2019/01/18

Bench 42−1人掛ベンチなのか、隙間ベンチなのか、曖昧さが面白い神楽坂ベンチ

Decdd15841816645b5cbc98be21e8997

O氏がまたベンチ写真を送ってくださった(原典はこちらの一番最後の写真)。神楽坂の商店街にあるベンチだそうだ。「一見、3人用のベンチの真ん中を切断したような形をしている。 分断されつつも、引き合っているようにも見える」そうだ。問いかけがあって、わたしがどのように考えるか、というのだ。

 

まず、O氏がなぜこのベンチ写真をわたしに送ってきたのかを考えてみた。彼が二つの椅子の空間的な位置付けに、何らかの興味を持ったに違いないことを想像させられるのだ。O氏が単なる1人掛ベンチ以上のものをこれらに感じたという現実があったらしい。なぜO氏にそのように思わせたのかと推察するに、「分断されつつも、引き合っている」と考えさせるものが、ここに見られたからだろう。

 

それは、おそらくベンチから出ている脚の位置の問題だと思われる。今、この二つの椅子の脚の位置は、左右両側についているのがわかるが、もし脚の位置がこの写真に向かって後ろ側に付いていたらどうだろうか。それならば、前を向いた1人掛の椅子が単に二つ並んでいると感じることだろう。やはり、両者が向かい合って座ることのできることを期待されているところが、「分断されつつも、引き合っている」と思わせる状況を作り出している。もちろん、見知らぬ者同士が腰掛けても、隣との良い距離を保ち、十分に1人掛で通用するとは思われるのだが、製作者の意向としては他者志向という観点をそれとなく盛り込んでいる「心にくい」ベンチとなっている。

 

けれども、このベンチにはもうひとつの想像力を掻き立てる仕組みが存在する。それは、両方の椅子の間に空いた隙間空間をどのように考えるかという点である。O氏は「3人用のベンチの真ん中を切断したような形」と表現している。ベンチの中に「もの置きベンチ」というジャンルがあり、座るスペースの間にものをおくスペースをとったベンチが、パーク・ベンチやステーション・ベンチに見られる。これと同型とみなし、この隙間にバックパックやトランクや大きな荷物が置かれるために、隙間が取られたと解釈するのはいかがだろうか。あるいは、もっと人間に近づけたいならば、ベビーカーや子どもの遊具の置き場と考えても良いだろう。隙間には、多くの想像を詰め込むことができる。

 

ベンチを考える楽しみのひとつに、2者関係を3者関係に移行させる楽しみが存在する。この隙間に、第3者を立たせてみたらどうだろうか。ここに立つ必然性があって、事情で座れない人が、2者間のスペースにいるような状況があるだろうか、と考えてみた。

 

妻が口を挟んできた。たとえば、男性が真ん中に立っていて、両側に女性が座っている構図はどうかというのだ。3者は恋愛の三角関係にあって、挟まれた男性はこう着状態で立たねばならないのだった。まさに男性を媒介として、「分断されつつも、引き合っている」状態が生じている。いろいろ考えてみたのだが、結論から言えば、神楽坂というサードプレイス的な場所のイメージに、分断的であれ、融合的であれ、その曖昧さゆえに柔軟に使われるだろうから、この分断的融合ベンチはまさに似合っているのではなかろうかということだろう。


追記:実際に測ってみないとわからないのだが、じつは脚の高さが違うのではなかろうか。当然、ここは坂道なのだ。だから、同じ高さの脚をもつ長いベンチを置くと、座るところが斜めに傾いてしまう。それを避けるために、あたかもベンチを想像させるような風を残し、けれども傾くことを予防して、1人掛にしたのではないだろうか。街ベンチの「構造」的解釈である。

 

2019/01/17

Bench 27–2 運動具ベンチの写真が送られてきた

Unnamed

「運動具ベンチ」を以前取り上げたら、大学院ゼミの後の飲み会で、I氏が千代田区にある東郷公園(東郷元帥記念公園)にも、いくつかの運動具ベンチがあると教えてくださった。それで、写真をお送り願いたいと言ったところ、直ちに送られてきたのが、これらの写真だ。

 

ひとつは「高齢者のストレッチに使います。背中をつけて後に伸ばします」とI氏のコメントがついていたものだ。もうひとつには、「これは体を左右横にストレッチします」とのことだった。

0



公園は遊び場だと考えられるのだが、遊び場ならば、遊具があっても不思議ではない。ところが、遊具というと子供だけが利用するものだという固定観念が強く、成年・老年も遊び場を多大に利用するのだから、当然のように大人用の遊具があっても良いだろうと思っていた。ところが、大人の想像力は残念ながら子どもの想像力に及ばないらしく、なかなか大人の遊具は出てこなかったのだ。その代わりなのかどうかはわからないが、真面目な遊具が登場したというのが、運動具ベンチの由来ではないかと、わたしは推測ならぬ邪推をしているところだ。

2019/01/10

Bench 41−なぜだろうという好奇心を沸かせるベンチ

4

 

O氏が提供してくださった、もう一つのベンチが、この木製のベンチだ。恵比寿駅から恵比寿ガーデンパレスへ至る「動く歩道」の中間においてあるベンチだそうだ。いくつかの好奇心を惹起させるベンチだ。

 

第1に、途中で置かれているから、休憩用だと主催者は考えているに違いない。けれども、ちょっと考えればわかるように、「動く歩道」なので距離は多少あっても、途中で疲れ、座りこむわけではないのだ。したがって、O氏も指摘しているように、このベンチに腰掛けている歩道利用者はほとんどいないのだ。

