローバーの花がかなり蔓延っているせいだ。

 

Img_7659_2 今回のデンマーク・デザイン展で特に見たいと思っているのは、もちろん椅子作家たちのデザインだ。ヤコプセンやウェグナーたちのものは、日本では公共の施設などで使われていて、よく目にする。また展示会も以前ここで紹介したように、銀座などのショールームで頻繁に開催されている。Img_7674 今回の最後の展示コーナーには、PPモブラー社の提供のものと思われる、ウェグナーのカウホーンチェア・ザチェア・アームチェアなどの笠木ができる過程を展示していて、どのくらいの原木から最後まで削り込むのかがわかるようになっている。Img_7685 そして、この灰色のカーペットの範囲内であれば、テディベアチェアやサークルチェア、さらにザチェアなどにも、実際に座ってみて、写真も自由にとって良いということだった。やはり、椅子では触感が重要で、お尻が椅子を覚えているということがあるのだ。

 

Photo 日本人の好きな椅子作家として挙げる一人に、デンマーク・デザイン作家のフィン・ユールがいる。部材を細く削って、独特で繊細な曲線を取り入れている、この椅子たちが素晴らしい。ところが、このフィン・ユールの椅子はパーソナルチェアが多いからなのだろうか、公共の場ではあまり見かけない。今回の展示でも、「個人蔵」という椅子が多かった。だから、今回の展覧会では、特別に注目していたのだ。展示室へ入ると、黄色い基調の有名なチーフテンチェアが現代貴族の椅子然と目立っている。後ろ足が三角形で上へ行くほどすぼまって行って、最後に雨だれのような小さな塊で終わっているところなどは、ほんとうに泣かせる。

 

Nv46 けれども、今回の目玉とわたしが目指してきたのは、モデルNV46で、1946年に造られたラウンドチェアだ。このモデルの2年前にモデル44が作られていて、これはおそらく試作という位置付けなのだ。12脚しか造られていないのだそうだ。フィン・ユールの特徴は、モデル44で止まらずに、モデルNV46へ展開したという、この展開そのものにある。おそらく、ウェグナーならば、逆でNV46が試作品で、それから発達させて、44へ行きついたのだろうと思われるのだが、この対比が比類ない面白さをもたらしている。

 

44 もし効率性を考えたら、完成度の高いモデル44を制作するのではないかと、企業であるならば考えたに違いないのだ。こちらの方が部品の数も少ないし、削りに大量生産方式を取り入れやすい構造を持っている。つまり、モデル44では、後脚は二次元で切り出されていて、45度に転ばせて、三次元に見せている。名作椅子の常套手段をかなり忠実に取り入れているのだ。写真で後脚の1本が斜めのこの方向から見て、まっすぐに伸びていることから切り出しは二次元であることがわかる。ところが、NV46では、後脚は完全に三次元で切り出され、なおかつ接合部分の形状は手作業で、手間をかなりかける構造をとっているのだ。これは写真だけ見てもわからない。実際の椅子を見て、触って見ないとわからない部分なのだ。なぜフィン・ユールはモデル44で満足せずに、モデルNV46を制作したのだろうか。それはまさに、このところに象徴的に現れている。機能的であっても、過剰というものがここに出ていることがわかる。フィン・ユールの椅子には、この過剰性が必要だったのだ。

 

Img_7703 先ほどのレストランで、遅ればせのランチを取る。海の青さと空の青さのもとでの食事は格別だ。パスタとピザを妻と二人でそれぞれ取って分けた。

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ピザのチーズは塩味が効いていて、ピリッとしまった昼食となったのだ。


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2017/05/07

はぐくむ工芸ー工芸の五月「子ども椅子展2017」ビデオ

これらの映像は、2017年5月2日から松本市美術館中庭で行われた、工芸の五月「子ども椅子展2017」を写したものである。少しずつ分けて、1〜4番目までの映像を載せた。時間がなかったので、音楽なしの無粋な映像で恐縮だが。この展覧会は、この後5月15日から6月25日まで、松本市中町通りの「グレインノート」へ移して開催される。子どもたちが座ってみることができる参加型の展示会となっている。「座ることが好きだ」という子どもたちが毎年集まってくるのが素晴らしい。主催は松本クラフト推進協会の中にある工芸の五月実行委員会で、松本市美術館が中庭会場などを提供するなどの協力を行なっている。広がりのある活動だと思う。


映像1
映像2
映像3
映像4

2017/05/01

松本市美術館で連休中にヒアリング調査

Img_7529 松本市美術館の中庭で毎年開かれている、「工芸の五月」の催し「子ども椅子展−はぐくむ工芸−」へきている。今日は、明日から開かれる展示、つまりは子ども椅子なのだが、この搬入が行われる。Img_7397_2 そこで、次々訪れる椅子の職人作家の方がたへヒアリングを行おうというのだ。じつは「なぜ椅子を作るのか」という質問を作家たちにぶつけてみようと、グレインノートのS氏が言い出したのに、わたしも乗ってしまったのだ。Img_7405 最後は、書籍になるかもしれないし、わたしの研究に組み込まれることになるかもしれないが、まだ全体像はわからないのだ。

 

Img_7410 今回、25名の方がたが出展していて、この方々の多くが9月に松本市中町通りにある工芸店「グレインノート」での椅子展にも、同じく大人椅子を出展している。今回は、この9月の椅子展の写真をS氏からお借りして、それを見ながら、20名あまりの方がたへ聞いてみようということになっている。Img_7482 それにしても、この写真集には全部で8年間分が詰まっていて、系統を整えて見ていくと、たいへん興味深いものになっている。よく記録が保存されているなと思える貴重な資料だ。Img_7308 ヒアリング調査の方では、最初はしゃべるのはイヤだ、椅子の図を描くなら良いよ、などという作る人特有の意見が聞こえてきたのだが、S氏の存在感ある、熱心で強い説得に、みなさん渋々ながらしゃべり始め、途中からはむしろ意欲的に話してくださったのだ。

 

Img_7313_2 初日には、一人を予定していたのだ、S氏が次々に捕まえてきてくださって、じつに1日で4名の方々のヒアリングをこなしてしまった。Img_7578 10時から始めて、昼食も忘れ、帰りの電車の時間いっぱい頑張ってしまった。これまでのヒアリング調査では、1日に2人くらいが標準であったのだから、かなりのところ許容量をオーバーしたのだ。Img_7468 仕事の進む快感と、対話の面白さとで、身体は疲れたが精神的にはむしろ爽快感が残ったのだった。

 

Img_7474 聴くことは結構疲れるのだが、それはヒアリングでは話の繋がりが重要だからなのだ。Img_7478 関連したことが次から次へ結びつき、その中から有効な問いと答えが生まれてくる。たとえば、椅子の部材を削ることに熱心な方が数人いらっしゃった。なぜ「削り」ということに熱心になるのか、ということを聞いていくのだが、それぞれ理由は異なるのだ。ある方は鉋の使い方に工夫があると言い、ある方は手の感触に特色があると言う。Img_7582 それぞれ話の繋がりが異なっていて、それを問いとして成立させるのには、かなり神経を使うことになるのだ。そして、ここに話の中心があるというところを突き止めなければならない。

 

Img_7480 興味深いところはたくさんあって、書籍になる頃には明らかにしたいと考えているのだが、今回聴いてみて、「椅子の言葉」として定着できることとできないこととがようやくにしてわかってきた感じだ。Img_7473 たとえば、職人技の持っている「暗黙知」の部分はおそらく「椅子の言葉」として聴き取ることはできないかもしれないという予感はあったのだが、じっさいに行ってみると、それ以上だ。

 

Img_7479 経済問題に近いところで取り上げるならば、「手間」という問題がある。仕事にかかる労力と時間のことを言うのだが、とりわけ時間がかかる仕事を指す。けれども、詰まるところ、手仕事で「手間」を省けば良いのかと言うとそういう訳には行かないところが面白いのだ。Img_7409 通常の労働であれば、効率性を問題にするので、手間を最小限にすることを目指す場合が多い。けれども、手仕事の場合には、どこでその職人が付加価値を取るのかが重要なのだ。これは意外なことだったのだが、聴いてみるとなるほどと思った。Img_7404 一番「手間」のかかるところで、その人本来の付加価値が生まれるとのことだ。だから、聴いた方々おしなべて言うのは、肝心なところでは手間を惜しまないということだった。この辺を中心に考えていくと面白いことになるのだ、という感触があって、たいへん楽しかった。


松本市美術館へ通う道は、わたしがこの深志にかつて住んでいて、大手の裏町にあった幼稚園へ歩いて通った道筋だ。とくに、薄川扇状地の地下水が湧き上がる「源池」の源泉近辺の側溝の水は澄んでいて、水の豊富さを感じさせる。この小川みたいな側溝を飛び越える時の感覚が、幼稚園時代そのままにわたしの中に残っていることがわかる。この脇には、通っていた習字教室があり、さらに帰りには数時間見物しても飽きなかった、鉄工所跡があって、鉄を焼き付ける匂いが鼻の中に蘇ってきたのだった。

Img_7518 昔の庄屋の倉庫が「工芸の五月」イベントへ開放されていて、水出しコーヒーの管が展示されていて、コーヒーが抽出されていた。Img_7522 これだけの広さがあれば、書庫にもってこいだ。どなたかわたしにも昔の倉庫を提供してくださる篤志家がいらっしゃらないだろうか。

 

毎日のランチは椅子の人びとと1回、近くの蕎麦屋へ行ったほかは、中町通りの「chiiann」で2回、パスタランチとキッシュランチ。Img_7434 それから、あがたの森公園通りの「栞日」でカレーランチ2回、あとは昼食抜きで、ほぼ1週間美術館へ精勤したのだった。コーヒーは、それぞれの喫茶店で飲んだ他に、いつもの焙煎豆売専門店「ローラ」でインドネシア産の濃厚な珈琲豆を手に入れて、水筒へ淹れてきていた。食事のついでに、chiiannでは、オリジナルの木綿トートバックも購入した。これには、北アルプスとCカステラが描かれていて、きっと何か物語が隠されているのだろう。Img_7448 それから、美術館の帰り道では、コンフィチュールの「シェモモ」ご主人M氏がお子さんの散歩に付き合っていたので、ご挨拶した。じつは会期中に店にも寄ったのだ。Img_7306 今回購入したコンフィチュールは、「レモンとバニラとグレープフルーツ」で、相変わらず多様な果物のバランスが良く、程よい刺激的な味が美味しかったのだ。

 