 

第2に、なぜ木製のベンチが置かれているのか、という点が疑問だ。動く歩道は屋外なのか、屋内なのかをいうことを、このベンチが示している。この歩道の管理者が、ここは屋内だという認識を示したことをこのベンチは示していて、もし屋外だったら、純粋木製のベンチを採用しなかったのではないかと思われるのだ。この意味でも、ベンチというものには、座ったりする以外にも、人間の意識を反映するというきわめて重要な機能が存在することを示しているのだ。

 

第3に、座るためではないとすると、このベンチは何のために置かれているのだろうか。たとえば、ベンチ全体が飾り用に作られていて、動く歩道を通って行く人びとの目を楽しませるためのオブジェになっているのかといえば、それもちょっと違うのではないだろうか。装飾性という香りはほとんど感じさせない。

 

けれども、一つ気になって指摘できるのは、背板が梯子状になっていて、それを支持する上板と、下板が曲がった板で作られており、この曲線が独特である点なのだ。この曲線は何なのだ、という不思議さはあるのだ。上板の曲線は、よく見るタイプであり、柔らかさを表現するためにありうると思われる。けれども、下板の曲線は何なのだろうか。直線であっても何ら問題はないし、あえてここを曲線にしたために、過剰で、無駄な感じを与えているように思えるのだ。

 

曲線をここで作り出すには、曲木にするのか、板材から切り出すのか、ということになるのだが、これだけの幅のものを曲木にするのは通常行わないので、おそらく切り出しを行なっているのではないかと思われる。そうならば、この一本の曲がった板を作るためには、曲がった部分全体を含む、通常の2倍以上の板の幅が必要になるのだから、上板と下板の2本作るのは、それだけで手間がかかってしまうに違いないと、わたしも最初は考えていた。

 

それならば、なぜわざわざ手間のかかる曲げ材の切り出しを、上板だけで済まさずに、下板にも適応しているのか、という疑問がますます起こってきてしまうだろう。それで、下板を上下ひっくり返してみればわかることだが、上板と下板は同じ形をしていることだ。職人の方がたならば、直感的に解決してしまうことがそこにはあるのだ。何を言いたいのかといえば、上板と下板を複数作るために、同型の曲がった板材を、大きな板材から量産させたに違いないということなのだ。それで、それを上板と下板に採用したので、部材としては、上板と下板は2つの部品なのだが、同じ部品を使えるので、手間はかからないことになるのだ。したがって、下板を直線で作るよりも、曲線で作った方が量産できることになると制作者は考えたに違いないと推測できるのだ。

 

手間をかけたように見せかけて、実際には手間がかかっていない部品作りがここにある。このようなちょっとした独特の工夫が、このベンチをここに置くことになった理由となっていたら、面白いなと思った次第である。

2019/01/09

Bench 40−近代ベンチがありうるとしたら、どのようなものなのか

1               原典はこちらから

ベンチに近代性というものを嗅ぎ取ることは、たいへんむずかしい。なぜならば、ベンチそのものが何となく、近代以前からあって、近代性から外れて出てきたように思えるからである。ふたり以上で腰掛けるということ自体、近代の個人主義にそもそも逆らっていると言えるのではないだろうか。

 

それで、ベンチそれ自体というのか、ベンチの内生的な近代性はむずかしいとしても、周りとの相性から近代性を探ることができるかもしれない。と思っていたところ、ちょうどO氏がわたし用にと東京都写真美術館の写真をプレゼントしてくださった(O氏の写真美術館のブログはこちらから)。それが冒頭の写真だ。まさに、このベンチなどは近代的、モダンな感じがプンプンとしてくるベンチだと思われる。

2


周りから攻めて考えるという点でいえば、O氏の同じブログにあがっている他の二つの写真(上掲のものと下掲のもの)が、このベンチが近代的であることを傍証しているのだ。ひとつには、食堂・喫茶店の中に写っているトーネット椅子だ。曲木椅子の典型例であり、木を曲げたことで、部品が3つだったものが1つの部品で済ますことができ、さらに職人の手間と時間が省かれたという、近代椅子の典型が写真美術館では採用されているのだ。同じ趣向で選ばれているといえる。

3


さらに、ふたつには、ベンチと同じ写真に写っている一人用のスツールは、有名なアアルト・スツールであり、さらにもう一つのオープンな広間にテーブルと一緒に写っている、背板の付きの椅子もアアルト椅子なのだ。アアルト椅子は、トーネット椅子に輪をかけて効率的な生産のできる椅子として有名であり、スツールの部品はわずかに3つの部材でできている合板椅子の最高峰なのだ。シンプルさを強調した椅子の中でも飛び抜けているといえる。

 

さて、ここから推測されるのだが、これらのトーネット椅子とアアルト椅子とのバランスを保つことが、この写真美術館に設置されるベンチの使命となったのではないかと想像されるのだ。ベンチの選定者にその圧力がかかったことはほぼ確実であるといえよう。その結果、ここに採用されたベンチは、このような近代ベンチの典型のようなベンチとなったのだ。生産者側から見て、部品が少なく、手間と時間がかからない。消費者側から見て、デザインがシンプルである。これらが、さしあたり近代椅子・ベンチの要件なのである。O氏の近代ベンチ採集に感謝する次第である。(O氏の東京都写真美術館行きのブログはこちらから

2019/01/08

Bench 39−2 The Park Bench 第2話 老夫婦は日常的非日常をベンチに感じた

Img_4466

 

犬が寄ってきて、匂いを嗅いでいる。ベンチの左の支柱に、片足をあげた。サラリーマンが通勤帰りに通り過ぎていく。


公園にベンチがある。カーディガンとシャツ・ブラウス姿だから、近くの家から出てきたのだと思われる。老夫婦が互いに顔を見つめ、老婦人は老紳士の腕に寄りそって近づいてくる。目があって、二人はパーク・ベンチに腰を下ろす。


老紳士が微笑みながら、紐で括られた小さな包みを取り出す。蓋を開けると、さくらんぼの乗ったケーキが1個出てきた。あらかじめ用意していた折りたたみナイフで、その四角のケーキを斜めの三角に切って、老婦人に渡した。二人だけのお祝いだ。


老紳士が近くのケーキ屋でこれを買った時には、家に帰って食べるつもりでいた。けれども、家についてみると、ちょっと公園まで出かけてみようかということになったのだ。パーク・ベンチに座ったことだけが、いつもと違うことだったのだが、それでも何か晴れがましい感じだった。家で食べそれで満足しても良かったのだが、家からちょっと出て、日常とはほんの少し違うことを行ってみるのも、長い結婚生活の中でもなかなかなかったことだ。


老紳士は老婦人が食べることができるのか、気遣っていた。少し前から、よく食べ物を落としていた。口の周りにケーキのくずがついても、この頃は気にしなくなっていた。老紳士は、微笑みながらハンカチを出して、老婦人に手渡した。いつまでも、このまま二人で。


パーク・ベンチは無表情のまま、刻まれた「I ♡ U」を見せている。

 

2019/01/07

Bench 39−The Park Bench 第1話 傷つけられる側と傷つける側の関係性

Img_4466

アーミーナイフが取り出される。少年が持ってきたのは、赤い柄のものだ。コルク栓を抜いたり缶を開けたりできる道具も付いている。使い慣れたものではなく、家にあったものだ。柄から刃を引き上げようとするのだが、キツく出来ていて、親指と人差し指の爪にようやく引っ掛かって、刃が出た。

 

公園にベンチがある。少年が家から少し離れたこの公園へ来たのには、理由があった。女の子との2度目のデートだった。アーミーナイフは目的があって持ってきたわけではないのだが、女の子の気をひくには十分だった。

 

女の子がじっと見つめる中、ナイフがベンチの上段に「I」の字を刻む。間を空けて「U」の字を彫ったとき、女の子が少し微笑んだような気がした。女の目が次を誘ったので、「♡」を真ん中に印した。ベンチは鷹揚に構えていたし、ナイフの滑りは良かった。

 

でも、そのほんの一瞬だった。女の子の顔に陰りが出来て、目がそらされた。ベンチを支えられていた少年の親指に、ナイフが入ってしまったのだ。最初はたいしたことなかったのだが、血は傷口から流れ出し止まらなかった。びっくりした女の子は、少年を抱えるようにして立ち去った。ベンチに「I U」だけが残された。

 

何もなかったかのように、ベンチの前を通勤のサラリーマンが通っていく。買い物帰りの女性も通り抜ける。傷つけられたベンチは、傷つけた少年に報復をしたわけではないのだが、記された文字と贖われた血液とがこのベンチのただならぬ関係性を写し出している。パーク・ベンチの話がここから始まった。

 

()ここで語られているストーリーは、イラストから受けたイメージを文章に起こした創作である。Chabouteの『The Park Bench』がその元となっているイラストなのだが、セリフのないイラストのみによる書物だ。けれども、たとえ絵だけであっても、この書物が文章を想起させるに十分な源泉としての力を持った、そのような「原作」であることに間違いないことをここに記しておきたい。

2019/01/06

Bench 38−公園にベンチを置くことの過剰性(ベンチの過剰性その3)

Img_6374


パーク・ベンチはこれから数多く取り上げていきたいのだが、まずはほんの露払いだ。パーク・ベンチは、当たり前のことだが、公園に置かれるベンチだから、「みんなで使う」ことが暗黙の了解となっている。もっとも、みんなが暗黙のルールが存在しているとはわかっていないという、暗黙さというものの弱点はある。

 

公園ベンチに座るときにさえ、本人から見ると、個人の目的で使われるのであって、みんなで使うという共通の目的を意識している人はほとんどいないだろう。だから、かえって個人目的で使おうと思ってきた人が、思いがけず、みんなで使おうルールが見えてしまったときには、ハッとするかもしれない。ベンチの周り全体が明るくみえてくるようなものだ。

 

今日は家族の誕生祝いのケーキを谷の向こう側にある、かなり遠くのお菓子屋さんへ取りにいき、その帰りに住宅地にもならず、北斜面が公園となっている谷の陰り地に差し掛かったのだ。かなりの急坂の階段を上り詰めないとここに到達できない。一休みということで、パーク・ベンチに腰掛けたのだ。


Img_6475



ところが、もう1台のパーク・ベンチが並んでいて、じっとこちらを向いて、視線を送ってくるではないか。ひとりで座っているのだから、孤独な時間を楽しめると思っていた。何かが違うのだ。もしこの2台のパークベンチが、すぐ上に掲げたように横1直線に並んでいたら、どうだろうか。ずっと前のほうを見てしまって、他のパーク・ベンチは視界に入ってこないだろう。ところが、冒頭の、この2台のベンチは互いに会話をすることを想定しているように、少し身体を片向けているのだ。それも、完全な対話ではなく、それとなく向けられている。このなだらかな向かい合いが「みんなで使う」ルールを突如として思い起こさせたのだとわたしは気づいてしまったのだ。この何気無い「向き」をつけるだけで、ここは公園であって、もし他の人が隣のパーク・ベンチに座ったならば、顔を向けざるを得なくなる。そこでは、ひとことは挨拶を交わさざるを得ない、という十分な効果をもたらすに違いないのだ。自分の中のひとつの発見だった。公園の設計というものがもしあるとするならば、斯くありたいと思うのだ。