Img_7268 短く感じた1週間だった。結局、18名の方々のヒアリングを行ったのだった。Hさん、Kさん、Yさん、Mさん、Hさん、Oさん、Tさん、Kさん、Tさん、Kさん、Yさん、Aさん、Yさん、Sさん、Sさん、それから、松本クラフト推進協会のTさん、Kさん、Kさんにもご協力いただいた。ほんとうに感謝申し上げる次第だ。Img_7563 5日目のKさんからは、写真のような惚れ惚れする形の良いカトラリーをいただいた。柿渋の後、エゴマで覆っていて、このような深い色が出ているのだそうだ。

*この「はぐくむ工芸(子ども椅子展)」は、5月15日から6月25日まで、場所を松本市中町通りの「グレインノート」へ移して展示される。また、放送大学授業科目「色と形を探究する」第12回(6月26日20時から)で2016年の子ども椅子展、第14回(7月10日20時から)で2016年の椅子展がそれぞれ、放送大学のテレビ番組として放映される予定である。興味のある方はぜひご覧ください。

2017/04/29

天川晃先生、林敏彦先生が逝去される

427日に政治学の天川晃先生、28日に経済学の林敏彦先生が、相次いで亡くなった。それぞれ放送大学で、10年あまりに渡ってお世話になった。「社会と産業」コースの中でも、実際の職場で一緒に仕事をさせていただいたという公式の立場よりも、職場以外のゼミ、合宿、飲み会などでの立ち振る舞いや、言動での声の調子などでの印象が強い。二先生とも、日本における政治学と経済学の正統的な本流を歩んできているので、放送大学における存在感よりも、公的な場所での存在の方が大きかったと記憶しているのだが、もちろんそれを超えて、非公式での印象も深いものがあったのだ。

 

二先生とも、若い頃から、そして現役時代にも合唱団に関わっていたと聞いている。もちろん声質は違っていて、低音であったりバリトンであったりするのだが、よく通って聴きやすい声音だった。天川先生は神奈川の交響楽団とも共演する合唱団に所属していた。また、林先生は米国滞在中に、小澤征爾の合唱指導を受けた経験があるとのことだった。小澤はまず歌わせてみるそうで、最初にその合唱の良い点を褒めるのだ。そして、人びとが図に乗ってきたところで、成長曲線へ載せるべく、厳しく1ランクほどアップさせる指揮を行うとのことだった。天川先生のゼミは、合唱団のように結束が硬かったし、林先生のゼミ運営では、成長めざましい学生たちが次々と湧出したのだった。

 

合唱団での経験が、それぞれの学問方法にどれほどの影響を与えていたのかは、推測してみることしかできないのだが、思い出してみると、若手にどんどん新しいことを行わせ、勢いをつけるという方法には二先生とも長けていたといえる。それはきっと、合唱団での方法も影響を与えていたのではないかと考えるのだった。きっと天の上からも、みんなを引き上げてくださっていることだろうと思われるのだ。ご冥福をお祈りいたします。

2017/04/20

ブロイヤーの椅子

Photo ブロイヤーの椅子は、近代的デザインの申し子ともいうべき位置を占めている。並み居る椅子の中でも、とりわけ最も近代性という特徴を備えている。主たるブロイヤー作品の多くが金属パイプを多用していて、可塑性に富んでいるのはその一例だ。そのため、大量生産へ結びつく可能性を感じさせる。デザインのシンプルさは、多くの機能主義モデルの最右翼を占めていることは間違いない。ブロイヤーの椅子と並べて、これ以上に近代的だと比較できる椅子はあまり存在しない。

 

Photo_2 ブロイヤーの椅子は、デザイン源流のひとつと数えられている「バウハウス」の近代的デザインが生まれる中で育ち、それをさらに内発的に受け継いでいるなどの特徴は直ちにあげることができる。文化的に見ても、社会的に見ても、さらに経済的に見ても近代的なのだ。最終的に、機能美が椅子デザインの内側から起こって、必要最小限の素材を使うことで、椅子という領域の枠を広げる領域侵犯を招来していて、新たな椅子の概念を打ち立てている。

 

Photo_3 けれども、今回の近代美術館の展示で知ったのは、鉄やパイプを中心に発展させた椅子の始まりが、じつは木製椅子であったという、これまで想像していなかった展開があったことだ。この木製椅子のシンプルな見事さはさることながら、この狙いを推察するならば、やはり金属パイプへの転向は自然な流れであったと思わざるを得ない。ブロイヤーにとって何が革新の出発点であったのかは、想像することしかできないのだが、よく見ていると、やはり脚の構造にあったのではないかと思われる。木の椅子では、部品の数が多く、複雑な構造になってしまうのだが、金属パイプでは脚が固定されるものの、身体の揺れに対して椅子自体が自由に戯れ、さらにその機能がシンプルに実現される構造への転換が起こったということではないだろうか。

 

Photo_4 もう一箇所注目したのは、バウハウスの画家カンディンスキーのために作ったと言われる「ワシリーチェア」椅子のパイプ結合部分である。一見するところ、この結合部分も近代的な考え方に従えば、部品を少なくして標準化を図るためには、一体化された構造が選ばれるのではないかと想像していたのだが、そうではなく、輸送して組み立てるのに便利な構造が選ばれている。コンパクトにして留め金で自由に結合できる構造が数年間の試行錯誤ののちに選ばれているのである。部品がバラバラで組み立て式の方が、操作性も良いのだ。

 

Photo_5 さて、展示会場の外には、写真撮影コーナーが作られていて、バウハウス時代へ自分がタイムスリップすることが可能となっているのだ。ここで、仮面をつけて、ワシリーチェアに座ると、近くの美術館の係員が写真を写してくださるのだ。Photo_6 なぜ仮面なのか、そういえば、近代性のひとつの特徴は、匿名性にあったなと思い至るのだった。竹橋を渡り、毎日新聞社の地下を通り、東西線地下鉄に乗った。

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2017/04/16

バイオリンのこと

Photo なぜバイオリンを弾き続けることができなかったのか。この想いがときどき蘇ってくる時がある。幼稚園時代から、小学校4年生までバイオリン教室に通っていた。特別な教室ではなく、当時信州の松本市に住んでいて、この松本市にはスズキメソードと呼ばれる世界的な教室チェーンの本部があって、街の近くには必ずバイオリンの教師が一人はいるという珍しい街だったのだ。この街の掟に沿って、木曽の幼稚園時代から引き続き松本の小学校時代にかけて、バイオリンを習っていたのだ。(写真は当時の松本市大手の裏町にあった「松本音楽院」で、スズキメソードのHPに載っていたものだ。1階にはバイオリン教室が並んでいて、2階には幼稚園時代の後半の1年間通ったスズキメソードの幼稚園があった。)

 

Img_7552さて今日は、妻から紹介された小説『櫛挽道守』(木内昇著)を読んでいる。バイオリンの話と関係するような気がしたのだ。こちらは職人技の話である。木曽に伝わる「お六櫛」という、櫛歯が細く、繊細な櫛を挽く職人技があって、この木曽地方独特の職人技継承の物語である。この櫛挽きには特別なキャリアを必要としていて、言葉では表すことのできない、手元を後ろから見て、技を盗むような修行が必要とされる。伝統的な職人技の本質が描かれている。

 

Img_7551 通常の徒弟制の良いところだとあげられるのは、どんなに合わない下手な人でも、ある一定の年季を積めば、途中で投げ出さない限りは、標準的な仕事を覚えて、独り立ちしていけるところにある、といわれる。ところが、職人技の恐ろしいところは、のちのちこの標準的な手仕事キャリアに加えて、それを超える力量が問われる点にある。ここに雇われ職人と、独立職人の違いが現れることになるのだ。この本では、この職人のタイプが書き分けられていて、たいへん興味深い。

 

先日、4月の授業の準備のために統計データを探して、ここ1ヶ月間の日経新聞を渉猟していたら、「龍五」という懐かしい固有名詞が目に飛び込んできた。T大の物理学の先生をなさっているHR氏がご自身の半生を語っている記事であった。ご本人にはこちらの記憶はないかもしれないが、当時スズキメソード本部の裏町でのM教室で、わたしはレッスンを受けていた。ところが、隣のレッスン室から標準をはるかに超える綺麗な音が毎度聞こえてくるのである。その音の主がHR氏であった。

 

ある期間、なぜバイオリンを弾くことを止めたのか、という問いに、このことを理由にあげた時期があった。ほぼ同い年で、近くに素晴らしい音を奏でる少年がいたから、続けてもダメではないかと思ったと答えていたのだ。現在となっては、とんでもない不遜な言い方だったと反省しているのだが、当時の先輩たちの中には、バイオリン弾きの将来を嘱望されていた人びとがたくさんいたのだ。

 

その新聞記事を読むと、HR氏は小学校時代もバイオリンを続け、さらに中学校時代には米国派遣の第1回少年バイオリン隊に選ばれて、米国各地を演奏旅行するまでになったのだ。ところが、このHR氏をしても、高校受験に際して、バイオリン弾きのプロを目指すことを止める決断に至ったらしいのだ。そのときの理由が、まさに「近くに素晴らしい音を奏でる人がいたから止めたのだ」と述べている。当時から、何万人に一人しかプロにはならないことは理解していたのだが、このように生々しい重層化した現実があることは、身を以て経験してみないと最後のところはわからないものだ。ここで、重要なことは、ほんとうのところ「近くに素晴らしい音を奏でる人がいたから止めたのだ」ということではなく、止める理由としてあげるのに、都合が良かったということだ。少なくとも、わたしの場合はそうだった。自分の中で、そろそろ面白くなくなったと感じていたことを表に出すのを恐れていたからだ。

 

けれども、この時点でバイオリンを止めたために、その後聴くことに関しては、ますますバイオリンの音色が好きになったということは確かにあるのだ。もしバイオリン教室に通うことがなかったら、中学校時代に仲間たちと渋谷や文京などのコンサートを夜になっても聴き歩くこともなかっただろうと思われるのだ。いやいやながら続けていたら、ますますバイオリンが嫌いになってしまったことは間違いないと、今では思っている。

 

2017/04/06

パン日和「あをや」で、春カフェ

Img_6982 O先生との春カフェを、パン日和「あをや」で行う。予感のあったのは、お花見にも行くのではということだった。横浜駅から横須賀線に乗って、一駅目の新川崎で降り、超高層マンション群が軒を連ねる中に、一列だけ満開の桜並木があった。Img_6995 今年一番の満開に魅せられてしまって、道々に咲くタンポポや梅の花も「春だな」と感じさせてくれたのだが、やはり桜のこのイメージがずっとあったのだ。

 

Img_6999 パン日和「あをや」に着くと、奥様が店の前の「鉢のスミレ」に水をさしていた。「あれ、夕方じゃなかったですか」とおっしゃって、メールを確かめていた。一瞬、O先生が間違えたのかなと思ったが、そうではなかったようだ。Img_7004 黒板の右隅に、本日の特別メニューとして、「アスパラガス・スペシャル」と書かれていて、この北海道から送られてきた、巨大で太い野菜を見せてくださったのだ。これは期待できる。