Img_6470

Bench 37−住宅地公園でのベンチの過剰性(ベンチの過剰性その2)

Img_6372

ときどきなのだが、ベンチについて、公園設計者が何を考えているのかわからないときがある。今日も住宅地の中の斜面を利用した小さな公園にあるベンチを見て、不思議な感覚を思えたのだった。このベンチは、かなり丁寧に作られているにもかかわらず、その努力の割には、その意図が伝わってこない。と言うのか、形態も不思議だし、その機能を考えても不思議な感じを受けたのだった。

 

子どもたちが近くでバドミントンに興じていた。バドミントンに疲れたならば、きっとこのベンチに座ることだろう。それを想像してみるのも楽しいかもしれない。

Img_6373


Aくんはずっとバドミントンを続けていたので、他の人と代わって、このベンチの低い部分に腰を下ろした。続いて、隣にBさんも座った。Bさんは疲れた手足を癒すように、軽い体操気分で手を上に伸ばし、後ろへ倒れ込んだ。この丸い曲線部分を背もたれとして利用したのだった。背骨が伸びて、気持ちよかった。

 

CくんがAくんとBさんの間を登って、このベンチの頂上にまたがった。地上から1メートル以上高くなると、その分だけの心地よさを感ずるのだった。Dさんも上までよじ登ってきて、そこで立ち上がって、向こう側へジャンプした。駆け上りの遊具として、このベンチを利用したのだった。

 

子どもたちがかえってしまうと、公園には、今度は大人たちが老人たちを伴って現れた。もちろん、老人たちが上まで登ることはなかった。普通のベンチとして、ただ座るためだけに使ったのだった。

Img_6371


このベンチの設計は思いつきで行われたのではないことは明らかだ。よく見ればわかるのだが、このベンチのスノコ状の板の並びには、細心な気遣いが感じられるし、鉄の曲げられた支柱についても、前もってよく考えられた節があるのだ。けれども、だからこそ、ここまでくると最初の問いに帰ってしまうのだ。このベンチの設計者、公園の設計者はほんとうのところ、何を考え、子どもたちや住民たちに何を求めていたのだろうか。子どもたちや住民たちに、後からこのベンチの用途を考えてもらいたいと言うには、あまりにもこの鉄の支柱やスノコ状の板張りは過剰にしっかりしているし、動かせない仕組みなのだ。設計者の考えの過剰性がここに出ている。過剰な設計者の想いのみが、このベンチの周りに漂っている。

 

2019/01/04

Bench 36-ベンチに控える選手の現場への登用は、きわめて互酬的だ

Img_5572


なぜ「選手席」や「控え選手」のことをベンチと呼ぶのかは、そこに長く座っていることの時間効果や習慣効果がそうさせたのだ、と言ってしまえば、みんな納得してしまうだろう。それは、実際にベンチに座っている人物たちを想像すればわかることだ。つまり、現場に出ている選手は、決してベンチには座らない。それは監督も同じで、戦っている時の監督は、ベンチに座らず、調子が悪くなったり、選手交代を相談したりするときにベンチに帰るだけだ。


Img_5578


20181231日現在の英国プレミア・リーグでは、グアルディオラ監督率いる、「マンチェスターシティ」が中盤戦になって、ズルズルと敗戦を重ね、1位から2位に落ち、他方ぺップ監督率いる「リヴァプール」は無敗を続け、2位から1位になり、あっと言う間に得点差が7点と開いてしまっていた。そして、201914日のエティハド・スタジアムに置いて、この1位と2位の対決となったのだ。まさに、前半戦を締めくくる天王山といっても良いくらいの試合が始まった。


Img_5579


試合自体は2−1で、めでたくマンチェスターシティが勝ったのだが、勝ち負けがベンチでは問題ではないのだ。交代枠は、3ポストなので、いつのタイミングで、どのような役割として出るのか、これが「控えベンチ」と言うものの重要な点なのだ。控えのベンチから試合に出た選手は、さらに現場の他の選手へ影響を与え、さらにその動きは他の選手へ伝播していくのだった。現場で調子の悪い選手、点を入れて動機付けの低下した選手、周りの選手と折り合いの悪い選手、怪我やファールを被った選手などが、ひとまず現場から降りてくる。この日は、D・シルバ、コンパニなどが途中交代した。それに対して、休んでいた選手、そのポストにハマる選手、元気を取りもどした選手などが控えの選手として、現場へ呼ばれるのを待っている。呼ばれるまで、溜められていると言うのも、互酬的だ。


Img_5576


ベンチで待っていて、プレイを見たかった筆頭は、デブライネ選手だったのだけれど、怪我をした後、どうも顔色が悪い。この試合でも、ついに最後まで、控えの2列目のベンチから出てこなかった。途中、グランドに出て、走ってはいたのだが、パスを通すようには思い通りにはいかないのだろう。もう少し、ベンチを温める時期が続きそうである。

Img_5571_2


控えと言うのは、まさに互酬的なのだ。溜めておいて、そのうち放出されてくる。監督がそれを最終的には決定しているように思えるのだが、よく見ると、現場の動きがそれを決めていることがわかる。それまで、動きが鈍かったところに控えから有力な選手が入ると、急にみんなが動き始め、攻撃力を増す時があるのだ。この現場の互酬的な力をうまく読まないと、なかなか勝負には勝てないだろう。