 

Img_7005 今日のドリンクメニューにあった「抹茶ミルク」を飲んでいると、O先生が店の前景写真を撮りながら登場なさった。先週には、松本市を互いにちょっとずれた時期に訪れていて、その時の話題となった。Img_7011 昼食は、先ほどのアスパラガスを使った「アスパラガス・スペシャル」と、スープは「ナスとチキンのタイカレー」だ。Img_7015 そのあと、奥様のサービスで、友人からいただいた珈琲「ニカラグアサンタフェ農園のモランゴ」を振舞ってくださったので、デザートのパンとして、「スフォリアテッレ」をお願いする。Img_7016 アーモンドクリームが美味しい。このニカラグアの珈琲豆は、モランゴすなわち苺を意味するらしいのだ。確かに、最初の一口にストロベリーの香りがして、その後の味にも、かなり酸味が効いていて、苦味よりは酸味の好きなわたし好みの味だった。

 

Img_7012 それにしても、この「あをや」の北海道直送アスパラガスは、圧倒的な存在感だった。野菜というものは、そもそもその地域へ行けば、存在感を示すのは当たり前なのだが、やはり都会でこれだけのものが目の前に現れると驚きを感ずるのだ。サラダにちょこちょこと入っているようなものとは違って、存在感があるのだ。添え物としてのアスパラガスが、突如として主役を張ったというところだろうか。Img_7018 これだけ大きくなってしまうとふつうは筋が残ってしまって、サトウキビの茎をかじっているような感じになってしまうのだが、このアスパラガスは程よい歯ごたえはあるものの、筋のあるという歯ごたえでなく、肉厚の柔らかい野菜という食感なのだ。Img_7000 Img_7020 アスパラがメインの昼食となった。そういえば、「このアスパラガスをただ焼いたものはほんとうに美味しいのですよ」と奥様に言われていたのをすっかり忘れてしまって、帰ってしまったのだ。今度ということがない、いつ手に入るかわからないものなので、たいへん残念な気分だ。焼きナスならぬ、焼きアスパラを食べたい。

 

Img_7008 O先生との雑談の中で思い出したのだが、日経新聞のコラムについて話題を出したのだ。じつはこの経済紙が経済紙たる所以のひとつとして、月曜日版には必ず「景気指標」欄が設けられてきたのだった。Img_7002 それが、この3月でここ数十年の伝統を破って、この欄が廃止されたのだった。これは時代の象徴ではないかと言い、かつ現代人は紙版の新聞を読まなくなったと言ったら、雑談なので繋がりはかなりなく話題は飛んで行くのだが、O先生はこれにつなげて、若者の意識も変化してきていることを述べられた。Img_7014_2 大学を出てすぐの若者たちは、現在では転職するのが当たり前の風潮が存在することを強調していた。職場というものが固定的な場所ではなくなる傾向を示しているということだろう。一つの職場で、紙版の新聞を、みんなが共通に読むというコミュニケーション文化それ自体が変化していることなのかもしれない。

 

Img_7035 あまりに天気が良いものだから、歩くには少し遠いのだが、駅の反対側にある「夢見ヶ崎公園」へ行こうということになった。O先生は、先週の松本旅行の疲れがあり、なおかつ、一昨日は小石川植物園でかなり歩いたらしいので、あまり歩きたくなさそうだったのだが、公園にある動物園もさることながら、お花見を期待したのだった。一歩帰る方へ踏み出したのだが、足の二歩目を方向転換してくださった。

Img_7112 この公園は、かつて近畿圏古墳文化の前方後円墳が10あまり固まって存在する歴史ある丘なのだ。そして、近世には太田道灌がここに城を築こうとして、夢見が悪かったので、築城をやめたという言い伝えがあるところなのだ。この写真にあるように、どのように夢見が悪かったのか、説明看板の肝心なところの語句が傷つけられていて、想像するほかない。O先生は「刀」かな、と言い、わたしは「首」かな、と思ったのだった。さて、正解は何なのだろうか。

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この公園にはラマの桜や、山羊の桜など、桜も満開のものから葉桜まで、多様な桜があって、堪能したのだが、それ以上に印象に残っているのは、スギ木立が50メートルほどのトンネルというのか、ラビリンスというのかを作っていて、この木立の中が幻想的なひとつの世界となっていて、子供たちを引きつけていたことだった。Img_7122

写真からはわからないかもしれないけれども、木立という、木でできていると安心感があり、さらに閉じられた、美しい完結した世界がありそうなところが魅力なのだ。Img_7088

動物園の、顔の大きな、優しい目をしたロバに乗って、この木立をくぐり抜けたい。このような想像を羽ばたかせるほどの木立ラビリンスだったのだ。

 

Img_7209 春カフェの最後は、蒲田まで行って、この蒲田の象徴たる「呑川」の桜を見ながら、最近O先生が見つけたシフォンケーキと紅茶の喫茶店「カフェ・スリック」へ入る。Img_7224_2 注文したのは、スパイスシフォンで、4種のスパイス、ジンジャー、シナモン、ナツメグ、クローブが生地に入っているものだ。ホイップクリームとスパイスのコンビネーションが良かった。Img_7228 はちみつの溶け込んだ焼きリンゴが添えられている。この焼きリンゴだけでも、十分に紅茶の友となるくらいだ。Img_7227 紅茶は、これも珍しいというのか、わたしが味わったことがないだけなのかもしれないのだが、松の木で茶葉をスモークした濃厚な味の「ラプサンスーチョン」を頼んだ。濃い味なのだが、渋みの少ない紅茶だった。


*注:

O先生のブログは、こちら。それから、先ほどのクイズで、太田道灌が夢の中で、鷲によって持ち去られたのは、「兜」でした。正解の方は、歴史的想像力の旺盛な方だと思います。O先生のいくつか挙げた中にも、兜は入っていましたね。

2017/03/31

知識循環研究プロジェクトの終わりと印刷教材の電子保存

Img_6972 2003年から続いてきた「知識循環研究プロジェクト」が終わりに近づいている。放送大学の規定に則って、また振興会の許可を得て、印刷教材書籍の約9割の電子化を行った。放送大学設立の1985年から2014年までに至る、およそ2千冊分の印刷教材をDVDに納めて、このような形になったのだ。

 

Img_6977 当初の知識循環研究では、放送大学の放送教材、つまり映像の検索を行い、二次利用につなげようという研究開発だった。これは、3年くらいで文部科学省からの資金が終焉したのに合わせて、プロジェクトも終了した。これだけでも、相当な記憶装置を使った。これらは、研究が終了した時点で、保存目的以外のものは消去することになっている。

 

Img_6973 その後、この知識循環研究を継続することが文部科学省から求められたので、放送大学の内部資金や放送大学教育振興会助成金などをつないで、ようやくここまで来たということだ。この10年間には、主として放送大学の印刷教材のほとんどを電子化することに注力してきた。だいぶわたしの研究費もつぎ込んだので、かなりの負担と労力を使ってきたな、という感慨がある。また、同僚のH先生とK先生にはたいへんなご支持とご協力とをいただけた

 

とりわけ、実際に電子化作業にあたってくださった、SさんとKさんにはほんとうに感謝申し上げる次第である。ちょうどお子さんたちが小学校へ入り、次第に手から離れ、大学を出て、社会へ出て行く時期に、時間を割いて働いてくださった。丁寧で細やかな作業は、コンピュータを使うとはいえ、熟練が必要とされる作業だ。ちょっとしたやり方次第で、粗雑になったり、画像転換がうまくいかなくなったりするのだ。それをうまく制御して、綺麗な電子化を行ってくださったのだ。

 

今回、振興会からの資金が最後の3年計画となり、それ以上は無理だということで、計画がこれで切れることになり、終了ということになった。また、印刷教材自体の保存が悪く、電子化に使用できる紙版の原本が枯渇してしまったという事情も重なったのだ。じつは紙版自体の印刷教材も全部揃っているのは、附属図書館の1セットしかないようだ。今回の終了で、電子化のこの熟練した技能が失われてしまうのは、残念である。時には、他の先生方から頼まれて、その著書を電子化してあげたこともあるほど、腕を買われていたのだ。先日会食を近くのイタリアンのOREAJIで行った時に、この10数年間の思い出を出し合ったのだ。

 

Img_6462 年度末には、他にもこのような成果物がようやくにして出来上がってくる。じつは先日、いつも季節カフェを一緒するW大のO先生から、ご著書『変容する社会と社会学』が送付されてきていた。近代社会の「成功の物語」と「幸福の物語」と、その機能不全という、O先生の図式が説得的に語られていた。頭の中がすっきりとして、整理されるという論文だった。

2017/03/30

椅子と、椅子の言葉と

Img_6905 朝、雪道を散歩するのは、気持ちが良い。白い輝きが目を覚ましてくれる。この覚醒効果は素晴らしい。また、目を閉じると、ツーンとくる零度の香りがする。山の背へ向かって、樹々が立ち上るのが「図」とすれば、雪は油絵のキャンバスのような「地」を構成していて、山里の落ち着いた空気が伝わってくる。香りには生くささが少しもなく、硬質な感触を身体全体へ届けようとする。

 

Img_6898 ヘンリー・ソローの小さな小屋にはこんな飾りはなかったけれど、雪の広大さの中に立つ小屋は、明らかに雪を慮っているかのような気がする。それを、右目で眺めつつ通り過ぎながら、コミュニティバスへ乗った。

 

Img_6888 じつは田舎の家の水道管が凍結して、それに気づかずに破裂に至ったのだ。凍結で水道管にヒビが入り、その後の気温の緩みで、一気に水道水が噴水と化し、1階のリビング全体が水浸し状態となった。Img_6833 お世話になっている建築屋さんにお願いして、修理工事を行なってもらってはいたのだが、やはり掃除などは本人が行わなければならないと駆けつけた次第だ。ほぼ1日かけて、一応の清掃が終わり、市役所で水道料金の減免措置の手続きを済ませ、帰りの電車に乗ったのだ。

 

Img_6919 四月から新学期が始まるのだが、新しい研究計画を立てていて、今年は「椅子の社会経済学」というテーマで、様々なことを企てようと心に抱きつつ、研究も進めようと考えていた。椅子作家たちをヒアリングして、2、3年かけて椅子と椅子をめぐる産業についての社会経済学の可能性を探ろうというものだ。

 