 

2019/01/03

Bench 35-バス停ベンチなのに、素材が過剰だった(ベンチの過剰性その1)

Img_6370


廃物利用だとは思われるのだが、素材に注目すると、なんと過剰なのかと感心してしまうバス停ベンチに出会った。このベンチは、谷を超えた近くのバス停に置かれているものだ。この近隣のバス停をくまなく回ったのだが、このタイプの廃材利用のベンチはここにしかない。唯一無二という点でも、過剰さを表しているのだ。

 

まず目を引くのは、この背板部分だ。家の床柱や支柱に使われるかのような、太い材木が使われている。背板に似合わない素材が使われている。廃材だからできたのだと思われる。おそらく別の用途に使われる予定であったのが、余ってしまったのかもしれない。裁断するほど手間をかけたくないし、背板用の板を別に用意するには、費用を出せないというところだと思われる。その結果、この太いまま使ってしまおうということになったに違いないのだ。


Img_6369


ところが、ここが不思議なところなのだが、素材を過剰に使ったことが、じつはかえって、別の手間の過剰を誘っているのだ。何を見つけたのかといえば、釘を使っておらず、木組みで作られているという現実だ。見てすぐわかるように、この柱の厚さを突き通すような特別の釘は存在しないだろうし、もしあったとしても、そのような釘を使う金銭的余裕もないだろう。その結果、製作者は家を作るように、ほぞ組みで作ろうということになったのだと思われる。当初、廃材利用で、効率的な素材の再利用をと軽く考えて作業に入ったのだと思われる。ところが、ここへ来てみて、本格的な木組みを行わなければ製造できないことがわかったのだ。

 

つまり、じつは素材の過剰は、それにとどまらず、その素材を使う製作者の手間の過剰をも突き動かしてしまったのではないかと推察される。したがって、じつは廃材利用のベンチを量産しようとしていた製作者は、この一品で制作を終焉させなければならなくなったに違いないだろう。じつはまだ使われなかった廃材がどこかに放置されたままになっているのではないかと、わたしの想像力も過剰な様相を呈してきているのであった。

2019/01/02

Bench 34-ベンチにも日常があって、その日常を保つことには人間と同じような難しさがある

Img_5487


妹夫婦の用意してくれたおせち料理をいただくために、京葉線の駅に降り立った。駅前には、広場があり、隣接してバスの発着場がある。住人たちは駅を降りて生垣に沿ってバス停やショッピングへ向かうのだが、これらの人びとが休憩できるようにと、この風に晒された長いベンチが広場の中の植え込みに組み込まれている。ここは、通勤客たちが頻繁に通る広場なのだけれど、それだけでなく、家庭から押し出された病人や行くところを失った人びとが座るには、これらのベンチはちょうど良い場所を提供していると考えられる。


Img_5492


このベンチを見ていると、日常を保つことの難しさについて、視覚的に理解することになるのだ。まず、最初の写真では、一枚の木製の板が、ずっと長くベンチの座面を覆っているように見える。けれども、当初のベンチでは、この部分は板ではなく、スノコ状の座面をもつベンチであった。それは、このベンチの隣のベンチを見れば、そのことがわかる。横に通した柱板状の木部、これらは明らかに経年の破損を負っているように見えるのだ。それから修復のときに、その上に柱板部分の破損を覆って、たぶんさらにこれらを修理することを諦めて、上から板をかぶせることで、これらのベンチを再利用しようと考えたことがわかるのだ。


Img_5496


ここで、薄い板を厚い柱板の上に持ってくるという発想は、いわば弥縫策でしかないのは明らかなのだが、本格的な全体の取り替えよりは、ずっと費用がかからないと考えられたのだろう。けれども、当初は単に破損した部分だけを修復するためにだけ、この板をかぶせる方法がとられていて、破損しない部分は、上記のように、むき出しのままで放置されたのだ。


Img_5495


その結果、何が起こったのかといえば、最後の写真でわかるように、木ねじの部分から始まった、修復のできないような破損が深刻な状態になるまで発展し、そこで放置されるということになったのだと思われるのだ。弥縫策が結果としてすべてに影響を与えてしまい、日常の肝心な部分すら、弥縫策的な実体を示してしまうことになったものだ。日常的弥縫策と日常的放置は、日常自体を変えてしまうのだ。人間の日常を保つのと同様に、部分を変えれば良いのではなく全体の問題が起こってきて、木のベンチの日常を保つのには、それなりに難しい問題の存在することに気づくのだ。

2019/01/01

Bench 33–新しい思考は古いベンチに宿る

Img_6357


20年来使っている、我が家の古いソファ・ベンチだ。居間にずっと鎮座して、家の様子を見守っている。単に見守っているだけではなく、この場所が座る場所だと表示する役割も果たしている。だから、先日のヒアリング調査の中で、最近のソファの使い方として、床に座って、背もたれとしてソファを使う方がたが意外に多かったのには、驚かされたのだ。うちの妻特有の座り方だと思い込んでいたからだ。他に、移動できる椅子が、食卓椅子・スツール・腰掛けなどが所狭しと、居間には置かれているのだが、それらは場所を示しているわけではない。ここが定番の座る場所だと指示しているのは、この白いデンとしたソファ・ベンチだ。考え事をするときには、この場所が必要なのだ。


Img_6360


先日、この居間に、新しく到着したのが、この4月から放送が始まる放送大学学部科目『経済社会を考える』のテキストだ。立教のM氏からは多くの思考をいただき、そしてこちらも返した。楽しい番組になっていればと思う。さて、古いベンチに新しいテキストを飾って、「謹賀新年」といたしたい。今年もどうぞよろしくお願いいたします。20190102_121113

2018/12/31

Bench 32–生まれて初めて座ったという記憶のあるベンチ

9月のグレイン・ノート椅子展で、じつに47名の方がたに椅子に関するヒアリングを行ったのが、今年の大きな出来事だった。47名という重みはあって、その記憶の集積内容には目を見張るものがあった。とりわけ注目されたのが、次の問いだ。「生まれてから初めて座った椅子の記憶を話してください」というものだ。多くの方が虚を突かれたように、しばし考え込んだことを思い出すのだ。

 

この結果については、きちんと発表の場を設けたいと思っているのだが、自分のことはどうだといえば、棚に上げてしまうのも気がひけると思っている。じつはわたしの場合には、ベンチだったのだ。その印象をスケッチしてみた。脚や柱が木製の3人がけのソファ・ベンチなのだが、座面は珍しいデニム地で、唐草模様や鳥模様の刺繍が施されていたものだった。

 

Img_6355_2

父が学徒出陣の後、信州の田舎に疎開していて、母と結婚し、わたしが生まれた。その後、東京に出て、大学の恩師を頼って、高校教師となって、池袋近くの東長崎に分譲アパートを買い取って住んでいた。このときから、わたしの記憶があるのだ。そのアパートで座った記憶があるのが、このソファ・ベンチなのだ。なぜこの頃から記憶があるのかといえば、アパートの2階階段から何度か転げ落ちたという痛い経験と、友人からはぐれて迷子になった経験が鮮烈に残っていて、その1歳前後から記憶がはっきりしているのだ。

 

それまでの1歳までの記憶は、写真によるものであることがわかっている。したがって、1歳以前から椅子に座った経験のあることは知っていた。だが、自分の記憶の中で座った椅子となると、やはりこのベンチなのだ。その後、わたしたち一家はしばらくして、また東京から信州へ戻ったのだが、愛すべき家具として、数ある引っ越しにもついてきていた。けれども、或る時以降、このソファ・ベンチの記憶は途絶えてしまっている。

 

当時の池袋は、まだまだ東京の郊外で、自然の多い空き地・原っぱが点々としてあって、戦時中からの畑などの田園風景も多少残っていた。それで貧しい芸術家たちが「池袋モンパルナス」を形成していたと、後から知った。そのような時代なので、母はよくわたしを背負って、目白まで行って映画鑑賞を行ったらしい。狭いながらも部屋の中に、ベンチが一つあると、新婚夫婦の椅子文化生活にも、子どもの遊び場用具としても、また来客用の接待椅子としても重宝されたのだと思われる。

2018/12/28

Bench 31–どのようなベンチが久寿餅には似合うのか

Img_5438

冬カフェで、O氏の食欲には止まる所を知らないものがある。昼食を取ったあと、これから池上名物の久寿餅屋さんへ行こうというのだ。ここまでは、わたしのお腹でも大丈夫なのだが、久寿餅にはセットメニューがあって、おでんとの組み合わせをO氏は選んだのだ。むしろ、久寿餅よりもおでんの方にボリュームがある。


Img_5436

Img_5437

Img_6348

さらに、駅前の老舗のケーキ屋さんへよって、フルーツがたくさん乗ったケーキセットを頼んでいた。わたしも半分くらいのものは頼んでいるので、あまり他人のことをとやかく言う立場にはないのであるが、O氏のブログから類推されるに、いつも教え子たちを連れて、ここ池上本門寺へ来るときには、この食事とスイーツのコースを頼んでいるに違いないと思われた。


Img_5457



けれども、それは些細なことで、今回の池上訪問は、いつにベンチ採集にかかっているのだ。久寿餅屋さんなので、餅は餅屋というベンチがあるのではと期待させられたのだ。それがその通り、表通りにあったのが、冒頭に掲げたショーウィンドウ前の和風ベンチだ。どの辺が和風なのかというのは、難しい問いだが、まず「すのこ状」の座面は和風の雰囲気を伝えている。さらに、イベントの時期には、赤い毛氈が敷かれるだろう。それから、脚の補強をするヌキが下方に付けられている。おそらく、西洋あるいは北欧では、もっと上方あるいはヌキを抜いてしまうだろう。そして、先ほど指摘したように、ほぞ組みで組み立てられている点だ。



Img_5440


きちんとしたほぞ組みのもので、職人さんが数十年、表に出していても、故障することがないベンチとして作ったということを思わせる、職人技がにじみ出ているものだ。このベンチを見るだけで、ここの久寿餅は美味しいということにおそらくなるだろう。

Img_5446

これほどたくさんのベンチを採集できるとは、最初は思っていなかった。O氏のそれと無い適切な導きに感謝しなければなるまい。これで今回の、O氏との冬カフェはお終いだ。また、東から暖かい風が吹く頃、一緒にベンチ採集に出かけたい。

Img_5473

フルーツ・パーラーを出ようとしたら、O氏の知り合いから呼び止められた。近くの喫茶店「バターリリー」の方がこのフルーツ・パーラーに勤めていらっしゃったらしい。クッキーとフルーツケーキの包みをいただいた。「バターリリー」にもベンチがあるのだろうか。今回取り上げなかったベンチがまだいくつか残ってしまったこともあり、目的のひとつである中原中也のこともあるので、いつの日かもう一度訪れたい。今日のお土産は、久寿餅(葛餅)と、いただいたクッキーとなった。