Img_6920 この話を聞いてもらおうと、松本市中町通りにあるグレインノートのS氏を訪ねたのだ。近くの女鳥羽川沿いにある喫茶店「まるも」でじっくりと話すことができた。すると、どうだろう。思ってもみなかったような展開があったのだ。詳しいことは、2、3年先の結果をみていただくことにして、せっかくだから、わたしの研究だけに終わらずに、椅子作家たち自身の本を作ろう、という話に変わっていったのだった。きっかけは、S氏がある本を引き合いに出して、わたしがその本の現代版を作るというのはいかがか、とおっしゃったことから、話はどんどん深まっていったのだった。

 

Img_6932 まず、椅子作家の方がたが、自分の言葉で、自分の椅子を表現したことがあるのだろうか、という問いをしてみた。椅子は椅子であって、現物が存在すれば、それで良いのだ、ということがあり、なかなか「椅子の言葉」というものは存在しないことがわかったのだった。このことは、わたしにとっては新鮮な感覚だった。椅子があれば、「椅子の言葉」も当然に存在するのだろう、と思っていたのだが、そうではないのだということだ。これは面白いな、というのが二人の一致した考えだった。

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Img_6931 などなど、まだまだ不確実なことがたくさんあるのは確かなのだが、先が見通せないことは決してマイナス効果をもたらすだけではない。むしろ期待を生む効果が勝る場合があるのだ。先ずは5月の連休目指して、椅子作家の方々への聞き取りを始めることにして、豊かな気分で「まるも」を後にした。Img_6957 グレインノートへ戻って、S氏の奥様にそのことを話すと、「椅子の言葉」の文章をみて、アイディアを出すことは面白そうだとおっしゃって、お誘いするとこの計画にご参加いただけることになったのだった。年度末には、何らかの転機が訪れるのだ。

 

Img_6929 駅までの途中、小腹が空いたので、グレインノートの近くの喫茶店「チーアン」へ寄ろうとしたら、木曜日は定休日だということで残念だった。もう1軒のいつも寄る喫茶店へ回ることにする。かつて市電通りだったところにあるブック・アンド・カフェ「栞日」で、カフェオレとレモンスコーンを注文する。Img_6936 栞日のご主人が、会うたびに大きくなっているお子さんを抱いて現れて、今回の展覧会の説明をしてくださった。「ウチダゴウ」という、松本で詩人とデザイナーを行なっている方の展覧会だった。Img_6958 中でも、スコットランドの7篇の詩ポスターには、緊張した日本での心を解放させるに十分な、スコットランド的自由が躍動していて、そして、とりわけ字体の綺麗さに心を動かされた。

2017/03/26

「正岡子規」展を観る

Img_6703 冷たい雨が降っている。関内駅で地下鉄を降り、横浜スタジオの横を通り抜け、フランス山の急な階段を駆け上って、いつもの風車の脇をすり抜けて、港の見える丘公園に出る。Img_6708 お花畑を横目で見ながら、霧笛橋を渡ってお話の世界へ入っていく。F氏と神奈川県立近代文学館で開かれている「正岡子規」展を観る。

 

Img_6713 先日、上野の「正岡子規球場」の話を書いたところだが、なぜ正岡子規が野球殿堂入りしているのかといえば、この「野球」という言葉を編み出したのが、子規だからだそうだ。幼名が「のぼる」というところから、「ノボール」という言葉になり、「野球」となったのだ。ほんとかなと思ってしまうほどのユーモアだ。ちなみに、ベースボールの中国訳は、F氏によれば「塁球」なので、直訳なのだが、日本では違うのだ。Img_6717_2 このような駄洒落めいたところが随所に正岡子規には見られる。とりわけ、夏目漱石との間で、笑いの掛け合いをしているところがたいへん面白かった。子規の批評を偽名で行っていて、その名前が「平凸凹(たいらのでこぼこ)」という名称を使っていたりする。このユーモア抜きに子規周辺を理解できないことを知る。

 

Img_6715 子規の若い頃の考え方で、ズバッと書いていて素晴らしいなと思えるのが、学問の中核にある「好奇心」についての記述であった。展覧会では、22歳の時の『水戸紀行』を引用していた。「好奇心といふことは強く遠く遊びて未だ知らざるの山水を見るは未だ知らざるの書物を讀むが如く面白く思ひしかば」と記されている。好奇心とは「強く遠く遊ぶ」ことである、というのは、素敵な言い方だと思う。Img_6711 好奇心では、「強く遊ぶ」ことと、「遠く遊ぶ」ことの両方が必要なのだ。強く遊ぶというのは、遊びに夢中になるという性質をよく捉えているが、さらに遠く遊ぶということがもっと重要なのだと思われる。日常から離れて、専門から離れて、中心から離れて、周辺から遊ぶ中で、好奇心は育まれることを説いていて、「うん、なるほど」と思ったのだった。経済学者ヴェブレンの言葉に、「怠惰なる好奇心」という言葉があるが、「遠く遊ぶ」というのは、この系列に属する考え方だと思った。

 

Img_6719 F氏は盛んに、子規と漱石との関係に興味を持っていた。展覧会には、第1高等学校時代の成績表が出展されていて、子規の同級生に漱石や南方熊楠や山田美妙が並んでいた。展覧会の解説者による説明文によると、漱石がアイディアを重視したのに対して、子規はレトリックを重視したと記していた。小説家は新しい話を作ることに秀でるのだが、俳句はレトリックの問題が重要であるというのはわかる話だ。Img_6720 もっとも、おそらくこれは相対的な話であって、それぞれ相互に影響を与えあっていたのだと思われる。漢文による書に対して、漢文による批評を返していて、当時の高等学校生の教養の深さを知った。また、有名な話では、子規の「柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺」という句は、漱石の「鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺」の影響を受けたということもあり、この証拠となる高浜虚子の手紙も公開されていた。

 

Img_6726 外は依然として寒空が広がっていて、雨が冷たい。山手111番館の横を通り抜けて、外人墓地へ出る。明治期の水道施設の樹々が鬱蒼とした公園を抜けて、元町商店街の裏通りへ出る。Img_6733 娘といつも行っていた喫茶店が移転していて、無くなっていたので、ランチは日本茶と豆腐料理の店「茶倉」へ入る。人気店らしくて、しばし待ってから、席に着いたが、ゆったりと食事できる店だったので、手足が冷たくなっていたのが、豆腐ハンバーグと抹茶とで、ようやく暖かくなったのだ。

 

Img_6745 日曜日なので、観光客の多い中華街は垂直に通り抜けて、本町通の裏街を歩く。ここには幕末期の居留地跡がいくつか残っている。もっとも、この地面の下には、レンガ遺構などが埋まっているので、地表に現れているほんの少しのものを見ることができる。Img_6739 西洋商事館の建物のレンガや、松代藩佐久間象山の大砲、さらに居留地での日本初の近代的消防団跡などを見ることができる。Img_6766 そして、最終的には、F氏がジャーナリストだったこととは無関係だとは思われるが、いくつかの候補の喫茶店の中から、フレンチ料理のアルテリーベが1階に入っているビルの新聞博物館二階のクラシックな喫茶店に腰を落ち着かせる。Img_6769Img_6772 窓はすっかり水滴で真っ白になっていて、当分の間外には出たく無いほどだったので、老人二人はおしゃべりに精を出したのだったのだ。Img_6774Img_6780

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2017/03/22

映画「La・La・Land」を観る

Lalaland LaLaLandとは、カリフォルニア(LA)のように、有りえないような国のことだ。この映画はアカデミー賞の作品賞発表の時にトラブルがあったことで有名なのだが、これで有名になったと言われないようにするのはたいへんだと思う。けれども、それを超えたものを十分に持っていれば、恐るに足らない。ララランドにとって、恐るに足らないこととはなんだったのだろうか

 

ふつう感動して泣く時にはそれなりの理由がある。もちろん、涙は思わずでてしまうものなのだが、あとで考えれば、ふつうは理由があるのが当然だ。けれども、今回のララランドの場合には、これといった理由なく、感性に訴えてくるものがある。ところが、じつにその感性に訴えてくる理由というものがよくわからないところにあるのだ。もちろん、歳をとって涙腺が緩んでいるということもあるのだが、やはりそれとは違う理由だと思われるのだ。

 

そのヒントは冒頭の高速道路上の集団ダンスに隠されている。このダンス「Another Day of Sun」は、いかにもLaLaLand的なのだ。このダンスを見ると、やはり「なぜ」と思ってしまうところがあるのだ。自分の自動車の中に、道路混雑で隔離されていて、互いにイライラしている人びとが、急に道路に飛び出してきて、みんな愉快に楽しくダンスを始めるのだった。社会科学的にいうならば、最もありそうにない想定から、この映画は始まる。近代社会の象徴たる高速道路という状況のなかで、コミュニティ的なパーティがありうるはずがない。個人から、直結的に社会が現れるという想定は、最も社会学者が忌み嫌う想定なのだ。それでは、みんなが「そんなことはありえないよな」というシーンからなぜララランドは始まるのだろうか。ここにララランドの映画たる、所以があるといえるのだ。

 

つまり、この映画は、映画の筋で泣かせるのではなく、最も感性にちかいところで泣かせているのだ。個人が人と出会って、恋をして、仕事をして、そして別れを迎える。この筋が重要ではなく、この感性の落差が観る人の感性へ訴えかけるところがあるのだ。

 

このプロセスが重要であるというところが、どこで出てくるのかといえば、それはかなり後の方なのだ。女性主人公がすべてのオーディションに失敗し、これで最後だというときになって、最も自分の得意なところが発揮されるという筋書きなのだ。パリでの叔母さんとのことを自身の創作・想像の語りで表現させられる。このような特殊なところで、仕事との結びつきが現れてくるのだった。これまでの苦労がなければ、それまでの人と人の結びつきがなければ、このシーンはありえないところだ。このあとの主人公たちの別れの演出については、またひと工夫があって面白いところだが、それは観てのお楽しみだ。

 

Photo ということで、このララランドという映画は、ミュージカル映画の単純さを利用して、理性的な筋展開を逆転させ、感性的な落差を利用して、観客を泣かせる映画として、現代的な新しさがある映画なのだと思ったのだ。

2017/03/21

東海道と中山道の追分を歩く

Img_6514 朝早くに新幹線で、大阪の伊丹市へ出張。昨年から、4人の先生方の協力で、授業番組「農山村と都市における身近な経済」というラジオ科目を作っている。社会科学では、現在「地域」とは何か、という趣旨の研究が目白押しなのだ。放送大学では、退任された経済学のH先生が「比較地域研究」にみんなで参加しようということで、10年ほど前に「比較地域研究センター」を設けてきている。H先生のもとで、これまで修士課程の経済分野の研究指導を担当なさってきた、I先生、A先生、S先生に、わたしを加えて、今回この科目を企画したのだった。

 

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今年の2月には、ほぼ原稿が出揃って、今日は放送教材収録の相談を行うために集まることになった。ところが、日程調整を行なってみると、4人の先生があうような日は皆無に等しいことがわかった。島根からのI先生、大阪からはA先生、熊本からはS先生に、横浜のわたしなので、そう簡単に日程調整が成り立つわけではないのだ。それで、短時間でも良いから、また先生によっては日帰りでも良いからということで集まってもらったのだ。だから、一番日程がキツかった島根のI先生の飛行機時間に合わせて、伊丹空港近くの貸し会議室を借りることになった。また、これに合わせて、一昨年「音を追究する」でお世話になったKディレクターも千葉から駆けつけてきてくださった。

 

Img_6518 相談は順調に進み、メールでは互いに誤解していたような事柄も解くことができ、どうにか全体の調整がつき、次の段階に進むことができたのだった。それにしても、伊丹市という地域の外面的な印象は、ちょっと変わっている。交通通過都市だということだと思われる。Img_6517_3 空港、二つの鉄道、それに会議室やホール、ビジネスビルなどの箱物はたくさんあり、中心を宝塚へ伸びる幹線道路が縦断していて、街の全般に余裕がある。ゆったりとした再開発が行われているところだという印象だった。これまで、あまり経験したことのない、不思議な街のイメージだったのだ。

 

Img_6497_2 さて、半日の自由時間ができたので、横浜へ帰るまでの間、以前から行ってみたかった宿場町の草津宿へ、新快速へ乗っていく。この滋賀の草津で、東海道と中山道が合流する。このような特別な宿場として、江戸時代に発達したのだ。まずは、問題の道標を見る。いくつかのバリエーションがあって、一番有名なのは19世紀のものだが、街道沿いの神社には17世紀のものもあるのだ。また、近代になっても新しい道標が作られており、草津はここ数世紀に渡って、交通の要所を占めてきた場所なのだ。Img_6520 本陣が素晴らしい。草津には、二つの本陣と脇本陣とが存在しており、現在一つの田中家本陣が残されていて、一般公開されている。とりわけ、大福帳には泊まり客が記されており、本陣であるから、公家と大名ということになるのだが、幕末になると、新撰組なども宿泊していた記録がある。また、宿特有の「関札」が大量に残されていて、これを掲げることで、「見せびらかしの消費」が行われたのだな、ということがよくわかる象徴的な歴史資産だ。

 

Img_6531 本陣の構造については、群馬の大庄屋の子孫であるK先生から知識を得ているので、その視線でみていくと、なんなくわかってくる。中世の上下関係を建物の構造に取り入れていて、玄関を入って、次の間、畳廊下、脇の部屋、そして最後は上段の間へ向かって、Img_6533 少しずつ敷居が高くなっていくという建物構造を持っている。この草津の本陣でも、見事にそのように作られている。そして、上段の間の奥に、位の高い人の雪隠と湯殿が作られているのだった。

 

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Img_6565 草津宿の並びにモダンな交流会館が建っていて、もちろん展示されている模型や物的な標本は面白いのだが、わたしが注目したのは、じつは資料室だった。玄関横に作られていて、現在はそれほど重要ではないかのように、傍に追いやられているという印象だった。けれども、いざ一冊一冊みていくと、なかなか魅力的な資料が集められていることがわかってきた。Img_6568 全部紹介するわけにはいかないのだが、じつは先日群馬合宿の時に書いた、いわゆる「中央用水」構造の宿場町をみていくのに最適の資料が揃っていたのだ。さすが東海道と中山道の合流地点だけのことがある。東海道では、あまり目立たないのだが、中山道には2、3例が見つかったのだ。H先生の喜ぶ顔が目に浮かぶのだった。

 

Img_6614 この収穫だけでも、心はウキウキしてきてしまった。やはり、このような時には、心落ち着く喫茶店で、獲得した知識を反芻しながら、最後はサードプレイス的効用を一人で楽しむべきだろう。Img_6607 山科で電車をおり、地下鉄で京都へ戻って、いつもの喫茶店「Kosci」で玉ねぎのポタージュとパン、そして、珈琲を頼んだ。長かった今日の散策を思い返したのだった。帰りの新幹線では、このコチで購入した「キッシュ」と「くるみとはちみつパン」を食べ、収穫多い出張を終えたのだった。Img_6633

2017/03/20

神保町で研究指導

Img_6480 松江に住む修士課程の学生の方から、仕事での研究会が東京であり出張してくるから、そのついでに会えないかと連絡が来た。彼女はたいへん仕事が忙しい人で、いつもはインターネットを通じて、ゼミに参加することになっていたのだが、このところ上手く繋がらないこともあって、連絡が途絶えがちになっていて、心配していたのだった。ちょうど、春休みになって、こちらの仕事も一段落してきたので、東京の出張先に近いところで会おうということになったのだ。

 

Img_6469 出張先はどこかと聞くと、どうやら文京区のT大だということがわかったので、東京文京学習センターで会うのがよいなと考えていたのだ。ところが、約束の日が320日だということになり、祝日の代替日でセンターはお休みだということになっていた。Img_6470 長居できる場所が必要だということから、それでは、ということで、神保町の喫茶店でどうかということになったのだ。ところがということなのだが、じつはここもやはり、この日ばかりはお休みの店が多くて、いつも行く静かな喫茶店ラドリオもだめだった。それで、ラドリオの向かいの、初めて行くミロンガという店でと約束をしていた。

 

Img_6473 ところが実際、ミロンガに着いてみると、他の店がお休みだということを受けて、やはり、満席で研究指導を行うどころではないのだった。それで、入るのをあきらめて、横丁を出たところのビル地下にある、自家焙煎の喫茶店「伯刺西爾(ブラジル)」へ降りて行く。Img_6477 ここも満員なのはわかっていたのだが、ちょっとまてば、良い席が空くこともわかっていたので、入り口付近でプリントを広げながら、話して待つこと10分、案の定一番奥の話しやすい最適の席をとれたのだった。

 

Img_6475 修士論文の内容は、まだ途中なので、ここで言うことはできないのだが、全体的な筋展開であれば、影響はないだろう。社会人研究者特有の現代的なテーマで、独自の社会調査を行うというので、出来上がれば興味のつきないものとなるであろう。今日のところは仮説と因果関係のおおよそのところをきいておいて、調査が上がってきたら詰めようということになったのだ。Img_6474_3 ただ、興味津々のところだったので、雑多などうでもよい知識をたくさん吹聴してしまったのは悪かったと反省している次第なのだ。でも、たとえ修士論文であっても、面白くなければ書く意味がうすれるだろう。ここが肝心だと思う。

 

Img_6481 この神保町という街の健全で人を惹きつけるところは、このようなむかしからの店が残って集積が素晴らしいから、十分にアマゾンやブックオフへ対抗できる力をもっている点であろう。Tさんとはここでお別れして、わたしは仕事が残っている幕張へ取って返して、4月から始まる授業の準備に余念がなかったのだ。まだまだ、春休み中も、旅する人を続けなければならない運命にあるようだ。

 

 

2017/03/16

授業番組制作の打ち上げ

Img_6438 今年の打ち上げ会はなぜか東京駅近辺が多い、と言っても、二つだけなので、それほど極端に多くあったわけではないのだが。両方の会ともに、たいへん楽しい会だったので、やはり記して記憶に留めておきたいと思ったのだった。一つは3月14日に飲み会が行われた。授業番組「音を追究する」のみなさんが集まった。こちらは昨年度完成しているので、今回は試験問題完了祝いおよび問題作成催促の会という趣向だ。O先生とS先生が主任講師を勤めていて、今回の飲み会でもコーディネーターで走り回ってくださった。

 

Img_6437 東京駅八重洲口の高島屋へ通ずる飲み屋街にあるイタリアンの一軒だ。この番組の担当講師を務めてくださった藝大の録音学K先生、聖徳大の音楽学T先生、それからゲスト出演の日本語学のT先生と心理学のH先生、それにKディレクターと録音技師のOさん、さらに物理学のK先生、主任講師のコミュニケーション学のO先生と臨床心理学のS先生、全部で10名の方々が集まった。じつは部屋のたいへん狭いところで、袖すり合う、近接したコミュニケーションをとるためには最適な部屋だった。その分、内容も濃密なコミュニケーションとなったのだ。

 

Img_6445 もう一つは、二日後に開かれた「日本語アカデミックライティング」の打ち上げで、T先生がコーディネートしてくださった。T先生とは、14日の「音を追究する」の会でも一緒だったので、今期2回目だ。もう一人の主任講師の経済史学K先生と、さらに天文学のY先生、ディレクターのOさん、教育社会学のI先生が出席した。この店も八重洲口に近いところにあるのだが、八重洲ブックセンターの裏に当たるビジネス街の一角にある店で、仕事の帰りに仲間とおしゃべりしながら、夕食をとることを想定された店だった。けれども、14日の店と比べると、周りが静かで、その分高級な雰囲気があった。

 

Img_6441 印象に残ったお話はたくさんあったのだけれども、K先生のケインズの話は特別だった。英国留学当時に、メーナードの甥にあたるジョフリー・ケインズと親交があったそうだ。わたしも番組を作る時に、ケインズの映像をいくつか集めていて、本人の映像はニュース映画などで手に入れていたのだが、そのほかには、やはりこのジョフリー・ケインズがメーナードの生前の思い出を語っているのをみた記憶があるのだ。ケインズがブルームズベリー・グループの人びとと行った会話については、会話や手紙類が残されていて、じっくりと話すタイプのケインズを想像できるのだ。K先生はエッセイの名手で、この辺りのことについてお書きになりたいと話されていたのだ。ぜひそのような書籍を読んでみたいと思わせるお話だったのだ。

 

Img_6435 このように二日間の飲み会を振り返ってみると、幕張の仕事の帰りに、友人と待ち合わせて、帰路この辺で飲んで帰るという生活もあり得たのだなと思ったのだ。東京駅を通勤経路としている割には、貧しいアフターファイブを過ごしてきたことを反省した次第である。

2017/03/11

埼玉学習センターで合同研究会

Img_6184 湯宿では、朝の6時に起きて、もう一度身体を温泉に沈めた。もともと、低血圧の遺伝子を受け継いでいるので、朝のエンジンがかかるまでに、身体もそして特に頭のエンジンについては、時間がかかる方だ。けれども、ここのお湯があれば、数分でエンジン全開だ。Img_6388 宿の方々に聞いてみると、あまり湯に入りすぎても身体に良くないので、ほどほどを保っているとのことだ。日常と非日常の違いを感じるのだった。毎年帰りには、この宿の自家製の梅漬けを購入して帰る。1個15円で分けてもらえるのだ。おまけもいただいたので、当分ご飯の友には困らないだろう。

 