お会式の夜(中原中也)

 

十月の十二日、池上の本門寺、

東京はその夜、電車の終夜運転、

来る年も、来る年も、私はその夜を歩きとおす、

太鼓の音の、絶えないその夜を。


来る年にも、来る年にも、その夜はえてして風が吹く。

吐(は)く息は、一年の、その夜頃から白くなる。

遠くや近くで、太鼓の音は鳴っていて、

頭上に、月は、あらわれている。


その時だ 僕がなんということはなく

落漠(らくばく)たる自分の過去をおもいみるのは

まとめてみようというのではなく、

吹く風と、月の光に仄(ほの)かな自分を思んみるのは。


   思えば僕も年をとった。

   辛いことであった。

   それだけのことであった。

   ――夜が明けたら家に帰って寝るまでのこと。


十月の十二日、池上の本門寺、

東京はその夜、電車の終夜運転、

来る年も、来る年も、私はその夜を歩きとおす、

太鼓の音の、絶えないその夜。

Bench 30–石の段差はみんなベンチに見えてきてしまった

Img_5419

Img_5321

階段はベンチだ、という比喩はすでに使ってしまったのだが、池上本門寺には数多くの階段があって、何度繰り返しても尽きることがない階段を採集できるのだ。

Img_5406

2019年の新年に向かって、とびっきりの石の段差をお目にかけよう。この写真の石の段差は手水場だ。しかし、手を洗うのではなく、宗教的には心を洗う場所らしい。これがベンチだとは誰も考えないだろうが、言ったもの勝ちなのだ。これがベンチという、広きに結びつける事物というものの、楽しいところでもあり、恐ろしいところでもあるのだ。

Img_5408

Img_5410

本門寺の山門も、すでに初参りの準備万端というところだった。O氏によれば、年末のお参りは縁起が良いとのことだ。それを信じて、お参りを済ませ、多くのベンチを採集したお寺と公園を後にして、下山することにした。

Img_5345

Img_5416

Bench 29–パーク・ベンチは新しい想像の世界を創造する

Img_5390

パーク・ベンチという言葉を聞くと、ボヤッとした曖昧なイメージと、公園という公共の場にしか存在しないようなある種の確からしさとが、ないまぜになって押し寄せてくる。そして何よりも、利用する人びとが数多く、パーク・ベンチに座る人びとの人生が多様な様相を示すだろうなと思えるところが、想像力を膨らましてくれるのだ。

Img_5375_2

この想像力を惹起する作用のために、ベンチの中でもパーク・ベンチは別格であって、小説やドラマやアニメなどを生み出してきた。そのうち、これらの作品にも触れることになるのだが、今日のところは典型的でオーソドックスなパーク・ベンチをあげておこうと思う。

Img_5392

ここでは当然のように、オープンな感じ、みんなに共通な感じ、社交的な公共である感じ、それが人間の世界という広がりに向かって、現れてくるという現実感を持っていることが大事なのだと思われるのだ。冬カフェのO氏にそのようなパーク・ベンチに座ってもらい、このような複合的な感じを表現していただいたのだ。パーク・ベンチはパブリックなベンチなのだ。

 

Bench 28–なぜ公園に柵があり、その中にまたベンチが置かれているのか

Img_5381

最初、この柵の連なりを見たときに、なぜこの柵が公園の中に据え付けられているのか、意味がわからなかった。入り口まで行ってみたけれども、何も説明はなかった。さらに、この柵の中には、ベンチが据えられているのが見える。

 

柵は何のためなのだろうか、ベンチはなぜあるのだろうか。ヒントは、公園という公共圏の中に、囲い込みが存在するということだった。なぜ囲い込みが行われているのかが重要だった。つまりは、何かを公共の使用から分離し、私的に使用する必要ができたのだ。

 

この広さが必要で、公園で遊ぶ子どもに敵対する可能性のあるのは、ペットとりわけ散歩の犬だ。つまり、犬を放し飼いするスペースが柵で囲い込まれているのだ。そして、散歩で一緒に来た飼い主は、放し飼いの間、紐を持っていることから解放されるので、ベンチに座る余裕ができるのだ。

 

柵の中に置かれているのが、椅子ではなくベンチなのは、やはり同じように犬を散歩させに来た、飼い主同士の会話が、あのベンチで展開されていることが期待されているからだ。公園ベンチの中でも、極めて話題が特定される会話が始められるベンチとなっている。

 

もちろん、犬同士のコミュニケーションもあるかもしれないのだが、それ以上に人間同士のこのような濃密な関係性が、この柵の中では、日々行われているイメージがようやくにして浮かんできたのだった。囲い込まれることによって、初めてコミュニケーションが始まるという、人間社会一般の常識が公園においても生ずることがわかるのだ。Img_5360

 

Bench 27–運動具ベンチが運動のためのベンチで終わらない理由がある

Img_5367


じつにこの写真のベンチは、ずっと以前に掲げたベンチと同じような排除型ベンチというジャンルのベンチではないのだ。横になることを防ぐために、このベンチの手すりがつけられているのではなく、運動のために付けられた手すりだ。

Img_5368


運動具ベンチというベンチ・ジャンルを見つけた。本門寺公園の池近くの斜面の中を降りてきた平地に至るところにあるトイレ付きの、極めて手入れの良い公園の中だ。もちろん、夏には近くに池があることから、蚊の被害が激しいことが予想されるのだが、今日のように最低気温の季節には関係ない。

 