Img_6398 新幹線に順調に乗り継ぎ、小1時間で大宮へ到着する。午後には、駅から軒先がつながっているビルに入っている、放送大学の埼玉学習センターにて、修士課程修了生たちとの「比較地域研究会」が半年ぶりに開かれた。また、今日は特別に、幹事のH氏がアレンジしてくださったので、埼玉県の地域職員たちによる「働き方」研究会との合同研究会となったのだ。

 

Img_6399 印象に残ったのは、新潟から参加してくださった、ゼミOGであり、かつ大学教員をなさっているUさんの発表だ。ポスターにあるように、「病者が災害避難をあきらめる気持ち」という題名で、被災タイプに特別な類型のあることを発表なさったのだが、興味深かったのは「なぜ避難を諦めてしまうのか」という解釈だった。20170311 聴衆からもいくつかの意見が出た。これらの意見を有効に取り入れて、おそらく数ヶ月後には良い論文を上梓するであろうことを予想させたのだった。

 

Img_6400 OGAさんと、またいつもと異なるテーマで挑んだ修士課程のIさんの発表もギャラリーを刺激していた。「働き方」研究会の方々の発表テーマは、題して「多様な働き方、埼玉スタイルの推進」ということだった。放送大学の学生の方々と比べると、たいへん歳の若い研究者たちであるにもかかわらず、チーム力を発揮して、まとまりの良い政策提言を4つほど行っていた。印象に残ったのは、もし放送大学生であれば、社会が多様であるところを慎重すぎるくらいに、微に入り細に入りはいり込んでしまって、あまりに細かすぎて印象の薄い研究になってしまうのだろうが、彼らの発表は良い意味で若いチームの発表を持っていて、全員一致の答えを率直に提言していて気持ち良かった。Img_6403 一例を挙げるならば、過去の政策としては評判良かったが、実際にはあまり活用されてこなかった、「ジョブカード」政策を再提言したりしており、話し合いの結果が要領よく盛り込まれていた。おそらく、放送大学の学生間ではこのような共同研究は行われる可能性が低いという傾向があるのだということが、今回の比較でわかったのだった。

 

Img_6404 じつは、これらの発表に対しての放送大学生たちの反応が面白かった。簡単に言えば、理想主義対現実主義の対立ということになるのだろうか。全員一致を信じて疑わない若手の「働き方」研究会に対して、多様な人びとの存在を重要視する放送大学生たちの質問に、現実的な視点が目立ち、興味深かったのだ。けれども、総じて言えば、世代の違いは確かに存在したのだが、そのあとの懇親会での意見交換も加わって、議論の交わり方はうまく行ったといえよう。双方の健闘に感謝したい。とりわけ、懇親会では、裏方として「働き方」研究会を支えた財団や機構の方々の役割がたいへん重要であったことを知って、共同研究という放送大学にはない研究方法のプロセスに触れた点でも、学生の方々にはたいへん勉強になった研究会であったといえよう。

 

Img_6386 研究会は西口のオフィスビルに入っている学習センターで行ったのだが、懇親会は東口の飲み屋街で行われたのだ。それにしても、その通りの猥雑さにはびっくりしたのだった。さいたまの「歌舞伎町」という雰囲気だといえばわかるだろうか、大宮という都市の元気ある姿を見たのだった。

2017/03/10

群馬での合宿

Img_6157 今年も3月を迎えることができたという余韻が1週間経ってもまだある。原稿を出して、ホッとする余裕ができたことを喜んでいる。さて、この余韻の続いている時期に毎年恒例となった、「社会と産業」コースの先生方との合宿への参加のために群馬へ向かう。Img_6168 もちろん、自由参加の私費旅行なのだが、ほぼ9割の先生方が参加するのだ。これまで、K先生の地元である群馬の湯宿温泉で開かれてきている。

 

近年、東京駅のエキナカが充実してきていて、昔であったら駅弁を買い込んで、列車の中で食べるのだが、今はそれよりも、暖かい昼食をエキナカでしっかり食べてから、Img_6346 新幹線へ乗り込んだ方が、ゆったりとする気がするくらいなのだ。新幹線が速すぎて、上毛高原までの間に弁当を食べ、さらに列車を楽しむ余裕がない。

 

トンネルを抜けると、雪が残っているという毎年恒例の情景にも、慣れることがない。その山の頂に見える雪に向かい、バスは赤谷川に沿って、ずっと登っていく。Img_6130 三国街道の須川宿で降りると、そこには手作り工房が並んでいて、「たくみの里」が展開している。今年も昨年と同様に、ふっと顔あげると、H先生が目の前を歩いている。6回目の探訪となるらしいのだが、須川宿の郷土記念館から出てきたところだとおっしゃっていた。これも昨年と同様なのだが、山椒の店へ入って、甘酒を1杯いただく。Img_6159 夜のためのブルーベリージュースを農協で購入して、いつもながらの宿場町の「中央用水構造」についての雑談をしながら、雪が1メートルほど残る山道を、須川宿から湯宿温泉へ下る。

 

Img_6390 早めに宿へ入って、早速1度目の温泉風呂へ浸かる。じんじんと突き刺すくらい熱い湯が、この湯宿温泉の特色で、丸い湯船に身体を投げ出すと、肩こりや腰の痛みなどが吹き飛んでしまうのを覚える。決してキツくはないのだが、硫黄の香りがなんとなく漂ってきて、頭も刺激する。

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Img_6381 そもそもこの合宿の目的は、歓送迎会なのだが、大学に関する議論や研修として計画されたという昔の経緯もあるために、食事の前には、真面目な議論が行われることになっている。Img_6177 今年も真面目すぎて食事時間に食い込むくらいの議論を行ってしまった。Img_6379 程よいところで、M先生がそろそろ食事にしませんか、とにこやかに提案してくださったので、ようやくにして議論の方はめでたく終了となり、本来の歓送迎会となった。

 

Img_6176 今年度末に退任なさるK副学長とH先生のご挨拶は、放送大学での人生のあり方を感じさせるものだった。また、R先生が新任として4月から加わるので、この合宿にも参加してきていた。料理は、ヤマメの塩焼きをはじめとして、お腹いっぱいになるほどだった。

 

Img_6188 次の日には、午前中いくつかのグループに分かれて行動して、最終的に12時に集合して、これも恒例となった「たくみの里食堂」にて、ジビエ料理をいただくことになっている。わたしたちは、地元のK先生の運転で、須川宿、相俣宿、猿ヶ京に連なる宿場町であった、「永井宿」へ向かった。Img_6193 同行のH先生に寄れば、もしかしたら、宿場の中央用水構造の資料も手に入れることができるかもしれないとおっしゃるのだった。

 

Img_6199 標高がだいぶ上がってきていることこともあって、永井宿ではやはり雪が降っていた。K先生が地元のかたに昔の用水の様子を聞いてくださったりして、それなりの収穫があったのだ。Img_6203 また、古い旅館だったような建物も残っていて、柱に施された修飾模様なども凝った造りを残していた。三国街道の華やかなりし頃をしのぶのに十分であったのだ。Img_6214_2 残念ながら、冬季には資料館が閉じられていて、資料そのものは見ることができなかったけれど。同様にして、猿ヶ京温泉にある関所跡・役宅跡なども、閉まっていて中までは見ることができなかった。Img_6250 その代わりに、食堂への途中、相俣ダムに寄ったのだが、そこでの流木が印象に残った。Img_6266 「流木はゴミなのか、資源なのか」という問いかけも面白い視点だと思ったのだ。

 

「たくみの里」に戻って、初めてカスタネット工房の展示を見ることができた。Img_6281 日本のカスタネットの多くがここで作られているのだそうだ。それは、「赤谷プロジェクト」という林業プロジェクトとネットワークを形成していて、間伐材などを有効利用したり、広葉樹の植林などを行ったりしているのだそうだ。Img_6284 ブナやナラ、サクラなどの木工の材料となるような、樹木のプロジェクトが形成されているのを見せていただいたのだ。

 

Img_6141 今年の「たくみの里」での収穫は、これも毎年訪れている革工房「KURO」でいくつかの革製品を購入したことだ。ぷっくりとした作品を得意としている。Img_6426 この赤いハートの飾りもさることながら、この青いキーフォールダー風のものも面白いのだ。さてクイズなのだが、これは何に使うものでしょうか。Img_6428 それから、ご主人が昨年から今年にかけて店を改装していて、漆喰風に壁を真っ白に塗ってあった。その壁に飾られていた、黒革カバンがとても良かったのだ。Img_6302 2年前にわたしが購入したカバンよりもひとまわり大きなサイズで、柔らかそうなぷっくりしたタイプだ。

 

Img_6136 今年の「たくみの里食堂」のジビエ料理は、イノシシ中心だった。このイノシシ肉のソーセージやベーコンに始まり、山菜のオードブル、焼肉と煮物などが昨年同様に、どんどん続いて出てくる。Img_6310 今年はM先生が、「赤ワインがイノシシ肉に会うのでは」と言出だし、それに応じて、S先生がキャンティワインなどを見繕って持ってきてくださったのだ。

Img_6306Img_6308Img_6309Img_6311Img_6316Img_6317Img_6319Img_6320Img_6321Img_6325Img_6328Img_6331Img_6332Img_6333Img_6335 そして、最後は食堂のご主人の手打ち蕎麦で締めとなったのだ。わたしはここで先生方とはお別れして、ワインと日本酒が相当身体に染み込んでいたので、Img_6336 向かいの喫茶店「マッチ絵の家」の薪ストーブの前で、しばし読書し酔いを冷ますことにした。Img_6154 薪ストーブの暖かさは、時間の進行を緩くするのだった。

Img_6342

夕方になって、湯宿温泉に帰り、宿の外湯を訪れることにする。Img_6338 4つの外湯があり、その中で最も古い建物が使われているという「松の湯」へ行く。Img_6362 昔からこの湯が好きで通ってきているという、地元の60歳くらいの方と一緒になった。Img_6360 お話を聞きながら、じっくりと温まる。この4つの外湯は、地元の70軒くらいの共同体によって維持されていて、各世帯は月に1500円費用負担しているとのことだった。これで、清掃代などが支払われているらしい。お湯は湯本温泉の源泉から大量に供給されている。この湯宿温泉のすべての泊り客は、心付けを払えば、これらの外湯に入って良いことになっている。鍵を宿のフロントで借りることができるのだ。Img_6361 4つも外湯があるというのは珍しいらしく、松の湯の帰りに、入り口で5人ほどの若い男女の温泉マニアの人々に呼び止められ、お湯の様子を聞かれてしまったのだ。お湯の効用は素晴らしく、暖房がいらないほど、布団の中でもポカポカとしてくるのだった。Img_6376