たとえば、これは腹筋を鍛えるためのベンチだ。座面から上へ出ている肘取っ手みたいなところに、足を挟んで、座面に横になって腹筋運動を行うのだ。

 

先ほど掲げた写真は、二つずつ手すりがセットになってついているところを見ると、鞍馬の練習用のベンチだと想像できる。

Img_5366


このベンチはいかがか。なかなか想像できないのだが、平均台の練習となるベンチだ。だが、ここまでくると、平均台の練習に使われるより、小さな子どもを連れてきて、自由に座らせる子ども用のベンチに使った方が使い出があると思われる。

Img_5370


つまり、何が言いたいのかといえば、運動具として、単機能のものを遊び場に置いたとしても、その通りに利用されることはほとんどなく、むしろ子どもの発想は別に発展させられ、これらの運動具ベンチは遅から早かれ、その役割を終え、子供用の公園ベンチに姿を変えることになるのだと思われるのだ。

 

Bench 26–発想が豊かになるのは遊び場ベンチを作るときだ

Img_5372


遊び場ベンチというジャンルは、playground(遊び場)という西洋の伝統が入ってきてから、開発されてきたと考えられる。Playlandとも言われることがあるが、こちらは王国のイメージがある。子どもたちが、どのように遊ぶのかを、大人たちが想像して、遊び場ベンチを作っているのだ。

 

O氏は写真をとるから、ここにある遊び場ベンチのどれかを選んでくれと言っている。これはわたしだけに、彼が言っているのではなく、これまでにこの場に連れてこられた彼の早稲田大学の教え子たちがすべて試練を受けた問なのだ。これに答えなければ、単位をやらないぞというパワハラを行なったのか否かまでは確認しなかったけれども(またすでに卒業している人びとのはずだから、当然パワハラにならない単なる冗談なのだが)、しかしそれでも、彼に連れてきてもらったという義務感は強く働いて、どれか選ばなければならないことになるだろう。象さん、豚さん、犬さん、羊さん、でも考えてみれば、ここにはもっとたくさんの遊具が設置されているから、何も動物ベンチに腰を下ろさなくとも、シーソーだって、立派な遊び場ベンチではないかと、少し経ってみんな気づくのだ。

Img_5389


その発想は、子どもにとっては、とても重要なことで、遊び場で新たな発想を得た子どもは、その体験を生涯記憶にとどめ、その後のなんらかの発展に影響を与えることだろう。そしてさらに、子どものために良かれと想像力を働かせている担当者こそ、自分にとっての想像力が養われつつあることを自覚することになるのだ。

 

Bench 25–単なるコンクリート・ベンチではない公園ベンチに無常を感じた

Img_5350

「ともに成長する」con(ともに)とcretus(成長する)という語源を持つ、「コンクリート」がなぜまったく逆の意味になってしまって、「凝固する」「固まる」「堅くなる」という意味になったのかは、言葉の世界の矛盾が作用していることが想像させられる。本門寺の公園には、様々な形態の、様々な時代の、それぞれ代表するベンチが博物館の陳列品のように目の前に現れてくる。中でも、このコンクリート・ベンチは、おそらく日本の高度成長時代を象徴するベンチだと思われたのだ。

特徴は、すべてコンクリートで固められた、最も安価で、堅牢、長持ちしそうなベンチなのだ。空色が塗られたので、多少綺麗にはなっているのだが、このベンチの上空の樹々には、本門寺カラスの巨大な巣があって、絶えず白い糞が夥しい量降ってきている。その悪条件の中でも生き残ってきたからには、それなりの意味があるのだと思われる。

Img_5354_2


この1脚の総重量は他のベンチの重量をはるかに凌いでいる。根を生やしたが如くに、地面に差し込まれている。だから、このベンチが設置されたときのことを考えてしまうのだ。この重量だから、人力で運ぶことは無理だとしても、高度成長期にこの急斜面を運ぶ機器が整備されていたとは思われない。そこで考えられるのが、解体式にして、部分ごとに運ぶ方法である。

 

このベンチの座面をよく見ると、コンクリート製なのに、ほぞ穴が見えるのだ。つまり、脚に対して座面が後で据えられたことがわかる。設置の時に、脚と座面が別々に運ばれ、ここで組み立てられ据えられたことが推察される。

Img_5355


それは、隣に設置されている、座面が2連になっている同型のベンチからも想像されるのだ。1本座面のベンチで運搬に苦労した経験が生かされて、座面が2本で作られて、運ばれたことが伺い知れる。そしてさらに、座面を2連にすることで、利用者のお尻の骨への負担も軽減される。

Img_5356


コンクリート製造という、制作者の技術的視点から、ある時点で、運搬者の運搬技能的視点へ移り、さらに利用者の座り心地的視点が入って、これらのベンチが時系列的に残ってきたといえるのだ。それにしても、このような人間の歴史的な意図などおかまいなしに、カラスたちがせっせとベンチへ向かって、糞を落としていることに、無常を感じないわけにはいかない。

 

«Bench 24–温度差のある展望台ベンチ

『貨幣・勤労・代理人』(経済文明論)

  • “「貨幣・勤労・代理人」"

社会経営研究配布中

  • 2015study

社会経営ジャーナル配布中

  • 2015journal

開いている講義    「社会的協力論」

  • cooperation

「音を追究する」第13回・第14回

  • art

「多様なキャリアを考える」第2回・第3回・第4回

  • cooperation

「グローバル化と私たちの社会」第11回

  • cooperation
2019年1月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

Recommend

プロフィール

  • 坂井素思
    放送大学教員で、社会経済学領域を研究しています。