2017/03/05

牛久でゼミ

Img_5947 牛久で大学院ゼミを開催した。修士のGさんが今年度の論文テーマを、茨城県牛久市の「まちづくり」としていたので、それではみんなで見に行こうということになり、今月の修士課程ゼミナールは上野から常磐線に乗って1時間ほどの距離にある牛久まで行って、開くことにしたのだ。修士OBIさん、Fさん、Yさん、Hさんも参加して、賑やかな小ゼミ旅行となった。

 

Img_5891 牛久市は、冬場所に優勝し見事横綱となった、「稀勢の里」の故郷だということで、最近有名になった。東口駅前には、彼の手形を飾った碑も立っていた。Img_5914 駅前の整備も終わり、イタリアのキャンティ市から輸入した明るい色の赤レンガが敷き詰められていて、一見順調にまちづくりが進んでいるように見える。

 

Img_5899 けれども、ひとたび西口駅前の商業施設に入ると、そこはシャッター街となっていた。この牛久駅の西口正面のビルには、関西資本のスーパーマーケットの「イズミヤ」が入っていたのだが、先月30年の歴史を閉じ撤退し、その煽りで1階から3階まで、専門店街が軒並みシャッターを閉ざしていた。Img_6118 30年間といえば、やはりひと時代潜り抜けたということではなかろうか。駅広場にあったという、コンビニも閉められ、その二階のチェーン居酒屋も撤退したそうだ。駅のドラッグストアも近々撤退するそうで、牛久駅近辺は、転換期(衰退的)の真っ最中ということだ。Img_6116 これほど、一気に転換期を迎える市中央というのも、珍しいのではないかと思われる。その意味では、Gさんにとっては研究するには困難な題材ではあるが、問題状況のタイミング良い時に取り掛かったと言えるのではないだろうか。

 

Img_5885 なぜ街の衰退がこれほど急激に進んでいるのだろうか。いくつかの要因があるのだが、Gさんが指摘する象徴的な出来事を挙げるならば、最盛期にはJR牛久駅を利用する人が、2万人を超えていたのが、近年1万人程度になって、半減したということだ。Img_5926 都市のスプロール化が進んで、膨張した働く世代が、一挙に減ってしまったということらしい。けれども、人口は8万人を超えていて、この変動はあまりないということだ。つまり、都市内容の性格が変化してきたということになる。

 

Img_5937 さて、今日の見学のメインは、駅から徒歩10分ほどのところにある。立志伝中の人物である、神谷伝兵衛が創立した、重要文化財の建物「シャトー・カミヤ」だ。日本で初めて本格的なワイン醸造所を建てた、神谷伝兵衛とはどのような人物だったのだろうか。

 

Img_5958 面白かったのは、3点である。一つは、神谷伝兵衛の企業家的性格である。なぜ彼は明治期にこのシャトー・カミヤを中心として、成功したのだろうか、という点である。二つは「シャトー・カミヤ」は牛久のまちづくりにとって、どのような意味を持ちうるのだろうかという点である。三つには、牛久市の現状と課題は何か、という点である。Img_5970 二つ目と三つ目については、Gさんの個人的なテーマ内容であり、そのうち修士論文として成就されるだろうから、その時の発表に注目したいと考えている。また、駅ビルの研修室でのゼミでじっくりと議論したので、ここでは触れないことにする。

 

Img_5982 第一の点は、面白かった。印象的な物言いをするならば、神谷伝兵衛の本質は葡萄作りの農民体質だったのか、それとも営利的な企業家体質だったのかという点である。Img_6031 シャトー・カミヤは、確かに明治期(今から100年前)にはフランスに学んだ本格的ワイン醸造所として出発した。けれども、明らかにそこからの変質があり、これがシャトー・カミヤの成功理由であったのではないだろうか。

 

Img_6027 蜂印ハニーワインをご存知の方は多くいらっしゃるだろう。この甘みを加えたワインが、赤玉ポートワーンと並んで、戦後まで日本人のワインの中心を占めてきたのだが、その基礎を作った一人が神谷伝兵衛だったのだ。どのようなワインが日本人に合うのかを、起業家としてわかっていたのが、神谷伝兵衛だったとわたしは思う。明治期においてはまだ本格的ワインは日本人の趣味には合わず、ハニーワインを売ったというところに、神谷伝兵衛の企業家精神を見るのだ。Img_6018 そして、これに加えて、浅草の「神谷バー」で当たりをとった「電気ブラン」。これもブランディーに手を加えて、日本人向けにしたものであり、単なる洋物のまねではなく、日本人の嗜好に合わせた洋酒作りを行ったのが、神谷伝兵衛の成功物語なのだ。

 

Img_6128 電気ブランの名称由来が記念館に書かれていた。なぜ「電気」なのかといえば、わたしは「ビリビリ」と舌へくるからだと思い込んでいたのだが、そうではなく、神谷伝兵衛のマーケティング能力からの命名だそうだ。つまり、当時流行してきた電灯や電話などに使われている「電気」という言葉をそのままブランディーの名前に持ってきたらしいのだ。Img_6048 たとえば、「超伝導うなぎ」などという命名と同じなのだ。伝兵衛はかなりキャッチーな志向を狙っていたことがわかるのだ。

 

Img_6032 神谷伝兵衛の企業家としてのマーケティング能力は相当高かったと思われる。まず、若い頃に横浜の居留地でワインと出会った後、酒を巡る様々な業界を渡り歩いて、最終的に牛久の土地を購入している。Img_5977 けれども、電気ブランでわかるように、牛久だけに閉じこもらずに、浅草にアンテナショップを開店させたのも、現代的な広告宣伝方法を先取りしている。また、日本酒の宣伝ポスターによく使われていた、美人画ポスターを取り入れたり、新聞広告でのイラスト記事を作ったりしていているのが、記念館を見て回るとわかってくる。Img_6034 最初は、ワイン醸造所のぶどう酒造りの機械・機器類に目を奪われていたのだが、どうやら違っていることに気がついたのだった。

 

Img_5954 けれども、100年経ってみてどうだろうか。ここで勝沼のワインと比べてみたい。 ほぼ同時代に、両者ともにフランスへ技術者を派遣して、ワイン造りをはじめた。勝沼では、本格的ワインでは、数々の失敗を重ね、また日本人の嗜好はなかなかワインを受け入れるには至らなかった。Img_6015 主たる企業も倒産してしまう。これに対して、シャトー・カミヤでは本格的ワインは脇に置いて、日本人の好みに合うワインやブランディーをヒットさせ、かなりの成功を当初から納めた。この違いは大きかったといえるだろう。

 

Img_5994 けれども、現在はどうだろうか。明らかに、ワイン醸造所の集積では、牛久に対して、勝沼は圧倒しているといえるだろう。ここに、産業というものの難しさがあるといえる。短期的に営利的に成功しても、必ずしも100年後にもその成功が持続するとは言えないのだ。Img_5916 牛久では、ワイン製造の時期が早くに終結したぶんだけ、営利性の強い観光・販売の面で強みを見せる時代へ早めに入っていくことになったのだ。さて、どちらの方がよかっただろうか。100年間の年表をみんなで見ながら、議論のたねは尽きなかったのだった。

 

Img_6121 昼食はもちろんワインを飲みながら、肉料理ランチをいただく。重要文化財のレンガ建ての昔の貯蔵庫が、レストランに生まれ変わっているのだ。また、今日は日曜日だということもあって、団体客が大型バスで押し寄せていた。バスの表示を見ていたら、建材メーカーの接待旅行の途中のようだった。帰りも、牛久市のコミュニティバスで、駅に向かった。Img_5883 駅ビルはこのように空いている分だけ、ゼミに使える研修室が備わっているのであって、都市の衰退ということも、わたし達のような有閑活用グループにとっては、悪い事態ではないのだ、と考えた次第である。議論をして、その後もう一度、イタリアンの店のワインで乾杯して、上野行きの常磐線に乗ったのだった。

 

2017/02/16

「パン日和あをや」で5周年ハンバーガーを食べる

P2167054 急に陽気が戻ってきて、今日は2月にしては、気持ちの良い春日和だ。ポカポカしている。原稿作成は午後2時くらいになると限界になるために、早々と店じまいをする。ちょうど、娘から、本を渡すから出てこないかという誘いのメールが入る。松本の喫茶店「栞日」で開かれている展示会の書籍が、娘の勤め先の近くにある書店にあることがわかり、昼休みに購入してもらっていたのだ。アマゾンには出てない本だ。P2167055 『世界をきちんとあじわうための本』という題名で、わたしたちが「ちがいを生むちがい」というベイトソン的生物秩序を、道具を使って、いかに整序し、人とモノとの関係をいかに作り出して行くのか、ということをきちんと味わうことを説いている、たいへん魅力的な本だ。わたしの抱えている課題に参考になりそうなのだ。

 

P2167069 夕方に娘と武蔵小杉で待ち合わせる。ところが、海外旅行のためにパスポートを更新していて、手続きに長くかかったと言って、30分遅れで顔を見せた。南武線鹿島田駅から雑談しながら、塚越銀座の「パン日和あをや」へつく。夕方には、あをやの奥様は、明日のパン仕込みを行うので、わたしたちの注文を聴いてくださったあとは、大忙しのようだ。何回も二階のパンの仕込み部屋との間を往復していた。P2167072 でも、この大忙しの様子は絵本の「クネクネさん」や「ふわふあさん」のようだなと思ったのだ。決してくたびれる種類のものではないように見える。母が子をみるように、パンを育てていて、明日の膨らみを頭に描いて、身体が自然に動いているようだった。

 

P2167060 この時間になると、カウンターにいっぱい並んでいたであろうパンも数えるほどしか残っていない。さて、「パン日和あをや」は5周年記念で、国産牛のハンバーガーを2月特別メニューに加えている。今日の最後に残った、このひとつをようやく確保して、いつものアボカドとクリームチーズのサンドウィッチも頼んで、サツマイモのたっぷりスープ、そしてオーストラリア産白ワインをいただくことにした。

P2167059 厚切りの食パンがサクサクしていたし、牛肉のジュウシーさもさることながら、ハンバーガーのパンもモリモリとして、アメリカのハンバーガー屋さんへきたみたいだった。このころには、ご主人が勤め先から帰ってきて、キリッと前掛けを結んで、すぐにカウンターの中へ入っていった。

 

P2167057 雑談をしていると、なぜか結婚当時の話になって、ご夫婦はわたしより20以上も年が若いのだが、わたしと同じに、29歳でご結婚なさったとのことだった。それで、結婚当時はどんな生活でしたか、と聞くと、これも意外だったのは、運転免許を二人前後して取ったのだという返事だった。仮免の時にすでに車を購入して、免許取得してすぐに、二人で神戸旅行へ行ったそうで、交代で運転して向かったとのことだった。何が意外なのかといえば、車で世界が広がったということを強調なさったことだ。結婚の方がもっと世界を広げたのではないかと推測していたからだ。P2167058たぶん、きっとそうなのだが、表現を抑えたのかもしれない。免許を取るに当たって、購入する車のイメージがあったのだそうだ。フォルクスワーゲンのキッチン車なのだそうだ。これで、今日食べた牛肉ハンバーガーを売ったら、きっと行列のできる店になっていたことだろう。

 

P2167075 娘が以前住んでいた本郷三丁目の話になって、「ハンバーガーの店で美味しい店が本郷三丁目にはあるんですよ」と互い違いにご夫婦それぞれおっしゃったので、その29歳あたりから、ずっと今回の5周年記念ハンバーガーまで、何らかの繋がりがあるのかな、と帰り道に娘と話したのだった。P2167056 さて、原稿を書いているときに散歩で寄るところがあるというのは、考えるだけで、うるるという気持ちになってしまうのだ。もうひと頑張りしよう、という気分にさせてくれる、有難い存在なのだ。


P2167079 修士課程で坂井ゼミを出て、博士課程で横浜市大のKゼミを修了なさった、Kさんから著書『知的障害者雇用において特例子会社に期待される役割』(学術研究出版刊)が送られてきていた。特例子会社に関する文献はまだまだ数少ないので、この分野の研究者の方々へぜひお勧めしたい。

 

2017/02/10

映画「幸せなひとりぼっち」を観る

Photo 最近、ずっと家で原稿を書いている。孤独を満喫していると非難する人もいて、これをかわすのには工夫がいる。本当のところ、家には妻がいるからそうゆうわけではないのだし、家から1歩も出ない日も結構あって、運動不足も重なり、一人で作業を行うことに苦労がないわけではないのだ。さらに、ずっと原稿を書いていると、持病の肩こりが激しくなるという自分からはなかなか離れられないので、これはこれで困っている。以前は、鉛筆やボールペンのせいだと思っていたが、パソコンに向かうようになって、キーボードを打つようになってからも、依然として、肩こりは午後の2時くらいには手から登ってきてしまう。ここで運動習慣のある人ならば、外へ出て、身体を動かせば良いのだけれども、残念ながらその習慣を持っていない。

 

そこで、手と頭だけで作業を行なっている状態から、なるべく全身で「書く」ことを行おうということで、経済学を勉強するものは、アダム・スミスの例を知っている。彼は国富論を書くときに、自宅で口述筆記を行なった。スミスのように、口述筆記人を雇ったり、テープ起こしを依頼したりする余裕は、この研究費が毎年削られているご時世では、到底望むべくもないので、最近はパソコンの音声認識を、肩の凝ったときには試すことにしている。声を出すことで、なんとなく勢いがつくし、頭と手との間が動いているという感覚が良いのだ。もっとも、音声認識ソフトが不完全なので、声に出したことの半分くらいしか認識しないので、原稿への実利はないのだが、運動不足解消ということであれば、許せるというところかもしれない。

 

それでも、映画を見る方が圧倒的に、肩凝りには効くと思う。今回観た映画には、珍しく良い邦題がつけられている。たぶん、原題は「オーヴェという男」というのではないのかな。これよりは、ずっと「幸せなひとりぼっち」という題名の方が良い。この映画を見ていくと、じつは「ひとりぼっち」、すなわち孤独がテーマとは思われないかもしれないのだ。むしろ幸せなのは、周りの仲間との交流にこそある、ということがテーマのように思えてくるような内容の映画なのだ。それにもかかわらず、あえて題名を「幸せなひとりぼっち」とつけたところに、この映画の意味がある。

 

なぜ「ひとりぼっち」が幸福なのか。これがこの映画の一番面白かったところである。主人公のオーヴェは、愛する妻を持っていた良い夫で、綺麗で倫理的なコロニー的共同住宅地の自治会長だったし、40年以上勤めた鉄道マンという日常生活を持っていた。ところが、すべて失い、自らの命を縮める決断をするところから、この物語が始まることになる。妻を失う孤独、自治会長を奪われる孤独、辞職勧告を受ける孤独などが、孤独の原因なのかと映画を見ていく中で、最初はそのように思ってしまうのだ。

 

ところが、この映画がスェーデンで歴代3位のヒットを飛ばし、5人に一人の人が見たという点は、並みの孤独とは異なる孤独が描かれているからだと、思われる。なぜオーヴェは自殺を企て失敗するのか。ここに理由が凝縮して現れているのだ。それは、妻が亡くなり妻から自由になったにもかかわらず、本当の自由をつかんでおらず、妻の思い出から離れられないからであり、また、共同住宅地の面倒を見る義務がなくなったにもかかわらず、共同住宅地に固執しているからであり、さらに親子二代勤めた鉄道局からの自由も、「白シャツ」という官僚主義の抑圧という形で、得られていないからである。つまり、自分からの自由、自分の我執からの自由が得られていないことから、自殺を図っているのだ。何回かの自殺未遂を繰り返す中で、自らの孤独というものの意味が明らかになっていく。

 

「幸せなひとりぼっち」的孤独というのがあるのだと思われる。ふつう、孤独は連帯が得られないから孤独なのだ。ところが、「幸せなひとりぼっち」的孤独というのはそうではなく、描かれた理想的な連帯を持っていた自分というものが得られないようになったから、オーヴェは孤独なのである。ほんとうの孤独ではないのである。孤独になれない孤独なのだ。ところがやがて、ほんとうの孤独に目覚めていき、最後は無事往生を遂げることになる。最初は愛する妻を忘れることができないから、自殺を図ることになるのだが、最後は愛する妻から離れることができたから、無事本来の自分を得て死んでいくことができたのだ。

 

Images1 モンテーニュも「孤独について」で言っている。「孤独なるものの目的とは、ただひとつ、そうすることで、よりゆったりと、気楽に生きることだと思う。けれども、人はその道筋を、かならずしもうまく探せない。仕事から離れたぞと思っていても、それを取り替えただけのことが多いのだ」。それにしても、オーヴェが最初に、妻と列車の中で遭遇する場面は良かったな。こんな思い出があると、なかなか妻の記憶からは逃れられない。

2017/01/24

フランク・ロイド・ライトの椅子と建物を見に行く

P1016912 池袋へ出る用事があったので、以前からずっと行ってみたかったフランク・ロイド・ライト設計の自由学園「明日館」へ寄ることにする。駅から10分くらい歩いた、ちょっと入り込んだ住宅街に位置している。

 

P1016916_2 じつは、2、3歳の頃、ということは幼稚園就学以前ということになり、ほんとうに記憶が定かであったのかというところもあるのだが、ここから歩くことができる距離にある西武線椎名町の北側に住んだことがあった。父が当時下町にあった高校の教師を勤めていて、この近くの分譲アパートに住んで、通っていたのだ。空き地に草むらが広がり、まだトカゲなどが出る場所のあった頃だ。さすがに池袋近辺なので、すでに田園風景はなかったけれども、まだ利用されない空き地は存在していた。

 

P1016917 裏道をぐるっと回って、立教大学を通って、学大付属豊島小学校裏に出ると、すぐ池袋駅だった。それで、父が教師だったこともあって、お金があったら、自由学園へ入れたかったなどと言うこともあったのだ。P1016937 母は、映画が好きで、アパートの1階に住んでいた友人と一緒に、わたしを連れて、目白にあった映画館に通っていたから、その帰りの散歩でもきっと、この明日館の前を通ったりしていたことだろう。

 

P1016908 正面の広場へ出る前に、左に「婦人之友」社が見え、右に曲がると、「明日館」が見えてくる。第1印象は、正面ホールとそれから左右にシンメトリーに広がる講義室群だ。P1016926 何しろ、横に両翼を伸ばした大きな鳥のような屋根を持つ低層の建物群があり、その前に大きくゆったりとした何もない空間が存在していて、一つの宇宙を構成しているようだった。遠くに見える池袋のビル群が近代的であるのに対して、こちらの空間は非近代的な空間を実現している。

 

P1016911 門が二つあって、右の見学受付の前には、2時から始まるガイドツアーを待っている人々が集まってきている。前もって、写真だけでも取っておいて、ガイドツアーはゆっくり聞くことにする。P1016953 けれども、結局はガイドで詳細に紹介されると見所が変わってきて、ツアーの後に写真をとることになったところも出てきてしまったのだ。とくに印象に残ったのは、菱形のステンドグラス風の窓のある正面ホールということになるだろうが、ところが一旦中に入って観ると、ホールの裏にある食堂の素晴らしさがじわりじわりわかってくるのだった。

 

P1016938 なぜそうなのかと言えば、これはわたし特有のテイストなのだが、やはり「椅子」との調合具合いが良いという点に尽きる。ホールにある菱形の背板をもった、学校椅子も洒落ているが、ここの食堂椅子も赤いアクセントが効いていて、テーブルと調和している。100脚くらい制作するというので、木材の幅を揃えて、大量生産に備えたそうだ。さらにこれらと、大谷石の暖炉がある食堂との整合性が取れている。ことに木製の照明器具が凝っている。P1016966 「有機的建築」というフランク・ロイド・ライトの標語が響いてくるようだ。ライトの言葉を直接引用すると、「椅子はそれが置かれ使われている建物に合わせて、デザインされなければならない。P1016932 有機的建築では椅子は機械器具のように見えてはならず、建物がつくり出す環境の優雅な一員として見えなければならない」と述べている。

 

P1016956 椅子が並んでいて、昔の椅子より現在の椅子は、一回り大きい。体格が違ってきたということらしい。この菱形の背板椅子は、制作者不明ということだが、明らかにこのデザインは「フランク・ロイド・ライト」を意識したデザインであることは間違いない。食堂椅子は、弟子であり、この食堂を改造した遠藤新の設計になるものらしい。当初、この食堂には、東側、西側と北側にベランダがあり、下から上までの大きなガラス扉があったのだというのだ。P1016984 ほんとうのところ、光がいっぱい入る、その食堂を見たかった。現在は、ベランダは食堂と合体されて、三つの小部屋として繋がっている。これで、60名程度の食堂が、さらに数十人規模膨れ上がって使えることになったのだそうだ。

 

P1016973 これらの建物群を見ていると、その昔、この地域には「池袋モンンパルナス」が展開して、松本竣介、靉光などの住んだ画家村があったし、戦後になると、漫画家たちの「トキワ荘」などがあったのだから、P1016944 もし時代が一致していたならば、上野と並んで、芸術文化の集積地となった可能性もあったのではないか、と思いを馳せたのだった。P1016989 P1016990 P1016972 P1016978 P1016943 P1016987 P1016952 P1016948 P1016925 P1016920 P1016963

«来年度放送する授業「色と形を探究する」の最終録画が終了した

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プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。